まずうま讃歌

まずうま・・・・とは複雑な概念である。ほどよいうまさのことではない。まずくてうまい、あるいは、まずいがゆえにうまい、なのである。うまいものが氾濫している現在、過ぎたるはなお及ばざるがごとしにしたがえば、度を越してはうまさも裏目に出る。

一口入れて「うまい!」と感嘆するものの、もう少しまずければもっと「らしく」なるのにと思うことがある。そんな料理や食品があるのだ。

カフェ専門店でのランチにナポリタンを注文する。チーズがたっぷりかかっていて洗練された味。しかし、もはや想定内のナポリタンではない。昔懐かしい喫茶店の、少々ゆるっとした麺を使った、味に起伏のないあのレベルでいいのにとつぶやくのはアマノジャクな願望か。

京都七条の場末のパン屋で売っている酒饅頭のようなパンは見た目以上にまずい。1パックに56個入っている。一個50円ほどのやけくそのような値段設定。食べているあいだは「う~ん、よくもこんなに上手にまずく作ったものだ」なのに、食べ終わると「まずいがクセ・・になる、もう一個」となる。クセになるのは食後感に快さがあるからにほかならない。

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粉ものにはクセが欠かせない。穀物倉庫の匂いがするリングイネなどは最たるものだ。ミラノで食べたピザの粉っぽいまずさは呆れ返るほどだった。しかし、クセやまずさと折り合い、うまさに昇華させるには大人の舌が必要。食する者がクセやまずさをイマジネーションで補填してやらねばならない。ホウトウや団子汁もまずうまである。

うま過ぎるものに対して「もうちょっとまずくてもいい」というのは、美食の怪しさへの懐疑であり、一つの抵抗でもある。美食に飽きた人間が日常的な普通の〈実食〉に回帰する時、まずうまの良さを実感する。

ところで、へたうま・・・・というのもある。技術が未熟で下手なのだが、味があるという意味。以前よく似顔絵を描いていたが、絵は我流、ただ思うに任せてペンを動かすだけだった。へたうまと評されて気分は複雑だったが、うまへた・・・・と言われるよりはよほど褒め言葉であることがようやくわかってきた。まずうまに目覚めたお陰である。

体感についての雑感

こっちはさほど暑さを感じていないのに、挨拶かわりの「暑いですね」が耳に入ると体感温度が上がる。余計なことを言わないでほしい。温度計が示す数字とは異なる体感温度がことばやイメージによって上下する。

星を見る目から涼しくなってくる

センスのいいシュールリアリズムな句。小四男児の作品であることに驚く(『小学生の俳句歳時記』)。

窓際の温度計を見て大きくため息をつく。肌はどう反応するのか。窓を開けてみた。尋常ならぬ熱風が瞬時に入ってきた。急いで窓を閉める。家族連れがつらそうにアスファルトの舗道を歩いている。他人事ではない。まもなく出掛けなければならないのだ。

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灼熱の外気から逃れて地下街に潜れば一瞬ほっとするが、ほとんど通行人がいない。人気ひとけがないと通路は長く見える。まるで無限通路のよう。潜った手前、地上に出なければならない。不幸なことにエスカレーターもエレベーターもない。心理的な無限階段が立ちはだかるが、回避するすべはない。

変幻自在に形を変えて流れて行く雲。空の青も刻々と移ろう。空と雲が提供してくれる題材はおびただしい。しかし、夏場のメンタリティは鈍感である。一篇の詩を編むのが億劫。それどころが、ことばにする軽やかさが欠けている。小四男児の感性がうらやましい。

身体を少し反らせて空を見る。低い雲あり、高い雲あり。陽射し強く、熱を帯びた風が暑さを増幅する。リアルな視覚を封じ込めて、緑の涼を精一杯イメージしてみる。ふとことばが紡がれたような気がしたが、雲のように散り、風のように止んで消えた。忘れられたことば? いや、気づきも覚えもしていないことを忘れることはできない。

〈暑〉を生きる

暑中お見舞い申し上げます

今年の夏も義理堅いあの人から一葉が届いた。団扇のイラストから「暑ぅ~」という吹き出しのルーティーン。余計なことしなくてもいいのに。

いつも長蛇の列が並ぶラーメン店。さすがに炎天下では列にならないが、それでも数人が待つ。命がけのラーメンランチ、もしものことがあっても保険適用外。

オフィスのエントランス。ほぼ毎朝、掃除のおばさんと顔を合わす。「おはようございます。お疲れさまです」と声を掛けると、先月から返事は決まって「暑いですねぇ」。よく通るこの声で体感温度が2℃上がる。おそらく九月中旬まで繰り返されるはずである。

