アートに学ぶ

小さな会社を経営して31年になる。経営者としての強い自覚と意識は、恥ずかしながら乏しい。それでも、世間的には経営者として見なされている。経営能力などたかが知れていて、日々仕事に励み、とりあえず収支だけ大雑把に見ている。潰したりしたら迷惑をかける人が出てくるからだ。代表としての責任感だけは持ち合わせている。

経営をビジネスと考える生き方はつまらない。創業当時からそう思っていた。いや、「経営=ビジネス」という会社でサラリーマンをしていたから、独立した動機が「経営≠ビジネス」だったのである。

商売をしているというのはこちら側の論理と言い分に過ぎない。仕事を依頼してくれる人たちは、それぞれのスケールとコードでぼくの仕事の質を判断している。自分の仕事を自分で出来がいいなどと思うのは勝手な話で、いい仕事かどうかを決めるのはつねに顧客なのである。

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本業の領域だけでは仕事は高度化できないし、変化させることもできない。仕事について経営について学べば学ぶほど深堀りするばかりで、見晴らしはよくならない。専門性を研ぎ澄ますスキルが、その専門分野にあるとは限らないのである。

マンネリズムに陥らず、まずまず仕事に恵まれてきたのは、仕事外でのインスピレーションによるところが大きいと思っている。いろいろあるが、アートに親しんできた恩恵を無視することはできない。十代の頃に目指したものの断念したアートが今の自分を救ってくれている。

Palazzo Comunale, Bologna 2004 (ボローニャ市役所)

〈ビジネスなビジネス〉はつまらない。経営から離れる頃に遅ればせながら反省することになるだろう。〈アートなアート〉は趣味である。もしそれが仕事なら食いつなぐことは難しい。生計を立てるためにはアートをビジネスとせねばならない。しかし、そんな〈ビジネスなアート〉も性に合わない。と言うわけで、ぼくはビジネスをなるべくアートとして捉えるように努めてきた。〈アートなビジネス〉である。大儲けはできないが、仕事を愉快に楽しめるのが何よりである。

新しさと古さと

古色蒼然とした歴史的建造物が修復されてよみがえる。たいてい新しい建築素材が使われ壁などは見違えるように美しくなる。美しくなるとは真新しくなることだ。真新しいのに歴史的。複雑な気持ちになる。真新しさが歴史の情趣をいくばくか減じるのはやむをえない。

それでも、壊して建て替えるよりはいい。歴史に敬意を表するがゆえの修復である。築地市場がなくなって豊洲市場として一変し、名も形も消えたのは無念である。少なくとも名か場所のいずれかは残るべきだった。建て替えるにしても、かつての場所に建つのなら記憶に残る。移転しても、歴史を背負った名を継承して何がまずかったのか。

かつての面影を残しながらリニューアルした街並みにずいぶん足を運んだ。金沢や飛騨高山の歴史的街並みは、出来立てのテーマパークのように思えた。建築と街並みの修復後の真新しさに失望し、そういう方法以外に何かないものかと素人ながらに思った頃がある。

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今はちょっと見方が変わった。目に見える建築と街並みの背景にある無形の歴史とエピソードが鮮やかに感受できるなら、少々目新しくてもいいと思うようになった。新しくなって歴史が薄まる遺産は、それだけの器、それだけの価値ということだろう。他方、新しくなっても歴史が色褪せない遺産がある。

先週末、鳥栖に出張したついでに長崎へ小さな旅をした。大浦天主堂は白粉を塗ったように白かった。出島のオランダ商館跡も昔とは色合いも風情もかなり違うのだろうが、17世紀の歴史シーンを炙り出してくれたし、いくつかのエピソードが手招きしてタイムスリップをさせてくれた。大した想像力ではないが、新しく修復された建物を見、生活や商売が営まれた跡地を歩いているうちに、古い物語の一編や二編が紡げたのである。

