語句の断章(67)阿漕

ふことは阿漕あこぎの島に引くたひのたびかさならば人も知りなむ

「あなたとお逢いすることは、阿漕の島の海士あまが網を引いて捕る鯛のように、たび重なったら人も気がついてしまうだろう」という意味の和歌。この歌ゆえに、後々阿漕の名が知られるようになった。阿漕はかつての伊勢の国の「阿漕が浦」の地名に由来する。

阿漕が浦(三重県津市)

阿漕が浦は伊勢神宮に供える魚を捕るための禁漁地で、漁が可能なのは一年に一度のみだった。ところが、ある漁師がたびたび禁を犯して密漁したことが発覚して、漁師は海に沈められてしまう。冒頭の阿漕の島の和歌から、阿漕が「隠し事も度重なると隠しきれなくなる」という意味を含むようになった。

阿漕にはもう一つ、「身勝手であつかましい」という意味がある。こちらは近世以降の新しい用法だが、今日ではこちらの意味が主流になっている。「阿漕なまねをするな」とか「あの経営者は阿漕だ」という例では、欲張りで図々しく無慈悲なさまがうかがえる。

阿漕を悪人と解釈することも少なくないが、むしろ「とことん貪る欲深さ」の意味が際立つ。劇場映画『難波金融伝・ミナミの帝王』では萬田金融を営む主人公の萬田銀次郎が阿漕な人物として描かれた。萬田は同業者や反社に「お前も阿漕な奴やのう」と言われると「照れるやないけ」とつぶやいた。阿漕は金貸し業では褒め言葉なのだ。

萬田金融の利息は「トイチ」。トイチとは「十一」のことで、10日借りたら1割の高利が付く。「地獄の果てまで取り立てる」というのがモットー。阿漕であり非合法の悪徳業者として描かれた主役に対して、トイチに手を出す借り手も自業自得だと罵られてもやむをえない脇役を演じていた。

ところで、あの漁師、実は母のために禁漁地で密漁したという説もある。それなら情状酌量の余地があってもよかったのではないか。伊勢神宮が科した海に沈めるという厳刑は、量刑が重すぎるような気がする。

インド料理店の看板に思う


通りの角に立つ看板に気づいただけで、店は見ていない。当然入店していない。

「パキスタン人が経営する本格パキスタン料理」の店に時々行く。「ネパール人が経営するインド/ネパール料理」の店にも行く。しかし、インド料理と銘打った店で本格的なインド料理を食べてきたという自信はない。

あくまでも一説だが、あるカレー通が言うには、かつてインド人が料理するインド料理は本格的であり、シェフは日本人の舌に合わせる妥協はしなかったらしい。ところが、ネパール人が経営するインド料理店では、本格インド料理にこだわろうとせず、日本人好みの味付けをして人気店になった。現在、日本にあるインド料理店と呼ばれる店を経営し、そこで働いているのはほとんどがネパール人と言われている。

ネパール人の店ではネパール料理も出していたはずだが、表看板をインド料理とするほうがわかりやすい。それが、やがて「インド/ネパール料理」と併記されるようになり、今では主客転倒して「ネパール/インド料理」という看板を掲げる店も目立つようになった。

ネパール料理、インド料理、スリランカ料理、パキスタン料理、そしてアラブ料理など、いろいろ食べてきたし、本も読んできた。インド料理を専門に研究してきた日本人の著書が紹介している料理に、見覚えのあるものは少なく、ほとんどが初見である。つまり、ここ何十年、ぼくたちが食べてきたインド料理はたぶん本場ならではの本格ではなく、日本風のインドカレーっぽい料理だったかもしれない。

定食メニューの最初に「ダルバート」があれば、それは間違いなくネパール料理であり、おそらくネパール人が作っている。「ネパール人シェフが作る本格ネパール料理」は大いにありうる。