極暑、炎暑、大暑、酷暑、猛暑、激暑、厳暑……。爆暑や乱暑や倒暑が辞書の見出し語に加わるのは時間の問題だと思われる。

これだけ暑を並べてみると、「日+者」という文字の組み合わせが異形に見えてくる。以前調べたことがある。冠の「日」が太陽の光であることはわかる。そこになぜ者がつくのか。ある本には「煮の原字は者だった」と書かれていた。別の本には「者とは一ヵ所に集めること」とあった。併せると「太陽の光を一ヵ所に集めて煮る」。おぞましい。

一週間先は立秋なのに、真夏は始まったばかり。この先、未来永劫、暦と現実が一致することはないだろう。二十四節気に感じ入る風流な精神で過酷な身体的試練を克服するしかない。金田一春彦の『ことばの歳時記』に「立秋のころ」という一文がある。

ある風流人のところに、暑さの中を訪れた客が、茶室に通され、汗をぬぐいながら、ふと床の間の掛け字に目をやると「夕有風立秋」と書いてある。「良い句ですな。夕方ごろ吹く風に秋の気配を感じる、というのは今ごろにピタリですよ」と、お世辞半分にほめると、主人は微笑して、「いやあ、これはユーアルフーリッシュと読んで、おバカさんね、ということなんです」と答えた。

誰もが立秋までにフーリッシュになりそうな暑さである。「狂暑」と呼ぶことにする。

情報にまつわる錯覚と幻想

現状を分析して問題の原因を探り、しかるのちに問題の解決案を編み出す。これが一般的な企画手順である。ところが、こうして立案される企画は現状に軸足を置いたマイナー改善策の域を出ない。めったなことでは斬新なアイデアが生まれそうにない。

この手順に従うと、できるかぎり情報量を増やそうと躍起になりかねない。情報量に比例して企画の質が上がるという、まったく信憑性のない通念にしがみつく。実際のところ、現状を緻密に分析しなくても、どうすればいいか、どうしたいのかと想いを強くしていれば、アイデアの芽生えに近いところで発想できることがよくあるのだ。

にもかかわらず、人は情報収集に励む。人の情報入力にはキャパがあり、情報源への目配りにも限界がある。日常生活で触れる話題、雑談、テレビのニュース、新聞、雑誌、本だけでかなりの情報量になる。ここにインターネット――画像に動画にSNSにメールなど――が加わる。

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21世紀に入って20年足らず。しかし、今日、前世紀に日々接した総量の何乗にも達するほどの情報に晒されている。晒されているだけならまだしも、キャパシティの程をわきまえずに情報を探し求めて取り込もうとする、いや、取り込まねばならないと急かされる。手に入れた情報のほとんどが、あってもなくてもどうでもいいものばかりである。

実際にショッピングに出掛けて知りえる事柄よりも、ネットショッピングにともなう情報のほうが圧倒的に量が多い。店舗ではスペースの限界が購買の選択肢の限界であるが、ネット上では選択肢は無限大。しかし、選択肢の多様性や豊かさが必ずしも賢明な判断を促すわけではない。

仮にかなりの情報量をインプットできたとしても、活用はままならず、情報の在庫ばかりが増え、やがて旬が過ぎて価値を失う。実は、増えていると思うのは幻想で、情報はまたたく間に揮発する。それなら、最初からキャパに見合った情報、何がしかの縁を感じる情報だけにしておけばいいではないか。ともあれ、情報量がアイデアを促すのではない。情報と思考の組み合わせこそがアイデアの源泉なのである。

書体が秘めるもの

起業してから幾多の困難を克服して成功を収め、創業者が財産を遺した。二代目は首尾よく承継して守成をやり遂げた。創業にも守成にもそれぞれ別の苦労があるが、一般的に「創業は易く守成はかたし」と言われる。これが正しいなら、生業を軌道に乗せた二代目の手腕を褒めるべきである。

