趣味や特技の棲み分け

毎日新聞の朝刊に週一回の書評欄があり、『好きなもの』というコラムで著名人が好きなものを三つ紹介する。「何、これ?」というのもあるが、意表をつくのもあって感心する。

食べ物にかぎった好物ならいざ知らず、生活・人生全般における「好きなもの上位三つ」を選ぶのは至難の業だ。いつぞやどなたかが挙げていた「パリのカフェのテラスに座って、行きかうパリジェンヌを眺めること」なんて書けるのはうらやましい。好きなものが「にもかかわらずという言葉」という発想もおもしろかった。ぼくには書けない。と言うか、三つに絞ろうとすれば相当に人目を気にしなければならないだろう。


しばらくぶりに京都に行ってきた。何かをしようと思ったのではなく、京都に行こうと思った。行こうと決めた直後に京都市立美術館で『芸術都市パリの100年展』が開かれているのを知る。本ブログで7月末に紹介したが、ぼくはこの美術展をすでに広島で鑑賞している。二ヵ月も経たないうちにもう一度見る? まあ、ふつうは見ない。ぼくはふつうではないので、もう一度見ることにした。

おもしろいものである。前回印象に残っていない作品が今回は目につき、前回ちょっぴり感傷的になった作品にもはや未練がない。未練どころか、記憶にすらない。場所、状況、季節、気分、体調、時間帯などによって人は凝視したり軽視したりする対象を変える。生で見るのはとても意味深いことだが、図録を買っておくのもまんざら悪くないと思い直した。臨場感に溺れずに、平常心でクールに鑑賞するには図録という手段も有効かもしれない。

広島で適当にしか見なかったオノレ・ドーミエの社会諷刺的版画。京都では実物展示がなく、ビデオ展示になっていた。ある作品に目が止まり、帰宅して広島で買った図録を読み返してみた。作品は石版画で「陶磁器マニア」というシリーズの一つ。犬が猫を追い、喧騒の中で「壷危うし」に慌てふためいている飼い主という図。一コマ漫画みたいなもので、「同時に犬と猫と壷を愛好するのは差しさわりがある」という一行説明がついている。

なんと教訓的な!! 犬と猫の不仲に由来する英語の俗語“cat and dog”は「ケンカ」や「いがみ合い」のこと。また、“cats and dogs”と複数にすると「くだらない組み合わせ」や「ガラクタ」を意味するように、犬も好き、猫も好きというのは具合が悪い。“It rains cats and dogs.“という口語の慣用句は「どしゃ降り」のことだ。そんな緊張関係の中に、もう一つ好きな壷を置いてみたら、結末は想像に難くない。犬と猫にとって、壷はご主人さまほど値打ちのあるものではないのだ。


好きなもの、たとえば好物三種類が身体の中に入って、平穏無事に差しさわりなくそのままケンカもなく棲み分けてくれたらいいが、そんな保障はない。口に入るまでは三つの好きなものが仲良さそうに見えていても、喉元を過ぎてからはどんな関係になってしまうかは知るすべもない。

お気に入りの強打者が三人いたって、一人しか四番を打てない。三番、四番、五番と棲み分けたつもりでも、見えないところで関係のバランスは崩れているかもしれない。

絵画が好きで読書が好きで語学が好きなぼくが、これら三つの趣味を同時にたしなんでいることなどめったにない。三つとも同時に打ち込んだら、たぶん犬と猫と壷の状況になってしまう。複数の好きなことの棲み分けというのはかなり難しいテーマのように思える。強引に好きなものを同時に共生させて、目玉が飛び出るほど高価な壷を犠牲にできるほどの勇気も甲斐性もぼくにはない。

ならば、いさぎよく「壷は大好きですが、犬と猫は大嫌いです」と言い切れるまで一番好きなものだけを追求できるか? これも無理。一兎をも得られないのを承知で二兎ならぬ三兎を追ってしまうのが器用貧乏の常だから。 

連なりと繋がり

情報・知識・経験などは同類項でつらなる一方で、まったく別の群とつながっている。この「連繋」に対して、あるときは偶然を感じ、またあるときは必然を感じる。

916日に私塾があった。講座の「ことばのゲーム」で出題する難解な漢字を、その数日前に選定していた。食べ物一般や野菜・果物のセクションの問題作成時に、「りんご、ぶどう、そば」を外し、「こんにゃく」は残した。このゲームは6班の対抗でおこない、全体の正答率はだいたい60パーセントだったろうか。

