「ちゃんと」の作法

「ちゃんと」が口癖の、人のいい社長がいた。

社長「ちゃんと・・・・掃除したかな?」
社員「はい」
社長「トイレも?」
社員「はい」
社長「じゃあオーケー」

社長と社員の間で「ちゃんと」という基準の取り決め――たとえばチェックシート――があり、互いに了解しているなら、上記のやりとりを可としよう。ところが、「ちゃんと」という副詞は厄介な曖昧語なのだ。ちゃんとした商売とか、ちゃんとルールを守るとか、わかったようでわからないし、「ちゃんととは何だ?」と突っ込まれたら困る。

「ちゃんと」とは期待される基準から外れていないことであり、すべきことをぬかりなくおこなう様子である。仕事をちゃんとこなしているとは、その仕事で期待される基準を満たしていること。ちょうどジグゾーパズルをちゃんと合わせるように。

小難しい言い方をすれば、「ちゃんとする」は最低限の賢慮と良識を以て任に当たることである。行き当たりばったりではなく、運に任せるのではなく、自分なりの勝手な解釈をするのでもない。期待される基準とは約束事であり、それを当然のこととして遂行するのが「ちゃんと」である。

マネジメントを「管理」や「経営」と訳したために、元の「工夫してどうにかこうにかやり遂げる」という意味が薄れてしまったが、「ちゃんとする」はれっきとしたマネジメント能力である。明確な目的のない、習慣的な善行とは違って、マネジメントには任務がついてまわる。任務は上司や組織や顧客の期待に沿うようにちゃんとおこなうことが必要。

「食事はちゃんとしてる?」に対する「うん」。「明日の準備はちゃんとできてるか?」に対する「はい」。「ちゃんと」を含む問いに対してイエスと応答されると、チェックもせずに、つい信じて甘いオーケーを出してしまう。問う側は安易に使わないように気をつけないといけない。

新種が新種だとわかるには……

新型コロナウィルスが注目される直前の20191月、高知県に数日出張していた。当初から1日余裕ができるスケジュールだったので、度々出張で来ていたのに一度も機会がなかった牧野植物園を訪れることにした。周遊バスは市街を後にして、港を展望できる五代山を上がっていく。

美術館や博物館巡りは好きだが、辛抱が足りないほうなので、展覧会の大小にかかわらずだいたい1時間ちょっとの鑑賞が限界である。それなのに、あの広大な植物園の館内や屋外をくまなくじっくり歩き、3時間近く費やした。これはあのルーブル博物館の滞在時間に匹敵する。

牧野富太郎の生涯を描いた朝ドラ『らんまん』が先週で終わった。方々の野山を歩いて植物を採集し、自ら発見した新種は約600種と言われる。発見というのは不思議な概念だ。誰かがそれまでに見つけていても、一般的に知られていなければ未知として扱われる。しかし、日本で発見して喜んでも、世界を視野に入れるとすでに発見されているかもしれない。


これまで商品のネーミングをいろいろ依頼されてきたが、そのうち商標登録を2件手掛けた。担当してくれた国際特許の専門家はコンピュータを使ってあっと言う間に「新案」として申請した。こんなふうに今ならすぐに「新」がわかる。しかし、牧野の時代、コンピュータはおろか、植物図鑑や標本も充実しておらず、世界初だと認定してもらうのは一筋縄ではいかなかった。

新種Aを発見したと言えるためには、「それ」が正真正銘の新しい種であり、かつて誰も「それ」を見つけておらず、自分が最初だということを証明しなければならない。そのためには、類似の様々なの標本と照合して、まったく同一ではなく、差異があることを明らかにする必要がある。

新しいかもしれないものを「既知」と照らし合わせて差異や類似を見い出す。既知は既知でも「自分の記憶や知識」との照合ではダメで、公認された既知でなくてはならない。何かと比較もせずに、一つのものをそれ単独で明らかにしても新種にも新案にもなりえないのだ。

新種の発見や新案の発明は大変なミッションである。今となってはチャレンジする能力も気力もない。それどころか、想像するだけで、「新しい」ということばすら安易に使えなくなる。

