新種が新種だとわかるには……

新型コロナウィルスが注目される直前の20191月、高知県に数日出張していた。当初から1日余裕ができるスケジュールだったので、度々出張で来ていたのに一度も機会がなかった牧野植物園を訪れることにした。周遊バスは市街を後にして、港を展望できる五代山を上がっていく。

美術館や博物館巡りは好きだが、辛抱が足りないほうなので、展覧会の大小にかかわらずだいたい1時間ちょっとの鑑賞が限界である。それなのに、あの広大な植物園の館内や屋外をくまなくじっくり歩き、3時間近く費やした。これはあのルーブル博物館の滞在時間に匹敵する。

牧野富太郎の生涯を描いた朝ドラ『らんまん』が先週で終わった。方々の野山を歩いて植物を採集し、自ら発見した新種は約600種と言われる。発見というのは不思議な概念だ。誰かがそれまでに見つけていても、一般的に知られていなければ未知として扱われる。しかし、日本で発見して喜んでも、世界を視野に入れるとすでに発見されているかもしれない。


これまで商品のネーミングをいろいろ依頼されてきたが、そのうち商標登録を2件手掛けた。担当してくれた国際特許の専門家はコンピュータを使ってあっと言う間に「新案」として申請した。こんなふうに今ならすぐに「新」がわかる。しかし、牧野の時代、コンピュータはおろか、植物図鑑や標本も充実しておらず、世界初だと認定してもらうのは一筋縄ではいかなかった。

新種Aを発見したと言えるためには、「それ」が正真正銘の新しい種であり、かつて誰も「それ」を見つけておらず、自分が最初だということを証明しなければならない。そのためには、類似の様々なの標本と照合して、まったく同一ではなく、差異があることを明らかにする必要がある。

新しいかもしれないものを「既知」と照らし合わせて差異や類似を見い出す。既知は既知でも「自分の記憶や知識」との照合ではダメで、公認された既知でなくてはならない。何かと比較もせずに、一つのものをそれ単独で明らかにしても新種にも新案にもなりえないのだ。

新種の発見や新案の発明は大変なミッションである。今となってはチャレンジする能力も気力もない。それどころか、想像するだけで、「新しい」ということばすら安易に使えなくなる。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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