視覚的な一日

予報によれば平年に比べて気温は高いらしいが、昨年も一昨年も10月初旬はこんなものではなかったか。9月にいったん涼しさを経験すれば、気温が20℃後半に上がると暑さのぶり返し感が強いのは当たり前。先月夏の終わりを感じ名残りを惜しんだが、ちょっと損をした気分である。

昨日、1月以来の京都に出掛けた。美術館を出たのが午前11時。まさに残暑の昼前だった。かなり喉が渇き、すでにペットボトルを1本飲み干していた。おまけに、ランチに入った洋食屋で冷水2杯、帰りがけに寄った喫茶店でも冷水3杯という具合。

暑さを凌ごうと、視覚的に涼感を誘う風情を探す。雲が多めの空の青も少し暑さを緩和してくれた。白川の岸に立つ町家の情趣は秋を思わせ、透き通ったせせらぎは5℃ほど暑さをやわらげてくれた気がする。

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歩を進めていくと、朽ちた塀を剥き出しにした一角に出くわした。あばら家だと推理するのは身勝手ではないだろう。塀というものが他人様に見られるものであってみれば、もしその家で住人が生活しているなら朽ちたまま放置はしない。ふつうはそうである。

しかし、人の感覚はそれぞれで、しかも、この時代、これが何らかの美的意匠である可能性も否定できない。しばし凝視しているうちに、住人の意図が作意に転じ、その作意を読み解きたくなる衝動に駆られた。

これはきっと何かある……そう思い始めたら、朽ちた塀のあばら家を好意的に汲んでみようと心が動いた。ほどよい青と白の空のせいもあってか、こんな殺風景な光景の前に佇んで不覚にも視覚的に涼しさを感じてしまったのである。

コーヒーと音楽

「コーヒーと○○」という組み合わせ。相性の良さそうなものを○○に入れてみる。コーヒーと読書、コーヒーとケーキ、コーヒーと観葉植物、コーヒーとギャラリー、コーヒーと新聞……。いろいろあるうち、相性抜群なのはやっぱり「コーヒーと音楽」ではないか。漠然と音楽としておくのがいい。ジャンル次第では合う合わないがあるからだ。

十数年前までコーヒーに合いそうな――つまり、ぼくが合うと思う――CDを買い集めたことがある。French caféItalian bar styleParadise Cafeというタイトルのアルバムが棚に並ぶ。カフェミュージックにはポピュラーな定番があるが、専門のラジオ局の選曲は十人十色。コーヒーやカフェとの相性には個性が色濃く出るようだ。

おびただしいカフェ向けの曲が存在する割には、パリのカフェやローマのバールでBGMを耳にした記憶がほとんどない。夜遅くに入店したサンミッシェルのダイニングカフェではロックがガンガンかかっていた。アルコールと軽食の店で客層もかなり若かったし、たぶん音楽が売りの一つだったようである。

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しかし、あの店は例外ではないかと思えるほど、パリやローマでは店内で音楽がかからない。パリではテラス派が多いからBGMを流しても音響効果がない。ローマのバールはカウンターでの立ち飲みが普通だから、エスプレッソを注文して一気飲みして23分で立ち去る。音楽を聴くために立ち寄る人はいない。

ホテル向けのラウンジミュージックというコンセプトやラジオ局も存在するが、いくら思い出そうとしてもホテルでBGMが流れていた記憶はない。コーヒーと音楽は抜群に相性が良いなどと思うのも、コーヒーの種類や音楽のジャンルの嗜好性と同じで、個人的な好みに左右されるような気がする。

音楽がなくてもいいが、あればあったで気分は変化するだろうし、いくらかリラックスできると思う。コーヒーを啜りながら音楽を聴いたからと言って、考えごとがまとまったりアイデアが湧いたりするわけではないが、今朝もオフィスでワークミュージックという環境音楽ジャンルの静かなジャズを聴きながら、一杯飲んでいる。

