オフィス近くの寺の掲示板に「壁が扉になる」としたためられた貼り紙が出ている。今月の標語だが、言いたいことは重々承知の上で、軽く冷やかし気味に遊んでみたい。
この歳になるまで、さなぎが蝶に変態したのを見たことがなければ、壁が扉になるのを目撃したこともない。何時間も何日も見つめなかったぼくの忍耐不足のせいだったかもしれない。さなぎの変態は教養として知っている。ある朝突然、人が虫になる可能性はカフカに教えられた。しかし、壁が扉になることはこれまで誰にも教えられなかった。
壁が扉になるのなら、壁のあちこちに錠を付けないといけない。鍵をかけ忘れたら泥棒が入り放題だから。錠だらけの壁はきっと壮観だろう。ところで、ぼくの目の前で壁が扉になったことはないが、稀に扉が壁になったことはある。帰宅したらポケットに入れていたはずの鍵がなく、当然ドアは開かない。ドアがまさに壁になる瞬間である。
「XがYになる」という構文はわかりやすい。「秀吉が関白になる」というのも同じ。もちろん秀吉自身が物質的に変化したわけではなく、関白という立場に就いたという意味である。「XがYになる」が成立するかどうかをチェックする方法が論理学にはある。〈対偶〉がそれ。対偶は「YにならなければXではない」という命題表現をとる。元の命題が成立するなら、この対偶も成立しなければならない。「壁が扉になる」の対偶は「扉にならなければ壁ではない」である。リフォームすればともかく、こう言い切るには無理がある。
くだんの寺の僧侶が、生物学や物理学や論理学の観点から「壁が扉になる」と書いたのではないことは承知している。工夫を凝らした比喩である。何かと何かを隔てたり閉ざしたりしている心理状態にあっても、ある日突然開かれるという意味だろう。それなら日常茶飯事だ。また、心を開いていたはずの誰かが、前触れもなく壁を設えて引きこもることもある。と、書いているうちに、壁や扉はどうでもいい、むしろ「~になる」という自動詞が曲者なのではないかと思い始めている。
何人かで居酒屋に入った時のこと。焼酎をボトル一本注文し、若い従業員に「ロックグラス一つ」とお願いした。しばらくしてグラスを持ってきてこう言った、「こちらロックグラスになります」。ふつうのグラスが手品のようにロックグラスに変わることはない。「ロックグラスになりますって、今の状態がすでにロックグラスだけど」とつぶやいたが、本人はツッコミだと気づかない。自動詞「なる」は何らかの変化を示すと理解しているので、元からのロックグラスは、落として粉々にでもならないかぎり、無変化のままロックグラスのはずである。
客の「ロックグラスもらえる?」に対して、「はい、こちらロックグラス!」では愛想がない、何か足すなら「です」かもしれないが、「はい、こちらロックグラスです」では拍子抜けしてしまう。業界であれこれ考えた挙句、座りのいい言い回しとして「はい、こちらロックグラスになります」に落ち着いた、と類推できる。
「壁が扉になる」を弄んだが、「壁が扉になります」に比べたら哲学的な貫禄を感じてしまう。もっとも、「こちらの壁が扉になります」だと勇み足になる。これでは、大掛かりなマジックが始まるのではないかと人だかりができてしまう。昔、山伏の恰好をした大道芸人が、大きな石が空中浮遊すると言ってお題目を唱えている光景に出くわしたことがあるが、今か今かと待てども石は地上から浮くことはなかった。石は勝手に動かず、壁も勝手に扉にはならないのが常である。