連休前後からずっと、オフィスでは創業以来の約30年分の書類、自宅では約45年分の書き物を総点検し、捨てるものは捨て、残すものは整理している。作業はまだまだ続く。
教師が板書したものを左から右へとノートに写し換えるようなことを、高校時代まではほとんどしなかった。その反動か反省かわからないが、18歳を境目にしてぼくはノートに文字を諄々と書き連ねるようになった。今では多弁であり饒舌であると思われていて、そのことは決して間違いではないが、ぼくが書いてきたくだらぬ文章を見れば、語ることよりも書くことの蕩尽ぶりに我ながら驚く。何冊かの著書と研修テキスト以外に、書いてきたものが直接何かに化けたわけではない。しかし、仕事のささやかなバックボーンになったことは確かだろう。
ろくに受験勉強もせず、ひたすら拙く書いていたノートが数冊残っている。提出義務がなかったから好きなだけいくらでも書けた。大学ノートにびっしりと縦書きするのが当時のスタイルだった。やがて大学ノートは小さな手帳、京大式カード、コクヨの小型ノート、システム手帳、文庫サイズのノート、無印良品の各種サイズのノートへと変遷し、再び今年からバイブルサイズの6穴ルーズリーフのシステム手帳に落ち着いた。不揃いはよくない。一念発起してこれからノート習慣を始める人には、慎重にサイズや形態を決めることをお勧めする。
記憶を過信してはいけないと思う。老いたる者は当然ながら、若き者も自惚れてはいけない。外部の情報を取り込む視聴覚などの感覚器官そのものの不安定を考えてみれば、感覚器官経由で記憶することの頼りなさと脆さを心しておくべきである。ぼくたちはどうでもいいことをよく覚え、千載一遇かもしれないたいせつなアイデアや教訓を忘れてしまう。忘却は年を追って深刻度を増す。歯止めをかけるには、忘れかけそうな事柄をメモ書きして再生可能な状態に保つしかない。手軽なノートに何かを綴ったり備忘のために記したりする。日常茶飯事の小さな習慣としてノートを活用しない手はない。
しかし、よく考えてみれば、よほどのマニアでないかぎり、習慣化はやさしくない。日々の諸々の事柄の多くは似たり寄ったりであり決まり事である。三日も書けば飽きてしまう。三日坊主とは言い得て妙である。ぼくもずっとそうだったが、ある日気づいた。ノートに記す内容が繰り返されるのは、流されるように生活を送っているからであり、自ら感受性を鈍らせているからであると。以来、小さなノートを開ける瞬間、ペンを持つ瞬間に、ほんのわずかに気を張るように意識してみたのである。
ノートをつける――あるいは、かつての日記をつける――という行為は、のっぺらぼうな日常の素顔の中に〈相貌〉を敏に知覚させてくれる。昨日と同じ今日はないと自らに言い聞かせ、いくばくかの緊張を感じて、新たに発見した些事や取るに足らない気づきを一本のピンで仮止めするような行為である。日常における「小さなハレの儀」と呼んでもいい。断片情報を明文化すれば、忘れやすい〈点の記憶〉に代わって、〈線の記録〉が生まれる。そして、その記録は記憶の再生を促してくれるのである。