本とコーヒー

一昨日書いた文中では「コーヒーと本」と書いた。今日は「本とコーヒー」と並びが変わった。たまたまそうなっただけで、特に意味はない。

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ハードワークが続いて少々疲れたとしても、陽射しを浴びながら歩けば移り変わる景色が――視覚から別の感覚に変化して――身体の隅々に滲み込んでくる。その後に本とコーヒーがあれば言うことはない。もっとも今のような時期に陽射しを浴びるのは危険このうえないが……。

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『カフェの扉を開ける100の理由』という本がある。理由を100も付けられないし探せもしないが、一つでいいから理由はそのつどあるほうがいい。日常茶飯事だけれど、カフェの扉を開ける行為を無意識にしてはいけないと思うから。

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ブックカフェには業界なりのきちんとしたコンセプトがあるのを最近知った。

たくさんの本に囲まれ、カフェでゆっくりした時間を過ごす。(……)
「コーヒーを飲んでほっとする。落ち着いた空間で好きな本を読めたら……。」
「本好きな人が集まる場所で、本を中心としたコミュニケーションがとれたら……。」
ブックカフェは、そんな思いをかなえる空間であり、カフェと本屋が合体したお店のことです。
(西日本ブックカフェ協会)

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本とコーヒーは異種だが、見事に融合する。本とコーヒーが同じテーブルに並ぶひととき。死んでもいいとまでは思わないが、さらなる至福への強欲が一時的に抑制される。満たされることに謙虚になれる。

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オフィスに作ったブックカフェ風スペース“Spin_off”の一角。
本とコーヒーのための演出を凝らしたメルシー(パリ)。

最近オフィスにブックカフェ風のスペースを開設した。ここに収蔵した数千冊はほとんどがぼく個人所蔵の古本である。買った新刊書が経年で古くなったのが半分、古書店で買ってきた古本が半分。パリ滞在中に何度か足を運んだメルシーも古本カフェだった。

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珈琲色には古本が合う。十数人入ると満席になる程度の狭いスペースだが、正式に公開していないにもかかわらず、ちょくちょく来客がある。コーヒーはお出しできるが、喫茶専門店ではないしお代もいただかない。ここでは「本とコーヒー」は「本、よろしければコーヒー」という感がある。

魅惑の青

オフィスの書棚に「フランスの伝統色」と「日本の伝統色」という見本帳があり、仕事の合間の休息時にたまに手に取って眺める。何百万色もある色のほんの一部の色が収まっているにすぎない。それでも色味の多種多様にはそのつど目を見張ることになる。

もっと驚くべきことは、ぼくたちがおびただしい色の繊細な違いを判別できるということだ。科学的にどの成分が多いとか少ないとか言えるはずもないが、肉眼はデリケートな違いを感知している。ディスプレイ上でも紙の上でも、似ているが微妙に違うということがわかる。

どの系統の色も多彩に派生するが、青びいきのぼくは青の豊穣さにほとほと感心する。ある意味で青はマニアックなのである。

(……)ブルーが私たちの護符、私たちの思索の中心だ。では、どういうブルーなのか? どのブルーなのか? 咳をする前に喉もとにあらわれるブルーなのか? 《Aアーは黒、Eウーは白、Iイーは赤、Uユー緑、Oオー青よ》と発音するときに、煙の輪のように私たちの口からまるくなって出るブルーなのか? (ウィリアム・H・ギャス『ブルーについての哲学的考察』)

いかに青がマニアックか、上の一文を読めばわかる。何のことかさっぱりわからないが、よくもこんな着想ができるものだと呆気にとられる。

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フランスの女性画家マリー・ローランサンについて詳しいわけではないが、偶然古書店で展覧会の図録を見つけ、ペラペラと繰って立ち読みした。彼女は最初キュビズムから絵画に入った。キュビズムの大御所ブラックと知り合い、その後ピカソとも交遊があった。やがてキュビズムから離れるのだが、やわらかい筆遣いの中にあってその痕跡がわずかに見て取れる。