コツコツが発想のコツ

💡 「一瞬のひらめきで企画案が出来上がる」なんてことはありません。好奇心や遊び心に促される気づきをコツコツ積み重ね、地味にあれこれと考える。これが発想の基本。奇跡も稀にありますが、期待しないほうがいいでしょう。

💡 正解は、どこかにあるものではなく、そのつど編み出すもの。しかも、一つとはかぎらず、現実世界ではたいてい複数の正解がありえます。有力視される論理的思考や分析的思考から生まれるアイデアは案外月並みです。決して過信してはいけません。

💡 半世紀以上前に、論理一辺倒の「垂直思考」に代わる、柔軟な「水平思考」を提唱したのがエドワード・デ・ボノ。A⇢B⇢C〉という順序的な定常処理に対して、水平思考とは論理を脱して「飛ぶ」ということ。誰にでもできる思考ではないですが、近づける道はあります。さぞかし「すごい方法」に違いないと思いきや、普通過ぎて驚きます。それはそうでしょう。日常わたしたちは論理思考で明け暮れているわけではないですから。

 広視野でとらわれなく考える。深く考えようとするととらわれる。浅くてもいいから広く見渡すように考える。

 大きな目的を目指すとマクロ的かつ抽象的に考えてしまう。小さくて具体的なゴールほど到達しやすい。

 何もかも手の内に入れて考えるのは所詮無理。何が重要か――あれもこれもと欲張らずに、優先順位を決める。

 「これが正解だ!」と確信した時に落とし穴が生まれる。一つのアイデアに安心せずに、代案やオプションを捻り出す。

💡 発想の質――ひいては企画の質――は膨大なルーチンワークの積み重ね、同じことの繰り返しによって高まります。職人さんの経験・熟練と同じ。日常的な経験値が多いほど気づきも多くなります。毎日同じ道を歩いている人ほど変化をしたためやすいのです。

💡 発想のスキルはいきなり身につきません。また、仕事中に身につくだけではありません。生活のスタイル、癖や習慣、教養や雑学がスキルに反映します。面倒臭がらないこと。細やかに気遣いすること。記録し記憶すること。そして、社会とのアナログ的距離感覚をおろそかにしないことがたいせつです。

(岡野勝志『企画発想術講座(初級)』のイントロより)

紙の上の文字に向き合う

PCの普及がごく一部に限られていた1980年代の後半。小型のワープロ「文豪」で文書を作成し、感熱紙に印字していた。主要な文字情報源は本か雑誌だった。さらにその前の10年は原稿用紙に手書きしていた。企画書も手書き。手直しが多くなりそうな予感があれば鉛筆で書いた。書き直しは当たり前なので、消しゴムと修正液は必需品。時間はかかったが、それ以外に選択肢がなく、特に不便だとは思わなかった。

大阪の「適塾」や京都の学塾まなびやである「山本読書室」はいずれも江戸時代に開塾している。塾生はどうしても手に入れたい稀少な本があれば、すべて自分で筆写していた。学ぶ情熱があれば手間暇は厭わなかったのである。翻って、PCもスマホもない時代には戻れそうにない今、ITの利器が誕生する前の十数年間仕事をしていた者としては、古典的な学びのスタイルとリテラシーから学んだことが財産になっていると思う。

本を読むこと、観察すること、手書きすることを日々意識しているつもりだが、気が付くと一日の仕事の大半はキーボードを叩いている。PCは仕事の道具だから手放せない。しかし、スマホ時間は減らせるのではないか。減らせば読書時間が増えるのではないか。そう考えて、この一カ月、休みの日と平日の仕事中は不要不急のスマホ利用を控えるようにした。特に困ったことは生じない。むしろ、眼精疲労がずいぶん緩和された気がする。


ディスプレイの文字ではなく、紙に印刷された文字。キーボード経由の文章ではなく、紙に手書きする文章。つまり、デジタルではなくアナログということだが、そこには生身の感覚と直結する「手触り」がある。適塾の二階部屋で閲覧できる「ヅーフハルマ蘭日辞書」のことを思い出した。たった一つの場所に一冊しかない辞書に学び手が争うように群がった。無限増殖可能な、一人一冊持てる電子辞書の前で人は血相を変えることはないだろう。

