誰の言なら信じられるのか?
たとえば「当店は黒毛和牛専門店です」や「わたしたちは安全安心の食材を使っています」などのメッセージ。メッセージそのものの真偽を見極める専門性からほど遠いとき、ぼくたちは発信源の信頼性をチェックする。「Pはxxxである」という主述関係において、xxxの確かさはわからないが、発信者であるPがひとまず信頼に値するなら、「Pはxxxである」を暫定的に承認するしかないのである。
P自身が「Pはxxxである」と言う。そしてぼくたちがPを信じれば「Pはxxxである」も必然的に信じることになる。「Pはxxxでないかもしれない」という不安が一瞬よぎっても、信じているPがそう言うのだから受け入れるしかない。危ういマインドコントロールだが、よくある話である。では、P以外の誰か、たとえばQが「Pはxxxである」と言えばどうだろう。このとき、ぼくたちは瞬時にQとPの信頼性を比較する。「Q教授は、P大臣が大バカだと言っている」という文章において、無意識のうちにQとPの偉さ(またはバカさ加減)を天秤にかけている。
あることの正しさを証明するのは必ずしも科学だけの仕事ではない。いくら実験を重ねた数字を示されても、信なきところに証明はありえない。はっきり言うと、信とは「悪くないね、いい感じだね」である。どれだけ張り切って証明しようとも、証明しようとする本人自身が不信の念を抱かれていれば話にならない。広辞苑では、証明力は「証拠の実質的な価値で、裁判官の心証に影響を及ぼす力」とある。心証とは心に受ける印象のことだから、証明には多分に「信頼感」の支えが必要なようだ。
プロ野球の審判だった二出川延明が、アウト・セーフの判定を巡っての抗議に対して「俺がルールブックだ」と言い放った。半世紀以上も前のエピソードだ。二出川本人による「二出川がルールブックだ」という発言が真実なら、「俺が絶対、他の権威は無用」という強弁である。まるで古代ローマの弁論家のようなたくましさではないか。
ラテン語の句、“ipse dixit”は「彼自身言った」という意味で、独断的な主張をおこなう際に用いられたという(小林標『ラテン語の世界』)。「彼が……と言った」という文において、「彼が言った」ということは確かだが、「……」の部分の信憑性はまったく証明されてはいない。「彼が言った」ことを認めても、「彼」を信じていなければ人の心は動かない。証拠も論拠も証明に不可欠な要素だが、証明者が怪しければどうにもならぬ。
では、時折テレビのコマーシャルで「私が証明です」とやっている、化粧品会社の女性社長のメッセージなんかはどうなのだろう。二出川の「俺がルールブックだ」ほど神がかってはいないが、「私が証明です」は私が証拠であり論拠であると主張している。こちらもなかなか自信たっぷりである。しかし、このメッセージだけでは商品の優秀性は証明できない。証明はひとえに当の「私」にかかっている。どうやら、証明ということを突き詰めていくと、究極は自分自身を自前で証明することになるようだ。ブランドはこうした証明の一つの印にほかならない。