レオナルド・ダ・ヴィンチの手記に「鋳物は型次第」のことばがある。これを、完成品に先立って構想や設計図が重要だと読み替えてみる。あるいは、「結果は前提に支配される」と抽象化してみる。「内実は形式に従う」でもいい。鋳物なら型の枠や形状が目に見えるが、型には見えないものもある。そのつど手が型を作る仕事もある。手で作った型がそのまま実になる仕事である。
少しジャンプする。もし「仕事は道具次第」ならどうだろう。仕事を極めてしまえば、後は道具で決まるというプロフェッショナルもいる。実際、「水彩画は紙次第」や「バイオリン演奏は楽器次第」という説がないわけではない。素人が「マイクが悪いからうまく歌えない」と言い訳するのとはわけが違う。そこで、ぼくにとって「それ次第」と言い切れる道具とは何かと考えてみた。しかし、企画をしたり講演したりするうえで、この道具でなければならないものなど思いつかない。筆記用具、紙、手帳、パソコン、マイク、演台……別に上等でなくてもいい。
仕事の出来はいいのに報われない。「講演は聴衆次第」や「企画は評価者次第」などと言いたくなる時もあった。しかし、そんな身の程知らぬ愚痴はもう20年前に卒業した。うまくいかない時はすべて人徳の無さ、実力不足と思いなすしかないのである。いずれにせよ、「ぼくの仕事は何々次第」の何々はぼくの技術・力量以外に見当たらない。ぼくのいる業界では、幸か不幸か、フランスの最高水彩紙アルシュやバイオリンのストラディバリウスに相当するようなものはない。出費が少なくて済むという点では、間違いなく幸いなるかな、である。
しかし、ダ・ヴィンチの原点に戻れば、「仕事は型次第」なら大いにありそうだ。固定した型などないかもしれないが、何がしかの型は仕事に先立ってつねに存在する。構想の型、企画の型、構成の型、手順の型、話しぶりの型、情報の型……探せばいくらでも出てくる。そして、この型を選び決めるのは、仕事をする本人以外に誰もいない。言い換えれば、「型は本人次第」というセオリーも見落とせなくなるのである。
さて、ここまで来れば、昔から繰り返されてきた「道具は使う者次第」にも共感せざるをえない。制度や仕組みや集まりの会を作る。インフラストラクチャでも法律でも何でもいい。明らかなことだが、作るだけで何もかもがうまく機能することなどありえない。機能させるには、意志と行動と能力が欠かせないのだ。道具を買い求める。その瞬間から便益が得られるわけではない。使う者の、善用に向けての良識が働かなければならない。
刃物も車も薬も、期待される通りにまったく同じ使われ方をすることなどない。すべての書物、すべての交通手段、すべての建物が同じ価値をすべての人々に供するわけではない。これらを便宜上すべて道具と呼ぶならば、人それぞれの道具の生かし方が存在する。「道具は使う者次第」とは、人が道具によって試されるということだ。道具を使う者が万物の尺度に値する良識を持ち合わせていることを願うしかない。