木を見る

「木を見て森を見ず」。物事の一部にばかり気を取られると全体が見えなくなるという戒め。早とちりしてはいけない。木を見るなと言っていないし、先に森を見ろとも言っていない。この成句は「木も森も見ておこう」と無難に教えているのである。

木は部分・局所・細部の比喩である。対して、森は大局を意味している。全体を見据えて状況や成り行きを理解し判断するのを「大局観」という。もちろん大局観は身につけたい。しかし、先験的に大局観に恵まれることなど不可能だ。通常、ぼくたちに森が見えることはないし、それで特にまずくなることもない。もし森を見ようとして森深く入り込めば、逆に森が見えなくなる。目の前に樹木の群生は見えるだろう。しかし、それは森の全体ではない。一本一本の木の、いくばくかの集合にすぎない。

ドローン目線で森を俯瞰できたとしても、ぼくたちは環境や生態を判断する材料を持ち合わせていない。せいぜい「鬱蒼うっそうとしている」とか「緑が深い」と感嘆する程度だろう。森が見えずとも、ひとまず目の前の一本の木を見ることに勉め、そのことに満足することから始めるしかないようである。木だけを見ていると森は見えないぞと戒められたが、木を見ることは森を想像できる可能性に開かれている。


昨年暮れに自宅周辺を歩き、力感的な一木いちぼくに出合った。由緒ある神社の樹齢数百年を数える楠と比較すれば見劣りする。見上げなければならないほどの巨木ではないが、数ある樹木の中で自生の造形美が目を引いた。ほとばしる生命力を感じたのは、自分が体調不良だったせいかもしれない。

「強くて逞しい木を見ると抱きつきたくなるのです」と言った女性がいた。幹の胴の一部にしか手を回せないが、それでもエネルギーが十分に伝わってくるのだそうだ。木は気に通じる力を宿すということか。どんな木でもいいわけでもなく、神木でも気に通じないことがあるという。木の枝ぶりや全体の形との相性みたいなものがあるに違いない。

「谺」という漢字がある。「こだま」と読む。こだまは谷間に響く音や声だが、昔は濁らずに「こたま」と呼ばれていたという。「木魂」や「樹神」という字も当てられていたようだ。見慣れているのは「木霊」。いずれも樹木に宿る精霊の表現だという(中村幸弘『読みもの 日本語辞典』)。ピピッとひらめいた木に抱きつく癖があったあの女性は妖精の存在も信じていた。木の精霊を感知することくらい朝飯前だったのだろう。

一本の木が伝えているものを感じ、そこから様々に思いを馳せていれば、やがて大局が見えるかもしれない。木と森の両方を見失うよりは、ひとまず一本の木に関心を払えることを喜びとしておく。繰り返しになるが、木と森は人の見方・生き方の比喩である。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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