回想は合間を縫って

仕事中に連続する時間が途切れて「合間」ができる。待ち時間の途中にも何度も合間が生まれる。合間を縫って仕事や用事と無関係な回想をすることがある。回想と仕事や用事とのあいだに脈絡があるとは思えないが、不思議なことに合間を縫って回想したことほどよく記憶に残っている。


⏱ 樹木じゅもくについて調べたことがある。体系的に植物図鑑を読むような調べ方ではなく、断片的なエピソードを拾いたいと思った。たいてい本を読むことにしているが、この時に限ってインターネットから入ることにした。オーソドックスに「樹木」というキーワードで検索したら「樹木希林きききりん」ばかり出て来た。

⏱ 今から1年半~2年前、「大規模・・・接種会場」と書かれた立て看板が都心でよく目についた。あれが「大相撲・・・接種会場」に見えてしかたがなかったのである。大相撲は国技、そしてワクチン接種も「国のわざ」だから、雰囲気も似ている。

⏱ ことばで説明されてもわからないと不満の声。やむなくアイコンやその他のビジュアルで伝え直そうとする。しかし、そういう工夫をしても最初にことばで意図したことが伝わる保証はない。どんなにわかりやすくイメージに置き換えても、いずれはそのイメージをことばに還元しないといけないのだから。ビジュアルを工夫したパワーポイントで講演をしている時、フリップ芸人になったような気がする。

⏱ ある時、応仁の乱が「押印おういんの欄」に聞こえてしまって、それ以降はワンセットになってしまった。そして、以前読んだダジャレの本で紹介されていた「信長とゴム長」や「メルセデスと寝ぐせです」などを次から次へと回想することとなった。耳につく歌と同じで、耳につくダジャレもかなり鬱陶しい。

⏱ 鯨の五種盛りをおいしくいただいたことがある。赤身とさえずり、それに畝須うねす(ベーコン)と百尋ひゃくひろ(小腸)という難しい部位も覚えていたのに、あと一つがなかなか思い出せない。さらし鯨と尾の身と鹿の子は、実食したことがあるので、残りの一つでないことは確か。今も思い出せない。回想には思い出せることと思い出せないことが入り混じる。

⏱ コーヒーが出来上がって運ばれてくるまでの、間延びした、手持ちぶさたの時間。あの時間は「合間」そのものだった。あの時のコーヒーカップのイメージがはっきり浮かんだのでフォトライブラリーで探した。20181127日、出張先のかなり古風な喫茶店のカップと一致した。夢は寝床で、回想は喫茶店で。コーヒーの時間は回想に適している。

「ちゃんと」の作法

「ちゃんと」が口癖の、人のいい社長がいた。

社長「ちゃんと・・・・掃除したかな?」
社員「はい」
社長「トイレも?」
社員「はい」
社長「じゃあオーケー」

社長と社員の間で「ちゃんと」という基準の取り決め――たとえばチェックシート――があり、互いに了解しているなら、上記のやりとりを可としよう。ところが、「ちゃんと」という副詞は厄介な曖昧語なのだ。ちゃんとした商売とか、ちゃんとルールを守るとか、わかったようでわからないし、「ちゃんととは何だ?」と突っ込まれたら困る。

「ちゃんと」とは期待される基準から外れていないことであり、すべきことをぬかりなくおこなう様子である。仕事をちゃんとこなしているとは、その仕事で期待される基準を満たしていること。ちょうどジグゾーパズルをちゃんと合わせるように。

小難しい言い方をすれば、「ちゃんとする」は最低限の賢慮と良識を以て任に当たることである。行き当たりばったりではなく、運に任せるのではなく、自分なりの勝手な解釈をするのでもない。期待される基準とは約束事であり、それを当然のこととして遂行するのが「ちゃんと」である。

マネジメントを「管理」や「経営」と訳したために、元の「工夫してどうにかこうにかやり遂げる」という意味が薄れてしまったが、「ちゃんとする」はれっきとしたマネジメント能力である。明確な目的のない、習慣的な善行とは違って、マネジメントには任務がついてまわる。任務は上司や組織や顧客の期待に沿うようにちゃんとおこなうことが必要。

