雑考と雑念

「人生100年時代」のコンセプトを〈雑考〉している。趣味ではなく、依頼された仕事だ。去る3月に文章を書いて納めたが、次は第二弾。その時も現実のテーマとしては思い浮かぶことが少なく、ずっとことばをまさぐっていた。そして今回も、キーワードを列挙して時々天井に目を向けてことば遊びをしている。

「人生100年時代」に関わる15のキーワードを選んだが、まだ公開前なのでここには書けない。以前、シニアの住まいや暮らしに関してキーワードを選んだ自作の事例があるので、それを紹介しておく。

一見小難しく見えても、漢字はわかりやすい。わかりやすいのはよく使いよく見聞きするからだ。逆に言えば、ことばを超えて想像力を掻き立ててくれるところまでは行かない。そこで、擬音語・擬態語などの副詞に置き換えてみた。

かなりアバウトになるのだが、新鮮味が生まれ、連想が膨らんだ。陳腐でないことばが、コンセプトのきっかけになったりコンセプトを広げたりしてくれる。


冒頭で〈雑考〉と書いた。いろんなことを様々に考えることだが、謙虚のつもりで「系統的でない雑考」などと言うと、とりとめのない考えとして格下げされる。しかし、既存の枠組みに忠実な系統的思考のほうがむしろ二番煎じに終わる。少々の違和感があり混沌としているところに雑考のよさがあるのだ。

他方、〈雑念〉というのもある。これも評判はよくない。集中して考えなければならない時に、わけのわからない思いが去来して集中の邪魔をする。だから「雑念を払え」などと言われるのだが、雑念が消えて無我の悟りに到ってしまうと、肝心かなめの仕事に支障を来す。考える仕事では下手に悟ってはいけない。

一意専心の心掛けで一つのことに集中する。そうできるのは少数の誰かである。誰もかれもが一事に没頭しては社会は分断分業して統合されることがない。一芸を深める人と浅く多芸をこなす人がもたれ合ってこそ成り立つ世間だ。よそ見して迂回して、気になるものなら何にでも目配りして雑考することにも意味がある。こんな具合に仕事における雑考にまだ未練が残っているのは、最近のわが業界の一芸さんたちの深掘り思考が不甲斐ないからである。

一人ブレスト、最近の話題

会議があまり好きでないので、以前から一人でブレストするのが習わしになっている。自分で文章を書いて自分で推敲することは一人二役の最たるもの。この時期、会議もブレストも相談もすべて自前、一人二役で何とか凌いでいる。


📃 音声POP
店頭から「♪ タターンタタタタン、タターンタタタタン」のメロディが繰り返し聞こえてくる。その場を去った後も耳にこびりついている。そのことをある人にした。メロディとリズムを忠実に再現したら、「ああ、あれは焼き芋の宣伝ですよ」と言った。いやいや、ぼくがいつも耳にするのはドラッグストアのS薬局の店頭で、あそこでは焼き芋など売っていないけどなあ。
ある日、別のドラッグストアKの店頭で流れていた。もしかしてS薬局とKはグループ企業か!?  と思った。しかし、同じ日、プチスーパーのM屋からも流れてきた。ぼくの横で中年の女性二人が立ち止まり、「ねぇ、この曲、ドン・キホーテでかかってる」「えっ、ここドンキ?」と会話を交わしたので、ぼく以外に気になる人がいるのを知る。
知人は焼き芋の宣伝楽曲ジングルだと言い、ぼくはS薬局グループのテーマソングだと思い、見知らぬ女性らはドン・キホーテのメロディだと指摘した。
宣伝している商品はいろいろであり、曲が流れているシチュエーションはほぼ店頭である。企業や商品特有のものではなさそうだと思い、後日しばらく立ち止まってよく見たら、発生源らしき装置が見えた。繰り返し音声POPを流す、その名も「呼び込み君」。なるほど、それでぼくは何度も呼び込まれたのか。

📃 くずし字
幕とほうき、張と強、店と居……極端に字をくずすとよく似てきて、違いがわからなくなる。しかし、心配無用。字はめったにくずされることはない。それどころか、めったに手書きされることもない。

📃 
あまり効果がないのはわかっているのに、眠れない時に相変わらず羊を数える人がいる。途中まで数えて、数え間違いしたことに気づき、一から数え直す生真面目派もいるらしい。神経がピリピリして逆に眠れなくなると察する。そこで「羊肉には誘眠効果がある。だから、数えるよりも食べるのが正解だ」と教えてあげるのだが、「ほんとかな?」と疑う。これは遊牧民の常識、催眠術師の非常識なのである。

