弁論や対話でどんなに巧みにことばを操れたとしても、肝心要はそのことばの背後に「論」があるかどうかである。明快でぶれない視点が言論を形づくる。プレゼントの真価は、包装紙やリボンにはなく、プレゼントを選んだ視点にある。ここで言う視点こそが〈トポス(topos)〉であり、これが事実に即した論旨を一貫させる機能を担う。トポスとは「ありか」のこと。言論の際に論題が位置している場所であり、論述を成り立たせる拠り所を意味する。
ユダヤ格言に「人は意見(主張)で説得されるのではない。理由(論拠)によって説得される」というのがある。強く同意する。至近な話を持ち出すと、気が付いたら買おうと思っていたわけではないモノを買っていたというのは、「この商品はいいですよ」という言に動かされたのではなく、商品を買うべき理由に納得したからである。一般的には、「節度を守ろう!」というスローガンよりも、「放埓三昧は身を滅ぼすから」という論拠のほうがよく響くと言われる。大してすごいことを言っているわけでもないが、ここでは次のようなトポスが使われている。
Xの正反対のYの中に、Xが持っている性質“a”に相反する性質“b”が属していれば証明でき、属さなければその命題を反駁できる。
少々複雑だが、「放埓」の正反対の「節度」の中に、放埓の性質である「自己破壊」と相反する性質「自己形成」があれば、節度の優位性が証明できるということだ。これは「相反」というトポスだが、アリストテレスは説得推論のトポスを28パターン取り上げた。そのうち、相関関係、多少の比較、切り返し、定義、分割、因果関係、前後関係などは現代議論法でも十分通用する。
1960年代、論理学者のトールミンは、〈証拠・確信度・主張・論拠・裏付け・保留〉という6つの要素から成る推論と証明のモデルを提唱した。これを簡略化したものが、〈主張・証拠・論拠〉を要素とした「トールミンの三角モデル」である。この三角形がトポスを強化する。主張だけでは論題は証明できない。また、証拠から推論はできるが、推論の妥当性までは説得できない。ここに「なぜ証拠から主張が導かれるか」という論拠を示すことによって、トポスがあぶり出され、論題が適切に推論され証明されることになる。
何かを主張したら、証拠と論拠について問われる。証拠は調べることができるだろう。しかし、論拠をどこからか探してくることはできない。論拠は捻り出すものである。ある論点でうまく論拠を示せたとしても、別の論点で妥当な論拠が立てられるとはかぎらない。苦し紛れにその場しのぎの説明をすれば、論点間の整合性が乱れる。繰り返すが、証拠から主張を導くだけでは不十分であって、必ず論拠を示さねばならないのである。
対話においては、「論拠探し」は「論拠崩し」と表裏一体となる。相手の論拠反駁を封じ込めることができれば、自分の論拠がすぐれているということになる。こと論拠に関しては、相手の不利は自分の不利、相手の有利は自分の有利でもある。そういう状況でしのぎを削るのがトポスによる説得である。
すべてのトポスがつねに有効なわけではない。対話に相手がいるかぎり、反駁されずに有効と見なされることもあれば、逆に反駁されて無効と見なされることもある。たとえば、「商品AとBのいずれを取り扱うかを検討した結果、商品Aを販売することに決めて現在に至っているが、Bのほうがよく売れたのではないかと思う」と誰かが言った。これに対して次のようなトポスで反論可能だろう。
「あなたはBの商品の存在を知っていた。そして、それを選択できることも知っていた。何がしかの不安がある時、人はそれを選ばない。ゆえに、あなたがBではなくAを選んだのは必然で、今さらそんなことを言うべきではない」
一見妥当だが、このトポスには次の再反論が可能かもしれない。
「何が有効で何が優れているかは、実施してしばらくしてはっきりするもので、実施前にはわからない。しかも、AかBかという二者択一であったから、同時に取り扱うことはできなかった」
もちろん、主張に決定的なトポスが出てくるまでは、さらなる検証が交わされ続けるだろう。それが議論というものである。
アリストテレスは28種類のトポスとは別の「有効な説得推論」を指摘している。「(説得推論においては)証明を目的とするよりも論駁を目的とするほうが人々の受けがいい」というのがそれ。証明は絶対評価の対象だが、論駁はすでに述べられた主張に相反した議論を併置させる。聴衆にとっては賛否両論を聞くほうがわかりやすく、なおかつ、後でおこなう議論のほうが巧みに聞こえることが多い。
先に言わせてから強く反論する、あるいは問わせてから切り返すように答える……古今東西、このような説得推論をおこなってきた政治家や論争家は数知れない。詭弁すらまっとうに聞こえてしまうから、劇場型論駁に惑わされぬよう聴衆自らもトポスを用意しておかねばならない。