「食事はちゃんとしてる?」に対する「うん」。「明日の準備はちゃんとできてるか?」に対する「はい」。「ちゃんと」を含む問いに対してイエスと応答されると、チェックもせずに、つい信じて甘いオーケーを出してしまう。問う側は安易に使わないように気をつけないといけない。

語句の断章(45)「移民」

「他郷に移り住むこと。特に労働に従事する目的で海外に移住すること」(広辞苑)
「新しい生活や仕事の場を求めて故郷(故国)を離れて移住する人(こと)。移住者」(新明解国語辞典)

上記は辞典による「移民」の語義である。移民の目的は主として生活や仕事だが、移民それぞれには固有の事情があるはず。移民とは外国へ移住する人たち。異なった国の民がよその国に移る民となって、新たな国で再出発する民になるのである。移民の「民」の色は薄くなるが、それでいい。「移」にこそ本来の意味があるのだから。

移民と住民は同じではないし、いきなり同等にはならない。民族が違うゆえの差別もあるが、何よりもまずその国の「市民」としてのキャリアがないから、扱いや立場が異なるのである。職業のキャリアではない。先祖からその国に住み続けて貢献してきた諸々の実績などの経歴である。定住生活者と同じ待遇と権利を今日入国してきた移民が持てば、既得権者側に不公平感が生まれる。


「当局」からすれば、放浪する人間よりも一カ所に留まる人間のほうが安心できるし、住所不定よりも戸籍があるほうが信頼できる。移民や放浪の民に対する偏見は拭い難い。しかし、物理的な移り変わり以上に、人は精神的に価値観的に移ろいながら生きて行く。一つ所にいるにせよ、すべての人は昨日から今日への、今日から明日への移民なのだ。

同じ場所で遊んでいる子を見守るほうが親は楽だ。あちこちで動き回られるとコントロールしづらい。住民に対する当局の心理もこれに似ている。定住は統治する当局にとって都合がいい。身元もはっきりするし、安定した税収が期待できる。当局は、そこに生まれて育った人に生活者として居住し続けて欲しいのだ。

先住者が移住者に偏見の目を向けるのはやむをえない。流浪の民はどこに行っても定住できず、迫害を受けてきた。しかし、他方、移住者が先住者の土地を植民地化して、支配下に置いて属領とした時代も歴史の大半を占める。事例としてはそのほうが圧倒的に多い。移民問題はいつの時代も力関係に操られる。

抜き書き録〈2023年10月〉

読書の秋だが、仕事の秋でもあるので、悠長に本を読む時間があまりない。だいぶ以前に読んでノートに抜き書きしていた箇所を、原典に還って再読した。楽だと思ったが、初めて読むのと違いはない。と言うわけで、取り上げるのはわずかに2冊だけ。


📖 『論語』

子貢問曰、「有一言而可以終身行之者乎」。
子曰、「其恕乎。己所不欲、勿施於人」。

子貢しこう問ひて曰く、一言いちげんにして以て終身これおこなき者有りや。のたまはく、じょか。己の欲せざる所、人に施すことなかれ。)

孔子の弟子の子貢が「生涯おこない続けるに値する一言のことばがあるでしょうか?」と尋ねた。世にある万言の中からたった一つというのはちょっと無理がありそうだが、孔子は「それは恕だろうな」と即答した。そして、「自分がされたら嫌だと思うことは、他人にしてはいけないのだよ」と言った。

「恕」という漢字を知ったのはこの時が初めて。恕は見るからに「いか(り)」や「うら(み)」に似ているから、よからぬ意味だろうと直感した。実は、「他人の心情に対する思いやり」の意だった。直感はまったくハズレていた。

「あなたがパワハラされるのが嫌なら他人にパワハラをするな」と教えるのは、「己の欲せざるところを他人に施すなかれ」に即している。対照的なのは『新約聖書』の「己の欲するところを他人に施せ」だ。「パンを分け与えて欲しいなら他人にもパンを分け与えよう」が一例。この例なら思いやりがあるから恕の精神と同である。しかし、自虐的な人の場合だと「あなたがイジメられたいのなら他人もイジメてあげよう」になってしまう。マゾヒストのあなたがサディストに変身しなければならなくなる。

📖 『知的複眼思考法』(苅谷剛彦著)