塾の終了後、塾生が経営する焼肉店で有志15名による懇親会を開いた。食事も半ば過ぎた頃からまたまたお遊び演習タイム。一切メモせずに記憶だけで47都道府県を一人一つずつ告げていく。既出のものをダブってはいけない。しかし、1015くらい出てくると、もはやどの都道府県がすでにコールされたのか記憶が薄れてくる。ダブった時点でアウト、また10秒以内に答えられなければアウト。

一人ずつ脱落していき、メンバーは四人、三人にまで減っていったが、3県を残して全員アウトとなった。そこで、ヒントを与えながら敗者復活戦を続行し、どうにかこうにか47都道府県がすべて出揃った。最後にコールされたのは山形県であった。


翌日からぼくは兵庫県で23日の研修に入った。最近体重が増え気味なので、ここ二、三週間は朝食はジュースだけにしていた。駅近くのコンビニで「りんごジュース」を買ってホテルの冷蔵庫に入れた。出題から外れた「りんご」の「ご」の漢字が気になって紙パックの容器を見つめるも、アップルとは書いてあっても、漢字は見当たらない。

この週、テレビで久々にダニエル・カールを見かけた。流暢な山形弁を喋るタレントである。また、「噛む」というそばの新商品をコマーシャルでも見た。

921日伊丹から山形へ向かった。翌22日は、美容業経営者を対象とした、ひらめき脳をつくるセミナーである。偶然だが、セミナーの演習に「山のつく都道府県をすべて検索しなさい」というのがあり、日本地図の北から順番に、山形、富山、山梨、和歌山、岡山、山口と6つ見つければ正解。さすがにご当地の方々は山形をもらすことはない。

セミナー終了後、お昼に「こんにゃく番所」でこんにゃく懐石をご馳走になった。読めることができても、「こんにゃく」を漢字で書くのはたやすくない。「蒟蒻」をしっかりアタマに叩き込んだ。空港へ送っていただく途中、天童に寄りそばを食べることになった。ここで「蕎麦」という漢字を確認。出てきたざるそばは、十割にもかかわらず、すするのではなく「噛む」がぴったりの歯ごたえであった。

そばを食べながら聞き耳を立てていると、店主がハングル語を話している……。しばらくそう思っていた。しかし、ご当地ことばであった。地元の人どうしの山形弁がさっぱりわからない。ダニエルがすごいと思った。


伊丹に着いて帰阪。休日の翌日の昼にテレビをつけたら、みのもんた司会で難解な漢字の覚え方というコーナーがあった。憂鬱を皮切りに、りんご=林檎、ぶどう=葡萄などの書き方を語呂合わせで簡単に覚えられるというのだ。一応マスターした。今は語呂合わせの文言そのものを覚えていない。

さらに昨日の昼。お手頃なフレンチを食べに出掛けた。値段は手頃だが、前菜、スープ、パン、主菜、デザート、コーヒーがちゃんとした味で勢揃い。主菜はなんと山形産三元豚さんげんとんであった。

山形づくしや漢字づくしをこじつけているのではない。山形や漢字というアンテナがここ二週間ほど他の情報群よりもピーンと立っていた結果の連なりと繋がりである。情報のネットワークはかくのごとく広がっていくのを身をもって体験した次第だ。こんなおいしい情報の数珠つなぎをしないで放置しておくのはもったいない。

イタリア紀行10 「広場空間を遊ぶ」

フィレンツェⅣ

帰国してから膨大な写真データの整理に追われる。よくもこれだけカメラに収めたものだと呆れもする。しかし、いつもいつもカメラを携えて歩いているわけではない。たとえば、食料の買い出し、近くのバール、食事に出掛けるときなどは持たないことのほうが多い。雨の日や夕方以降の散歩にはカメラはふさわしくない。それに、撮影に気を取られていると、臨場感のある現場体験や印象の刷り込みは浅く薄くなってしまうものだ。ちょっと出掛けるときは手ぶらというのがぼくの流儀だ。

