講演や研修後に本のこと、読書のことについて最近よく質問を受ける。そこで、思いつくまま二、三回書いてみようと思う。なお、小説の読み方などについて尋ねてくる人はいない。彼らは「ためになる本」の読み方に関心があるのだ。
ぼくは本をよく買う。およそ8割がたが古本。バーゲン日には前日まで500円から1,000円だったものが、200円や300円で買える。先週などは単行本セールで均一150円だった。まとめて10冊くらい買う。別々の日に買ったものをジャンルやタイトルで2、3冊ずつに仕分けておき、時間がある時に一気に読む。一気と言っても、全ページに目を通すような長続きしない方法は取らない。何ヵ所かにおおよその見当をつけておき、ここぞとばかりに数ページあるいは十数ページ単位で熟読する。七章のうち一、二章だけ読んで終える本などはざらにある。気まぐれに読む順番を決めるので、閉じたまま長い間出番を待つ本も稀ではない。
熟読しながら傍線を引き、もう一度読んでみようという気になれば付箋紙を貼っておく。考えているテーマと関連しそうなもの、そのテーマに奥行と幅が出そうな数行を見つければ、面倒を厭わずに抜き書きする。抜き書きしたからと言って、記憶に残るわけではないが、ノートにまとめておけば読み返しが容易である。読み返せば思考が触発されることもたまにある。この「たまにある」が起こるがゆえに、ノートに抜き書きするような手間暇のかかる作業が続けられる。
社会人なのだから、読まねばならない本などはない。「社会とつながるために読んでおくべきベストセラー」などという謳い文句を書店で見掛けるが、そんなものがあるはずもない。社会人だからと言って、社会の隅々とつながることもないし、第一、ベストセラーがそれを確証してくれはしない。学生時代は、読まねばならない本のために読みたい本を犠牲にしたが、仕事人は読みたい本を優先すればいい。理想だけを言えば、当面の仕事のために本を読むのではなく、気に入った本を読む習慣そのものが早晩仕事に役立つというのがいい。
無知の上に新たな知を重ねるのではない。新たな知は既知と組み合わされる。本の読み方などは既知の度合によって人それぞれに決まる。どんな本であっても、そこに書かれていることは読む前に少なからず分かっている。先週買った本の背表紙を眺めていたら、『空腹の技法』と『諷刺の芸術』の二冊がくっついた。異なったジャンルだが、書名のスタイルが似ている。この二冊を気ままに併読しようと思い立った理由を挙げるとキリがないのでここに書かない。ぼくの関心と知識と経験がそうさせたと言うほかない。いきなり読まない。「読む前に読む」のである。つまり、「本を読む前に、見当をつけて類推し既知を起動させる」。
『空腹の技法』。まず、好きなアートで身を立てるためにアルバイトをしている知り合いのことを思う……アートや文化はなかなか人を満腹にしてくれはしない、ぼくにも経験がある……これは都会的な現象であって農村地帯にはあまり見られないはずだ……多くのアーティストは空腹に負け絵筆やペンを置く……などと、気が済むまで、ぼくは脳内の既知をまさぐり、想像を掻き立てる。それからおもむろにページをめくる。こんな文章に出合う。
「一人の若者が都市にやって来る。若者には名もなく、家もなく、仕事もない。彼は書くために都市に来た。彼は書く。あるいは、より正確には、書かない。彼は飢え、餓死寸前に至る。」
「(……)若者は街をさまよう。都市は空腹の迷路であり、(……)家賃を心配し、(……)次の食事にありつく困難を心配する。彼は苦しむ。彼はほとんど発狂しかける。崩壊はつねにすぐ目の前にある。」
『諷刺の芸術』。直近の「シャルリ・エブド事件」とつながる……諷刺には強者と弱者の関係がつきまとう……強者が弱者を批判してもいいだろうが、取扱い注意だ……強者の驕り昂ぶりに対して弱者はつねに批評し諷刺し小馬鹿にしてもよい……それ以外に抵抗するすべはないのだから……銃の代わりにユーモアやエスプリの武器を携えて……弱者は自らが不当に誤解され批判されていると思えば、弁明や反駁を他者に委ねるのではなく、自らの声で強くおこなわねばならない……と、書名に触発されて考え、しかる後に本を開く。こんな一節を見つける。
「世界に反応するのに、哄笑と憤激とを混ぜあわせるのは、最も高尚なやり方だとはおそらく言えないだろうし、また、すぐれた作品や偉大な芸術を生み出す、一番普通のやり方でもないであろう。だが、これが諷刺の方法なのである。」
「諷刺(……)は、一つの精神状態に源を発するが、この精神状態は、批判的かつ攻撃的であり、通常は、人間の不条理性、無能力性、あるいは邪悪性を見せつけられるごとに抱く立腹の一種である。(……)諷刺の背後にある衝動は人間の本性にとって根本的なものだと言える。」
これ以上深入りしない。この二冊もやがてつながる(ぼくにおいて)。要するに、読んでから考えるのではなく、よく自分の既知を弁えてから読んでみるのである。だが、質問者のほとんどにとってこんな読み方はためになるわけでもなく、さぞかし戸惑うに違いない。