書名からハウツー本と勘違いされそうだが、いろいろと考えさせられる、中身の濃いテーマを扱っている。

• ほかの人の意見に対し、「そんなものかなあ」と思って、自分で十分に納得しているわけではないけれど、「まあいいか」とやり過ごしてしまった。
• 本当は、ちょっと引っかかるところもあるのだけれど、「そういわれれば、そうかなあ」と、人の意見を消極的に受け入れた。
• 「あなたの意見はどうですか」と聞かれた時、少しはいいたいことがあるのに、はっきりと自分の考えがまとめられずに、結局は「とくにありません」と答えてしまった。

著者は、上記の反応をする人たちを発想に乏しい人の典型と見なす。この種の人たちがこのような振る舞いを延々と続けることは想像に難くない。「自分で十分に納得しているわけではない」「ちょっと引っかかるところもある」「少しはいいたいことがある」というホンネは心にずっと居座り続けるが、斟酌してもらえることはない。

「言いたいことが言えない」という日々を送っているうちに、人前では話さないぞ、なぜなら話したってわかりっこないからだと自己説得してダンマリを決め込んでしまう。やがて言えない能力は言わない能力のことであって、言える能力よりもすぐれていると考え始める。こうして問題はすり替えられて、言える人はただの口達者な技術屋にされてしまうのだ。

新種が新種だとわかるには……

新型コロナウィルスが注目される直前の20191月、高知県に数日出張していた。当初から1日余裕ができるスケジュールだったので、度々出張で来ていたのに一度も機会がなかった牧野植物園を訪れることにした。周遊バスは市街を後にして、港を展望できる五代山を上がっていく。

美術館や博物館巡りは好きだが、辛抱が足りないほうなので、展覧会の大小にかかわらずだいたい1時間ちょっとの鑑賞が限界である。それなのに、あの広大な植物園の館内や屋外をくまなくじっくり歩き、3時間近く費やした。これはあのルーブル博物館の滞在時間に匹敵する。

牧野富太郎の生涯を描いた朝ドラ『らんまん』が先週で終わった。方々の野山を歩いて植物を採集し、自ら発見した新種は約600種と言われる。発見というのは不思議な概念だ。誰かがそれまでに見つけていても、一般的に知られていなければ未知として扱われる。しかし、日本で発見して喜んでも、世界を視野に入れるとすでに発見されているかもしれない。


これまで商品のネーミングをいろいろ依頼されてきたが、そのうち商標登録を2件手掛けた。担当してくれた国際特許の専門家はコンピュータを使ってあっと言う間に「新案」として申請した。こんなふうに今ならすぐに「新」がわかる。しかし、牧野の時代、コンピュータはおろか、植物図鑑や標本も充実しておらず、世界初だと認定してもらうのは一筋縄ではいかなかった。

新種Aを発見したと言えるためには、「それ」が正真正銘の新しい種であり、かつて誰も「それ」を見つけておらず、自分が最初だということを証明しなければならない。そのためには、類似の様々なの標本と照合して、まったく同一ではなく、差異があることを明らかにする必要がある。

新しいかもしれないものを「既知」と照らし合わせて差異や類似を見い出す。既知は既知でも「自分の記憶や知識」との照合ではダメで、公認された既知でなくてはならない。何かと比較もせずに、一つのものをそれ単独で明らかにしても新種にも新案にもなりえないのだ。

新種の発見や新案の発明は大変なミッションである。今となってはチャレンジする能力も気力もない。それどころか、想像するだけで、「新しい」ということばすら安易に使えなくなる。

ことばについての雑考

雑念ではなく「雑考」のつもり。特に系統立ててはいないが、個々の考察をいい加減にしたわけではない。たまたま「ことば」をテーマにして話す機会があったので、経験したことや経験に基づいて考えたことを断片的に記述した次第。


 ことばが概念を生む。概念はことばをイメージ化したもの、またはイメージ的なことば。この過程を経て具体的な造形が生まれる。造形のみならず、創作と呼ばれるものは何もかもがことばと概念の賜物である。ことばと概念が未成熟のままでは「カタチ」として顕在化することはない。

 「言論の自由」について考えようとする時に、「自由とは何か」の解釈に力を入れて考え抜いても〈自由〉がわかりやすくなることはない。言論の自由で重要なのは〈言論〉のほうだと思う。「言論とは何か?」を棚上げしたままで、やれ自由だ、やれ不自由だなどと論じてもどうにもならないのである。