📃 みんな
「みんなで大家おおやさん」という
テレビコマーシャルが最近までよく流れていた。ある街で、もし住民みんなが大家さんになったら、貸主ばかりで借主がいなくなり、兼業の大家さんビジネスは成り立たなくなる。この広告に人を欺く悪意はないと思うが、キャッチフレーズに少々問題がある。「みんな」と言っては誤解を招く。正しくは「内緒で大家さん」である。

表現の型と代入練習

本のタイトルを眺めていると、並列的な型や対比的な型が多いのに気づく。もっともシンプルなのは「AB」という形式で、「ペンと紙」「西洋と東洋」「王様と私」などがある。今読んでいる『泣ける話、笑える話』もその一つ。

並列したり対比させたりする型を使えば、ことばを変換するだけでタイトルは無尽蔵だろう。たとえば『木のいのち 木のこころ』という本があるが、「木」を別の漢字一文字に変換すれば本の題名にも小文のタイトルにもなる。思いつくまま代入してみる。

「花のいのち 花のこころ」「風のいのち 風のこころ」「水のいのち 水のこころ」……

花や風や水や空や雲、自然の風物、花鳥風月ならほぼ何でも代入可能だ。いや、いのちとこころなのだから、たいていの漢字で格好がつく。

「食のいのち 食のこころ」「色のいのち 色のこころ」「人のいのち 人のこころ」……

食で成り立つなら「魚」も「胡椒」も「ブロッコリー」でもいけるし、人がいけるなら「男」も「女」も、「仏」も「神」も大丈夫。しかし、いのちやこころを含む題名は少々情念的に響くので、サブタイトルを添えて意味を引き締めたい。「虫のいのち 虫のこころ――一寸の虫に五分の魂」という具合。


『書物としての都市 都市としての書物』は構造的には回文に近い。どんな内容かあまり見当がついていないのに、つい買ってしまうタイプの本である。

よく使う「としての」がこの題名では小技をかせている。一般的に「としての」は立場や性質を示す。書物としての都市とは「都市には書物性がある」、つまり「都市には書物のようなところがある」というほどの意味だ。同様に、都市としての書物とは「書物の都市性」であり、書物の中に都市の特徴を見出している。

この書物と都市の組み合わせに似た関係性が他の概念でも成り立つのか、代入練習してみた。

「喜劇としての悲劇 悲劇としての喜劇」
「珈琲としての時間 時間としての珈琲」
「料理としての芸術 芸術としての料理」

悲劇の喜劇性も喜劇の悲劇性も、これまで観てきた映画でおびただしく感じたところである。悲劇と喜劇は同じコインの表裏に過ぎない。時間の珈琲性には、時間の経過と「煎る、挽く、淹れる、注ぐ、啜る」の過程が重なるのを感じ、珈琲の時間性からは珈琲に向き合うとは時間を喫することだろうとと察する。料理と芸術などは、単なるアナロジー(類比)ではなく、ほとんどホモロジー(同一)と言ってもいいかもしれない。

長くコピーライティングをしてきて思う。コンセプトをことばに込めることを忘れてはいけないが、結果を急がずにしばし表現の型を逍遥してみるのも悪くない。偶察的・・・な気づきに恵まれることがあるからだ。今日の代入練習の最後に「索引としての店舗 店舗としての索引」というのができた。そう書きながら意味はピンと来ていないし、さらに少々考えないといけないが、明日の仕事であるコラムの切り口になりそうな気がしている。

最良だったり最悪だったり

「今がサイコー」とご機嫌よくても、そこがピークでその先はくだるのみかもしれないし、サイコーの気分は上方修正されるかもしれない。同様に「サイアク!」と落ち込んでも、この先上向きになるかさらなるサイアクが待ち受けているのかはわからない。

最良/最高(best)とか最悪/最低(worst)だとか言えるのは、ある一定期間を振り返るからだ。最良とか最悪と感じる本人による過去の述懐にほかならない。期間限定であっても、数字で表せるのならともかく、気分や感覚をベストとワーストで評価するのはむずかしい。

昨年の土用の丑の日に食べた鰻を生涯最高だったと言うことはできる。この一年を振り返って「あの仕事は最悪で散々だった」と嘆くことはできる。他の誰でもない、本人がそう感じそう思ったのだからとやかく言うことはできない。最悪だと嘆く自分に「そんなに落ち込まなくても、ここが底だから」と言う友人の場合はどうか。決して励まされてはいけない。友人は預言者ではないし、底という主張の責任を負ってくれないのだから。


