喫茶店とマッチ

昭和30年代前半(1955 – 1960)、まだ小学生になる前だったと思うが、たまに父が近所の喫茶店に連れて行ってくれた。当時おとなの男はほとんどタバコを喫っていた。よく目にした銘柄は「いこい」「新生」「ショートホープ」など。銘柄もデザインもよく覚えているのは、タバコを買いに行かされたからである。「ハイライト」が出たのはもう少し後だ。

父によると、昭和20年代のモーニングには「タバコ2本付き」というのがあったそうだ。30年代、高度成長に呼応するように喫煙者は増え続けた。喫茶店では皆が皆タバコを燻らし紫煙が充満していた。その匂いを嗅ぎながら――つまり、副流煙を吸いながら――ぼくにあてがわれたのは決まってホットケーキとミルクセーキだった。おとなの世界に少し浸る時間を愉快がっていた。

喫茶店と言えばコーヒー。珈琲という文字も覚えた。コーヒーと言えばタバコと煙、そしてタバコと煙と言えば、マッチ箱だった。その頃はどこの喫茶店でも自家製マッチを用意していたものである。


タバコを喫った時期も止めていた時期も、喫茶店のマッチは必ず一箱いただいて帰った。マッチのコレクションは自室の壁のさんの上に並べていた。なかには有料でもいいと思うくらい立派なデザインのものもあった。最近はマッチを置いていない店が増えた。「マッチをいただけますか?」と聞くと、ライターを持って来る。タバコを喫うんじゃないのに……。

マッチ箱の絵1

一時、マッチ箱の絵をよく描いた。立体的に描くのは当然だが、切り抜いてやると立体感がよりよく出る。描いた内箱の中に、本物のマッチの軸の先を折って貼り付ける。実際はこの部分が2、3ミリほど浮き出ているのだが、内箱に収まって見えるように工夫する。

誰かがタバコを取り出すタイミングを見計らって、この絵を差し出す。お茶目な悪戯だ。触られたらバレるのだが、タバコをくわえて手を伸ばして触るまでがぼくのほくそ笑み時間。そんな小道具などとうの昔に捨てていたつもりが、オフィスのあまり使わない引き出しの奥から出てきた。

コロッセオ

文豪ゲーテは『イタリア紀行』の中で次のように書いている。

この円形劇場を眺めると、他のものがすべて小さく見えてくる。その像を心の中に留めることができないほど、コロッセオは大きい。離れてみると、小さかったような記憶がよみがえるのに、またそこへ戻ってみると、今度はなおいっそう大きく見えてくる。

ゲーテはおよそ一年後にも訪れることになるのだが、その時も「コロッセオは、ぼくにとっては依然として壮大なものである」と語っている。

ゲーテが最初にコロッセオにやって来たのは17861111日の夕方。ローマに着いてから約10日後のことである。オーストリアとイタリア国境を越えてイタリアの旅に就いてから、ちょうど二ヵ月が過ぎていた。

コロッセオは西暦72年から8年かけて建設された。円形競技場であり、同時に闘技場でもあり劇場でもあった。長径が188メートルで短径が156メートル。収容観客数5万人だから、「コロッセオは大きい」というゲーテは正しい。現代人のように高層ビルやスタジアムを見尽くしているのとは違い、今から200年以上も前のゲーテを襲った巨大感は途方もなかっただろう。少なくともぼくが受けた印象の何十倍も圧倒されたに違いない。


コロッセオ(Colosseo)は遺跡となった競技場の固有名詞だが、実はこの名前、「巨大な物や像」を意味する“colosso”に由来する。形容詞“colossale”などは、ずばり「とてつもなく大きい」である。この巨大競技場での剣闘士対猛獣または剣闘士対剣闘士の血生臭いシーンを描いたのが、映画『グラディエーター』だった。キリスト教が公認されてからは、ローマでは見世物は禁止される。この時代に放置された建造物は、ほぼ例外なく建築資材として他の用途に転用された。コロッセオの欠損部分は石材が持ち去られた名残りである。

