三つのセオリー

フェリックス・ガタリはその著『三つのエコロジー』で自然環境、社会環境、精神環境を提唱している。こう告げられてから読み進めていくと、もうこれ以外の環境を考えにくくなる。そうだ、三つのエコロジーとは自然、社会、精神なんだという自己説得が働いてしまう。

品質、サービス、価格、カスタマイズ戦略のいずれにも決定打がないと結論づけた後、フィリップ・コトラーは「いま、確かなことが三つある」と言った。一つ目は「顧客の価値観が多様化している」。二つ目が「顧客の要望・願望は高度化している」。では、三つめに何と言ったか。

その二つ以外に確かなことは何一つない。

なるほど、そう来たか。確かなことは二つなのだが、三つにするほうが座りがよかったのだろう。


3

「一つ」は絶対的存在で、他を排除する。また、比較対照できないから、その絶対的な一つの意味が捉えにくい。「二つ」になれば比較対照できる。しかし、融和を期待できる一方で、背反の図にもなりかねない。というような次第で「三つ」に収まっているのかどうかは知らないが、三位一体や三権分立に表わされるように、三にはバランス機能が備わっているような気がする。

ところが、三つを必然とすることに根拠があるわけではない。松竹梅は「桜松杉竹梅」と五段階でも問題なかった。走攻守でまとまっているように見えるが、「投」を加えてまずいはずはない。守破離は気に入っている三字熟語だ。しかし、離れた後に「還ってくる」という展開にするのも一つの案。経営資源の人・モノ・金には「情報」が加えられて久しいし、知情意に「創」を足して篆刻にしたことがあるが、四字熟語も悪くなかった。

それでも、一や二よりも、また四や五よりも、「三つのセオリー」「三ヵ条」「三拍子」なのだ。バランスのみならず、無難であり、語調に落ち着きが生まれる。ホップ・ステップ・ジャンプになじむと、もうこれ以外に考えられない。二段跳びや四段跳びではリズムが狂う。

いい小説を書くには三つのルールがある。

こう言ったのはサマセット・モームだ。ここでもやっぱり三つ。ところで、モームは三つのルールがあると言った以外に、それが何であるのかを誰にも語らずどこにも書かなかった。つまり、中身は不明で、ただ「三つ」だけが残っている。「上手な三拍子表現の使い方には三つの秘策がある。いずれ近いうちに公開することにしよう」と書き残して終わるようなものだ。三の力を借りて多くを語らず。なかなかの思わせぶりである。

投稿者:

アバター画像

proconcept

岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です