テレビの『笑点』の大喜利で司会者がお題を出す。お題によっては出演者に小道具が配られることがある。司会者が「山田君、例のものを持って来てください」と言うと、山田君が「かしこまりました」と返事して小道具を配る。小道具の名前を言ってもよさそうだが、「例のもの」と言う。例のものとは何か。それは両者で事前に了解済みである。仕事上でも「例の件ですが……」と持ち出された相手は何の件かわかっている。見知らぬ相手に「すみません、例の件でお尋ねしたいんですが」と言っても通じない。
「例の」の代わりに「いつもの」と言える場合がある。「いつもの何々」と言えば、お互いにわかっている「もの・こと・場所」などを表わす。仲間内で「いつもの」で通じるのは、何を意味するかを取り決めているからである。あるいは、何度もみんなが使ってきた結果、暗黙裡に了解されているからである。ところで、「いつも」は繰り返されるという点でマンネリズムに違いない。変わり映えしないというニュアンスがある。他方、安心感があり、変わらぬよさという意味にもなりえる。
オフィスから近い場所で待ち合わせることになった。喫茶店Aである。相手の彼とはよくそこに行った。稀にそこ以外の喫茶店Sに行くことがあったが、年に一度あるかないかだ。「じゃあ、いつもの喫茶店で」と伝え、念のために「角の店」と付け加えておいた。いつものとは喫茶店Aである。十数分待っても彼は来ない。携帯に電話した。めったに行かない方の喫茶店Sの前で待っていると言う。「いつものと言えばそこじゃないし、だいいちそこは角の店ではないよ」と言いながら、念には念を入れて固有名詞で伝えなければならない相手だったと反省した。
長ったらしい名前や言わずもがなのことを同質性の高いグループ内では省略する。ブレンドコーヒーとメープルシロップたっぷりのホットケーキを毎朝2枚注文する人は、「おはよう、いつものね」で済ませる。新しいことばでネーミングするまでもなく、意味が共有されているのなら、もの・こと・場所を具体的に特定せずに「いつもの」で十分に伝わるのである。
「今度の忘年会は何々町のいつもの場所」と十数名に声掛けしたところ、全員が所定の日時にそこにやって来たら、大いに感心してしまう。このグループはかなりツーカーの仲が深く、共通言語が定着していると思われる。
ところが、同質性の高さは必ずしもいいことづくめではない。「わかっているつもり」になると、わざわざ検証したり深読みしたりしないから、意味を左から右へと流してしまうことになりかねない。『いつもの場所』という居酒屋がある。ここがいつも飲み食いする店であれ、初めて利用する店であれ、ことば不足の説明は誤解を招く。日時の次に、ぽつんと「場所:いつもの場所」とだけ書いて、はたして案内状を読んで何人が判読できるだろうか。