四度目に訪れた2008年春のローマ、ようやくコロッセオの内部を見学することができた。それまでの三回は、近くに行ってはみたものの、ツアーの長蛇の列を見て入場するのが億劫になっていた。「競技場内の遺跡は何度もテレビで見ているし、まあいいか」と変な具合に自分に言い聞かせてもいた。しかし、強雨のその日、列は長蛇ではなかった。先頭から数えて二十番目くらいである。こうなると「雨が遺跡にいにしえの情感を添えてくれるかもしれない」と悪天候礼賛に早変わり。小躍りするように場内に入った。

言うまでもなく、圧倒的な光景であった。それでも、コロッセオは外観がいいと思う。近くから見上げる外観もよし。パラティノの丘から少し遠目に見るのもよし。ゲーテの指摘する建造物の巨大を他と見比べてなぞれるのは、ローマが今もなお古代を残しているからにほかならない。

(本稿は2009年8月9日のブログ記事を加筆修正したもの)

EPSON001Katsushi Okano
Colosseo
2008
Watercolors, pastel, pigment liner

エントロピー増大、または宴の後

〈エントロピー〉の物理的法則について全容を語る資格はないが、素人解釈でかいつむことにする。

宇宙は時間の経過とともにエントロピーを増大させる。そして、一方的に増大するばかりで、今よりも秩序だっていた過去には絶対に逆戻りしない。生命体も同じである。加齢にともなってエントロピーは増大する。不可逆的に秩序から混沌カオスへと向かい、やがて死滅する。

エントロピーは「大きい、小さい」で表現される。たとえば、部屋が整理整頓されている時に「エントロピーが小さい」と言い、散らかった状態になると「エントロピーが大きい」と言う。宇宙や生命と違って、たとえば部屋などはある程度元に戻せる。耐えきれないほどの混沌状態になれば、いらないものを捨て、いるものは元の場所に片付けて整理整頓することができる。さらに、部屋を使わなければある程度秩序も保てる。断捨離とはエントロピーを縮減することだ。しかし、いずれまたモノは増え、部屋は秩序を失う。人が生きていくという過程では――そして、何らかの生産活動をおこなうならば――やがて部屋は散らかってくるのである。

学習して知識を得る、外界と接して情報を取り込むのもエントロピーを増やす行為にほかならない。学べば学ぶほど脳は混沌の様相を呈する。それを苦しみと考えるならば、知識や情報の流入量を減らしてわかりやすい秩序に戻るしかない。エントロピーを増大させたくないのなら、何もしなければいいのだ。しかし、それは創造的生き方に逆行する。きわめて逆説的に響くだろうが、人が生きるということはエネルギーを消費することであり、多かれ少なかれ、環境に負荷をかけて散らかしていくことなのだ。脳内カオスは創造的営みに付きまとうのである。


宴が始まる前の宴会場には料理が整然と並び、空気が張りつめてシーンとしている。客が会場に集まり開宴の時点からエントロピーが徐々に増大し始める。飲み喰いに興じ、料理がみるみるうちに少なくなり、酒が尽き始め、客の定位置も乱れ、あちこちで雑音のように会話が飛び交う。

やがて宴もたけなわ、エントロピーはお開きの時間までさらに増大し続ける。客は知らん顔して宴会場を後にするが、店側は翌日に備えてエントロピーを小さな状態に戻し、次の宴席を開く。もし、自宅でへべれけになったら、翌朝エントロピーが増大したままの光景を目の当たりにするだろう。

Dopo il banchettoKatsushi Okano
After the banquet (宴の後)
2014
Pastel, ink, watercolors, felt pen

エトルリアの街

トラベラーズノート200439日からの抜き書き。実に細かく書いている。十年前は今よりもだいぶマメだった。

ローマのホテルスパーニャでの朝食ビュッフェは果物豊富。ランチはテルミニ駅構内のトラットリア。チキンにポテト。ペンネのゴルゴンゾーラ。

ローマテルミニ駅13:48発ユーロスター。ペルージャ駅15:53着。駅前バスターミナルから7番のバスでイタリア広場へ。古い建物を改築した、いびつな構造のホテルにチェックイン。手渡された鍵には凝った細工がほどこされている。

夕暮れ前、荷解きもそこそこにして街歩き。イタリア広場からヴァンヌッチ通りを北へ250メートルほど行くと「クアットロ・ノヴェンブレ(114日)広場」に出る。ペルージャの象徴的なシンボルの大聖堂、プリオーリ宮、大噴水などがひしめいている。スーパーで惣菜を購入して夕食とする。瓶詰めムール貝、たっぷりサラダ、モツァレラ、カットピザ、赤ワイン。

