再生のために解体は必然か

オフィスから徒歩3分、大通りに面した一角で古いビルが解体されている。かなりの資産家のビルで、このあたり一帯の土地と複数のビルを所有していると聞く。古色蒼然としたあのビル、今も解体途中なのか、それとも新しいビルの基礎工事が始まっているのか、囲われているのでわからない。見えるのは、囲っている壁に掲げられた「解体は再生の一歩」という企業スローガンのみ。

そのスローガンをネットで調べてみたら、あるブログに行き当たった。「再生の意味の一つは、衰えまたは死にかかっているものが生き返ること……解体はばらばらにすること、壊すこと……さあ、衰えたもの、古いもの、いらないもの、すべて解体して再生しよう……」などと書かかれている。「解体は再生の一歩」を心にぐっと来たことばとして大絶賛している。

こういう発想が、建てては壊し、壊しては建てるという、戦後高度成長時代から続く「土建立国」としての発展を助長してきたのは間違いない。単純に欧米と比較できないのは、欧と米がまた違うからだ。経済大国であるアメリカと日本は建造物の新陳代謝によってGDPを底上げしてきたふしがある。


解体ということばからアメリカの詩人カール・サンドバーグの『シカゴ(Chicago)』という散文詩が思い浮かぶ。かつてシカゴが悪名高き都市であった頃に紡がれた詩である。その一節。

(……)
Shoveling,
Wrecking,
Planning,
Building, breaking, rebuilding
(……)

「掘る、解体する、設計する、建てる、壊す、再び建てる」。建造物の解体と構築の無限連鎖を思わせる。くだんのスローガンもブログの一文も、再び建てることを再生と名付けているようだ。建物を取り壊して更地にしてそこに新しいビルを建てる。もし新しいビルの建築を再生と呼ぶなら、その前提に解体を置くのは当然だろう。しかし、この発想が寄り掛かっている精神は、実にさもしい。

衰えさせたり死なせたりする建築思想への反省がまったくない。再生とは衰え死にかけた建物を修復して生かすこと、あるいは、ルネサンスということばにあるように、元の姿を復活させることではなかったのか。再生の前提に保全を置いてきたのがヨーロッパ的な考え方であった。解体するしかないと踏ん切りをつける前に、修復保全の可能性を徹底的に追求するのである。そのような情熱を持ち合わせもせず、土建的経済主義を優先させて、保全価値などないと見切るのは現代による身勝手な過去の裁きにほかならない。

バルセロナの修復工事2

バルセロナはゴシック地区のサンタ・クレウ・イ・サンタ・エウラリア大聖堂の修復現場を見学したことがある。何一つ解体されてはいなかった。修復して再生するから解体の出番がない。もっともこれは由緒ある教会、寺院、神社では当然のことであり、わが国でも希少遺産については正しい意味での「再生」をおこなっている。

重要なことは、庶民のアパートであれ商業施設であれ、古くは中世の、近年では18世紀から19世紀の建物に対しても、ほぼ同じような扱いで保全しているという点である。衰え死に絶えた過去を安易にリセットしない。歴史に対して辛抱強いのである。遠い未来を見据えられた建造物と、たかだか半世紀程度先に焦点を合わせた建造物の大いなる違いがここにある。「解体は再生の一歩」というスローガンを都市の宿命と言いたげだ。そんな都市に馴らされてしまうと、作る、壊す、また作る、また壊す……というふうにものの考え方も生き方も変貌していくに違いない。原理がなかなか定着しない風土でぼくたちは生きている。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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