胸や心をときめかせるのにさほどの苦労はいらない。それに比べると、脳をひらめかせるのは厄介だ。ひらめくは「閃く」と書く。何かの本に〈闇-音=門、門+人=閃〉という式が載っていた。闇から音が消え門が残り、そこに人が現れてひらめくとは、ちょっと出来過ぎか。ともあれ、ひらめきとはいい考えが瞬間的に思い浮かぶことである。
ぼくのことをアイデアマンと思っている人たちから質問を受ける。「もっとひらめくようになるにはどうすればいいか?」という類。世の中にはひらめきの構造を明かし発想を指南する書物が五万とある。ぼくが最初に手にしたそのジャンルの本は、NM法でよく知られた中山正和の『発想の論理』である(1970年初版)。論理に縛られないのが発想ではないか、にもかかわらず、発想の論理とはこれいかに? というのが正直な印象だった。それはともかく、一節を引用してみる。
創造が、異質なものを必要とするならば、明らかにテープレコーダーのような、論理のつながりのワンセットからは、新しいことは生れない。そのテープをどこかで切断して、別の(異質の)テープとつなぎあわせるようなことを、おそらく何回も何回もくりかえさなくてはならないだろう。このテープはたくさんあればあるほどいい――ということは、創造するためにはたくさんの情報や知識をもっていたほうがいい、ということ。そして、それらは、任意に、どこででも切断することができるか、あるいは、はじめから切断されていることも大事だということである。
その後もいろんな本を読み、自分でも多種多様な発想法を試みた。上記で書かれているような「異質なものを組み合わせて新しい価値や働きをつくること、そして異質なもので知を膨らませること」がひらめきの基本であり、そして、ひらめくための環境づくりと習慣形成は可能である、というのがぼくの結論である。生産的な仕事にはひらめきは欠かせない。そして、意識的に異種融合させたり、本末転倒させてみたり、既存価値を破壊してみたり、常識と非常識を反転させてみたり……などの、半論理的な頭の使い方の工夫が必要になる。
テーマに行き詰まったら追いかけない。一度、その対象のもとを立ち去ってみる。こだわり過ぎるとものの見方が固定するのだから、わざと思考停止させてみる。あっちへ飛びこっちへ戻るなどしていると不安になるが、実は振り子のように大きく左へ、大きく右へと揺れてみる過程で異種情報がくっつきやすくなる。つまり、ひらめきの機会が増える。
空きテナントの多いビルを想像してみよう。活気がない。客がまばらで閑散としている。流れがない。売り手は客待ちするのみ。余力がありながら徐々にパワーダウンしていく。一度つかまえた客を逃さぬように店員は必死になる。もし脳がこんな状態だったら……ちっぽけな知識にかじりつく。アイデアは枯渇し、持ち合わせた知識も色褪せて錆びていく。
ひらめきはオーバーフロー気味の飽和した脳から生まれる。一滴の水が表面張力の壁を破って水をコップからこぼれさせるように、新たな刺激情報がアイデアを押し出すのである。