先週、4年半ぶりに長崎に行く機会があり、再び出島を訪れた。そこでズーフハルマ辞書とまた出合う。適塾を主宰した緒方洪庵は天保7年(1836年)に長崎へ遊学し、出島のオランダ商館長でもあるニーマン医師と交流しつつ医学を学んだ。天保9年の春に大阪に戻った洪庵は適塾を開き、持ち帰ったヅーフハルマ辞書を活用して塾生指導に当たった。

コロナで仕事がペースダウンした3年間、安直にPCやスマホで調べるのではなく、手の届くところに数冊の辞書を置いて、頻繁に引くように意識した。引いた見出し語には青の色鉛筆で傍線の印を入れる。単に意味をチェックするだけで終わらないのが辞書の利点だ。ことばが別のことばを、断片的な小さなアイデアを誘発する。

さて、アナログリテラシー重視の勉強会の再開準備を進めているが、イベントをメールやSNSで案内するのはやむをえない。昔は住所を知らない人たちと交流することはほとんどなかったが、今は住所を知らない人たちとアルファベットのアドレス上で毎日のようにやりとりしている。当たり前のようだが、時々自分のしていることを不気味に思うことがある。

動けば気づき、出合う

この3年間出張が激減し、仕事のスタイルが大きく変わった。2019年までは毎月34都市へ1泊か2泊で出張するのが常だった。ところが、昨年は宿泊出張はわずか2件、日帰りの仕事も月に1件あるかないかである。働き方は二足のわらじから一足のわらじになった。

机に向かう時間が長くなると考えは深くなるかもしれないが、地上のことに気づきにくくなる。ひらめきの回路が閉じてしまうような感覚に陥る。正確に言うと、座る作業ならではの気づきがないわけではない。しかし、気づくのは守備範囲内のことばかりで、想定外の気づきにはなかなか到らない。

平日は脳が膠着し、尻が椅子に膠着し、視野が膠着する。そこで、面倒くさがらずに頻繁に席を立ち、何回かに一度は用の有無にかかわらず外に出る。つまり、動いてみる。半時間か小一時間程度だが、見えるものが一変し、それまでと違う景色が目に入り、何かに気づき、その気づきに触発されて新しいことを浮かべたり考えたりするきっかけになる。そんなに首尾よく結果が変わるわけではないものの、見通しがよくなってくるような気はするのだ。


戻ってくると、メモを取ったりノートを書いたりしやすくなっている。じっとしているよりも忙しく動いている時のほうが、言語的な働きが旺盛になっていることがわかる。コロナで出掛けず、人と会わずに話もしないことのツケは大きいなあと思う。

ルーチンとして日々よく歩いていた哲学者のエピソードを聞く。カントは毎日同じ時刻になると散歩に出掛けた。西田幾太郎が思想に耽った散歩道には「哲学の道」と名づけられた。散歩は運動だから、健康が効用であることは間違いないが、部屋でじっとしているよりも感覚が受ける刺激の強さと変化が違う。ものの見方が変われば思考の行き詰まりを少しは解消してくれるのだろう。

年末に古本屋で『書斎曼荼羅 本と闘う人々➋』を買った。後で出版された➋を先に手に入れて➊がないのは不自然。どこにも出掛けずに➊を求めようとしたら、Amazonや楽天で本を探して注文して配達してもらうしかない。運よく見つかれば23日で手元に届く。しかし、欲しいものを外に出ずに手に入れることに、入手すること以外の付加的な行為や意味は伴わない。引きこもりは機械的な効率を求めて良しとしておしまい。

年明けから平日も――仕事を中座してでも――外へ出るようにしている。先週、➋を買った古本屋とは別の古本屋にたまたま立ち寄り、探したわけではないのに、偶然にして➊を見つけたのである。こういう、まるで用意されたかのような出合いが、在宅ネット注文との決定的な違いなのである。外に出る、場を変えてみる。望外の、脱目的の気づきと出合いの時間が生まれる。