何点かの肖像画を順に拾う。構図やタッチではなく、青遣いに目が止まる。わずかな面積の中に、それぞれ風合いの違う青なのだが、それぞれに絶妙なアクセント効果を演出している。

ブルーについて哲学的考察をするつもりはまったくない。上手に青を手の内に入れるものだと素朴に感心した次第である。そして、その図録はいま手元にある。

青が気に入っているからと言って、鮮やかな青の衣服を纏い、青で室内をコーディネートするわけではない。自分から切り離された自然や絵に現れる青だからこそ魅惑的に映るのである。

ロサンゼルス日記(7)ロデオドライブ

関西空港の検疫、入国、税関を通って2階から出て外気に触れた瞬間、ムッとした湿気と23℃の気温で汗ばみはじめた。この10日間、カリフォルニアも最高気温はたぶん同じくらいだったと思うが、湿度がまったく違う。サンフランシスコの朝夕は気温が下がり強い寒風も吹いていた。ロサンゼルス郊外のランチョ・パロス・ヴェルデスと近くのビーチも底冷えに近い感じだった。ただ、体感温度は人それぞれのようで、半袖半パン姿もいれば冬装束もいたのがおもしろい。

長らく聴き話す英語から遠ざかっていたため子どもや訛りのある英語は少し聞きづらかったが、話すことに関してはほとんど苦労はなく快適だった。気候も食材もいいし、カリフォルニアワインは日本で飲む以上に赤・白ともにおいしかった。カリフォルニア米もサシの入っていない重厚な牛肉も気に入った。けれども、自動車がないと身動きの取れない社会。ぼくにとってはサバイバルしにくい地域ではある。手軽に散策したり自在に街の路地を歩いたりできないのがやや辛かった。もちろん、それは風土の責任ではなく、ぼく自身の生活スタイルから派生する不便である。

若い頃から大勢のアメリカ人と公私ともに接してきた。そして、あらためて痛感し再認識したことがある。それは、日米最大の相違にして、わが国が未だ道険しい状況にある対話能力だ。彼らはどんなに小さなコミュニケーションでも口先でお茶を濁さない。誰かと話をすることは、極端に言えば、真剣勝負なのである。

外交辞令的に場をしのいでいる人間のメッキはすぐに剥がれてしまう。たとえば、二人が会話している時に勝手に割って入ってはいけないというマナー。逆に、二人で会話をしている時、一人がよそ見をしたり中断して他の誰かに話し掛けてはいけないというマナー。わが国では日々この二つのマナー違反に苛立つことが多い。会話の不用意な中断を自他ともに許してはいけないと思う。

さて、ハリウッドは車でざっと通るだけにして、滞在最後の午後の散策にはビバリーヒルズを選んだ。ロデオ・ドライブも歩いてみた。この種の観光スポットから受ける印象は、たいてい往来の人数によって決まる。人出に絶妙の匙加減が必要なのだ。どんな匙加減かと言うと、団体ツアーの観光客はやや少なめ、それより少し多めの個人観光客、そして同数の地元住民が散歩するという具合。これらがほどよい印象をもたらす。この日の正午前はちょうどそんな配分だった。

《ロサンゼルス日記 完》

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ロデオ・ドライブの目抜き通り。
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ドライブとはdrivewayのことで、小さな道を意味する。
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知る人ぞ知るPRADAだから店名を掲げる必要がないのか。
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スーツケースは箱で作ったディスプレイ。
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ロデオ・ドライブの一角。小道の左右にカフェやジュエリーの店が並んでいる。
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世界の有名デザイナーのブランドが集まるエリアのカフェ。
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ロデオ・ドライブのこの一帯が特に「ゴールデン・トライアングル」と呼ばれるところ。