その代わり、「カメラをホテルに置いてくるんじゃなかった」と後悔することもしばしば。撮り損ねた名場面や逸品は数知れず。滞在日数が長くなると、慌てなくてもいつでも撮れるという慢心から、お気に入りの名所ほど抜け落ちたりする。今回ざっと写真を見ていて、歴史地区の光景が偏っているのに気づいた。これまでも何度か紹介したドゥオーモとジョットの鐘楼はいろんなアングルで撮り収めているのに、サンタ・クローチェ地区やメディチ家ゆかりのサン・ロレンツォ地区の写真はきわめて少ない。サンタ・マリア・ノヴェッラ地区などは、前回滞在時にさんざんシャッターを押したので、今回はほとんど被写体になっていない。

さて、アパートでの3泊を終えて、対岸にある街の中心へ「お引越し」。荷物を引っ張ってぶらぶら歩いて15分のところにホテルがある。そこは、観光客が必ず立ち寄るシニョリーア広場に面した一等地だ。この広場は、かつて自治都市だったフィレンツェの政治の象徴空間であり、1314世紀の面影をほぼそのまま残している。ネプチューンの噴水、ミケランジェロ作ダヴィデ像のレプリカ(本物はアカデミア美術館に所蔵)、そして今もなお市庁舎として使われているヴェッキオ宮。隣接してウッフィツィ美術館。ちなみに“uffizi”はオフィスという意味。当時は行政の合同庁舎だった。

広場を囲むルネサンス時代の建物にはホテル、銀行、事務所が入っている。一階部分にはバールやリストランテ。フィレンツェの広場はここだけではない。サン・ジョヴァンニ広場、レプブリカ広場、サンタ・クローチェ広場、サンタ・マリア・ノヴェッラ広場など、名立たる教会の前方や近くには大小様々な特徴ある空間がある。

荷物を持ってシニョリーア広場に着き、カフェで一休みしてホテルの住所を確認。ホテルはそのカフェの近くに違いないのだが、見つけるのは容易ではない。ホテルの入口が広場側にあるとはかぎらないし、広場から細い通路に入るとさらに狭い道に小分かれしていく。実際、このホテルの入口を見つけるには住所表示を確かめながらも数分かかった。

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シニョリーア広場に面するカフェ。イタリアではバールで立ち飲みすればエスプレッソ一杯が120円。店内のテーブル席や外のテラス席で飲むと倍額になる。
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隠れ家的ホテルの3階ラウンジから眺める広場の一角。右の建物がヴェッキオ宮。
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ズームインすれば窓枠が額縁と化して絶妙の構図になる。
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シニョリーア広場に浮かび上がるヴェッキオ宮。
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ジョットの鐘楼とドゥオーモ。
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鐘楼の先端近くから見下ろすドゥオーモ広場。
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フィレンツェ市街地を一望。煉瓦色一色の街並みには歴史という名の秩序がある。イタリアの都市は例外なく、景観を曇らせる一点の邪魔物をも許容しない。
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ドゥオーモ側からもこちらのジョットの鐘楼を眺めている。金網と手すりだけで、人がこぼれ落ちそう。鐘楼もドゥオーモも数百段の階段だ。上りの辛さに、遠足で来ているイタリア人小学生には泣き出す子もいる。

少々の不便との共生

数日前に発明発見の話を書いた。人類の飽くなき便利への歴史。便利の恩恵で自分の生活が成り立っているとつくづく思う。他方、どこまで行けば気がすむのだろうと危惧もする。

ぼくは同年代あるいは次世代の人々の中にあって、間違いなく一つ珍しい不便を受容してきた。自家用車を所有したことがないのである。と言うか、運転免許すら取得していない。これまでの人生のほとんどを公共交通機関の充実した都心部に暮らしてきたことも大きな要因ではある。だが、実は、二十歳になる前から車を必要としない生き方をしようと決意していた。人的な他力依存はともかく、物的な他力依存は極力避けよう、なるべく負荷を背負い込むのはやめようと考えてきた。

どこへ行くにも徒歩か自転車か地下鉄か電車である。こんなとき車があればなあという場面にしょっちゅう出くわした。二十代後半から三十代前半にかけて、遅まきながら免許を取ってみるかと思ったこともある。しかし、耐えた。不便を受け入れた。そして、今に至っている。