ことばがイメージを広げる

インプット量に見合った成果がコンスタントに得られればいいが、なかなかうまくいかない。以前、かなりの読書量を誇る知人がいた。しかし、博覧強記にはほど遠く、また読書は日々の仕事にもあまり役立っていないようだった。「学び多くして知識身につかず、また機智少なし」という結果が常である。

むやみに本を読み他人の話を聴くだけでは、後日再現したり活用したりする取っ掛かりになりにくい。しかし、インプットの時点で、ほんの少しでも考えるとか単語や文章を記すとかしておけば事情は変わってくる。つまり、インプット過程にアウトプットを内蔵させる一工夫。インプットとアウトプットを切り離さないようにするのである。

たった一つのことばが記憶をまさぐるきっかけになる。いま読書室の企画を依頼されているが、〈読書〉というありきたりな一語から知識や経験の扉を開くしかない。一つのことばからイメージを広げるというのは企画の基本である。そして、ことばから導かれた印象的なイメージを起点となったことばの中に折りたためば、ことばとイメージが一体化する。インプットとアウトプットが一つになる。


今はもう廃業してなくなったが、じいさん一人だけの自転車修理専門の小さな店が近くにあった。具合の悪い自転車が持ち込まれると、何はともあれ、じいさんは大きな木箱を持ち出してくる。その中には、自転車の古い部品や、おそらく自転車以外の大小様々な部品が、整理整頓されずに雑然と入っていた。じいさんはその中に手を突っ込んで指先で使えそうな部品を探し出した。

その姿を見ていて、レヴィ⁼ストロースが着眼した〈ブリコラージュ〉という概念を思い出した。「器用仕事」と訳される。深慮遠謀して何かを作るのではなく、ひらめくままに「そのつど主義」で作ったりつくろいに使ったりする。いつか使えるかもしれないと思って残しておいたものといま手に入れたものを直感的に組み合わせて試行錯誤する。

あのじいさんの木箱には、いつか使えるかもしれないと思って貯め込んできたおびただしい部品が入っていた。何に役立つかはわからないが、気になったものや縁を感じたものを手元に置いてスタンバイさせていたのである。どんなアウトプットになるかを深く考えずに、気になるものをひとまずインプットするやり方は、情報のインプットとアウトプットの関係――ひいては、ことばがイメージを広げる様子――にも当てはまる。

最後に。今日の話は「ことばがイメージよりも優位」という主張ではない。ことばがイメージを広げるのと同様に、イメージもことばを広げる役を果たす。しかし、「イメージがことばを広げる」と題して書けばまったく別の話になる。

続・ひらめきに関する一問一答

「ひらめきはビジュアル的だ」と考えるのは一つの偏見である。ことばよりも画像のほうが情報圧縮度が高いのは事実。しかし、情報量の多さはビジュアルが言語よりも優位であることの証にはならない。ひらめくきっかけにはことばも大いに関与するのである。

ひらめきに関して研修の受講生から寄せられた問いと回答。その続編を紹介する。


Q1 グループ内でせっかくユニークなアイデアが出たのに、それを掘り下げたり広げたりすることに不安が生じることがあります。結局無難な案に落ち着くことになります。

A1 グループ討議で多様なアイデアが出るのは歓迎ですが、最終判断が多数決的になるため、無難な八方美人案が選ばれがちです。内心では誰だってアイデアはユニークなほうがいいと思っているにもかかわらず。
もっと言えば、ユニークなものを本来アイデアと呼んだはずです(つまり、陳腐なアイデアはアイデアではない)。しかし、平凡の壁を破って湧いたユニークなアイデアを御すのは容易ではありません。人は自分の経験や知識の範囲外の発想に不安を覚えるからです。そして、一度不安になると、落としどころは前例的、アイデアは二番煎じになってしまいます。

Q2 強制的にひらめくように仕向ける様々な技法がありますが、どのように付き合えばいいのでしょうか?

A2   白い紙に向かってあれこれと企画案を考えるよりも、アイデアを促進してくれそうな図やフローチャートがあるほうがひらめきの機会は増えるはずです。しかし、未知の領域に飛び込む勇気が必要です。既知の範囲で収束させようとするかぎり、KJ法も特製要因図もSmartArtも、創造技法ではなく、分析とまとめの手段で終わってしまいます。

パワーポイントで使えるSmartArtのサンプル

Q3 ひらめきや企画力を強化するためにどんなトレーニングがあるでしょうか?

