たそがれの時間と風景

20072月–3月、イタリアのトスカーナ地方を旅した。フィレンツェに拠点を定めて、近隣の街へ日替わりの日帰りの旅を目論んだ。おそらくフィレンツェはこれが最後、そう思って8日間滞在することにした。

日帰りで出掛けたのはシエナ、サン・ジミニャーノ、ピサ、ルッカ、アレッツォ。その気になれば2都市は行ける。しかし、1日に巡るのは一つの街だけと決めた。出掛けない日はフィレンツェ市街の街歩き。人口38万人が住む比較的大きな街だが、コンパクトにできているので余裕で歩ける。

最初の34日はアパートを借り、その後に歴史地区のど真ん中、シニョリーア広場に面する古色蒼然としたホテルに4泊した。アパートはアルノ川左岸のサント・スプリトという地区にあり、このあたりはツアーコースではないので、生活感が滲み出ている。生活に密着した店が立ち並ぶ。レストランには観光客はおらず、地元の常連ばかり。入りにくいが、入ってしまえば違和感は覚えない。

日が暮れる頃に夕食目当てにそぞろ歩きする。道路から見えた路地が雰囲気があったので、行き止まりまで歩いてみた。アルノ川が流れ、川岸から右の方に目を向けると、ポンテヴェッキオが見えた。目と鼻の先だが、あちらは観光客が押し寄せている。日本と違って午後8時前はやや明るめのたそがれトワイライトである。トワイライトは日没後の薄明かりのこと。以前、本ブログで『夜のそぞろ歩き』と題して一文を書いたことがある。その冒頭。

日が暮れて夕闇が迫りくる黄昏時たそがれどき。変な表現だが、「軽快な虚脱感」と「神妙な躍動感」がいっしょにやってくる。人の顔の見分けがつきにくくなり、「そ、かれは」とつぶやきたくなる時間帯を「たそがれ」と呼んだのは、ことばの魔術と言うほかない。英語の“twilight”(トワイライト)という語感もいい。

たそがれは、イタリア語では“crepuscolo”と言う。発音は「クレプースコロ」。これが「暮れ伏す頃」と聞こえる。出来すぎだが、言うまでもなく単なる偶然である。

夕方、夕暮れ、日没、たそがれ……と、同じような薄明かりと雰囲気を別の言い方をする。このうち、たそがれだけが見たままではなく、心のありようを反映しているように思える。「たそがれに飲むワイン」は、たぶん「夕方に飲むワイン」よりも上等に思えるし、おいしく感じる。たとえ同じワインであっても。「フィレンツェはこれが最後」と思ったせいか、再訪の機会もなく、あれから16年が過ぎた。

ランチのついでにプチ歴歩

先々週に続いて先週も土日が雨。昨日は昼に何を食べるか定まらず、先週に食べたものを振り返ってみたら中華料理を食べていないことに気づく。自宅から歩いて78分の店を思い出して行ってみた。数年ぶり。

鶏とカシューナッツ炒め定食を注文。出てくるまで少々待たされたが、まだマシだったようだ。ぼくより先に入店したのにまだ料理が出てこない客が何組かあり、キャンセルが相次いだ。「厨房スタッフが一人休みなので、料理をお出しするまで15分ほどかかりますが、よろしいですか?」と先に聞いておけばいいのに。要領と段取りが悪い。

店を出て、ちょっと寄り道して「歴歩れきほ」することにした。大阪のこのあたりは観光客も来る歴史地区だが、住んで17年も経つのに、まだ地元感覚が熟さない。よく街歩きしていると思うが、今も知らないことばかり。空堀からほり商店街から南へ下る狭い路地がいくつもあり、そのうちの一つ――7年位前にタモリがブラタモリした――北田島地区に入ってみた。

鉄砲方同心てっぽうかたどうしんの住まいが何十軒もあった所だ。武家の兵卒には与力と同心があって、与力が騎馬兵で同心が歩兵。同心は与力の部下として雑務や警備の任にあたっていた。ここ大阪城下では敵が侵入した際には壁の内で鉄砲を構えたらしいが、それは有事の話。平時は鉄砲の研究、砲術、制作、修理をおこなっていたらしい。

