コミュニケーションは意味を共有することである。わかりやすく言えば、発信者が伝えようとしたメッセージの意味が受信者によって理解されること。もちろん、伝えるにはそれなりの技術が必要であり、理解するためにはそれなりの〈参照の枠組み〉が備わっていなければならない。残念なことに、コミュニケーションという人間の根幹的活動は、いのちに関わるにもかかわらず、いつも十分に機能してくれるわけではない。表現をよく練って伝えたつもりが、思いのほか伝わらないのである。
身近におもしろい例があった。遊び心で揚げ足を取ってみよう。標識はいきなり「お願い」という見出しで始まる。お願いとは誰かに丁寧に依頼する表現だ。はたしてここで伝えたいことはお願いなのか。お願いなのに、三行目に「禁止します」と強気に転じたのは、文を書いているうちに気が変わったのか。しかし、二つ目の文章は「ください」で締めくくっており、これはどうやらお願いのようである。
ここは公園である。お願いしている当局は「ここが公園である」ことを人々が分かっているという前提に立っている。さもなければ、サッカーやゴルフ、野球などが「いつでもどこでも誰にでも周囲に迷惑をかける球技」ということになる。言いたいことは、「公園でのサッカー、ゴルフ、野球などが迷惑である」ということだ。迷惑という表現はやや甘く響くが、「危険」とまで言い切る英断はできなかったようである。
さて、「サッカーやゴルフ、野球など」の「など」が曲者である。読み手たちの良識に甘えていることは明らかである。なぜなら、「など」に先立つ具体例(ここでは三つのスポーツ)から、読み手が他の禁止されるかもしれない球技を類推しなければならないからだ。周囲に迷惑となる球技はいくらでもあるだろうが、三つだけ挙げて「その他は常識的なご想像にお任せします」ということなのである。おそらくラグビーはダメだろう、ドッジボールもダメだろう、しかし、バドミントンはどうなのかとちょっと迷う。実際、この公園ではゲートボールは許されている(と言うか、推奨されてさえいる)。棒を用いるという点では野球に近く、硬い球を転がすという点ではゴルフに近いにもかかわらず。
二つ目の文章では「など」が消える。ずばり「犬」であり、犬だけに言及している。あなたたちが鎖を外して放し飼いするのは犬しかないでしょ、と決めつけている。羊や牛のことは伝達者の念頭にない。当局にとっては牧畜対象の動物などまったく想定外である。ひねくれ者はライオンやハイエナなら放し飼いしてもいいと解釈するかもしれないが、当局にとっては獰猛な動物などは論外なのである。「犬など」と書く必要をまったく感じなかったのは、公園で散歩をするのは人間と犬と相場が決まっているからだ。
周囲、球技、放し飼いには漢字が使われているが、迷惑は「めいわく」とひらがなで、鎖は「クサリ」とカタカナで、それぞれ表記されている。この標識の文章を読みこなすには小学校低学年の国語力では無理だろうから、おそろく小学校高学年以上を対象にしている。迷惑と鎖という漢字を読めないのではないかと危惧したのだろう。一つの配慮ではある。但し、日本語だけの表示であるから、お願いの趣旨を理解してもらう相手に外国人が含まれないのは言うまでもない。
ことばは難しい。一人で呟いたり詩歌を紡いでいる分にはなんとか扱えるが、誰かに意図や意味を伝えようとギアチェンジしたとたん、別の発想や表現や構造が必要になってくる。何から何まで伝えようとすれば、意に反して同語反復や疎通不全を招いてしまうのである。細やかなニュアンスを捨てて大意のみを伝えきるという覚悟がいる。だが、「公園内では球技禁止。動物の放し飼い禁止」と贅肉を削ぎ落として表現しても、言外の例外候補が無数に残る。球を使わないスポーツなら許容され、鎖にさえつないでいれば象を連れ込んでもいいのか……という具合に。
ことばの揚げ足を取り意味を逆手に取るのは詭弁である。注意書きなどは詭弁の前では非力なのである。コミュニケーションの協調原理は発信者側に強い負荷をかける。だからこそ、受信側に対してもメッセージ理解への協調努力を求めなければならない。つまり、「言及していない事柄が許容されているわけではない」ことぐらい弁えるべきなのである。