民主主義が完全だとは思わない。その完全でない民主主義社会の意思決定方法である裁判や選挙が完全だとも思わない。しかし、不完全な民主主義に代わるオプションが発明されるまでは、裁判や選挙の結果が己の意に反したとしても、潔く受け入れるしかない。アメリカの次期大統領がドナルド・トランプに決まった。反対派は怒りや怨念を早々に鎮めて、今後はしっかりと働きぶりを検証し、必要に応じて批判するのがいい。何を決めるにせよ、思惑が外れた側は言う、「こんなはずじゃなかった……。」
四か月前の本ブログで『思惑外れ』と題して書いた。最後の段落を次のように締めくくった。
トマトジュースやスーツから政治経済に至るまで、思惑は外れるもの。慎重な意思決定や自信たっぷりの洞察力の程をよくわきまえておくべきだろう。
素人が三人寄って文殊の知恵になるのなら、エリートや専門家が何人も集まれば超文殊の知恵になると思ってしまう。しかし、買いかぶりは禁物である。新国立競技場や豊洲市場の顛末は、専門性に罠や陥穽がつきものであることを示した。専門家もメディアの見解や推理もたかが知れているのである。
「ひどい連中が撤退していった結果、一番ひどいのが残った」とニューヨーク市民に皮肉られたトランプ。反知性主義者を諷刺的な戯画にしたら、あのような人物、あのような話し方・ことば遣いになるのだろうとぼくも思っていた。その反知性主義の権化が勝った。得票率を見れば、アメリカ人の半数が支持したのである。既存体系における知性の象徴、ヒラリー・クリントンと互角の評価を受けたことを素直に認めざるをえない。
「トランプが大統領とは情けない」と嘆くなかれ。その情けないトランプに敗北したクリントンはさらに情けない存在になったのだ。ところで、トランプを反知性主義者だとぼくは書いた。そのトランプが大統領になったのは、アメリカが反知性の風土へとシフトしている兆しの証だろうか。必ずしもそうとは言えない。反知性派だと胸を張る中に知性派がいたりして、知性と反知性に明確な線引きができないのである。「クリントン=知性」に立ち向かうには、反知性という対抗スタンスは戦略的に必然であった。多分にそのように演じたはずである。だから、既存の知性にうんざりした知性派なら「隠れトランプ」になった。つまり、トランプ支持者でありながら、支持者であることを明かさなかった人たちである。
タイガースの話で盛り上がっている時に、その場にジャイアンツファンが居合わせているとしよう。賢明な人なら話に適当に順応してその場をやり過ごすだろう。大阪にはそんな「隠れジャイアンツ」が少なからずいるのだが、めったなことではファンであることを明かさない。会議の席上にしても同じことが起こっている。人は時に自論を露わにする一方で、場の状況を見ながら自論を隠す。どんな職場でもホンネとタテマエが入り混じり、何がホンネで何がタテマエかは、実はわからなくなっている。
1960年のジョン・F・ケネディ(民主党) vs リチャード・ニクソン(共和党)がもっとも古いぼくの記憶である。以来、米国大統領選挙を十数回「観戦」してきた。2000年のジョージ・W・ブッシュ(共和党) vs アル・ゴア(民主党)は史上稀に見る、獲得選挙人数「271 vs 266」という大接戦で、速報から目が離せなかった。今年の選挙はそれに劣らないスリリングな展開、結果となった。
負けた候補者に投票した市民はつぶやく、「こんなはずじゃなかった……」。そう、選挙のみならず、人生、いつも何かにつけて「こんなはずじゃなかった」という思いは生じるのだ。「こんなはずじゃなかった」が案外多いのだから、負けていつまでも倦むのではなく、頭を切り替えるのが一つの身の処し方なのである。