感熱紙に印刷された50編ほどの原稿が出てきた。文字の3分の1が消えかけている。奥付用の原稿もあって、1994年3月の日付がある(小冊子を発行するつもりだったと思う)。書いたのはずいぶん前だが、文責は自分だから類推しながらある程度は読める。
先日、たまたま会話にのぼったテーマと同じ一編があったので、ここに転記することにした。紙も内容もほとんどが色褪せているが、この話は30年前も今もあまり変わっていない。
後に引けないほどののっぴきならない意見を述べなければならない場面がある。意見とは責任を負った主張のこと。意見が通らなければ引き下がることになり、他の意見に与することになる。他方、意見が通っても万事オーケーではなく、通ったら最後まで責任を果たさなければならない。意見には覚悟がいるのだ。責任回避が当たり前の昨今、覚悟のあるのっぴきならない意見を耳にすることが少なくなった。
マイケル・スプロールというアメリカの言語教育学者が著した“ARGUMENT Language and Its Influence“という本がある。訳せば『議論 言語とその影響』という書名になるが、残念ながら邦訳は出ていない。議論にまつわる5つの通念が紹介されている。
⑴ エリートのもの
⑵ 政治のためのもの
⑶ 非友好的なもの
⑷ 基本的に理性的なもの
⑸ 主観(自己本位)に基づくもの
著者はこれらの議論の通念が間違っていると言う。どうやら議論がしっくりこないのはわが国特有の風潮ではないらしい。好んで議論をしているように見える欧米でも、議論は理屈っぽいもので、それゆえにケンカになるリスクにいつも脅かされているようなのだ。
さて、誰かがあなたにポツンと一言、「花」と言ったとする。議論の余地はあるだろうか。非言語的な伝達手段もなく、たった一言の発話だけで議論は始まらない。では、どんな場合に議論は生じるのか。
「この花は美しい」と言ってみよう。ポツンと「花」とだけ言うのではなく、「この」と「美しい」をくっつけてみた。たったこれだけのことで議論の芽が吹き始める。ある語が他の名詞や修飾語と合体するだけで意見の相違が生じることがある。
議論そのものはエリートや政治家の専売ではなく、また非友好的性質のものでもない。理性ばかりでなく、当たり前のように感情も入る。主観と主観がぶつかる時に議論が生じることは事実だが、本来の議論は主観の衝突をやわらげて客観的合意を目指すもの。議論はよく決裂する。特に、上記の「この花は美しい」のような形容詞を含む命題は主観対立しやすい。
議論は言語の本質に根ざしている。つまり、ことばで何かを表現する際に議論はつきまとうのである。それを避けて通ろうとしても、いずれはそのツケが回ってくる。今が議論のタイミングだと判断したら、たとえ勇み足になろうとも、躊躇せずに踏み込むべきである。遅疑逡巡した意見や先送りした議論はこじれることが多い。