ネパールの国民食、ダルバート


飲食業界がグローバル化して、居酒屋の厨房を仕切っているのがアジア人という店が増えている。四半世紀前に東京で「イラン人(らしき人)が握る寿司屋」に少し戸惑ったが、今はどの国の人が何料理を作っても不思議でも怪しくもない時代になった。とは言うものの、「インド人シェフが作る本格日本料理」という看板には依然として少し違和感を覚える。

偏見かもしれないし器用さゆえかもしれないが、日本人シェフなら何料理でも本格的に作ってしまうはず。「日本人シェフが作る本格フレンチ」も「日本人シェフが作る本格中華」も当たり前になって久しい。

街暮らし―日常の記憶と記録

先週、街角の移り変わるシーンと題して書いた。その時から「街」を少々引きずっていて、街という文字を書名に使う本を取り出してはなまくらに読み、掲載されている写真があれば眺めている。たとえば下記の4冊。

『街頭の断想』
『街の記憶』
『街に煙突があった頃』
『街角の事物たち』

いろいろな街があり、様々な切り口――街頭、街角、街並み、街路など――の呼び名がある。街には日常がある。街はよく似たようなことを毎日繰り返す。日常には暮らしがあり、会話があり、事物があり、ついでに言えば、退屈とわずらわしさもある。

かつて非日常とされたイベントや催しなどの体験は、今ではほとんどが日常に取り込まれてしまっている。長く生きてきた市民たちは時代の変化に慌てふためくことが多々あるが、今時の若者らは街中で派生する非日常的現象に驚かされたり意表を突かれたりすることは滅多にない。

ところで、上記の『街角の事物たち』は歌人、小池光の著書だ。「時代のうねりの中に身をさらす歌人の日乗」と帯に記されている。えっ、日乗・・? 日常の間違いか? いや、そうではない。「日乗にちじょう」とは日記のことで、古い時代の表現だ。情報の多い街暮らしでは記憶に頼るだけでは心もとない。どんな些細なことでも忘れないように記録しておかねばならない。漫然と日々を過ごすだけでは、街暮らしは成り立たないのである。

たとえば、近くの橋から西方向を定点観測する。記憶だけでは30年前、10年前、5年前からどれだけ街が変貌したかを認識できない。写真2枚で比較すれば、今と5年前とでは高層建築の棟数と密度が圧倒的に違うことがわかる。記録は記憶再生を促してくれる。

周囲で日記をつけている人は少ない。メモを取っている人は時々見かけるが多数派ではない。たいした記憶力でもないのに、書き留めずにその場で覚えようとする。覚えようとしても、覚えていなかったことが後日わかる。人があまり記録しなくなったのは、筆記具と紙の出番が著しく少なくなったからだろう。

書く時間がなければ、街の写真を撮っておく。できれば一行キャプションを付記しておく。ところで、膨大な数の写真を振り返って気づくことがある。たとえば海外旅行の写真。文字情報がなければどの街角かわからない。しかし、レストランのファサードと食事した料理の写真があれば、極端に言うとその日の1日を思い起こすことができる。

料理の写真を撮るのは食い意地が張っているからではないし、SNSに投稿するためでもない。暮らしの記憶の確認として、日に3度の食事は記憶の扉を開く鍵の役目を果たしてくれている。自分の記憶容量の不足を写真で補っているのである。

街角の移り変わるシーン

移り変わると言えば、雲だ。風の強い日の雲は変幻自在に形を変えて流れて行く。空の青と白とグレーも刻々と混色する。雲は詩人たちにふんだんに題材を提供し、詩人は題材を熟成させて作品を書く。散歩人は雲を見上げてスマホを構えて撮る。散歩人は記録を急ぐ。

定食メニューを手書きで店頭に掲げる中華料理店。先日、メニュー以外の別の貼紙がしてあった。こんな時はだいたい閉店か休業の告知だが、そうではなかった。「750円の定食は〇月〇日から一律850円とさせていただきます」。価格の移り変わりだった。

昨年まで空地だった所にマンションが建つ。2年前まで店舗だった所がホテルに変身する。役所で人口の推移を聞くまでもなく、近所のスーパーマーケットに行けばわが街の人口増がわかる。外国人観光客はどこにでもいる。住宅街の小さなお好み焼き店にもやって来る。

