ことばに生かされて

昨年から今年にかけて、コミュニケーションについて講演する機会が何度かあった。コミュニケーションは伝達や理解の単なる手段ではなく、生きることそのものであるというテーマ。他人に何かを伝えるための手段としてことばが在るのではなく、ことばそのものがコミュニケーションを可能にしている……ぼくたちが主人としてことばという下僕を使っているのではない……むしろ、人のほうこそがことばに生かされている……というような話である。

人どうしの間で「意味を共有」することがコミュニケーションの原義である。意味とは「言の葉」として驚くほど分化したことばの意味だ。つまり、コミュニケーションを生きるとは、人と人の関係においてことばの意味を分かち合うことに命を預けることにほかならない。ここが、人間とことばを持たない動物との唯一にして決定的な違いである。人間だけがことばによって生かされ、コミュニケーションを生きている。

人生の究極の最高善とは何かと自問自答し、アリストテレスは「幸福である」と喝破した。万人にとって蹂躪しがたいのが幸福という概念なのである。たいていのことには「なぜ?」と問えるが、「なぜ幸福が重要なのか?」などという問いは成り立たない。幸福には理由も説明も目的もなく、言い換えることもままならない。幸福はただ幸福と言う以外に他はない。したがって、「幸福を求めて生きる」という言い方もありえない。ぼくたちはただ幸福を生きるのみ。同じく、ことばに生かされて、コミュニケーションを生きている。


ことばで人の思いや世界の何もかもがわかるわけではない。わからなくてもやむをえない。しかし、ことばそのものの内にしか「わかる可能性」はなく、また「わからない可能性」もそこにしかない。わからない覚悟もしておかねばならないのである。仮に何かがわかったとしても、どの程度わかったのかを知る手掛かりがあるはずもない。わかったことの程度がわからないのなら、それはわかったとは言えないのではないか。

ことばによって何かをわかろうとすることには気の遠くなるような困難がある。わからないことをわかろうとして苦悶し、結局のところ、わからずにやむなく退散する。そしてまた、性懲りもなくわかろうと努める。考えるとはこういうことの繰り返しなのだ。意味を分かち合い物事を考えようとして、ぼくたちはつねにことばの壁にぶつかっている。しかし、絶望するには及ばない。この時、ことばに生かされているからこそ考えることができ、コミュニケーションを生きていると実感するのだから。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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