ローマから北へ列車で2時間、小高い丘にペルージャがたたずむ。紀元前8世紀まで遡れば、ここはイタリア半島に原住していたエトルリア人の街であった。やがて古代ローマ人と同化したという。コンパクトな街なので1時間もあれば徒歩で一巡りできる。建物はおおむね古色蒼然としており、裏通りから坂を上がって行くとエトルリア時代名残りの建造物が威風堂々と構えている。


イタリアで経験してみたいと思いながら、実現できていないことが二つある。理髪と映画鑑賞である。いずれも語学力を試す格好の場だが、聴いていればいい後者に対して、前者は細かいニュアンスの希望を伝えねばならない。特殊な教本で表現を覚えたりもしたが、理髪店を覗けば常連ばかり。そこに旅の人間が入店するにはかなりの勇気を要する。それと、マフィア系の映画だったか、床屋で客が喉を搔き切られるシーンを思い出してしまう。躊躇して結局は店の前を通り過ぎることになる。

ペルージャの映画館テアートロは小ぢんまりとしていて入りやすそうに見えた。しかし、ちょっと待てよ。翌日は正午に列車に乗ってフィレンツェに向かうのだ。わずか12日、正味20時間ほどの滞在なのに、2時間を割いて映画を観るのか。そう自分を問い詰めたら、答えはノーだった。

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Teatro, Perugia
2004
Watercolors, ink, pastel

ナヴォナ広場のランチ

フィレンツェで肉やハム、ナポリでピザ、ボローニャでボロネーゼのパスタに味をしめてしまうと、ローマでの食事は見劣りする。ローマには延べ十数日滞在してあちこちの食事処にも足を運んでいるが、記憶に残るのは一品か二品。「これ!」というのがない。

ローマを最後に訪れてから6年と少し経った。トレビの泉にコインを投げ入れなかったので、再訪の機会はないかもしれない。帰国してから「カーチョ・エ・ペペ」を知った。イタリア各地にある料理だが、本家はローマ。ペコリーノ・ロマーノというローマ特産の高級チーズと黒胡椒だけを使ったパスタである。知ってほどなく、いいペコリーノが手に入ったので自分で作ってみた。なかなかの味である。自作でこれなら、本場ではさぞかしうまいに違いない。この料理を売りにする、観光客で賑わう店もあると聞く。

観光客で賑わう店を敬遠してきた。入りにくさはあるものの、地元の人たちがこよなく愛する店を探したり人づてに聞いたりして食べ歩きするほうがいい。安いハウスワインを注文して、メニューを見て悩むのも楽しみの一つである。


とは言うものの、観光メッカの地で食事しないで帰ってくると、旅行してきた気分にならない。だから、数日間の滞在中に、値段が少々張るのを知りながら、敢えて一度はおのぼりさんになってみるのである。ローマではおのぼりさんを演じる場にナヴォナ広場を指名した。ここには、有名な噴水彫刻がある。四大河の噴水、ムーア人の噴水、ネプチューンの噴水の三つがそれ。昼間からワインを飲み、だらだらと長い時間をかけて食事をする。給仕を担当する男性とも会話を交わす。その日はちょっとした市が立っていたので、スケッチしてみた。帰国後に色を付けたのがこの一枚。

IMG_5765Katsushi Okano
Trattoria alla Piazza Navona
2004
Pigment liner, felt pen

街と建築様式

知らないことだらけである。知らないことを知らねばならないと焦った時期もあるが、この歳になってさすがにもう焦らない。気が向けば知ろうとすればいい。旺盛な好奇心は若い世代に譲るとし、学ぶのが面倒そうなことは彼らに教えてもらおう。

ヨーロッパに出掛けるようになって、もっと勉強しておけばよかったと思うことがいろいろある。とりわけ、キリスト教と建築についてそう痛感する。まだ勉強できる可能性があるから諦めてはいないが、もうちょっと精通していれば感じるものもだいぶ違っていたはずである。

知識を仕入れる手立てはあった。分厚いガイドブックを持参したり現地でも図録を買ったりしたのだから、特に建築についてはそのつどマメに目を通しておけばよかった。百聞は一見にしかず、現場で実物を見るのは希少な体験である。しかし、一見だけで事足りることはない。百聞が下地になるからこそ、一見の価値も倍加するというものだ。