お屋敷を再生したりインバウンド対応したりして店や通りが垢抜けし、さあこれからと言う時にコロナに見舞われたが、今はかなり賑わいを取り戻している。空堀は高台の上町台地に位置し、ここから西への道はどれも坂である。水は高い所から低い方へ流れるから、水は空堀には溜まらなかった。文字通り「水のない、っぽの」だったのである。

このあたりは大阪城の惣構え堀の跡。城下町全体を堀や堰などの城壁で囲んでいた。城壁の一部が今もあちこちに残っている。堅守防衛していたのは天守閣のみならず、攻められてもまち全体で長期間こもれるようにしていたのである。史実的に言えば、功を奏したことにはならなかったが……。

南方面すぐの所が瓦町で、かつては土の採取場だった。瓦用の土であるが、人形作りにも用いられた。その土のおかげで、すぐ近くを南北に走る松屋町筋が日本有数の人形問屋街になった。ここ十数年凋落が著しいが、一部の人形屋はマンション経営とネット販売で何とか生き残っている。

空堀商店街→田島北ふれあい広場(南惣構え堰)→再生長屋「惣」→直木三十五邸跡複合施設→観音坂→再生町家「練」→高津原橋→榎大明神→熊野街道のルートをゆっくり半時間ほどかけて帰宅した。参考までに、大阪城本丸、真田丸、南惣構え堰の位置関係は下記の地図の通り。三ノ丸の文字の「ノ」のあたりが自宅、西ノ丸の文字の「丸」のあたりがオフィスである。

迂回ルートを辿る

元日、例年通り、自宅から近い真言宗の寺に参った。檀家ではないが、護摩焚きの様子を眺めるのが気に入っている。二日、来客があって終日在宅。一歩も出ないで暖まっていると身体がなまる。翌三日、外へ出て動きたい衝動に駆られる。住吉大社に出掛けることにした。

谷町界隈に住むので、メトロで天王寺に出て路面電車の阪堺線に乗り換えれば大社の鳥居前に着く。所要時間40分弱。しかし、勝手をよく知るルートなので面白味がない。新鮮味を求めて迂回することにした。最寄りのメトロ中央線の堺筋本町から本町へ。四ツ橋線に乗り換えて玉出へ。初めて歩く界隈から年季の入った商店街を通り抜ければ、ぶらり鳥居まで20分。

途中、「水木しげる先生  生誕の地」の碑に初めて気づく。境港ではなく、住吉の粉浜の人だったのか。令和43月とつい最近の建立だから、初見なのも無理はない。商店街に入り、たこ焼きを買う。10250円は昭和の値付けである。公園のベンチに腰掛けて熱々を食べる。新年3日目なのに参詣道はかなり賑わっている。

往路と帰路に分かれている。往路側に松尾芭蕉の句碑を見つける。迂回ルートならではの発見だ。芭蕉没後170年の1864年に建てられた碑、彫った文字が劣化していて読みづらい。碑の横に立つ説明板をカンニングする。

升買て分別かはる月見かな

字も難読だが、背景を知らなければ意味も難解。住吉の市で何日か前に升を買った翁が気分が変わって、句会に出なかった、つまり月見の夜に月見をしなかった……。体調が思わしくなかったが、そうは言わずに、気が変わったということにしたという意味らしい。芭蕉はこの後、御堂筋の久太郎町あたりで病の床に伏し、ついに没した。水木しげるが大阪で生を受け、芭蕉が大阪で亡くなった。

さて、住吉の本殿。鳥居を過ぎてからそこに達するまでずっと混み合っていて時間がかかった。この比ではない元旦はさぞかし凄まじいはず。そそくさと賽銭を放り投げ、二礼二拍一礼して後ろの人に場を譲る。おみくじの列も長い。もっともみくじを引く気は当初からないので、誰も並んでいない「清塩」を選ぶ。清めに用いてもいいが、もちろん調理にも使える。出来上がった一品は聖なる味がするかもしれない。

帰路も玉出まで歩いたが、さらに20分ほど先まで歩いて天下茶屋へ。そこでメトロに乗り、起点となった堺筋本町まで戻ってきた。あまりなじみのない迂回ルートを辿ってみると新しい発見と気づきがある。たまにはいい。

