「この壁に貼紙を貼らないでください」という注意書きの貼紙はパラドックスである。この注意書きそのものが言語表現的に矛盾した内容を含んでいて、論理的に成り立たない。つまり、貼紙を貼るなと主張しながら、それ自体が貼紙になっているという点がパラドックス。
論理的にはそうかもしれないが、現実の話としては、注意書きとそれに背いて貼られる紙を同列扱いにしなくてもよい。「矛盾だ!」という指摘に恐れおののいてはいけないし、及び腰になる必要もない。
年末に執行を迎えた死刑囚。「お前もそろそろだ。最後に願いを叶えてやろう。但し、死刑を免れたいという願いは聞き入れないぞ」と申し渡された。「何とか生き延びたい。何かいい妙案はないものか」と死刑囚は考えた。あくる日、「さあ、願いは何だ?」と執行人が聞いてきた。「来年のボジョレヌーヴォーが飲みたい」と死刑囚は訴えた。
「なかなかアタマのいい奴だな。ボジョレヌーヴォーが出るまであと11ヵ月か。要するに、11ヵ月でも生き延びたいというわけだ。可愛いもんだ」と内心つぶやき、「よし、わかった。来年の新酒のワインを飲ませてやろう」と約束した。
翌年の11月になった。執行人は約束通り、グラスになみなみと搾りたてのワインを注ぎ、「さあ、思う存分飲め。お代わりしてもいいぞ」と言った。しかし、死刑囚は首を振った。「わたしが飲みたいのは来年のボジョレヌーヴォーです。注いでくださったのは、今年のボジョレヌーヴォーじゃありませんか」。今年から見た「来年」は、来年になると「今年」になってしまう。つまり来年のボジョレヌーヴォーは永久に飲めない代物なのである。巧みなパラドックスを使った死刑囚はこうして無期懲役になったとさ。
「来年のボジョレヌーヴォーが飲みたい」に対して、「よし、2009年のボジョレヌーヴォーだな」と念を押しておけばおしまい。一年後には死刑を執行できた。
汚染米の検査も薬物使用の人体検査も、「来週検査をします」と予告してはいけない。当然「抜き打ち」でなければならない。しかし、ここにも古典的パラドックスがある。「来週中に抜き打ちテストをする」と先生が予告した。アタマのいい生徒がパラドックスに気づいた。
もし木曜日までにテストがないと、自動的に金曜日に実施ということになる。木曜日の下校時点で生徒全員に「テストは明日」ということがわかるので、これでは抜き打ちにならない。というわけで、テストは木曜日までに実施せねばならない。ということは、水曜日までに実施していないと、木曜日も抜き打ちではなくなる。以下同様。結局月曜日に実施しなければならないことになり、それでは抜き打ちテストではなく、月曜日指定テストだ。
賢い生徒がパラドックスを逆用して先生をやり込める。論理学のテキストでおなじみのパラドックスだが、先日新聞でも紹介されていて、このパラドックスを「やっかい」と評していた。さて、ほんとうに「やっかい」なのだろうか。
表現のあやの揚げ足を取られるのは、告げるほうが矛盾をしてしまっているからである。「抜き打ち」とは「予告なしに突然おこなうこと」であるから、ごていねいにも前の週に抜き打ちテストを予告することが間違っているのだ。「抜き打ちテスト」は存在するが、「予告する抜き打ちテスト」はありえない。抜き打ちの背景にある思想はたぶん性悪説なのだろうが、それはそれ。疑わしきものに対しては、黙って抜き打ちでよろしい。