A3 誤解を恐れずに言うなら、トレーニングはありません。ひらめきや企画の「見えざる型」は習慣形成によって何となくわかってくるものです。ひらめいたことや企画したことは見えるように、わかるようにしなければなりません。見えるとは言うものの、写真やイラストやフローチャートには多義性があるので、意味が通じるとはかぎりません。ひらめきを科学した千葉康則は次のように言っています。

「ひらめきの構造を探ったりトレーニングしたりしても、可視化でき共有できるのは『ことば』でしかない」。

ひらめいたことも、考え抜いて企画した案も、ジェスチャーや絵で伝えることはできないのです。企画とは「画を企む」と書きますが、画はビジュアルということではなくて、ことばだと考えるべきです。企画力とは何か、一言でまとめるならば、「言語活用力」ということになると思います。

ひらめきに関する一問一答

ひらめきのエピソードとしてはアルキメデスの入浴がよく知られている。ある日アルキメデスが気づく、「湯に浸かると浴槽の水位が上がり、水位が上がった分の体積と湯の中に浸かっている身体の体積が同じである」と。アルキメデスは“Eureka!”と歓喜して、裸のまま浴槽から飛び出したアルキメデスはギリシア人だからギリシア語でそう叫んだ。ひらめいた時に感嘆する「わかった!」という意味である。

日本語では表記ゆれがある。原語に近いのがエウレカらしいが、学校の教師はユリーカと発音したし、その他にユーレカやユーリカもある。現代思想の月刊誌のタイトルは『ユリイカ』だ。

ひらめきを象徴するシンボルにはバリエーションがいろいろあるが、基本は電球のイラスト(💡)。ピカッと光った瞬間の電球や、ピカピカと光っている様子の電球が描かれることが多い。

さて、企画の研修をしているので、研修後に企画についての質問がメールで届く。質問をまとめて「企画相談箱」というファイルに入れてある。今日は、ひらめきとアイデアに関する一問一答を簡略化して紹介する。


Q1 アイデアがなかなか浮かびません。どうすればいいでしょうか?

A1 勘違いしないように。アイデアは浮かばないものだと考えておきましょう。たまにひらめいても、そのひらめきを見過ごしてしまうことが多い。自分のアタマの中で稀に起こるアイデア誕生の瞬間に立ち会うためにいつも気に留めておくこと。自分のアタマの面倒を見るだけで大変なので、人のアタマの中を気にしている暇はありませんよ。

Q2 複数のアイデアを書き出せたものの、どの方向にするかなかなか決めることができず、時間が過ぎるばかりです。

A2 「物が人間を惑わすのではない、物の見方が惑わすのだ」。古代ギリシアの哲学者、エピクテトスの言です。これにならえば、アイデア側の問題ではなく、自分の見方が定まらず、心がぶれたり戸惑ったりしているということになります。それぞれのアイデアの言い分に耳を傾けましょう。人は何かを生み出すよりも何かを評価して選ぶほうがぎこちないもの。M-1グランプリの審査を見ていたらわかりますね。

Q3 企画では、立案そのものよりもひらめきのほうが重要と考えていいのでしょうか?

A3 立案のきっかけになるのはひらめき(着眼や発想)です。ひらめきは気まぐれなので、努力や知識の量に比例しません。他方、案を仕上げていく上では構成の力、理屈や緻密な計算が必要です。ひらめいてから案をまとめるには必ずある程度の時間がかかります。ひらめかなければ何も始まりませんが、ひらめいてからの企画の仕上げでは絶対に手を抜くことができません。

〈続く予定・・

十二月一日の独言

季節はある日突然大きく変わるものではないから、十二月一日を晩秋とするか初冬とするかは決めがたい。外に出れば初冬、室内にいると秋の日和。

さて、今日34歳の誕生日を迎えた。この日を迎えたのは、人は人でも法人、つまり創業した会社である。昨年が33歳だったので必然そうなる。

仕事は創業以来一貫して変わらない。一方で企画をしたり文章を書いたり情報を編集したり、他方、出掛けて行って講演したり研修したり。主に言葉を素材とする小さな仕事ばかりだが、テーマやジャンルが広いので、いろんな仕事をさせてもらって何とか今日に至る。少しは技も磨け芸も身についたせいか、ありがたいことに今も出番がある。