日曜の街歩き日記

季節が秋に移ってから「往路15,000~20,000歩、復路メトロ」というスタイルで週末に歩く。勝手知ったる近場、東西南北の方向だけ定めるが行き先は決めない。緩急交えて歩き、決して焦らない。いつものルートなのに毎回新しい発見がある。表示を見て町名を初めて知り、碑の一文を読んでエピソードを知る。

わが家から道一本向こうの熊野街道に入る。数分後、焼肉店の角で熊野街道は東へ直角に曲がり、そのまま道なりに進むと四天王寺に到る。昨日は敢えてその道を取らず、焼肉店前を南へ直進して空堀商店街を横切った。町家を改造したショップ前に出る。

このあたりは最近ごぶさたしていたが、斜め向かいに本屋ができている。のれんを見た時は甘党の店かと思った。入店は次の機会に見送る。「の  君に本を」という店名から、誰かに贈りたい本を選ぶというのがコンセプトではないかと思った。

この先を真っすぐ進むと大阪市立中央小学校がある。4つの小学校(金甌きんおう桃園とうえん桃谷ももだに東平とうへい)を統合してできた学校だ。その前にカステラの端っこが売られていたカステラ屋があったが、今風のカフェに変わっていた。

すぐ近くに、落語『高津の富』で知られる高津神社。石の階段を上り境内へ。七五三のお参りで賑わっている。寄席の「高津の富亭」から英語が聞こえてくる。英語落語か。別の階段を下りて神社の裏へ。「梅乃橋」がある。その名の通り、この一帯は梅の名所だった。土佐のはりまや橋といい勝負ができそうなミニチュア感が何とも言えない。今では水も何も見えないが、かつては道頓堀川の源流だったと言われる。

東方面の谷町筋に出てさらに南へ。ふと清水坂きよみずざかを思い出して道を西へ入り伶人町れいにんちょうへ。このあたりは北の夕陽丘と接する、夕陽がきれいに見える高台の地形。西から清水坂を上がってきたところに新清水清光院がある。墓地の端の突き出した場所に「清水の舞台」がある。本家の京都からは絶対に見えない通天閣がここからは見える。

南側に崖があり、流れ出る玉出たまでの滝は市内唯一の滝らしい。この近辺は昔から泉が湧くことで有名。増井、逢坂おうさか、玉出、安居、土佐、金龍、亀井が天王寺の七名泉である。所々に豪邸が建つ閑静なエリアだ。そこから真田幸村戦死跡の安居神社を抜け、一心寺から茶臼山の河底かわそこ池へ。さっき清水の舞台から眺望した通天閣が間近に見えた。

コーヒーを巡る感覚的断章

☕ コーヒーをテーマにした本を書棚の一角に並べてある。これまでかなり読んでいるが、コーヒーは「読む」よりも「飲む」ほうが断然味わい深い。では、本など読む必要がないのかと言うと、そうではない。コーヒーの知識はコーヒーのたしなみの邪魔にならないどころか、大いにプラスになる。知識がなければただ飲むだけだが、知識があればコーヒーがわかったような気になれる。

☕ 人は味覚や嗅覚や視覚などの五感を駆使してコーヒーを味わう。それぞれのコーヒーには名前が付いている。キリマンジャロ、グアテマラ、マンダリン、モカシダモ、イルガチェフェ、ブラジル……コーヒーの名前も、知らないよりは知っておくほうがいい。

☕ コク、すっきり感、酸味、苦味などの度合と組み合わせは、豆のブランドごとに微妙に異なる。3種類くらいの飲み比べなら、言い当てるのはさほど難しくない。名前と味が照合できるようになれば名指しで注文しやすくなる。「語感」が五感の足りないところを補ってくれる。

☕ 普通は「コーヒー」と発音するが、{コーヒー、coffee、珈琲}のいずれで表記するかによって文中での雰囲気は変わる。学校に上がる前の頃、父に連れられて場末の喫茶店によく行った。客が紫煙くゆらせながらカップを持ち上げ、琥珀色の飲み物を啜っていた。あの濃ゆくて苦そうな飲み物は「珈琲」という文字にふさわしい。