控えめなベターではなく、ベストなどと最上級で断定できるのは将棋や囲碁のAIソフトを除いて他にない。一般的には、最上級表現は現在形とは相性が悪いのである。だから、今が最悪、これからは良くなるという保証などありうるはずがない。

ピンチに陥ったにもかかわらず、どれだけの素直な人たちが、根拠のない「ピンチの後にチャンスあり」で励まされ、ノーテンキに生きたことか。常識的に考えればわかるはず。ピンチがチャンスに変わる可能性よりも、ピンチがさらなるピンチを招く可能性のほうが大きいのである。

もっとも、「人生最高!」と歓喜した次の日に、それを凌ぐ最高もありうるだろう。しかし、最良だ最悪だと言って一喜一憂してもしかたがない。最上級に出番を与えすぎてはいけないのだ。用いるべき評価としては比較級のほうが現実的である。英語の比較級“better/worse”に対して、日本語の表現は「より良い/よりひどい」などと少々ぎこちない。だから、安易に最上級の「サイコー/サイアク」を使ってしまう。取り扱い要注意である。

ネットか本か体験か

仕事が順調に進み、今日のように午後3時頃に終わると隣の部屋を覗く。“Spin_off”と名を付けた書斎兼図書室兼勉強部屋だ。56千冊収蔵してあり、しかも分類して書棚に並べたのはほかならぬこのぼくだから、どこに何があるかはほとんどわかっている。気まぐれに本を手に取る。

ワインの輸入元からDMが来た。この時期の宣伝は決まってボジョレーヌーヴォーである。おすすめが15本、値段はいろいろ。「34本に絞っておけば衝動的にネットから注文するかもしれないのに……」と思う。ところで、あの発音、Beaujolais nouveau”はフランス人でも人によって違うとワイン通に聞いた。その時はネットで手っ取り早く調べた。男女何人かの発音が聞けた。本ではそうはいかないし、実際に複数のフランス人に会って確かめる機会はありそうにない。

ボジョレーヌーヴォーから連想して書名になった『ダジャレヌーヴォー――新しい駄洒落』という本があり、以前おもしろおかしく読んだ。その一冊が隣の部屋にあるはずなので、ユーモアとジョークの棚を探したが、ない。こういう時は「誰かが持ち出したに違いない」と性悪説的になりがちだが、「これおもしろいよ」と自分から言って誰かに持ち帰らせる可能性のほうが大きい。

「ユーモアセンスがないもので……」と恥ずかしがる人がいたので、「下手なダジャレでいいではないか」と励ましたことがある。誰かのダジャレに「寒ぅ~」と小馬鹿にする連中がいるが、そういう連中にかぎってたいていおもしろいことが言えない。川柳を作ったことがある。

ダジャレだと馬鹿にするならきみ作れ  粋眼


さっさと調べるにはネットが便利、不要不急なら本でいい。ただ、ネットや本がインスピレーションのきっかけになるとはかぎらない。思い出したり何かが浮かんだりするソースとしては体験や観察も有力なのである。この時期のよく晴れた日にいつも浮かぶイメージがあり、そのイメージにはいつもよく似た感覚が注釈のようにくっついてくる。

非の打ち所がない青空、公園の木漏れ日びより。樹々と枝葉の影を楽しむ、ついでに自分の影も。近くの川岸の水も気も光もよどまずに流れる。自分が慌ただしくせわしくしていると流れは見えない。自分がじっとする時間のうちに移ろいが感じられる。

いつぞや昭和が匂う場末の喫茶店に入り、昼前でもぎりぎりオーケーのモーニングサービスを注文した。コーヒーとトーストとゆで卵。サラダやハムのない、ふつうのモーニング。今時珍しいモーニングの古典だった。

モーニングサービスとは、朝にコーヒーを注文した人への「おまけ」。以前本で調べ、ついさっきもネットでチェックしてみた。最初はピーナツやゆで卵だったらしい。実際、幼い頃に父に連れられて喫茶店に入り、ピーナッツやゆで卵が出てきたのを目撃している。父によれば「タバコ2本という時もあった」らしい。ネットにも本にもタバコのモーニングサービスの記載はなかった。はたして父は「タバコ2本」と言ったのか、それともぼくの聞き間違いだったのか……。わからない。確かなことがある。喫茶店でぼくがいつも飲んでいたのがミルクセーキだったこと。