ヨーロッパで古い街が目白押しなのは、やっぱりイタリアだろう。そして、ローマ、ヴェネツィア、ピサ、ミラノ、フィレンツェの五都市を訪れると、古代ローマから17世紀までの6つの建築様式の歴史を辿ることができる。生きた建築ギャラリーそのものである。

ローマには万神を祀るパンテオンがある。世界最古のコンクリート造りの建造物だ。この構造はローマ様式と呼ばれる。

ヴェネツィアのサン・マルコ寺院は一見素朴だが、足を踏み入れるとビザンチン様式特有のモザイクで装飾されている。

トスカーナのピサを訪れてみよう。あの斜塔で有名な敷地には大聖堂が構えている。こちらはロマネスク様式だ。

ミラノには天まで届けとばかりの尖塔を誇る巨大な教会がある。ゴシック様式のミラノ大聖堂である。ゴシック建築には完成までに何世紀もかかったものが多い。

フィレンツェに移動すれば花の大聖堂と呼ばれるドームがある。ドームが特徴だが、ルネサンス様式は古代のインスピレーションを形にしているのが特徴だ。

そして最後に再びローマ。ヴァチカン市国のカトリック総本山であるサン・ピエトロ大聖堂。これはバロック様式の典型である。

ここに書いた建築物については勉強した。しかし、目の前に現れる建築を見て、それが何様式かを言い当てる自信はない。二つか三つには絞れるかもしれないが、一発正解することはたぶん無理である。手元にぼくがスケッチした名もない建築物の絵がいくつかあるが、様式についてはまるで判じ物のようである。

IMG_5621Katsushi Okano
Un edificio anonimo
2002
Pigment liner, felt pen

サルーテ教会

ナポレオンが世界一美しい広場だと絶賛したヴェネツィアのサンマルコ広場。当然ながら、世界をくまなく見た上での評ではない。著名人にはそれぞれの世界一の広場があり、ヴィクトル・ユゴーなどはブリュッセルのグラン・プラス広場が世界一だと断言している。好みで言えば、ぼくはユゴーに同意する。

世界一美しいでもいいし、単に美しいでもいいが、ほめそやす対象の中に佇むよりも、ちょっと距離を置くほうがのぼせ上らずに「美」を照見できるような気がする。サンマルコ広場は運河から眺めるのがいい。運河から眺めるにはヴァポレットという水上バスに乗る。前方の甲板に陣取って波をくぐりながらアプローチしていくと、広場が歴史を漂わせてくるから不思議である。

このサンマルコ広場から水辺に出ると、サルーテ聖堂が見える。夕暮れ時には大勢の人たちが集まって聖堂の方向を眺める絶景スポットだ。有名画家による絵画作品も多い。鉛筆でスケッチしたまま放置していたものが出てきた。八年ぶりのご対面である。そのスケッチと写真アルバムの一枚を参照しながら速描してみた。スケッチは夕景時のものだったが、夕景前のまだ明るさが残っている雰囲気にアレンジ。パステルを水を含ませた筆で溶かして使った。そのパステル、百円ショップで買った18本セット。

venezia サルーテ教会Katsushi Okano
Basilica di Santa Maria della Salute, Venezia
2014
Pastel, ink (lapis lazuli)

風を見る

風は窓越しで聞こえるが、風の真っただ中にいても風そのものは見えない。視力がよくても、たぶん見えない。視力の問題であるはずはないけど。

音というのは、聞こえるものであって、見えるものではない。そう信じて疑わない。ところが、「観音」がある。音が見えている。

川岸に佇めば、川の流れが見えて、同時に音が聞こえる。ひょっとすると、風の音を聴きながら風の姿が見えるのではないだろうか。風が見えないのは、もしかすると、ぼくたちの怠慢のせい……いや、怠けてなどいない。ただ、ちょっと注意力が足りないのかもしれない……。

そよ風は梢を撫でるだけで、そこにとどまらない。枝葉を微かに揺らし、ついでにいくばくかの光を拾って帯や線を刻んで立ち去る。

帰路、公園の横道に沿って心地よくそよ風が吹いていた。

IMG_5715Katsushi Okano
Soyokaze
2004
Pastel

眠れなくなる回文創作

軽い機敏な仔猫何匹いるか二十数年前に土屋耕一の『軽い機敏な仔猫何匹いるか』を読んだ。後先を考えずにことば遊びに食いつく性分だから、読後約一年間は回文熱が高じてしまった。仲間と創作に励み競ったこともある。