表札の「▢▢想太郎」の文字。高齢になってデイサービスのお迎えを自宅前で待つ、おそらくその名の世帯主。ほぼ毎日通る道だが、裏手はほとんど知らない。そのほとんど知らない自宅兼商業ビルの建物の裏手に古着屋ができていた。タイムスリップのような唐突感。


情報をどこから得ているか? ある人は「読書」だと言う。別の人は「人」だと言う。人というのは人間関係であり雑談や対話のことなのだろう。また別の人は「YouTube」だと言う。新聞やテレビは魅力的な情報としては力不足なのか。

人は必ずどこかの街に暮らしていて、その街が発信する情報を身近に得ている。日々の暮らしの中で目撃するシーンは微妙に移り変わり、ホットな街角情報を提供し続ける。さっき少し歩いてきたが、都会の移り変わりのスピードは1ヵ月前のシーンさえ陳腐化してしまう。

抜き書き録〈テーマ:辞典/絵典/事典〉

📖 『笑死小辞典』(フィリップ・エラクレス/リオネル・シュルザノスキー編;河盛好蔵訳)

この書をやがて死すべきあらゆる人びとに捧げるのを編者たちは幸福とする。

上記は本書の「序にかえて」の一文。この本を深刻に読むべきではないことを暗示している。世界の文学者たちは死について真面目に考えて名言を残し、かつ――それだけでは息が詰まるので――死を軽やかに取り扱っておもしろおかしく冗談っぽく迷言・・も書いた。

「今年死ぬ者は来年は死なずに済む」(ウィリアム・シェイクスピア)
「人は一度しか死なない。しかも永久にだ」(モリエール)
「私はできるだけ遅く、若いままで死にたい」(マルセル・プレヴォ―)
「僕は執行猶予付きの死刑に賛成だ」(ピエール・ダック)

最後の文、「執行猶予付きの死刑」とは死に帰結する人生のことを指している。

📖 『世界の椅子絵典』(光藤俊夫著)

これぞ「究極の心地よさ」と言える椅子を一度も所有したことがない。自分の体躯と気分にぴったり合う完璧な椅子ははたしてあるのだろうか。本書には目移りするほど斬新な椅子のイラストが収録されているが、サグラダファミリアでおなじみのアントニ・ガウディの手になる二人掛けの椅子が図抜けてユニークだ。

実はバルセロナのミラ邸でこの椅子に腰掛けたことがある。ガウディは「直線は人のものであり、曲線は神のもの」と言った。そのことば通りの曲線であり、座する者と葛藤しない座り心地だった。何よりも二人掛けに二人で座るのではなく、隣席を空けて一人で座るのがいい。新幹線で隣席が空いている時のあの気分の良さと同じである。

📖 『現代無用物事典』(朝日ジャーナル編)

平成元年発行の本である。時代が35年も経てば、当時の何もかもが今となっては無用だろうと思いきや、案外そうではない。

駅のアナウンス
どうする。不快97パーセントの親切過保護!

乗り換え情報も次の駅名も、要るか要らないかの二者択一なら要らない。外国ではアナウンスが流れない駅のほうが圧倒的に多い。それ以上に要らないのは車内アナウンスだ。始発駅を出てから3駅目までずっとアナウンスが続く電車がある。電車移動中にはアナウンスを聞くよりもしたいことがいろいろあるものだ。

書店のブックカバー
個性はあるがムダなのだ。十二単衣ひとえじゃあるまいし、本も暑くてかなわない。

えらく愉快そうに無用論を唱えるが、これは勇み足ではないか。ぼくは気にしないが、買った新品の本が汚れるのを嫌がる人もいる。電車内で読めば対面の人に書名が見える。それも気にする人がいる。ブックカバーくらいあってもいいではないか。実際、レジ袋が有料になったため、ブックカバーを所望する人が増えたようだ。ブックカバーは無料である。