☕ 「さて、コーヒーでも飲むか」とか「コーヒーでもいかが?」などと言ってはいけない。「でも」は余計だ。いや、コーヒーに失礼だ。いやいや、「○○でも」はすべての○○に対して無礼な物言いなのである。

☕ ホットコーヒーを注文すると、小さなチョコレートやクッキーを付けてくれることがある。チョコレートもクッキーもいいが、コーヒーはナッツとの相性がとてもいい。昭和30年前後の喫茶店ではピーナツを出してくれたらしい(今でもそんな喫茶店があると聞く)。ピーナツもいいが、最近は無塩のナッツセットを合わせている。アーモンド、クルミ、カシューナッツ、マカダミアナッツの4種入り。食感と食味の違うナッツでコーヒーの味も微妙に変わる。

☕ コーヒーには飲む前の〈香り〉があり、飲んでいる時の〈テイスト〉があり、飲み終わった後の〈アフターテイスト〉がある。これら三拍子が揃って至福の時間になる。

☕ 「コーヒーとは何か?」などと聞かれることはないだろうが、もし聞かれて、しかも「一言で」と条件が付いたら、「コーヒーとは時間である」と答えるつもりだ。さて、今日二杯目の時間を飲むことにする。

オーギュスト・ロダンの見た空

「ロダン」とだけ言うのは松本や杉山と呼ぶようなもので、正確には人物が特定できていない。あの『考える人』の制作者なら本来は「フランソワ・オーギュスト・ルネ・ロダン」と言うべきだ。とは言え、それが筋だと心得た上で、やはりフルネームは面倒なので、誰もが知っている有名人の場合は苗字だけで許してもらうことになる。

もし許されなかったら、ピカソのことは「パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・ホアン・ネポムセーノ・マリーア・デ・ロス・レメディオス・クリスピン・クリスピアーノ・デ・ラ・サンディシマ・トリニダード・ルイス・イ・ピカソ」といちいち言い、書かねばならない。

ロダンは自分が見た空について、ある日次のように書いている。

森を横切って長い散歩をした時、私は空を発見した。それまでは、私は毎日この空を見ていると思っていた。だが、ある日、はじめてそれを見たのだった。

この話に触発されて思うところを何度か書いた。いつも見ていたはずの空を、実は見ていなかったと反省気味に述懐するのはなかなかできることではない。こんな述懐をするとなれば、空だけでは済まず、あらゆるものを見ていないし感じてもいないと吐露することになりかねない。ある日、はじめてコーヒーを飲んだ、ある日はじめて君の顔を見た、等々。

ロダンの旧邸宅は今では美術館になっていて、3万平方メートルの広大な庭園の中にある。東京ドームの敷地とほぼ同じ広さだ。パリに滞在した201111月、庭園内の街路や森のような佇まいの中をくまなく歩いてみた。敷地内には美術の教科書に出てくる『考える人』や『地獄の門』などの本物の彫刻作品が、囲いも覆いもなく随所に置かれている。

さて、ロダンが見た空は何色だったのだろうか。ぼくらはほとんど当たり前のように青色だと決めつけてしまうが、彼は「空」と「この空」としか言っていない。時刻も天気もわからない。晴天の昼間か、雨の日か、どんよりとした灰色の雲におおわれていたか、日暮れ時の夕日に染まっていたのか……手掛かりはない。

空とだけ言って、付帯状況の多くを語らなかった。その空が青いという証拠はない。仮に青い空だとしても青さ加減はわからない。けれども、空としか言っていないからこそ、その空が青空であってほしいのだ。赤い空だと早とちりしてはいけない。その場合は夕方の空と言うはずである。ロダンが発見し、毎日見ていると思っていた空は青空でなくてはならないと思うのである。

近場のそぞろ歩き

ここ10年以上、ゴールデンウィークは遠出していない。メトロとバスを使って半日ほど郊外に出掛ける程度だ。その翌日は、ランチついでに自宅から半時間圏内の街中を当てもなくぶらつく。勝手知ったる場所でもいろいろと発見と再発見がある。昨日がそんな日だった。

土地勘はいい加減なもの。何を以てこの街を知っていると胸を張れるのか。発見と再発見のつど、知識と記憶のいい加減さや曖昧さに気づかされる。見た目よりも、町名や通りや筋の名称に発見が多い。町名はたいてい知っているが、「えっ、ここも〇〇町!?」という、地理上の誤認識はよくある。