覚えることと思い出すこと

「記憶することだけではいけないのだろう。思い出さなくてはいけないのだろう」(小林秀雄『無常といふ事』)。


好きでないことを強制されても、得しそうであり有利になりそうであるなら、覚えるものだろう。学校時代には大勢がそうしてきた。記憶力には個人差はあるものの、いつまでに覚えろとかテストに出るぞと告げられたら、少々記憶力の悪い者でも何とかしようとしたものだ。しかし、目的が達成されると、やがて人は覚えたことを忘れる。利害がなくなると特にそうなってしまう。

脳には、一時的に預けるロッカーのような保管庫と、容易に揮発せずに覚えたことが刻印される保管庫がある。前者を「一次記憶域」、後者を「二次記憶域」と呼んだりする。何から何まで覚えることはできないし、ずっと覚えていても役に立たないことも多いから、忘れて記憶情報を減らすのは理に適っていると言えるだろう。

努力しても記憶できなければ諦めるしかない。たとえば、読書をして一冊丸ごと覚えることなど不可能である。忘れたら、必要に応じて読んだところを繰り返せばよい。読みもしなかったことを思い出すことはできない。思い出すためには、一度は読んでいなければならない。読むには読んだし一度は覚えたはず、しかし、思い出せない……これが悔しいのである。脳が衰えてきたのではないかと、不安に苛まれる場面である。


十数年前に、とある自治体で12日の「官民合同研修」があった。それはマーケティング研修で、地場のブランドを全国化する企画実習を5班に分かれておこなった。地酒のブランディングをテーマに選んだ男性4人のグループがあった(県と民間それぞれ2名)。机間巡視中、そのグループのブレインストーミングの様子を窺った。

ショットバーで飲む地酒はどう?……それはおもしろい……日本酒に詳しいバーテンダー……つまみにぴったりの珍味小皿が出る……客のイメージは? 男か女か、年齢は?……カウンターの端に座る中年かシニアの男性がいいのでは?……たとえばタレントや俳優なら誰?……ほら、テレビでよく出てるあの人? 声が低くて渋い……

こんなふうに話が進んで行ったのはいいが、顔が浮かんでいるはずの言い出した人が名前を思い出せない。彼はいろんな情報を並べ、ついには「首にストールをねじって巻いているあの人だよ」と言ったところで、他の3人にようやく伝わった。しかし、思い出したのは顔だけで、誰一人として「中尾彬」が出てこない。たまりかねて、ぼくが名前を教えてあげた。

半時間後にグループの進捗具合をチェックしたら、「中尾彬と地酒は当たり前っぽくてやめました。ホテルのショットバー、キムタクと地酒でまとめています」と路線変更していた。キムタクはさっと思い出せたのだろう。ともあれ、人は覚えたこと、確実に知っているはずのことを思い出せなくなる。覚えることはたやすくないが、思い出すことはそれ以上に大変だ。冒頭の小林秀雄のことばが沁みる。

アイデアとデフォルメ

もう半世紀も前の話。知る人ぞ知る――しかし、当時はともかく、今となっては知らない人が圧倒的に多い――エドワード・デ・ボノが提唱した〈水平思考〉が一世を風靡した。水平思考とは、ありきたりな論理手順を踏む〈垂直思考〉の限界に挑戦した発想。考えるにあたって、深さよりも広さを優先し、掘り下げるのではなく見晴らすように考える。

デ・ボノは著書の中でアイデアが生まれる背景について、「個々の人々の心の内面で演じられた情熱があった。その情熱がアイデアを本物にし、ついに人間社会を変貌させる原動力になった」と語っている。対象を変えたいという願望が情熱を帯び、そのような願望を逞しくしていれば、考えるのと同等かそれ以上に〈偶察〉の機会に恵まれる可能性がある。

アイデアの海を思いのまま遊泳してみたいと願っても、おとなしくて平凡なことばでアイデアを引き寄せることはできない。経験的認識に偶然が作用してアイデアらしきものが触発されたとしても、それはいったいどんなもの? と尋ねられたら、ことばで示さねばならない。アイデアはことばによって揺り動かされ誇張されて形になる。


誰かのアイデアをみんなで共有する段になると、わかりやすく伝わるようにと意識するあまり、穏やかなトーンの表現になりがちだ。その結果、本来見所のあった「尖がったコンセプト」が均されてしまって、ゆるゆるになる。

そもそも既存の価値観から逸脱するからこそアイデアなのだ。どこかで聞いたことがあるとか、素直に受け入れられるとか言われたら、そんなものはアイデアではない。アイデアは平凡に対する非凡であり、テーマに対するアンチテーゼであり、常識や既存の知識では理解しづらい異種性を特徴とする。それゆえに評価の前に違和感が先立つ。

