“Yes”に潜む危うさ

議論では”イエス”と”ノー”の両方に出番がある。イエスばかりでは馴れ合いになり、ノーばかりでは衝突してしまう。この国ではイエスの頻度が高く、ノーは毛嫌いされる傾向が強い。ノーと言われて気分がよいはずもなく、またノーと言えば相手も心地よいはずがない……という空気がある。その場をイエスで収めておくのが大人の作法というわけだ。ところが、これは自分が当事者として関与しているからであって、自分と関係のない状況に際してはノーと言う。たとえば、交渉で弱腰になっている政府や言いたいことを言わない友人のことになると、「強くノーと言えばいいんだ」と高飛車に出る。

ホンネがノーならノーと言うべきだ、もっと強く出てしかるべきだという意見がないことはない。かつての『「NO」と言える日本』などはその手の主張であった。もっとも、「ノーと言える可能性」と「ノーを行為として言う蓋然性」は違う。遠吠えでいいのなら、誰だってノーくらいは言える。知己や親しい相手に面と向かってイエスとノーを使い分けてはじめて、意思無きイエスマンから脱却できる。

ノーなのにイエスと言わざるをえない空気は、力学決着という風土ならではだ。長いものに巻かれたり上司の顔を立てたりするのが習慣化すると、鈍感になって何とも思わなくなるのだろう。ノーを押し殺してイエスに魂を売るのが朝飯前という人たちを五万と見てきた。彼らは、悔しさに涙をのむということさえしない。見解の相違だからなあ、時間が解決するはず、まあ何とかなるよという類いもイエスの変種と言えるだろう。吉田兼好は「おぼしきこと言はぬは腹ふくるるわざ」と言った。思っていることを言わないでいると腹が膨れてくるような気になるという意味だが、それが嫌ならはっきり言えばいいのに、それでもめったにノーを言明しない。


YES□ NO☑

相手の質問に対して即座に返答できない時――つまり、イエスかノーに迷った時――ノーと言うのが議論や交渉の原則である。ノーを選択する勇気がなく、イエスでその場をしのいでも、いずれノーと言わねばならない場面がやってくる。その時のノーは一事が万事になりかねない。もっと早くノーと言っておけば事態はそこまで深刻にならなかったはず。

最初に言いたいことを言う、ノーならノーと言っておくのはディベートの教えである。早めのノーが危機を未然に防ぐ。しかも、ノーからイエスへの転換もしやすい。イエスからノーへの変更には一触即発の危うさがある。

日本社会でも、誰もが曖昧な意思決定を良かれと思っているはずがない。しかし、理念はそうであっても、現実はイエスとノーを明言しない。どちらかと言えばイエスに傾く。日本人に頷きが多いのもその表れだろう。頷いているからと言ってイエスとは限らないから、世界から見れば日本人は曲者に映る。英語で“Yes or no?”と迫られて困り果て、おざなりに“or”と答える日本人……というジョークのネタにされてしまう。中間や折衷も好きなのである。

「ノーのすすめ」を何十年も説いてきたが、受けがよくない。身近な批判のことばであるノーが行き詰まりを打開し己を鍛えてくれると言っても、理解してもらうのは難しい。ノーは有益なのだが、それを実感する前に不愉快になるからである。

あまりにも多くの人々が、他人のアイデアを批判しないように、と教えられてきました。それはまったくの誤りです。よいアイデアは批判にも堪えられるものです。また、悪いアイデアの欠点を指摘する人がいなければ、よくなりようがありません。
全員が同じ知識、背景、見解を持つ画一的な集団では、変化が生じたとき、柔軟に対応できないことがわかっています。にもかかわらず、いまだに「ノー!」と言い合えない会社やチームはたくさんあるのです。

『スウェーデン式「アイデア・ブック」』(フレドリック・ヘレーン著)からの引用である。「イエスよりノー!」という一節で、批判はアイデアを磨くという趣旨をわかりやすく書いてくれている。ノーに光を当ててくれていて、ぼくの代弁にぴったりなので紹介した。ノーがたいせつということよりも、ひとまずイエスまみれの危うさを知っておくのがいい。

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proconcept

岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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