ロサンゼルス日記(6)ビバリーヒルズ

別に予定をびっしりと立てていたわけではないし、限られた時間では何かを捨てなければならないことは承知していた。なにしろ車という軸足が他人頼み。と言うわけで、ダウンタウンの様子は車の中からウォッチングするにとどめた。車を止めて、ビバリーヒルズ方面を少々散策。豪邸区域、すなわち億万長者たちの住む市街だけに、住宅価値を減じるものはすべて排除されている。美しい街並みを維持するために、住民と市当局による環境保全への取り組みと情熱は並大抵のものではない。

警察署の前にシティホールがある。1932年に建設された8階立ての建物。庁内を見学させてもらうことにした。一階と二階は自由に移動でき、建設局の部屋にも入れる。相談光景の撮影は控えたが、市民相談の窓口付近には書類や書棚は一切見えない。一対一でじっくり座りながら話をしている。まるでコンサルティングオフィスのようだ。人口の数が違うとはいえ、日本の市役所の味気なさと雑然としたさまとは対照的である。

ぼくは車を所有せず運転もしないので、最寄駅から徒歩数分以内のなるべく便利な都心の住みかにこだわってきた。しかし、住居空間や住宅様式に関するその他のこだわりはまったくない。だから、机と本棚さえ置けるスペースがあれば小さなアパートの一室でも平気だ。そんなぼくが、自分の生活様式とは無縁の超高級住宅街を車内からゆっくりと見て回る。

ビバリーヒルズの豪邸巡りをするとき、いったいどんな視点をもって観察し、どのような感想を漏らすべきか。月並みかもしれないが、この種の邸宅は間違いなく己のために建てられ構えられたものではないように思う。人は自分のためだけにこれだけの広さの土地にこれだけの豪奢な館を築くはずがない。強く他者や社会を意識しないかぎり、ここまでの贅を尽くそうとはしないはず。なるほど、そういう意味では、ヨーロッパ中世の貴族たちも現在のビバリーヒルズの成功者たちも「権威の発揚」と「見せびらかしの心理」という点ではあまり大きく変わらないように思える。

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映画やドラマのシーンによく出てくるビバリーヒルズ警察。
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警察周辺のストリート。
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ビバリーヒルズのシティホール(市役所)。
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意匠を凝らした市役所エントランスの天井。
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清潔でデザイン性にすぐれた男性トイレ。
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ビバリーヒルズ界隈の入口にあたる公園。
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庭と道の区別がつかない豪邸。
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ビバリーヒルズの典型的なストリート。
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一見するとホテルと見間違うような邸宅がそこかしこに「乱立」している。

ロサンゼルス日記(5)食の愉しみ

「食はどこどこにあり」とはよく聞く言い回しだが、食材の豊富さだけが食の本分ではない。それぞれの土地で評判になっているものを口にする――それが基本だ。食材の豊富さ、料理のバリエーション、味や凝り方に関しては、日本が世界の最高水準であることに疑う余地はない。

しかし、比較してはじめてわかるうまさなどどうでもいい。半月前に大阪で食べた寿司と数日前にカリフォルニアで食べたペルー料理の旨さを比較することにほとんど意味はない。今こうして食べている料理が、その場にいる自分にとってうまいかどうかがすべてなのである。空腹度、体調、ひいては屋外か屋内か、他のどんな食材と合わせて食べるかなどによって味は見事に変わる。

郷に入っては郷に従えこそが食の原点。ぼくは何でも食べる。いったん食べようと決めたら、太るとか健康によくないとか考えないことにしている。そう思うときは最初から口にするべきではない。前に紹介したレアステーキは、450グラムと書いたが、実は550グラムだった。高級な部類に入るステーキだが、8ドルと聞いて腰を抜かすほど驚いた。これを完食したぼくにも座布団一枚だ。もう霜降り幻想は捨てたほうがいい。

