感応と響き(一冊の本を巡って)- 2 –

五十歳で他界したNさんとやりとりした膨大なメールがある。やりとりとは言うものの、文章のほとんどはぼくが書いている。彼の素朴だが勢いのある問いに乗せられて、ぼくが脳内探索をして書き連ねた記録だ。ある日、しばらく間が空いたので、ぼくからご機嫌伺いのメールを送った。「おはようございます。案じています。『Nさんはしんどいときほど雄叫びを上げる』とKさんが言っていました。それを言わなくなったのは元気になったせいか、それとも、それすら言えなくなったのか、心配しています。尋常な病気じゃないのですからね。」 案の定、ぼくの予感は当たっていた。彼は以前一か八かに近い手術をしていたのである。

Nさんからメールが来た。「ありがとうございます。実は、この三、四日間、字も打てないほどボロボロに。薬のせいで惚けていました。ほんまのアホになるのではないかと……。今は大丈夫かな、という感じです。」

論理哲学論考

ほどなくして、またしても『論理哲学論考』のあるくだりについて質問があった。

「先生、質問です。論考の五・一三四の問題は、結局五・一三六一が答えになるんでしょうか?」 こういう問いはとても困るのである。実は、「私はこれについてこんなふうに考えるけれど、どうでしょうか?」のほうが答えやすく、「ABなのか?」という命題形式の問いは「投げられた感」が強く、打ち返すのにエネルギーを要するのだ。

「えらく難しいところに目が止まったものですねぇ……」というつぶやきから始めて次のように私見を書いた。

五・一三四  ある要素命題から他の要素命題が導出されることはない。
野矢茂樹の『論理哲学論考を読む』によれば、野矢はこの箇所を四・二一一と併せて捉えるべきだと言います。ぼくは、その前段の四・二一も引きたいと思います。
四・二一   もっとも単純な命題、すなわち要素命題は、一つの事態の成立を主張する。
四・二一一  要素命題の特徴は、いかなる要素命題もそれと両立不可能ではないことにある。

要素命題はシンプルに一つの事態だけを示します。そして、その一つの命題と一つの事態は密接に関わることを特徴とします。もし、要素命題Aと要素命題Bの間に何の接点もなかったら、AからBも、BからAも導けませんね。五・一三四を強引に解釈すると、そういうことを意味しています。たとえば、「大阪市は大阪府に含まれる」という命題からは、いくら頑張って推論しても「京都市は京都府に含まれる」は導けません。要するに、命題Aと命題Bが一部でも重なっていることが条件なのです。互いに無関係なABの間に因果連鎖などありえないのです。ここから五・一三六一が導かれるわけです。五・一三四と並べてみます。
五・一三四   ある要素命題から他の要素命題が導出されることはない。
五・一三六一  現在のできごとから未来のできごとへと推論することは不可能なのである。
以上から明らかですね。重なりのないABにおいては、AからBBからAも導くことはできない。ゆえに、現在のできごとと未来のできごとは重ならないのですから、推論不可能というわけです。現在のできごとはわかっているけれど、未来のできごとはわからないからです。もしそこに連鎖があるのなら、未来は事前にわかることになります。事前にわかる未来とは確実に起こる未来ですから、すでに未来なんかではないでしょう。

最後に一例を挙げておきます。
「卵は割れやすい。硬い床に落とすと割れるだろう」などという推論は、「割れることがわかっている」から言えるのです。論理学というのは「わかっていること、わかりきったことだけを論理図式に当てはめる学問」です。ほとんどの現実において、ぼくたちが見ている現実からありとあらゆる方向に推論しても、未来を言い当てることはできません。できたとすればマグレです。だから、ノストラダムスも他の預言者も数多く預言したのです。下手な鉄砲も数撃てば当たります。ウィトゲンシュタインは論理哲学と現実社会をつなごうとしたのでしょう。だから、既成の論理学に対してアンチテーゼを唱えることになったのだと思います。


上記のぼくのメールに早速Nさんから返信があった。「体調の悪い時にありがとうございます。こんな簡単なことやったんですね。先生は天才ですね。お大事になさってください。ありがとうございました。」 言うまでもなく、ぼくは天才ではない。なけなしの知識と推論努力で、彼の問いに対して断章を関連付けて、ひとまず自分自身を納得させるように考察したにすぎない。それを彼に伝えただけである。

その日の夜遅く、またメールが入った。「先生、夜分すいません。五・四五三は当たり前のようではありますが、はたしてそうなんでしょうか? 論理には特別扱いされる数など存在しないと言っていますが、はたして今の数学ではほんとうにそうなのでしょうか? フレーゲやラッセル、ホワイトヘッドも読みたくなってきました。おもしろい世界ですね。おやすみなさいませ。」 とにかく疲れていたので、「また時間があるときに返事します」とだけ書いて送り返した。

日を改めて返事したのが次の文章である。

五・四五三   論理に数が現れるとき、それは必ずしかるべき理由を示されねばならない。あるいはむしろこう言うべきだろう。論理には数など存在しないということをはっきりさせねばならない。〔論理には〕特別扱いされる数など存在しない。
この断章は、たぶん次の六・一三、六・二一で説明がつくのだと思います。

六・一三  論理学は学説ではなく、世界の鏡像である。論理は超越論的である。
六・二一  数学の命題はなんらかの思考を表現するものではない。

自信はないけれど、ぼくの解釈は次の通りです。
論理学は世界そのものであり普遍である、世界を超越しながらも、なおかつ世界について超越論的に語ることができる、それに対して数字は特殊である、しかし、論理学は特殊な数字を扱わない、ということでしょう。実際、論理的な証明では数字を使いません。数字を使った瞬間、特殊な計算がおこなわれたことになります。数学命題は等式ですから、型と個々の数字があるだけで、特に思考表現をしているわけではない。しかし、論理命題は世界の何かに関して一つの考えを示しているのです。論理学と数学の関係は、〈論理学⊃数学〉という関係なのでしょうね。「でしょうね」と言うのは確信が持てないからです。また考えておきます。

以上のメールを送ると、「ありがとうございます!! 郷に入れば何とかで、今回の本はおもしろすぎ、収穫もどえらいものになりました」という返信があった。まるで一仕事をしたかのように大きく息を吐いたのを覚えている。疲れたのである。複数の翻訳本で『論理哲学論考』をおそらく数回以上読んできたが、連なった断章を筋を通して追いかけたことはあったものの、こんなふうに飛び飛びの断章を関連付けて考えたことはなかった。Nさんはよく読んでいたと言うしかない。これにて一件落着と思いきや、紹介した別の本に彼が食いついてきた。そして、新たな問答が始まることになる……。

《続く》

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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