しかし、守成の難しさは富家ふかの三代目が証明することになる。世間によくあるのは三代目による家業の没落というシナリオだ。家を売りに出さねばもはや立ち行かない。貼り出された売り家の札を見れば唐様からようのしゃれた字で達筆。さすが祖父と父の財産で遊芸に耽っただけのことはある。こうしてあの川柳が有名になった。

売り家と唐様で書く三代目

三代目の書を褒めたわけではない。商いの道よりも遊芸にうつつを抜かして身上しんしょうを潰し、残したのはわずかに手習いの腕と教養だけという皮肉である。

唐様は和風の草書や行書とは違った楷書系の書体である。この川柳の頃はおそらく江戸時代で、当時は楷書に明朝の書体を取り入れたものらしかった。明治時代には公式の書体として唐様が定められた。将棋の駒の書体として人気のある菱湖りょうこがそれである。

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どうせ家を売りに出さねばならないのなら、唐様で粋に書くほうが少しは高く売れるかもしれない。少なくとも何も書かないで空き家のまま放置するよりも、また札書きが下手くそであるよりもうんとましである。

書体はその名の通り「文字の体つき」を表現している。身体同様に、書の体つきも個性の一つであるから、イメージやニュアンスまでも伝える。同じ「売り家」と書くにしても、草書や行書、明朝やゴシックのどれを選ぶかによって、文字通りのメッセージとは別の隠れ潜んだ意味があぶり出されるだろう。

書における力とは、(……)毛筆に加えられる力ではない。毛筆が沈む深さでも、毛筆が疾走する速度でもない。政治や社会、人間関係の重力に抗して歩む、志とその陰にひそむさまざまな人間的なひだを含み込んだ「間接話法」的な力の姿である。
(石川九楊著『書とはどういう芸術か』)

唐様の「売り家」という文字に、三代目の心のありようとファミリーヒストリーが滲んで見える。

シンプリシティのかたち

シンプルな表現、シンプルな手順と方法を編み出したい……というつもりでシンプルに考えても功を奏さない。そんな単純ではないのだ。あれもこれもと複雑かつ包括的に考え抜き、時に大いに悩み苦しんではじめて、「足し算ではダメなのだ、引き算しないといけないのだ」と気づく。ここでやっとシンプリシティへの微かな兆しを感知する。

遅めの足し算は具合が悪い。インテリアやファッションにしても複数要素のコーディネートには時間がかかる。足し算には試行錯誤がつきものである。足し算するなら早いに越したことはない。仕上げに近づくにつれて引き算へのシフトが求められる。足し算から引き算へ。これが成功の図式であり、とりもなおさず、それはシンプリシティのかたちを意味する。

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「シンプリシティは究極の洗練」(レオナルド・ダ・ヴィンチ)

究極の洗練とは、ありていに言えば、「美しい」ということだろう。美しいという形容は微妙で、そう感じるかどうかは人それぞれだが、一目見て読み解けない煩雑さよりはシンプルな見え方のほうに心が動く。シンプルであることは美しい価値につながりやすいのである。

九鬼周造の『「いき」の構造』には、「いき」ばかりでなく、「みやび」や「あじ」や「さび」の立ち現れる構造が書かれている。いずれもシンプリシティの表現のように思われる。その一つである「さび」を同書をヒントにして図に表わしてみた。

「さび」は意気・上品・渋味・地味」から成る立体的な感覚構造を持つ。普段使うことばでぼくなりに迫ってみた。抑制的、しゃれている、おとなっぽい……何よりも玄人好みのする引き算がされている。究極の洗練に近いシンプリシティのかたちの一つだろう。

レオナルド・ダ・ヴィンチに寄り道

別に行き詰まっているわけではなく、ひらめかないわけでもない。構想の下書きもできているし、素材もほぼ揃っている。しかし、いま取り掛かっている仕事はここから先、道なりで進められそうな気がしない。予期せぬ紆余曲折に巻き込まれるなら、自ら早めに寄り道しておくのも一案ではないか。と言うわけで、水羊羹欲しさに和菓子屋に立ち寄るのを我慢して、視座を変えるためにレオナルド・ダ・ヴィンチに寄り道することにした。

困った時のレオナルド・ダ・ヴィンチというわけではない。ただ、何かしらうまくいかない時は、かつてよく目を通した本やノートに辿り着くことが多い。勝手をよく知っているので、寄り道しても迷うことなく戻って来れる。問題は長居をしてしまうことかもしれない。さて、本棚から引っ張り出したのは『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記(上) 』。上下巻だが、読みやすいヒントは上巻に集中している。

