時間とお金

時は金なり

「時は金なり」がテーマではないが、人口に膾炙かいしゃしたこの諺から話を始めることにする。

通常の感覚では時と金は別ジャンルである。別の概念なのに、同じだと言って知らん顔している。ベンジャミン・フランクリンが“Time is money.”と言ったらしい。ポツンとつぶやいたのか、ある文脈の中で語ったのかはわからない。仮に後者であったとしても、独立した主張として一人歩きして今日に到っている。

「時は金なり」に限らず、そもそも諺のほとんどは主張しか唱えない(「良薬は口に苦し」、「急がば回れ」、「雨降って地固まる」、等々)。もし諺に理由や説明を加えたら簡潔性が失われて野暮ったくなる。諺は覚えやすいのがいい。証拠も論拠も伴わないで言いっ放しだから、必然人によって解釈も変わる。シンプルな主張ゆえに、かえって明解性を欠く。したがって、どのように解釈されてもしかたがない。

「時は金なり」とは、①時間は貴重である、②時間は金銭と同等に価値がある、③金銭を浪費してはいけないように時間も浪費してはいけない、④ゆえに、時間を有効に使うべきである……こんなふうに解釈しなければならない理屈はない。時と金をイコールで結ぶことに馴染めないので、ぼくはこの命題には諸手を挙げて賛成しかねる。

諺に親しむのはいいことだ。しかし、主張だけ言い放って証拠や論拠に言及しない癖をつけてしまうのは考えものである。経験と知識が有機的に熟成もしていないのに、いかにも何事かがわかったかのように短文にメッセージを凝縮させるべきではない。また、若い頃は、諺のような切れ味を自分の弁舌に求める必要もない。冗長であることに居直ればよい。明快さには冗長さがつきまとうものだ。論理的に明快であるために、まずくどいほど多くを語らねばならないのである。


閑話休題――。「時は金なり」ではなく、冷静に順接の接続助詞「と」で時と金をつなぎたい。つまり、「時間とお金」である。冒頭で時と金は別ジャンルと書いた。但し、特徴的な共通点が一つある。時間もお金も約束事によって成り立っているという点だ。時に目盛りなどないが、みんなで「時を刻むこと」を取り決めた。こうして時間は時計や表示板というモノで認識できている。お金も紙幣や硬貨というモノで認識できるが、実は、これも価値につけた目盛りにほかならない。時も価値も見ることも触ることもできない抽象的な概念なのである。

「時=金」という主張が成り立つとするならば、いずれも取り決められた概念であるということ、そして、社会的に取り決めたのであるから、そこに何がしかのルールがあるということ、したがって、そのルールを守らなければ信用基盤が崩れるという点においてこそである。

日程を決める、期限を守る……ぼくたちは未来の時間を今日取り決める。未だ見ぬ将来の約束を今日結ぶのである。双方が同じ時間感覚を持つことはきわめて重要なのだ。約束を破れば双方の関係がひずむ。同様に、価値交換の単位であるお金は、支払う側にとっても受領する側にとっても、生活や仕事を成立させるための糧となり信頼の記号として機能する。時間とお金はつねにトラブルの原因をはらむと同時に、幸福や善にとって欠くべからざる要素なのである。

時間にルーズな者はお金にルーズである。お金にルーズな者は時間にルーズである。「決められた日に支払わない」という言い方には、時間とお金のルーズさが同時に表れている。この点においてのみ、「時は金なり」が成り立ち、同時に「金は時なり」とも言い得るのだろう。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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