苦楽同居説

「いちず」だの「一意専心」だのと言っても、したいことやしなければならないことを一つに絞るのは凡人には容易でない。仮に一つに絞れたとしよう。それでも、相容れない二つの要素の葛藤がありうる。それらを「両立」させようとする。しかし、そもそも両立ということばに出番がある間は成就への道は遠い。仕事と家庭、趣味と仕事……最近はやりのことばを引き合いに出せば「ワーク・ライフ・バランス」だが、調和を目指そうとする時点でワークとライフが元々調和しにくいことを認めていることになりはしないか。

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「楽は苦の種」「苦は楽の種」という。もし因果関係だけを説いているのだとしたら、矛盾をはらむことになる。今日楽ばかりすると明日に苦労が増える、だから今日苦労しておけば明日は楽になれる。こんなふうに解釈すると、今日楽をしたら明日は苦しむが、明日苦しむので明後日は楽になり、明後日の楽は……と、苦と楽が交互に日替わりでやって来ることになる。

苦が先にあって楽が後にあるのではないし、楽の後に苦がやって来るのでもない。楽には苦がつきまとい、苦の中にこそ楽がある。苦と楽は相伴う。あるいは同期する。苦楽は同じ屋根の下で同居しているのだ。楽を、「らく」ではなく「たの(しい)」、つまり歓びと考えると、苦楽同居説にうなずけるはずである。


こんな遠回りな話をしなくても、自分の仕事や趣味、スポーツのことを考えればわかることだ。好きな対象があり、それを楽しもうとする動機も意欲もある。対象をレベルアップしたりものにしたりできれば歓びとなる。結果だけが歓びではない。過程に身を置くこと自体が歓びなのである。その過程では上昇志向に伴う刻苦精励が欠かせない。刻苦は楽しみの前段階に位置するのではなく、歓びの付属品のようなものだ。快を求めて快を実感しながらも、その快は「快苦」と呼ぶべきものなのである。

苦か楽かと考えると二律背反になる。同様に、好き嫌いで生きるのも、得意不得意で生きるのも、両者相容れないという前提に立つ。すなわち、事をするにあたって居心地の良し悪しが優先判断されている。人生の辛酸がわからぬ幼児ならまだしも、一人前の人間が苦や嫌いや不得意を避けて、楽や好きや得意だけで生きれば、自己免疫力が高まるはずもない。

「好きこそものの上手なれ」を買い被ってはいけない。好きな事には必然熱中するから上達が早いなどというのは希望的美談に過ぎない。好きの対義語は嫌いとされているが、嫌いを排除した後の好きに、別の対義語が立ち現れる。たとえば、面倒くさいがそれだ。あの店のラーメンが好きだ、しかし雨の中を歩くのは面倒、しかたがない、カツ丼の出前でも頼むか……好きと面倒くさいが対立して、面倒くさいの顔が立ってしまう。苦と楽が同居するように、好き嫌いも得意不得意も同居する。砂金とただの砂を選別するような調子でいいとこ取りはできない。人生にも仕事にも苦楽の線引きはなく、苦しいけれど楽しく、楽しいけれど苦しいものなのだろう。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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