仕事というものは仕事そのものを頑張ってもうまくいくものではない。いや、仕事しながらも仕事にべったりしないのがいいと思っている。たとえば、仕事のことばかり考えない。またたとえば、仕事に関する本は原則として読まない。そんな時間があれば仕事と直接関係のない本を読む。そのほうが長い目でじわじわ効いてくる。

今日から読み始めた古今亭志ん生の『志ん生芸談』などもそんな一冊。夏場には桂米朝の上方色の強い『一芸一談』を読んだ。「技芸への目配りなくしてわが仕事深まらず」の思いでこの筋の本もよく読む。書かれていることはさておき、話のリズムがためになる。

凡庸な安定や秩序が続くと仕事は上達しない。時に混沌とし、喜怒哀楽の様々な場面を巡り、紆余曲折を経てこそ力がつき、やりがいも感じる。と言うわけで、多方面の方々からの長きにわたる支えに感謝して、今日から懲りずにまた次へ。

次? その次があまりよく見えていないのだが、それは毎年、毎度のこと。

ノートを綴らない日々

一週間ぶりにここ・・に戻ってきた。「ここ」とは、ブログの「クイックドラフト」という下書き専用の画面である。ルーティンとして、手書きでノートに綴って文章を推敲してからPCに向かうようにしているが、ここしばらくノートすら開けていない。コラムを書くという仕事が入ってきたからだが、ノートを綴らなかったのは仕事のせいばかりではない。

どんなに仕事を急かされている時でも、書ける時は書く。どんなに時間を持て余していても、書けない時は書かない。今は後者である。人的交流上の、情報交換上の、そして印象観察上の刺激が圧倒的に少なくなっているのが原因だろう。書けないなら書こうとしなければいいのだが、長年のノート習慣に背いているような気がして、心地よくない。

「書けない」か「書かない」か、どっちでもいいが、半月もノートに書き込みをしないのは感じることが少ないからである。いや、小さな気づきがないわけではないが、そこから先へ進むには探究心とマメさが必要だ。さもなければ、細くて軽い水性ペンですらずっしりと重そうに感じて、手に取ろうとしない。今日も机の横に置いてある背丈2メートルほどのアマゾンオリーブの幹に1センチほどの新芽を見つけたが、それをテーマにして綴ってみようという気は今のところ起こらない。


「出掛ける前にスプレーしておくと衣服に虫がつかずに帰ってこれます」という、消臭剤の説明書きを見つけたことがある。虫除けスプレーではなく、消臭剤! 以前なら、嬉々としてそのことについて書いてみようと思ったものである。そんな話をうまく展開しながら書けたとしても駄文の可能性が高いのだが、どんなネタからでも企画したり書いたりするのが本業の本能だと自覚していた。

しかし、「何々だから何々すべきだ、何々できて当たり前だ」というのも変な強迫観念である。それは「せっかくどこどこに来たのだから、やっぱりアレ・・を食べなきゃ!」という気分に似ている。たしかに、そういう時もあるけれど、別にそうでなくてもいいではないかと割り切ることもできる。讃岐に来たら「うどん」という定説に反したこと、一度や二度にあらず。ナポリでもピザを食べなかった。

今ふと讃岐うどんのあの地のある日を思い出した。混み合っているうどん店を諦めて、場末感の強い喫茶店でランチをしたことがある。外はやや強めの雨が止まず、どこでもいいから近くの店でいいという妥協策だった。床にじかに置かれた扇風機、開け放たれたテラスの扉、おびただしいアロエの鉢……。何を食べたかはっきりしないが、あの時の店の光景は鮮明によみがえる。

何かに気づき、その何かから考えを巡らすことはできなくても、記憶が動くなら、そして駄文でよければ、こんなふうにまずまず書くことができるようだ。