その時々に不便を感じてはきたが、今から振り返ってみれば、まったく後悔などしていない。車を持つことによる諸々の気がかり、たとえば駐車場の確保、ガソリン代の高騰、交通渋滞のイライラ、税金・ローン返済などとはまったく無縁でいられたのだ。車にまつわる手かせ足かせがまったくなかった分、ぼくはいろんな趣味に手を染めることができたし、電車の中で本をよく読むことができた。気づきにくいものを徒歩目線で観察することもできた。ライフスタイル的には収支は大幅プラスだと思っている。


身の回りを文明の利器で固めれば固めるほど、身動きが取れなくなる。便利は人間を快適にするかもしれないが、甘えかしもする。甘えれば知恵を使わなくなる。便利が度を越すと、手先も不器用になり、アタマを働かせる出番も少なくなる。

人の暮らしを便利にするために生まれたコンビニエンスストア。その便利なお店は便利な街には存在するが、不便な土地では激減する。便利な自動販売機のおかげで商売人は客とのコミュニケーション機会を放棄した。便利と引き換えに失うものは決して少なくない。

こんなことを思い巡らせていたところ、新商品「手の汚れない納豆」を見つけた。発泡スチロールに収まった納豆と上蓋の間のシートがない。醤油出汁の袋の代わりににこごり状のタレが容器の角のくぼみに入っている。容器を開けて、お箸でタレをつまみ、納豆のほうに移してかき混ぜればよい。手はまったくネバネバにならず納豆を食すことができる。

納豆は食べたい、でも手が汚れるのが嫌な人が多いのだろう。しかし、もはやこれは便利の度を越している。慣れれば、あのシートは中央部分をつまんでくるめれば手を汚さずにすむ。タレも切り口のところに溜まっているのを少し押し下げておいたら、切ってもこぼれない。「いや、そんなにうまくはいかんだろう」と言われるかもしれないが、仮に汚れたからといって何が問題であり不便なのか。濡れフキンでひょいひょいと手を拭けばすむことではないか。

納豆があまり好きでない人にはいいかもしれない(そんな人が、こんなに便利になったからといって突然好きになるとも思えないが……)。さて、ここまで便利に生きてきたわれわれだ。いきなりの大いなる不便はつらいだろう。だが、納豆を食べる際の少々の不便くらいには目をつむるべきだ。手が汚れる不便くらい納豆といっしょに飲み込んでしまえばいい。

パラレル読書術

テープレコーダーの話を持ち出すと、「古い!」と片付けられそう。ぼくが二年半前に買ったミニコンポはCD/DVDMD、カセットテープ対応。別にDVD専用機があるので、このミニコンポの主な用途はCDである。MDもカセットテープもめったに使わない。

 つい15年くらい前まではカセットテープで何でも収録していた記憶がある。それ以前に主宰していた勉強会の講座はほとんど録音してあるが、すべてカセットテープ。保存はしているが再生したことがないので劣化しているかどうかもわからない。

カセットテープのように、時系列で記録するのを「シーケンシャル」という。片面30分のテープで話を収録した直後に巻き戻して、たとえば最初の5分間を再生してから10分間をとばして次の5分間を聞こうと思ったら、早戻しや早送りを何度か繰り返さなければならない。CDDVDにすっかり慣れてしまった今ではかなり面倒な作業だ。

脳はCDDVDと同じくランダムアクセスな機能をもつ。それをカセットテープのように順序制御中心の使い方をしていては損である。情報を取り込むにしても活用するにしても、あちらこちらへとジャンプして記録・再生するのが望ましい。このことは読書にも当てはまる。


一冊の本、たとえばAを完読する。次いでBという本を読了する。さらにCへと移る。この読書行為はカセットテープの機能によく似ている。三冊の本、ABCはテープに読んだ順序で記録される。Aの情報のみ残像となってBCの読書に何らかの影響を及ぼすが、Aの本を読んでいる時は、Bの内容もCの内容もAに影響することはない。Aを記録している時は、BについてもCについても読者にとってはまったく未知の状態だ。

