翻訳よもやま話

国際広報に従事していた二十代後半からの10年間はよく英文を書いていた。日本語で文案を考えてから書くこともあったし、日本語を一切介さずに直接書くこともあった。いずれにしても、与えられた日本文を英文に訳すのではなく、自ら内容を考えて書いていたのである。

合間に翻訳の仕事もした。当然ながら元の日本文がある。その与えられた文章を英文に変換する。この翻訳という作業、実に摩訶不思議な行為である。直訳だの意訳だのということばは定義も曖昧であるし、両者の境界も明確でない。学校英語では構文と単語に忠実な和文英訳を求められた。他方、実社会では文章のメッセージの意味を汲み取らねばならない。これを意訳と言うのだが、意訳ということばも奇妙である。

日本が翻訳大国であることをご存じだろうか。現地の人もあまりよく知らないような物語や文学、しかも世界のありとあらゆる言語で書かれたものが日本語で読めるのだ。ペルシャの陶器やアフリカの小さな部族の民話だって翻訳されている。もちろん難解な哲学書などは古代ギリシアから現代に至るまで見事なラインアップぶりである。ほぼ世界の文学が全集になっている。かつてアメリカのある大学教授が冗談めかしてアメリカ人学生に語った、「諸君、世界の文学に精通したければ、日本語を学びたまえ」。


それにしても、学校時代のあの直訳とは何だったのだろう。“I have an uncle who lives in  a very large house.”のような英文を与えられたら、「わたしは非常に大きな家に住んでいるところの一人のおじを持っています」とするのが直訳。「ぼくにはおじがいるんだけど、住んでいる家はかなり大きいよ」などとこなれた訳だと、下手をすれば間違いとされたものである。

jack & betty

中学や高校時代にどんな英語の教科書で学んでいたのか、ほとんど記憶にない。“New Horizen”“New Crown”“English Readers”だったかと思う。かの伝説的な教科書“Jack & Betty”でなかったことだけは確かである。清水義範の『永遠のジャックベティ』を読めば、単語単位で英語を日本語に直訳的に変換した懐かしい時代がよみがえってくる。

“As soon as ~”を「~するやいなや」と平気で訳していたが、中学生にしてはかなり古風な文体である。「今日のような暑い日には、私は家に帰り着くやいなや上着を脱ぐでしょう」という具合。“Which”などの関係代名詞を含む文章は必ず後ろから訳した上で「~するところの」としなければならなかった。「あなたが今住むところの家はどこにありますか?」が模範解答だったのである。

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proconcept

岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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