数万年から十数万年前の「出アフリカ」以来、ホモサピエンスは世界に拡散し多様な進化を遂げて今日に至る。定着した土地の環境に適応し、調達した食料を加工して腹を満たした。農業と牧畜を発明して食材を生産し、長い歳月をかけて様々な料理の方法を編み出してきた。ありとあらゆるうまいものはすでに実現している。
一品料理から和菓子や洋菓子に至るまで、インスタ映えとか何とか言って、見たことも味わったこともない変わり種の一品を作ってはみても、めったなことではこれまでのうまさを超えるものに出合わない。昔から今に引き継がれて受け入れられている、スタンダードな料理のほとんどはこれ以上ない完成域に達しているのではないか。
ただ一握りの料理人によって限られた場でしか供されない料理がある。また、うまい料理でも日常的に食すものとめったに口に入らないものがある。たとえば、バスク地方のビルバオやサンセバスチャンを旅した食いしん坊の知人は「初めてのうまさ」と言う。街々に数えきれないほどの美食倶楽部があり、アマチュアが作るシンプルな料理が魅力らしい。
細かくみじん切りしたタマネギをオリーブオイルで炒め、イカの切り身を入れて塩を少々加える。次いで完熟トマトでなじませたら、イタリア産の米、カルナローリを投入。そこに米と同分量のイカ墨たっぷりの魚貝スープを加える。焦がさぬよう火の用心しながら、弱火で15分。火を止め蓋をして蒸すこと5分。「バスク風イカ墨めし」が出来上がる。
一年か二年に一度だけ作り、自画自賛しながら食べる。タマネギとトマトは溶け、見た目は米とイカだけの料理。以前テレビで知った、バスク地方の美食倶楽部を真似た一品だ。レシピとしてはリゾットに準じるが、米を硬めに調理するとパエリアの食感に近くなる。具だくさんにすると米のうまさが半減する。パスタ料理も具材が少ないほうが麺がおいしい。
デリケートな火加減とテキトーな手順の調和によって少ない食材でご馳走を作る。寿司に日本酒を合わせるように、このイカ墨めしには白ワインか発泡酒を合わせる(と言うか、それ以外の選択肢が思い浮かばない)。米を主食一点張りで捉えずに、食材の一つとして工夫すれば酒に合う米料理が生まれる。