ぼくはこの読書の方法が機会損失だと考える。仮に一週間か10日間で三冊の本を読むのなら、ABCA……というような相互に関わる読み方をしたほうがいい。つまり、三冊並行して読むのだ。そうすれば、ABCの三冊の内容が互いに影響を及ぼし合って、情報の相乗効果が生まれる。まさに脳の並行処理機能に自然な知識の形成や融合、編集が可能になるのだ。こういう読み方を〈パラレル読書術〉と名付ける。

読みたい本を選んだまではいいが、一冊最後まで読むだけのテンションを保てない内容のものだってある。そんなとき、飽きれば別の本を読めばいい。ABCをしっかり読むよりも、行ったり来たり拾い読みするほうが定着も活用もうまくいく。ぜひ試していただきたい。但し、小説などの読み物やストーリー性の高い書物はこのかぎりではない。 

イタリア紀行9 「南岸と橋と料理」

フィレンツェⅢ

ミケランジェロ広場から街の景観を楽しみ、直線なら250メートルほどの川岸までジグザグ状に下っていく。振り向けば要塞へと続く城壁跡や門が見える。アルノ川沿いの通りを西へ歩くと、グラツィエ橋。ここからさらに400メートルのところにヴェッキオ橋が架かっている。フィレンツェを訪れるすべての観光客は必ずこの橋を渡る。日が暮れたあと、西200メートルのところに架かるサンタ・トリニタ橋を眺める。ライトが川面に溶け込んでほどよく滲む夜景にしばし立ち止まる。

「食とワインはトスカーナにあり」という表現には逆らえない。トスカーナの州都フィレンツェは旨いものへの期待を決して裏切らない。逆に言えば、食、とりわけ肉料理に好き嫌いの多い旅人にとってはフィレンツェの値打ちは半減する。牛、豚、鶏は当然として、サラミと生ハムのアンティパスト(前菜)はほとんどすべての店で定番。羊、ハト、ウサギ、ヤギもある。

街中に屋台がある。そこでの名物は「トリッパ(trippa」(牛の胃袋ハチノス)の煮込み。これをパニーニにはさんで頬張る。トマトソースとバジルソースの二種類の味付けがあり、いずれもニンニクがたっぷりきいている。このような屋台出身のオーナーが始めた「トスカーナ風ホルモン料理店」をランチタイムに訪ねた。「トリッペリーア(tripperia」と呼ばれ、文字通り「牛の胃袋料理専門店」という意味である。乳房のグリル盛り合わせやホルモンの熱々コロッケなどの店自慢の料理が数種類。臓物は好物なので、クセがあっても平気だが、この店の料理はとても洗練された味に仕上がっていた。

しかし、何と言ってもフィレンツェ随一の名物は「Tボーンステーキ(bistecca alla fiorentina」だ。重さ700グラムなど当たり前で、店によっては1キロという大迫力もある。二人や三人で頼むと、これ一品でおしまい。他の料理には手を出せなくなってしまう。というわけで、肩ロースを焼いて少量をあらかじめスライスしてある「タリアータ(tagliata」をレアで頼む。ちなみに、レアは“al sangue”。これは「血のしたたる」という意味だ。

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ミケランジェロ広場から川岸へ下る途中、丘陵地帯を振り返ると、かつての要塞へと続く城壁跡が見渡せる。
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地元の人がよく通うトリッペリーア。ずばり「店」という名前の店。
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北岸から眺めるヴェッキオ橋。たしかに橋なのだが、店舗が入った建物の構造になっている。
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川岸の飾り柱に旅行者が記念に錠をかけていく。
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ヴェッキオ橋から西へ二つ目のカッライア橋。滞在中はこの橋を使って歴史地区へ足を運んだ。
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ヴェッキオ橋から眺める黄昏時のサンタ・トリニタ橋。

もし~がなくなったら……

いま手元にエドワード・デ・ボノ編『発明発見小事典』という、初版が昭和54年の古い本がある。本棚の整理をしていたら見つかった。愛読書というわけではないが、マーケティングの講義で製品事例を取り上げるときに時々参照していた。巻頭で監訳者が、この本の原題にもなっている「ユリーカー!」について書いている。一部だが、そのまま引用してみよう。

