他人が連ねた文字列を読んで意味を解する。実は、驚嘆に値する行為である。もう慣れてしまったから平然とこなしているが、はたして文字に込められた誰かの意図を意味としてあぶり出しているか、かなり怪しく、心細い。読むという行為は人それぞれ、読書論も十人十色。読んだ気になるのも読んだ振りをするのも、とりあえず読了にしておける。
本と読書にまつわる名言を集めたことがある。すべてに納得し実践しようとすれば矛盾にまみれてしまう。ノートからいくつか書き出してみる。
「反論し論破するために読んではならない。信じて丸呑みするためにも読んではならない。話題や論題を見つけるためにも読んではならない。ただ熟考し熟慮するために読むのがいい」
(フランシス・ベーコン)
「君の読む本を言いたまえ。君の人柄を言い当ててみよう」
(ピエール・ド・ラ・ゴルス)
「書物から学ぶよりも、人間から学ぶことのほうが必要である」
(ラ・ロシュフーコー)
「新しい書物の最も不都合な点は、古い書物を読むのを妨げることだ」
(ローラン・ジューベール)
「地上の楽園は、女の胸と馬の背中と書物の中にある」
(アラビアの諺)
一つにまとめると、「読書は考える素材であり……本は人柄を作り……しかし、人から学ぶことが先決で……仮に読書するにしても、新刊書ばかり読んでいると古典を読まなくなり……などと言うものの、書物の中に入ればそこは楽園である……」ということになる。
手に入れる書物には本陣の本と外濠の本があるとかねて考えてきた。本のテーマが自分と何らかの関わりがあると判断したり直観したりして買うのが本陣の本、他方、自分との接点を感じることがないままに、好奇心にそそのかされて衝動買いするのが外濠の本である。
夏場に古本屋でまとめ買いした本はすべて外濠だった。たとえば、動物や昆虫に関する本は仕事の守備範囲ではない。しかし、書棚に並ぶその数は十冊や二十冊では済まない。そういう類いの本を意外と読んできたのだ。では、別の日に本陣の本をせっせと買い込んでいるのかと言えば、決してそうではない。本陣がいったい何なのか、ぼくは未だよくわかっていないのだ。冷静に読書人生を振り返れば、何もかもが外濠だったかもしれない。
読書の秋と世間で言う。最近は拾い読みばかりで、熱が入らない。さて、ルノワールの『読書する女』のように読み耽ってみようと書棚から数冊取り出したが、読書への意識が些事への意識を封じることはできるだろうか。