 「意見を言うのが苦手です」と言い訳する時間があったら、余計なことを考えずにさっさと喋るか何も言わずに黙っていればいい。ある場面で喋るか黙るかを見極めるのは難しい。黙るべき場面なのに一言余計なことを言いかねず、また、喋るべき場面でチャンスを見送って後日悔やむ。喋るべき時に喋り、黙るべき時に黙るという、この自然のおこないがなかなか上手にできないのである。

 「文章を見直して書き直してほしい」という依頼がある。英文から翻訳したけれど、あまりこなれていない、何とかならないか? という相談もある(この場合、英文も見せてもらう)。こういう仕事をいったい何と呼べばいいのか。代書屋ではない。文章を書き替えるが、文字づらだけの直しでは済まず、言わんとする意味を汲んで文案を練ることになる。本業とは別に〈文章工房すいこう〉という屋号を考えた。「推敲」とは苦心して文章表現を工夫すること。原文あっての推敲文だが、原文よりも苦労が多い。

 景色に前景と後景があるように、ことばの概念や配置にも前景と後景がある。「象は鼻が長い」は「は」と「が」の違いによって、大きな概念の象を後景として小さな概念の鼻をクローズアップして前景にしている。俳句にもある。五七五にこだわらない奔放な種田山頭火の句、「藪から鍋へたけのこいっぽん」は藪を後景として、鍋と筍に焦点を当てる。「秋の空をいただいて柿が実る」と「柿が実る、秋の空をいただいて」は同じことを言っているようでも、前景と後景の扱いが違う。文章にも構図がある。

クローズドな街歩き

午前11:30~午後2:30Open、午後2:30~午後5:30Closed、午後5:30~午後10:00がOpen、そして午後10:00~翌朝午前11:30Closed。これを平均的な食事処は営業/非営業時間帯としている。

居酒屋や焼肉店のほとんどはだいたい午後5:30~深夜がOpen、深夜~午後5:30Closed。バーになるとおおむね午後8:00~深夜2:00Open、他の時間帯すべてがClosed。繁華街や商店街をそぞろ歩きすると、ドアに掛けられた〈Open/Closed〉のサインプレートと時間帯で「街の顔」がある程度わかることがある。

ところで、closedは動詞closeの過去分詞で、形容詞として単独で使われると「閉まっている」という意味になる。発音は[klóuzdクローズド]。なお、closeは動詞以外に「近い」や「似ている」という形容詞でもあり、その時は[klóusクロース]と発音する。

営業中や開店というopenの明快さに比べると、closedのサインは休み、閉店、休憩、営業時間外、準備中のどれを意味しているのかわかりづらい。多義なので一語で何とか伝えようとすることに無理がある。わざわざ行ってみたがclosedのサインが掛かっていたのであきらめて帰る客もいる。実は「只今準備中、まもなく営業開始」のつもりだったのに。


いつぞやの土曜日。早めのランチを終えてから、賑やかな商店街から枝分かれする飲食街に入り込み、どのくらい街が変わり店が変わったのかチェックしながら歩いてみた。。狭い商店街ではあるが、外部に「開かれているオープン」。ところが、開いている店と閉まっている店は半々だった。

土曜日だから終日休みの店が多いのだろうか。それとも、夕方から営業を始めるのだろうか。サインプレートの情報だけではわからない。大文字だけのCLOSEDには容赦のない「閉まっている感」が強い。同じ大文字だけのサインでも鉢植えのグリーンがあれば少しは救われる。救われてどうにかなるものでもないが……。ドアに斜めに掛けられたサインはメッセージ性があって謎っぽい。

営業中の店と閉まっている店。前者よりも無言の後者のほうに視線が向く。そうしてClosedづたいに商店街を通り抜けた時、このあたりは一見向きではなく、店の営業日や営業時間を知る常連が通う飲食街だと悟ったのである。

抜き書き録〈2023年9月〉

まだまだ残暑が厳しい。夏場の読書は苦行である。部屋を涼しくしても、この時期はすでに6月頃からの高温多湿の積算に心身が嫌気をさしている。仕事は他人様との約束なので何とかこなせるが、読書は自分ごとなので、夏場は読書量がかなり減る。中座したり未読したりしている本を本棚から引っ張り出しはするが、今月もあまり読んでいない。

