切り離された一言

法然の「愚にかえる」という一言を文脈から切り離し、なおかつ愚を「おろか」と解釈するとしよう。おろかとは知能の働きがすぐれず、才能が劣っているさまである。「そうか、賢くなくていいんだ、バカでいいんだ」などと自分を慰めては話がおかしくなる。「愚に還る」とは思い込みやとらわれから自分を解放してやることだ。つまらぬ知識や理屈が固定観念の根源であるから、脱知識・脱理屈のことを愚に還ると表現しているのである。今風に言えば、雑念の「リセット」ということになる。

近くの寺に「愚に還れば楽になる」という標語が掲げられていた。つまらぬ知識や理屈を捨てたら楽になる? まあ、そうかもしれない。角張った賢さが考えの偏りの元であるなら、いっそのこと愚に還ろう。すると、素直になれそうな気がする。素直になることと楽になることが同じとは思えないが、ツッコミ場所はそこではない。脱理屈を諭しているのに、「もしあなたが愚に還るならば、あなたは楽になるだろう」などという仮言命題の記述に違和感がある。仮言命題は論理学で扱う形式なのだから。

思想の全体から切り離して一言だけ単独につぶやかれると、愚に還るの「愚」をおろかという意味で理解するだろう。還るというのだから、賢い人に向けられたことばであり、すでに十分におろかなら還りようもないということになる。全体を斟酌せずに部分だけの語釈をしてしまうと読み誤る。

中途半端な賢さゆえに苦しみを抱え込むということはよくあることだ。余計なことを考えなければもっと簡単に解決できたかもしれないのに、生半可に知力があるばかりに遠回りをして苦悶する。だから、手っ取り早くバカになってしまえばいい。しかし、「きみ、もっとバカになりなさい」と諭しても、「もう十分にバカなんだけどなあ」と返されれば、やはりバカやおろかの解釈が一筋縄ではいかないことに気づく。賢くても――いや、賢いがゆえに――バカやおろかになれるし、なろうとすればいいのだ、という意味である。しかし、意味がわかったとしても安堵してはいけない。人生を超然と生きていくならそれでいいが、仕事もしなければならない、日々生活も送らねばならないのである。「愚→賢」というもう一つのスイッチの切り替えなくしては協働も共生もうまくいかない。


理屈や知識ではなく、計らいのない愚者の知恵で人は救われることがある……小賢しいエゴを捨ててバカになろう……そうすることで潔くなれ幸せになれる……。はたしてつねにこの教えに従うだけでいいのか。思い込みやとらわれから解放されるだけが、実社会を生きる人間のゴールではない。本気で愚に還ってしまえば楽どころが、仕事も生活もままならないのである。

ずっと賢者、ずっと愚者は、いずれも愚者である。時々愚者になる賢者、時々賢者になる愚者は、いずれも賢者である。「愚に還れば楽になる」などと普遍的命題で断定するのではなく、「時々」と言ってしまうほうが、思い込みやとらわれから救われるだろう。愚と賢の折り合いをつけるとするなら、「考えてもしかたのないことは考えず、考えるに値することだけを考える」というところに落ち着くような気がする。

「愚」とは本来考えの足りないさまである。決して褒めことばではない。しかし、状況に応じて時々わざと考えの足りない状態に切り替える。それが愚に還ること。頭だけを働かせないように意識すること、つべこべ言わずに動いてみること、と言い換えてもいいかもしれない。ところで、愚の「禺」は大きな頭の猿という意味らしい。そこに「心」がくっついて、頭ばかりでかくて猿のように劣った心の持ち主を表わすようになった。愚の成り立ちそのものが偏見にまみれている。

ともあれ、全体の本意から切り離された一言、一行、一文の取り扱いは要注意である。格言、諺、スローガンしかり。特に「愚に還れば楽になる」を額面通りに解釈してバカを謳歌しそうな人に対しては単発引用して示してはいけない。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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