大阪市内では原則、東西の道を「通り」、南北の道を「筋」と呼ぶので比較的わかりやすい。しかし、マイナーな通りにも筋にも一応名前が付いているから、サインを見て初めて知る名称も少なくない。三休橋という地名はよく知っているが、北浜から心斎橋あたりまでのよく歩く一本道に三休橋筋という名が付いているのは初めて知った。

スマホで地図をチェックしていたら、紀州街道の文字が出てきた。道修町の少彦名神社近くを走っている。知らなかった。中央区の高麗橋を起点として、船場から日本橋を経て大和川を渡り、和歌山城のある京橋を終点とする街道だ。

歩いたエリアはオフィス街なので、人通りも少なかったしほとんどの店が休業していた。普段なら車も多いのでじっくりと街並みに目配りすることはないが、昨日は店のファサードやしつらえのディテールもよく見えた。今度数カ月ぶりに歩くと、もう何が何だかわからないくらい街角が大化けしているかもしれない。

脳が感じる季節の移ろい

3月中旬が過ぎ下旬に入ってもまだ肌寒い時間帯がある。家を出る時にちょっと寒いなあと感じるくらいが散歩にはちょうどよく、速足で56分歩いているうちに温かくなる。気持ちがいいので、上着を脱いでベンチに腰掛ける。しばらくすると体感温度が下がり始め上着を着直す。こういう動作を繰り返すようになると〈季節時計〉が春の始まりを告げる。

「気温に合わせて着るものを調節しましょう」と気象予報士が言う。しかし、百葉箱の温度計が示す数値とは別の、脳が独自に感応するカレンダーがある。平年よりも暖かいと告げられたサラリーマンが、2月下旬にカッターシャツ一枚で通勤するのはやっぱり異様に見える。何かが変だと感覚が騒ぎ、めまいが起こりそうになる。

気温に合わせてそのつど物理的に衣服を調節するだけではすっきりしない。ぼくたちの脳には暦を言語で分節する季節が刷り込まれているのだ。仮に肌寒い4月の日であっても、わが街では雰囲気も気分もすでに春。冬コートにマフラー、手袋に納得しない自分がいる。気温適応を優先せずに、少々我慢してでも春装束で外出するのが自分に正直ではないか。

逆に、ゴールデンウィークが明けて少々暑くなり始め、気温が25℃を示しても、また世間がクールビズを宣言していたとしても、仕事では春スーツにネクタイがしっくりくる。環境適応だけでは四季の移ろいを感じることはできない。長年脳が記憶してきた二十四節気の顔を立ててこそ歳時記的な暮らし方が楽しめる。


ところで、大阪城の堀端の散歩道から少し逸れた先日、初めて見る光景に出くわした。近づくと碑があり「老人の森」と刻んである。行政から老人扱いされているぼくだが、この表現に季節外れに似た違和感を覚えた。何本も木は植えられている。しかし、どう見ても小さな草むら仕様なのに、なぜ森? おまけに、なぜ老人? 併せて「老人の森」。そのココロは?

「老人の森? さようですか、わたくし、自他ともに認める老人です」とつぶやいて、この森もどきの空間に立ち入ろうとする好奇心は芽生えない。老人と森という、定義不確かな二語が醸し出す不自然なネーミングも落ち着かない。どこの誰が名付けて碑まで建てたのか。碑の裏に回ってみた。社団法人大阪市老人クラブ連合会! 連合会に背筋が寒くなった。

冬ごもらない暮らし

今住んでいる地域は都会度が高いので、手付かずの自然の風景に乏しい。乏しいが「まったくない」わけではない。よく目を凝らせば自然の断片を感じさせるような空間が所々にある。大阪の都心にいると「冷え冷えとして寒い」と嘆くことはめったになく、終日冬ごもることもない。冬ごもらない・・・・・・暮らしができる。

朝、部屋から西の空を眺める。窓越しだから窮屈で見通しにくい四角い視界である。建設ラッシュでタワーマンションが聳え立ち、空は年々狭くなっている。外に出ると視界が少し広がった。雲はマンションのはるか高くにある。その日に限って、流れ行くはずの雲が急いでいないように見えた。こっちの目線に付き合って留まっているようだった。