📖 『人生の実りの言葉』(中野孝次)

題名よりも先に「美しい〈老い〉を生きるための珠玉の名句・名文40選」という帯文に釣られて、古本屋で手にした一冊。

閑吟集かんぎんしゅう』の「しゃっとした・・・・・・こそ人はよけけれ」という歌謡が新鮮に響く。関西でよく使われる、スマートさを意味する「しゅっとした」とは異なる。

この句は女の目から見て好ましい男の姿を言ったもので、いかにも頼もしげできりりとした態度ふるまいの中に、ねちっこくないさっぱりした愛情表現をする人のことを言ったもの。(……)中世の女の美意識を単純な言葉でみごとに表現してみせた。

どうやら能力があっても、さわやかさや粋に欠けていては日本男子の理想像にはなれないらしい。とは言え、男の理想像になろうとして生きるつもりがないのなら、好ましいと思われなくても別に困ることはない。

📖 『はずれ者が進化をつくる 生き物をめぐる個性の秘密(稲垣栄洋)

個性、ふつう、区別、多様性、らしさ、勝つ、強さ、大切なもの、生きる……などの生物界のキーワードを見直して新しく意味づけしているのが興味深い。「境界を引いて区別する」の項から引用。

皆さんはクジラを知っていますか?
イルカは知っていますか?
クジラとイルカは同じ海にすむ哺乳類の仲間です。
それでは、クジラとイルカはどこが違うのでしょうか。

「クジラは大きくて、イルカは小さい」
そんな単純なものではありません……と言いたいところですが、じつはそれが正解です。

専門的な分類学によると、3メートルより小さいのをイルカ、それよりも大きなのをクジラと呼んでいるらしい。とても単純なので驚く。この伝で言うと、3メートル1センチがクジラで、2メートル99センチがイルカということになる。その差はわずか2センチ。人間は「区別したいという、ただその理由で分類している」ようなのだ。

📖 『辞書から消えたことわざ』(時田昌瑞)

辞書からまだ消えていないことわざなら結構いろいろと知っているが、すでに消えて久しいものをよく知っているはずがない。本書で知っているのはわずか3つだけだった。消えたことわざの中にあって、記憶にかろうじて残り、ぎりぎり生き長らえている希少種である。

「松のことは松に習え、竹のことは竹に習え」

わからないことはその道のプロに聞いて教わるのがいいという意味。このことわざを知ったのは先輩が口癖だったからだ。何十回も聞いた。あの人、お前より頭のいいオレに聞け、オレに学べと言っていたような気がする。

「三つ叱って五つ褒め七つ教えて子は育つ」

文字通りのわかりやすいことわざだが、こういう道徳観のことわざは消える運命にある。これも文字で見たのではなく、耳から何度か入ってきたと思う。七五調なので覚えやすい。日本のことわざは抽象的な語句を避けて比喩や具体的な表現を使うので数詞の出番が多いと、著者は言う。

「雨の降る日は天気が悪い」

辞書からは消えたかもしれないが、おなじみのフレーズなので稀に今も使う人がいる。

「晴れの日は天気がいい」と言ったらどうなるだろう。たぶん、当たり前なことを言うな、とでも言われるのがせいぜいだろう。(……)類語は特に多くないが、比較的よく知られるのが「犬が西向きゃ尾は東」。その他、「鶏は裸足はだし」「北に近けりゃ南に遠い」「親父は俺より年が上」(……)

当たり前のこと言って、小馬鹿にされる時と、おもしろおかしく感心してもらえる時がある。ウケるためには、当たり前の中に新しい発見の仕掛けがいるのだろう。

食事の前、後、間のこと

いつ、どのタイミングで薬を飲むかに神経質な人たちがいる。ぼくはと言えば、あまり薬のご厄介にはならないが、予防的に処方してもらうことがある。処方されたのが漢方薬の場合、昼食前の服用をよく忘れる。食前に比べれば食後は飲み忘れはあまりしない。とにかく食べた後に飲めばいいのだから。食べ終えたが、その後にデザートのつもりなら、デザートの後に飲めばいい。

