今さら念を押すまでもなく、他人は「たにん」と読むのが基本。しかし、例外があって、「ひと」とルビが振られていることが稀にある。他人を「たにん」と読ませる時と「ひと」と読ませる時では、意味とニュアンスの違いが出る。
Aを固有の人名だとする。「Aは他人です」と言えば、Aは自分以外の人である。自分以外の人は、親族・親類とそれ以外の人に大別される。他人は親族・親類以外の人とされる。おそらくAは友人や知人ではない。友人や知人なら、他人などとは言わない。他人Aと自分には道で見知らぬ者どうしが通り掛かる以上の関係はなく、この先どうなるかはわからないが、今のところ利害を共にしたりお互いを必要としたりする仲ではない。
他人を「ひと」と読ませたい時、「Aは他人です」とは決して言わない。自分に直接関係のない事を「他人事」と言うが、Aという人名と他人をセットにしてしまうと、Aを適当に扱っていたり素知らぬ顔をしたりしている感じが色濃く出る。他人と言う場合は、自分との分別を強く意識している。そこには「自他」という――現実の人間関係とは別の――存在関係がうかがえる。他人とは、自分とは異なる「他者」という存在なのである。
哲学に「他者問題」というのがある。自分には他者の心がわかるのか、仮にわかるとすれば、どのようにわかるのか……そんなテーマを考察する。今、友人一緒に食べているステーキを自分はおいしいと思っているが、他者である友人は自分と同じおいしさを感じているのかどうか。他者の頭痛、他者が見ている色、他者が言う「わかった!」という理解の程度を、自分はわかることができるのか。
他人と他人の違いを出すために、他人を他人事ではなく、他者としてとらえてみたい。その瞬間、哲学の思索が始まって頭を痛めることになるが、やむをえない。赤の他人を他者に見立てて論じようとすれば責任が伴うのである。