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近くの土曜マーケット。
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ペルー料理の屋台。二番人気のチキン焼きめしを賞味。
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見慣れない野菜もちらほら。
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1.5ドルのホットドッグ。トッピング過剰、食べ応え十分。
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メキシコ産のなすび。50cmほどの驚きの長さと見慣れぬ形。
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豊富なフルーツの種類。特に桃の品種が多い。
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COSTCO(コストコ)の陳列はすべてダイナミック。
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レジを通過した直後の壁に貼ってある「会員サービス優秀従業員一覧」。
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レジで処理する個数、スピード、ミスの少なさなどに基づいてランキングを毎日更新して発表している。
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モールのカーニバルフェアはさしずめ夏祭りか。アメリカ人と言えば「ポップコーン大好き」というステレオタイプな印象があるが、まったくその通り。一人で洗面器一杯分を食べている人がそこらじゅうにいる。
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ビバリーヒルズで注文したハンバーガー”クラシック”。
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手前がベーコン添え。右がオニオンリング。
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バーガーショップのカウンターに置かれているジュークボックス。音楽はここからではなく、店内のスピーカーから流れる。60年代の曲が多かった。ニッケル(5セント硬貨)1枚で1曲。興味を示していると、店長が硬貨を数枚置いてくれた。つまり、ただということだ。

ロサンゼルス日記(4)ランチョ・パロス・ヴェルデス

聖書やキリスト教についてまったく無知ではない。歴史についても少しは勉強してきた。だが、クリスチャンではない。そのぼくが旅行のたびに教会を訪れるのは、山がそこにあるから登るように、そこに教会があるからだ。決してギャグのつもりではない。教会があるから教会を訪れる――これは、欧米の地では教会を避けて街歩きしたり佇んだりすることが不可能であることを意味している。とりわけ教会を中心に都市の構造が形成されているヨーロッパでは、教会を抜きにしては街への理解は進まない。

日曜日、ローリング・ヒルズ教会(Rolling Hills Covenant Church)に行ってみた。もちろん教会だから多少の儀式色はあるが、空気はフランクである。ペテロの第一の手紙第3章の7「夫たる者よ。あなたがたも同じように、女は自分よりも弱い器であることを認めて、知識に従って妻と共に住み、……」に始まり、途中エペソ人への手紙第5章の22「妻たる者よ。主に仕えるように自分の夫に仕えなさい。」から、同33「いずれにしても、あなたがたは、それぞれ、自分の妻を自分自身のように愛しなさい。妻もまた夫を敬いなさい」までの話を関連づける。

空気を変えるのは場か、自分自身か、他人か、それとも自然か。いや、これらだけでもない。時間というのもあるしテーマもある。しかし、その教会でぼくが感じた空気の変化は明らかに牧師(pastor)のことばによるものであった。スピーチではなく語りかけである。強弱もあり緩急自在。総じて早口なのだが、絶妙な話しぶりだ。頭脳明晰、ユーモア、教養はことばに現れる。誰かに何かを説くことに関して新たな勉強になった。

車で15分圏内のマリンランドとその近郊のシーンが印象的だった。お世話になっていたパロス・ヴェルデスの住宅街にはあちこちに白い柵があり、馬道がつくられている。乗馬センターの馬ではない。このあたりの住民は自宅で馬を飼っている。道路を渡るときの信号押しボタンも、歩行者用の位置と馬上から押せる位置の両方にある。

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住宅地一帯が壁で囲まれた「〇〇が丘団地」は、”Gated community”と呼ばれる。
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馬のお散歩は日常の光景。
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近くのモールの書店。全ページ総カラー512ページの”The Every Day CHICKEN Cookbook”(毎日のチキン料理集) と、これまた総カラー544ページの”501 Must-Read Books”(501冊の推薦図書)を買った。
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土・日曜日に開催されるカーニバルフェア。
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遊園地は駐車場に特設される。子どもだましではなく、本格的なものだ。
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クジラがやって来るマリンランドの岬と灯台。
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海の青が濃さが際立っている。
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遠くに見える海岸線を辿っていくとサンタモニカに達する。
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マリンランドから北方面を見る。
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岸壁から数十メートルのところに高級住宅地が居並ぶ。一本の木を挟んで、左手にやや懐古趣味的な住宅、右手に対照的なガラス張りのモダンな家。