かかりつけ医に聞いたことがある。食後とは「食べてから230以内」のこと。「薬は正しく服用」などと言うが、「230分以内」という言い方がかなりアバウトではないか。20分と30分では10分の誤差がある。いちいち気にしたくなければ、食べ終えたらすぐに飲むのがいい。実際、食事処では薬オタクっぽい人ほど箸を置いて即服用しているようだ。

ほとんどの漢方薬は食前の服用が推奨されている。漢方薬をよく服用していた父は忘れずに飲み、几帳面に15分ほどしてから食事を始めたものだ。食後の目安を聞いたさっきの医師に食前のことも聞いたら、これまた食事の230分前という返事。食事の1時間前でもいいとのことだった。

要するに、食後とは食べてから(できれば)半時間以内、遅くとも1時間後までに服用すること、また食前とは(できれば)食べる半時間前、場合によっては1時間前までに服用することのようである(諸説あるかもしれないが、気にしていてはキリがない)。


ところで、食後とは何時間経っていても食後だから、飲み忘れたのに気づいたのが仮に2時間後でも食後には違いない。問題は、先に飲まねばならない食前服用を忘れて、食べた後に思い出した時である。これも医師に聞いたら、「1回パスするよりも、思い出した時点で飲めばいい」ということだった。思い出して1時間後に食前の薬を飲めば、食後の薬と同じことになるが、それも可なのである。

食間は「食事と食事の間」だが、朝食と昼食(または昼食と夕食)のど真ん中という意味ではない。もしど真ん中なら、午後7時の夕食と翌日午前7時の朝食のど真ん中は午前1時ということになる。目覚ましで夜中に起きて飲まねばならなくなる。正しくは、食後2時間以上経っていれば食間扱いである。

食間を「食事中」と勘違いする話はギャグだと思っていたが、実際にいるらしい。食前、食後、食間についてきちんと説明してもらっている患者がそれほどいないのかもしれない。知人は10数種類の薬を服用していたが、食前と食後と食間の薬が重なり、すでに飲んだかまだ飲んでないかわからなくなり、ついに毎日記録する破目に陥った。一日中薬を飲み続けて薬漬け状態になっていた。努力空しく、残念なことに数年前に亡くなった。

夏のレビュー

埼玉で結婚式があって招かれたのが10年前の7月中旬。記録的な暑さに頭が朦朧とし会話もままならないほど消耗した。披露宴が終わって式場から礼服のまま乗ったタクシーが駅に着く。ドアが開いて降り立った時のあの灼熱と呼吸困難の苦痛が今もよみがえる。

京都伏見の4年前の8月。研修先から駅まで徒歩での帰路。この日もスーツ姿での日帰り出張。上着を着ようが脱ごうがほとんど差がない。容赦のない陽射し、38℃前後の猛烈で残酷な10分間だった。「駅まで車で送りましょうか?」という申し出に甘えておけばよかったと後悔した。

2023912日の今日も32℃超えでまだ夏の真っ只中。ギラギラ太陽の炎天下が7月からずっと続いている。体感的には埼玉や京都のあの暑さには及んでいないかもしれないが、ぼくはあの頃よりも加齢しているのである。50日も真夏にさらされてくたばっているのである。ここ数年、6月~9月の4ヵ月が夏の季節となり、秋の担当は10月と11月だけになった。

 

ローマ字表記すれば“a-tsu”nを付ければ“na-tsu”になる。「なつ」と「あつ」は似ていて、同源説があることにも頷ける。天気や天候の話などは社交辞令の最たるものだと思っているが、こと今夏に限っては常套句の「暑いですね」以外の選択肢が思い浮かばない。

一雨が欲しいと思っていたら強いにわか雨があった。あっという間に止んだ。気象予報士は複雑な気分だろう。雨が欲しいけれど、おぞましいほど降る地域があるのだ。週に一、二度バランスよく降れば言うことないが、ぼくの生活域では雨は少な過ぎる。

「今日も青い空が広がりそうです」という天気予報は、暑さを棚上げして爽やかな天気を強調するかのような言い回し。違和感を覚える。晴天であっても、今夏の空模様の表現を喜ばしく「晴れ」と言ってはいけないのではないか。高温多湿の熱中症を心配しながら、同時に豪雨も恐れるという困った夏が、まだしばらく居座るらしい。