「この王冠は純金なのかそれともにせ物なのか」という王の質問にたいし、アルキメデスは、湯ぶねにつかったときからだが浮き上がった瞬間に正解を得たのであった。そのとき彼の叫んだ言葉が「ユリーカー!」である。「わかった」とか「できた」とかいう意味で、アルキメデスは、はだかのまま「ユリーカー! ユリーカー!」と叫びながら王宮にむかって駆け出したという。

水中の物体はその物体が押しのける水の重量だけ軽くなる」という、よくご存知の〈アルキメデスの原理〉の誕生秘話である。これは発明ではなく発見ということになるのだろうか。なお、この「ユリーカー」ということばは、正確に言うと「私はそれを見つけた」という意味で“eureka”と綴られる。発音は諸説あって、「ユリイカ」「ユーリカ」「ユーレカ」をはじめ、そのままローマ字読みする「エウレカ」というのを目にしたこともある。

人類史上最初の発見ではないが、ユニークな発見として語り継がれてきた。その後の発明発見の歴史の華々しさと加速ぶりには目を見張る。ことごとく紹介すればキリがないが、同書のア行の「あ」で始まるものだけで、アイスクリーム、アーチ、圧力釜、編み機、アラビア数字、アルミニウム、安全カミソリ、安全ピンが揃い踏みする。


発明されてから今日に至るまで現存し進化してきたものは何らかの必要性に裏打ちされている。おそらくその他の無数の発明品は需要されなくなり、見向きもされなくなり、やがて消えてしまったのだ。昔はあったけれど今では一般家庭とは無縁になった品々を博物館や古物展などで目にすると、ちょっとしたノスタルジーに浸ってしまう。

ぼくが小学生のとき、祖父は煙管きせるに煙草を詰め、一服しては火鉢の枠をカンカンと叩いて灰を落としていた。その煙管、今では時代劇にのみ小道具として登場し、鉄道の切符の料金をごまかす「キセル」ということばとして残るのみ。切符や定期の電子化にともないキセルという概念も消える運命にあるのだろう。実際、このことばを使って、「それ、何ですか?」と聞かれたことがある。

さて、煙管がまだ日常的であった時代に遡って、うちの祖父らに「もし煙管がなくなったら、どうでしょう?」と尋ねたら、「そりゃ困るよ」と答えたに違いない。徐々に使用頻度が低くなりやがてなくなってしまうのなら困らない。しかし、必要性の絶頂期に毎日使っているモノが忽然と消えてしまっては不便この上ないだろう。

「もし~がなくなったら」と、「~」の部分に愛用品を入れてどうなるかを推測してみる。今この部屋にある携帯電話、PCUSBメモリ、メガネ、壁時計、カレンダー、居酒屋のポイントカード、広辞苑、ペーパーウェイト、のど飴……。すぐ目の前の窓の外には、自動車、コンビニ、ラーメン店、自動販売機、交番、信号、いちじくの木……。なくなったら困るものもあるが、当面少しの不便さえ我慢すれば消失に慣れてしまえそうなものもある。「もし~がなくなったら」と問いかけて、「少し不便だが別に困らないかも」と思えるものを近いうちに身辺から一掃してみようと考えている。

「もし~があったら」という願望を叶えるために発明されてきた文明の利器に感謝を示しつつも、「ユリーカー!」と叫ぶことばかりに躍起になってきた生活スタイルも見直すべき時が来た。なくても困らないものを見直し、少々の不便に寛容になる生き方を学習してみたい。

マンネリズムとの付き合い方

いつの頃からか「継続は力なり」が金言のようにもてはやされるようになった。

何の工夫もなく新鮮味もなく一つのことをずっと続けたって力になんかならない、という皮肉った見方もできる。いやいや、それとは逆に、何の工夫もなく新鮮味もなくひたすら一日のうち小一時間ほど会社と自宅を徒歩で往復すれば、車で通勤する人よりも足腰に力がつくだろうし、ガソリン代を浮かせて年末には手元に小銭を残せるかもしれない。

「継続は力なり」。言い換えれば、「マンネリズムとの共生」である。マンネリズムとは「ある一定のやり方をいつも繰り返すだけで、新鮮味がまったくないこと」。こんな辛いことに専念できること自体、すでに強靭な神経の持ち主であることの証明だ。ある意味で、マンネリズムと仲良しになれる人は「力のある人」かもしれない。