慣れ親しんだ箴言を飛び石づたいしていると、以前メモしたり暗記したりしたことばの箇所で立ち止まる。今日は翻訳文の古めかしさがやけに気になったので、自分なりに書き換えてみた。

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鉄が使われずして錆び、水が腐り、または寒中で凍るように、才能も用いなければ損なわれる。

才能は、この天才のように決して突出したものとはかぎらない。たとえば、ふつうに仕事することも生活することも才能ではないか。それをそのままにしない。とにかく日々知恵を使い、できれば更新する。こうしているかぎり、少なくとも錆びたり腐ったりするのを遅らせることができそうだ。この才能をさらに伸ばす方法については、レオナルド・ダ・ヴィンチは言及していない。残念である。

よく過ごした一日が安らかな眠りを与えるように、よく過ごした一生は安らかな死を与える。

頑張った、結果も出た、充実した一日だった。その一日の終わりに安らかな眠りがいつも保証はされないが、少なくとも夕食時から床に就くまでの気分は何物にも換えがたい。一日と一生を同じようにさらっと扱いさらっと語る。「死」を与えると言われているのに、迂闊にもほっとしている自分がいる。

権威を引いて論じる者は才能を用いているのではなく、ただ記憶を用いているにすぎない。

独力で論じなさい、自らの力で切り拓きなさいということ。いたずらに先人の業績に頼るべからず。権威の言うことをいくら覚えても記憶の勉強にしかすぎない。簡単にコピペできるようになったIT時代の勉強や評論への五百年前の警鐘である。ところで、ぼくはいま、レオナルド・ダ・ヴィンチという「権威」を引用している。才能を用いていないことが少々気恥ずかしいので、このへんで終わることにする。

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ところで、なぜわざわざフルネームでレオナルド・ダ・ヴィンチと何度も繰り返して書いたのか。若い頃、世間同様にダ・ヴィンチと呼んでいた。しかし、ある時あることを知った。ダ・ヴィンチ(Da Vinci)とは「ヴィンチ村出身の」という意味。これが姓なので、そう呼んでまったく問題はないが、イタリアではそう呼ばず、むしろレオナルド(Leonardo)を通称としている。とは言っても、面識もないので、親しげにレオナルドと呼び捨てにしづらく、以来、レオナルド・ダ・ヴィンチと言ったり書いたりしている。

キャプションという文学

かれこれ40年近く広告や広報の分野で編集に従事してきた。文案を練って見出しを作り、記事の本文を書く。場合によっては、本文を書いてから見出しのキャッチフレーズを考える。時間の計算が立たない仕事。うまくいけばあっと言う間に仕上がるが、何日経っても満足に到らないこともある。

キャッチフレーズの他に、写真を短く説明するキャプションがあり、これが案外時間を食う。年に数回、請われて情報誌編集の研修をしている。写真にキャプションを付ける演習は研修の必須項目である。

写真を写実的に説明すると、ビジュアルとコピーが重複することになる。たとえば富士山の写真に「富士山」と書くのはほとんど意味がない。「初夏の富士」としてもほぼ見たままだ。そうではなく、見えないものや暗示されているものを描写し表現してこそ写真以外の情報が伝わる。キャプション演習はイメージと文章を融合させる練習機会になる。

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写真にキャプションを付けるのは、一つのキーワードを題材として写真を撮影することの裏返しである。しかし、創造の範囲が大いに違う。たとえば「扉」というテーマから撮影できる写真は無尽蔵であるが、一枚の扉の写真に付けるキャプションにいくらでもオプションがあるわけではない。記事との連動性も考慮するから、文案も表現もある程度限られることになる。

奈良公園のいつもの光景は、外国人観光客によって意味を変化させた。かくかくしかじかの理由から先住者たちは食傷気味のようである。

書き手の主観やものの見方が反映されるのがキャプション。記事と写真の旬が固有のキャプションを求める。先日久しぶりに奈良公園に行き、見慣れたいつもの風景を目にした。しかし、外国人観光客を通じて眺める心象風景はかつてと同じではなかった。「奈良公園の鹿」のようないつの時代も万能のキャプションでは芸がないのである。

大げさに言えば、キャプションは新しい文学のジャンルと言えるかもしれない。写真で表現できることがある一方で、写真だけでは明示されたり暗示されたりできないことがあり、それをことばで表現する。プラスアルファの気づきを読者に促すのは決して容易ではない。写真も光景の切り取りトリミングであるが、ことばもまた、きわめて個性的な感受性による対象の切り取りなのである。

一(声、歩、助、言、etc.)