「雲をとどむ」という表現がある。流れてくる楽曲や歌声があまりにも美しいので、雲が聴き惚れてしまう。流れるのが当たり前の雲がしばしそこに留まるというのだ。雲にドビュッシーの『雲』を聴かせてみれば、はたして留まって耳を傾けるだろうか。


年末に父が他界し、今週末まで喪に服すことにしている。どなた様とも飲み食いはもちろん、雑談程度のお付き合いも控えてきた。かと言って、じっと自宅にこもり続けているわけではない。普通に仕事をしているし、休みの日には冬ごもりなどせずに1万歩、15千歩くらい街歩きをする。

川岸、公園、庭園、プロムナードなどは、一応わずかな自然と調和するように工夫されているように思う。緑の多い中之島公園やバラ園は近いのでよく行く。この時期、バラは一本も植えられていない。養生している芝生が青くなる頃にバラが一斉にここに移植される。バラの華やかな彩りもいいが、それぞれの花の色・形と名前の響きとの似合いをチェックするのもおもしろい。

花を愛でたら幹や枝にも目を配る。通りへ出て造形っぽい街路樹を眺める。何十年も街歩きして見慣れているはずなのに、これまで気づかなかった何かに気づく。と言うわけで、今年の1月、2月は例年に比べて寒いが、なるべく冬ごもらないで外に出る。自宅にいるよりは気づきも発見も多い。

住みやすい街、十人十色

以前、ぼくの居住する大阪市中央区が欧米のある雑誌が企画した「訪れたい街のベスト10」にランクインしたことがある。悪い気はしない。しかし、何の意味もない。総じて言えば、訪れたい街や住みやすい街ランキングほどつまらないものはない。幸福度ランキングもしかり。どこに住みたいか、どこに行きたいか、どの街で幸せを感じるか……そんなことは自分で決めるものだ。

住みやすい街は自分自身の尺度でイメージする以外にない。専門家の評にも一般論にも出番はない。個人の意見あるのみ。その意見と違った意見があって当然である。賛成反対もあっていい。しかし、正しい間違いはない。

ここに書く、ぼくのイメージする住みやすい街は「コンパクトシティ」であり、その街に見合った「コンパクトな暮らし方」を理想としている。行政のそんな街づくり計画が遅々としていて、今のところ満足するレベルではないにしても、一足先に自らそういうスタイルをこつこつと実践していけばいいと思っている。

シティという都市の概念は生活の基本ステージである。暮らしに目を向けずに発展や効率を重視するとシティは消滅する。大阪市をなくして大阪都にするという都構想にぼくが反対した理由である。かつての古代や中世の都市国家がそうであったように、暮らしと発展を両立させるのがシティだ。コンパクトシティは人に寄り添う、高密度で多機能な街のカタチにほかならない。


機動力を失わずにコンパクトに生きるにはモノを持ち過ぎてはいけない。必然、公共的な便宜の充実を求めることになる。商業施設、病院、公園、広場、学校、図書館、美術館、駅、余暇などのサービスに近いのが理想だ。中心街は持続可能な再生と活性化を目指し、生活利便性にすぐれた複合的で多機能的な整備がおこなわれる。

地域が繫栄するからこそのコンパクトシティなのである。リッチでゴージャスな生活の質など求めない。スローフードとスローライフを基本とした質素な質に充足する。時には車に依存することもあるが、車は所有しない。街は車の乗り入れを制限して、通行人とコミュニティで暮らす人々を優先する。場から場へと軽快に動ける生活行動を促す。これらは高齢者が元気に暮らせる条件でもある。自然の風景など街にないものを求めるなら旅をすれば済む。

シティとライフは写像関係にある。コンパクトシティの市民として生きる意識と、コンパクトライフを生活者として送る現実は表裏一体。人生観や生活哲学も一本筋が通る。街を家の周縁としてとらえる生き方である。ぼくの場合、職住が近接し、3路線のメトロ駅まで徒歩5分、たいていのことは徒歩圏内でできる。シニアになってよりいっそうコンパクトシティでの住みやすさがわかるようになった。