ところが、「石の上にも三年」の辛抱が実ることもあれば、三年も同じところに留まっていては昨今の急速な時代変化に取り残されることもある。「転がる石には苔がつかない」という意味のイギリスの諺 “A rolling stone gathers no moss.” は、古来、日本人の価値観に近い。職業を頻繁に変えたり次から次へと新しい場に活動を求めていたりすると、蓄財はもちろん功績も残せない、という意味だ。

しかし、この諺にはまったく別の解釈もある。「転がっている石ほど苔みたいな変なものはつかない」、つまり「どんどん新しい方面に活動していれば、地に墜ちることはない」というとらえ方だ。


気になることや思いついたことを日々ノートにしてきた。もうかれこれ30年になる。『発想ノート』と題して続けてきた。今の仕事に、日々の着眼に、人との対話に有形無形のプラスになっていると自覚している。まさに「継続は力なり」を思い知る。

しかし、同時に「日々新た」でなければ、ノートをとるという同じ行動を続けることなどできない。執拗なまでにあることを継続するためには、目先を変え新しい情報を取り込み、昨日と違う今日を追い求めていかねばならないのだ。まさにマンネリズムとの格闘でありマンネリズムの打破である。逆説的だが、飽きることを容認しないかぎり、人はひたすら継続することなどできない。そう、飽き性は物事を成し遂げる上で欠かすことのできない「空気穴」なのである。

「継続は力なり」を検証もせずに座右の銘にするのは考えものである。最大級の賛辞で飾ったり金科玉条として崇めたりするのは危険なのだ。継続が惰性になっていては力になるどころか、単なる脱力状態だ。マンネリズムに飽きる――これが継続へのエネルギーであることを忘れてはならない。

幸せな気分になる話

微細なところまで正確には覚えていないが、ユダヤにこんな笑話があった。

その昔、貧しい家族があった。狭い家屋に大所帯。我慢が限界に達して主がラビ(ユダヤ教の聖職者)のところに相談に行く。ラビは言う、「明日から家の中に騾馬を入れなさい」。どう考えても解せない助言だったが、主はこれに従い、一週間ばかり騾馬との生活に耐えた。
案の定、耐えきれない。再びラビのところに赴き、「家族だけでも大変なのに、騾馬との生活なんて無理です」と吐露した。「では、騾馬を家の外に出しなさい」とラビは助言した。言われた通りの生活を送り、しばらくして主はラビを訪ねた。「ラビさま、ありがとうございます! 家族だけの幸せな生活が取り戻せました。」

うまくいって当たり前なはずなのに、ひょんな悪運や失敗が邪魔してうまくいかない。うまくいかないから落ち込んでいると、何かの拍子にうまくいき始める。感激して喜ぶ。ユダヤの別の笑話に、「貧乏人は、落としたお金を見つけて、それを拾ったときに大喜びする」というのもある。貧乏人でなくても喜びはひとしおだろう。

「一万円札を落とす(マイナス)、それを見つける(プラス)」で実はプラス・マイナス・ゼロなのに、「一万円札を落とさずに財布に入っている状態」よりも喜ぶ。正しく言えば、喜びではなく安堵なのだが、ショックと安堵との大きな落差が幸福感を増幅させる。

ノーアウトでランナー一塁。次打者がバントをするも投手がすばやくさばいてランナーが二塁でホースアウト。その一瞬、観客は「あ~あ」とため息混じりに落胆。しかし、ダブルプレーを狙って二塁手が一塁へ悪送球。ボールが転々とする間にバントをミスったバッターが二塁へ。この瞬間、観客は一転して歓喜する。その歓喜ぶりは、バントを成功させてランナーを二塁へ送るときの声援どころではない。


快適性や幸福感にどっぷり浸かる日々。日常の当たり前がいかに感受性を鈍らせているかという証である。もう一つは「地獄で仏」や「ピンチはチャンス」や「結果オーライ」という自浄作用だ。「不運の後の幸運」を収支トントンではなく、「幸福の黒字」と錯覚できるように人間のメカニズムは働くのだろう。その代わり、「幸運の後の不運」も収支トントンや赤字どころか、「幸福の倒産」にまで落ち込んでしまう。