回文。上下同読のことば遊びである。冒頭の本は土屋耕一が創作した回文を集めたもので、タイトル自体が「かるいきびんなこねこなんびきいるか」と回文になっている。

「トマト」や「新聞紙」も上下同読だが、文章にはなっていない。おなじみの「竹やぶ焼けた」(たけやぶやけた)。短いが、一応文章になっている。「品川に今住む住まい庭が無し」(しながわに いますむすまい にわがなし)もよく知られている。五七五では「我が立つた錦の岸に竜田川」(わがたつた にしきのきしに たつたがわ)がきれいにまとまっている。古来、俳句や和歌ではおびただしい回文が作られていて、「むむ、これで回文になっているのか!?」と目を疑うほどよくできたものもある。下品系では「ヘアリキッドけつにつけドッキリあへ!」 これはぼくが作ったのだが、まったく同じものを作っている人が何人もいる。回文には制約があるから、短文の場合は偶然の一致がよく起こる。


オリジナリティを意識するなら長文である。しかし、長くなればなるほど、助詞が抜けたり文法が変則になったりするし、ふだん使わない言い回しを強引に捻り出さねばならない。自然文で作るのは決してやさしくない。なお、「は⇔わ」「お⇔を」「清音⇔濁音」などは互換性ありと見なす。

ワープロ時代にずいぶん作ったが、データがどこにあるかわからない。ワープロとフロッピーはオフィスのどこかにあるはずだが……。自作だから十や二十は何とか思い出せる。一つご笑覧いただこう。

「今朝女の子 飯時に土間で危機を聞き 出窓に木戸閉め この難を避け」 (けさおんなのこ めしどきにどまでききをきき でまどにきどしめ このなんをさけ)

回文をやり出すと、何をしていても単語や文章が浮かんでくる。たとえば「空が青い」と頭で響くと、「いおあがらそ」と下から音を逆読みする。やがて、ことばが次から次へと押し寄せてきて眠れなくなる。一度は経験しておいてもいいと思うが、苦労の割には駄作しかできない。佳作の一つや二つができるまでは少々時間もかかるし、それなりの覚悟はいる。

よい知らせと悪い知らせ

good news, bad news

“Good News”(よい知らせ)と“Bad News”(悪い知らせ)は、英語の定番ジョークに欠かせないテーマだ。よい知らせが先で悪い知らせが後でも、またその逆であっても、うまくオチがつくように仕組まれる。


交通事故で重傷を負った男の話。難手術の後に麻酔から目が覚め、執刀した医師と会話を交わす。「先生、どんな具合ですか?」と男に問われ、「いい知らせと悪い知らせがあります」と医師が答える。

不安に苛まれながら男は尋ねる。「悪い知らせを先に聞かせてください」。「お気の毒ですが、命を救うためにあなたの片脚を切断しました」と医師が告げる。地獄の底へ突き落され、絶句する男。長い沈黙の時間が過ぎた。

(そうだ、いい知らせが残っているぞ。諦めるな! と男は自分を慰める……) 「先生、では、いい知らせのほうをお願いします」。「それは……」と医師は少し口元を緩め目を細めて言った。「あなたが履いておられた靴を譲ってほしいと言ってきた人がいるんですよ」。

かなりのブラックコメディである。では、生死にまで踏み込む、もっとすごい「暗黒の諧謔」を披露しよう。

医者 「あなたに悪い知らせとよい知らせがあります」。
患者 「覚悟はしています。悪い知らせからお願いします」。
医者 「あなたは余命いくばくもなく、近いうちに死ぬことになるでしょう」。
患者 「(淡々と)やっぱりそうでしたか。(……)その悪い知らせを相殺するようなよい知らせがあるはずもないでしょうが、念のためにお聞きしておきます。で、よい知らせとは?」
医者 「これでもう一度死なずにすみます」。

これはぼくの創作であると自覚していたが、「今年死ぬ者は来年死なずに済む」というシェークスピアの言を知って以来、なんだか二番煎じのような気がしている。