無限回廊のような考えごと

〈ペンローズの階段〉のどこに立ってもいい。そこから一段ずつ上がってみる。確実に上昇しながら、しかし、必ず元の場所に戻ってくる。考えごとをしていて、頭の中がこんな状態になっているのを誰もが経験するはず。着実に一歩ずつ考えが進んでいるように思えても堂々巡りになっている。しばらく時間を費やしたのに、熟していないのを知ってがっかりする。がっかりするが、堂々巡りには気づくので、救われる。そこでやめたり一工夫して一から考え直したりできるからだ。

ところで、アイデアを捻り出すのがぼくの仕事の基本になっている。アイデアは時間量に比例しないので、効率性も安定しない。出ない時は何時間、何日費やしても出ない。ここが調べものなどと決定的に違う点だ。調べものはおおむね時間に比例する。つまり、時間さえかければ探している情報が見つかる。数日間の猶予があれば――満足の度合はあっても――日にちに応じた調査結果が手に入る。アイデアの場合、「らしきもの」が芽生えても満足できなければ、それはアイデアとは呼べない。自分と依頼者双方が満足できたものだけがアイデアなのである。

手元の辞書で「アイデア」という用語を引くと、理念、観念、考え、思いつき、着想……などという意味が示されている。ちなみに、英和辞典の“idea”の見出しには、考え、意見、見解、思いつき、着想、創意工夫、観念、思想、知識、認識、想像、感じ、イデー、テーマ、モチーフ……などが掲げられ、日本語の辞書よりも概念がさらに細分化されていることがわかる。ぼくはアイデアに意見や思想や理念などを含めない。素朴に「目新しい着想」という意味で使っている。また、ものを扱うのではなく概念を扱う仕事なので、アイデアは必然ことばという形で現わすことになる。


アイデアには「経験」として身についた素材と「熟成」という時間が必要である。今しがた調べて入手した情報は青いから、無理やりアイデアに仕立てようとしても、調査の域を出ないし、目新しい着想からはほど遠い状態にとどまる。さらに、アイデアは広がりや組み合わせという作用の産物であるから、視野狭窄の専門性も障害になる。間に合わせの調べものと閉じられた深掘りはアイデアを阻むのである。アイデアを生まれやすくするには、この逆を構造化するしかない。すなわち、習慣的に形成した経験知を生かし、見晴らしをよくすることである。

調べれば答えが見つかるようなことを考えない、また、行動するほうが手っ取り早いことをああだこうだと考えない。アイデア探しというのは大海原を遊泳するようなものである。あるいは、成果が約束されない道程を歩むようなものである。だから、どうでもいいような作業を見切って、調べてもわからない、前例のない領域で考えることにエネルギーを注ぐ。芽生えそうなアイデアをことばで仕留めて明快に表現することに集中力とスタミナを使いたいのである。

手で顎を支えて座り込み長時間考えているように見えるロダンの「考える人」。あの像に言及して、串田孫一は『考えることについて』の中で次のように語っている。

一体考えるということは楽しいことであるよりも苦しいことが多いのでしょうか。(……)恐らく人は充分に楽しい時には何も考えない、また考えたくないのだと思います。(……)考えるという人間に与えられた働きの本当の役目は、そうした苦しさのためにくよくよして愚痴を洩らすことではなくて、もっと意義のあること、(……)人間がよりよい状態を自ら作るための工夫、あるいはそのための努力だといってもよいと思います。

「考えるということは楽しいことであるよりも苦しいこと」なのかどうかはわからない。無難に言うならば、苦しくて楽しく、楽しくて苦しい。行為として考えるだけなら楽しもうと思えばそうできる。しかし、何がしかの意図に基づいたアイデアを出すということになると――そして、それが仕事であるならば――苦しく悶々とする時間を費やさねばならない。

冒頭で書いたように、堂々巡りなら何とかやり直しもきく。しかし、もしまったく先の見えない無限回廊のような状態だとしたら……串田孫一の言うように、「人間がよりよい状態を自ら作るための工夫、あるいはそのための努力だ」と自分に言い聞かせるしかない。アイデアは「目新しい着想」だと書いた。もう一つ、それは「なかなかひらめかないもの」であるということを付け足しておく。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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