「あと一つ」や「もう一つ」を加えるかどうかは悩ましい。下手をするとたった一つが過剰になりかねない。点睛が画龍を台無しにすることなきにしもあらずだ。その一声が大きなお世話になったり、その一助が余計なお節介になったり。

躊躇していてはいけないと思って一歩踏み出したら、とんでもないことになる。逆に、慎重にあと一言を控えたら意味が伝わらない。あと一つ、もう一つの匙加減で道筋も結果も変わる。決断には過不足がついて回る。

さあどうしたものだろうと悩んでいると、次の一つは出てこない。つまり、悩みはおおむね不足を招くことになる。発言に関して言えば、舌禍事件が相次ぐとあと一言が控えられる。かと言って、不足なら説明責任を果たしていないと咎められる。

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美意識からか、何事も控えめで過剰にならぬように振る舞う人がいる。「過ぎたるは及ばざるがごとし」に落ち着くばかりではつまらない。たまには「大は小を兼ねる」に従ってみる。取り返しがつかない事態を招くかもしれないが、それも一つの覚悟のありようではないか。

もう一声掛ける、もう一歩前に出る、もう一助とばかり手を差し伸べれば、その時点で何がしかの変化を感知できる。ああ、オーバースペックだったのかと反省もできる。他方、不足というのはその時その場では何事も起こらず、結果は後々になってわかる。その時に知らん顔するほうが無責任である。

あと一言のおかげでいいこともあったし、そのせいで面倒なことにもなった。そのつど判断するだけの才もないので、迷ったら一言することにしている。とりわけ、冗談やギャグはその場で言っておくのが旬。すべることもあるが、ウケることもあるのだ。言わなければウケることはない。

雑談の作法

当初の終了予定の時刻に終わらないのが、会議で一番困ること。特にアイデアを出し合う場合には先がまったく見えなくなることがある。自分で会議を仕切れる時は次のことを心掛けて臨むようにしている。

1, 目的を見失わない
2. 話を繰り返さない
3. ポイントを漏らさない
4. 脱線・寄り道しない
5, 成果を出す

会議など少ないに越したことはないが、やるかぎりは出席者全員が同じ約束事を心得ておくべきだ。会議も仕事の一つだからプロならとことん凝らねばならないこともあるが、同時にプロだからこそ効率も追求しなければならない。

雑談にまで会議と同じように時間効率や目的を持ち込む人がいる。かつて気ままに雑談の場を設けていたが、新しいメンバーが「目的は何ですか?」と聞いてきたことがある。大手メーカーの技術者で、会議漬けにされていた中堅社員だった。

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雑談の話題や方法など好きなようにすればいいし、成り行きでいい。「雑」なのだから大雑把でよく、ルールなどいらない。但し、『雑談の作法』とタイトルに書いたように、心しておくほうがいいことがある。強制力はない、それゆえに作法。

話のテーマはいらないが、もし決めるならゆるめに定めるのがよく、テーマに縛られないこと。二人、三人、四人……と人数によって、話題の扱い方など雑談は変わる。人数が増えると、集いが二つ三つに分断され、みんなで集まった意味が薄らぎかねない。飲食の懇親会などは八人以上になると、たいていこっちの四人とあっちの四人は違う話をしている。

雑談の場は乗り物と同じ。せっかく参加してくれたのだから、一人たりとも置き去りにしてはいけない。いま話題にしている流れにみんなが乗らねばならない。他人の興味や関心を推し量りもせずに、昨日のゴルフの話で場を独り占めするなどはマナー違反である。

雑談は会議以上の技もいるし場数も求められる。時間のムダのように思うむきもあるが、雑談の入り込まない仕事や生活を想像してみればいい。雑談のない日々がいかに空しいことか。目的を気にせず、成果を求めず……脱線したり寄り道したり、ずれたりぶれたり……こういう作法を気に留めながら、大いに雑談を楽しみたい。