柔道やレスリングでは、敗者復活戦を勝ち抜き三位決定戦に勝利する者は「銅メダル」を手にする。早々に負けて泣き、やがて「勝利して銅メダル」。ところが、ずっと勝ち続けて決勝戦まで進んで惜敗する者は「負けて銀メダル」。銅メダリストより上位の銀メダリストに笑顔はない。幸福な人生はバランスシートで説明できないのだろう。連敗の後の一勝をありがたいと感じ、「終わりよければすべてよし」と思いなすのだ。

ちなみに、最近のぼくは、小さなメモを見つけたときに幸せな気分になる。それは自分自身のメモでありながら、そこにはまったく記憶から抜け落ちている内容が記されているからだ。「ふむふむ、なかなかいいことを書いているもんだ」と十数年前の自分を賞賛するとき、気分は最高潮に達する。「それって、ただの自己陶酔ではないか!?」と言うなかれ。幸福には錯覚と陶酔が不可欠なのである。

イタリア紀行8 「アルノ川対岸散策」

フィレンツェⅡ

ミラノやローマからフィレンツェに入るには鉄道がいい。列車はサンタ・マリア・ノヴェッラ駅に着く。この中央駅からチェントロと呼ばれる歴史地区内のホテルへは、たとえ大きな荷物を持っていても歩くのがベスト。ミラノやローマと違ってフィレンツェは治安がいいので、見た目に明らかに観光客であっても心配はない。もちろん路線が充実している市内バスなら、たいていの場所に10分以内で行けてしまう。

空路フランクフルトからフィレンツェ空港に降り立ち、アルノ川対岸のサン・フレディアーノのアパートにタクシーで向かった。所要約30分。アパートで受け取った鍵は4種類あり、玄関の門、中門、3階通路の門、部屋の扉の鍵が束になっている。その束の重いことといったら、腕時計5個分と同じくらいだ。宿泊期間中は自己責任で管理する。したがって、外出時は半コートの内ポケットにずっしり忍ばせて歩かねばならない。

午後7時の到着。ちょうどいい時間である。食事処の夕刻の開店はおおむね午後7時から7時半。一番賑わう時間帯は9時から10時だ。アルノ川沿いの通りから一本内側へ入ったサント・スピリト通りへ出て、いかにも老舗っぽいリストランテに入る。サラミと生ハムの盛り合わせにハウスワインの赤を合わせ、パスタでしめた。この一帯は歴史地区ほどの賑わいはなく、ツアー客もほとんどやって来ない。しかし、地元の常連が通うトラットリアやリストランテが点在している。

翌朝。アパートなので朝食がついていない。近くのバールでカプチーノを注文し小さなパンで腹を満たす。さて、散策スタート。アパートから約600メートルの位置にあるポンテ・ヴェッキオの橋から南の丘陵へ。なだらかなサン・ジョルジョの坂を進むと、道すがら丘陵地帯独特の空気が漂ってくる。

かつての要塞跡そばのサン・ジョルジョの門からさらにサン・レオナルド通りへ入り、そこを左折していくと高台にサン・ミニアート・アル・モンテ教会が佇む。アルノ川を挟んで市街地が一望できる絶好の場所である。この教会の下に別のサン・サルヴァトーレ・アル・モンテ教会があり、すぐ眼下にミケランジェロ広場がある。広場まで下れば観光客がたむろしているが、そこからわずか300メートル上の高台は閑散としている。

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ポンテ・ヴェッキオ。向う岸右側の建物が有名なウフィッツィ美術館の一部。
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丘陵へ抜ける小径。瀟洒な住宅が続く。
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中心街のランドマーク「サンタ・マリア・デル・フィオーレ」のクーポラが見える。春間近な緑の濃淡の綾が目にやさしい。
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さらに進むと、左右の大きな木に挟まれて、凝縮された借景のように街が浮かぶ。
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サン・サルヴァトーレ・アル・モンテ教会前に出た。質素な教会という印象のまま通り過ぎた。後日旅行ガイドを見たら、ミケランジェロが「美しい田舎娘」と比喩したというエピソードを見つけた。ミケランジェロ大先生、絵筆やノミさばきだけでなく、ことばのさばき方も超一級である。
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サン・ミニアート・アル・モンテ教会のファサードは雅なロマネスク様式。