まっとうに表現してしまうと、どんなにすぐれたアイデアも月並みに聞こえてしまう。ちょっと過激じゃないか、毒気が強すぎるという文句、大いに結構。これで大丈夫? と不安を感じてもらえれば半ば成功なのだ。そう、デフォルメしてちょうどいいのがアイデア。是と非が、可と不可が相半ばし、リスクが内蔵されているのが斬新なアイデアの宿命である。

アナロジーの効用

以前、本ブログで『言論について(9)類比・ユーモア・パトス』と題してアナロジー(類比・類推)を取り上げた。その中で紹介した〈発展途上国:経済支援=がん患者:モルヒネ〉というアナロジーの例の説明がてら話を始めたい。

ABの関係がCDの関係」に似ていたり類比したりできる時、〈A:B=C:D〉という式で表わすことができる。アナロジーの関係ではこの式が成り立つ。上記の〈発展途上国:経済支援=がん患者:モルヒネ〉は、「発展途上国への経済支援はがん患者にモルヒネを使うようなものだ」と読み下せる。類比した両者をつなぐのは「当面の苦しみ(痛み)には効くが、抜本的解決にはならない」。「何々とかけて何々とときます。そのこころは……」の「こころ」に相当する。なぞかけもアナロジーの一つだ。

つまり、あることをそのことだけで説明してもわかりにくいなら、別の情報をそこに重ねて理解を促そうとする試み。主題〈AB〉に対比させる〈〉は主題よりもわかりやすく身近であることが望ましい。とは言え、難易や親近感は人それぞれだから、アナロジーによる認知過程は誰にとっても同じというわけにはいかない。


模倣したものと模倣されたものもアナロジーの関係を結ぶ。有名なのは「液晶とイカの神経構造」。昔の液晶は軽く触れて押すとイカの表面のように赤くなったり青くなったりしたものだ。実際にイカの内臓を使ったタイプの液晶もあると家電メーカーの研究員に聞いた。液晶はイカの神経構造からインスピレーションを得た、先端技術のアナロジーの例である。

魚釣りの撒き餌とデパ地下の試食もアナロジー。マーケティングのアナロジーだ。撒き餌上手なら魚が釣れる。試食皿を絶妙のタイミングで差し出して一言添えるスーパーの担当者がいる。あのおばさんが売る粗挽きウインナーはほぼ買わされてしまう。他にも、成功する会議と成功する演劇がアナロジーになる。成功要因を探っていくと共通項がとても多いことに気づく。

A:B=C:D〉のような二項類比だけでなく、文章全体をアナロジーの型として見立てることもできる。

「文法」に先立って「言語」が存在し、「言語」は「社会において他者の用いることばを経験することによって習得され、社会の一員としての共通観念によって運用される」。「文法」「言語」の習得と運用の高度化に資する役割を担う。

上記の文法と言語の関係式の型を借りて、法律と生活行動の関係式に書き換えてみよう。

「法律」に先立って「生活行動」が存在し、「生活行動は「社会における他者の習慣を経験することによって見習い、社会の一員としての賢慮良識によって実践される」。「法律」「生活行動」の規律の遵守に資する役割を担う。

アナロジーはすぐれた思考練習になると同時に、わかりやすい表現とは何か、粋な言い回しとは何かについてのヒントを授けてくれる。

小さな気づきや考えごと

かなり古めかしい喫茶店。コーヒーではなく、珈琲と書くのがふさわしい。出てくるまでの間延びした時間は手持ちぶさたの時間。それも珈琲代金の一部。

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森よりも「樹々」がいい。都会でも調達できるから。

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ふれあい、人にやさしい、思いやり、安心・安全などと言っておけば無難。無難であるとは、誰に対しても余計な気遣いや気配りをしなくても済むということだ。

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♪きゅーしん、きゅうしん。♪ひや、ひや、ひやの、ひやーきおーがん。♪大正漢方胃腸薬。♪タケダ、タケダ、タケダ。身近にあるにはにテーマソングがわっている。まさに「常備薬」。

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経験的に言うと、アルコールを飲めない人ほど高くつく。

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よく勉強会をしていた頃、勉強会後に懇親会がくっついていた。いつも同じ場所にしておけば楽なのだが、それでは芸がない。と言うわけで、懇親会の会場をよく下見した。「下見」とは、別名「味見」。

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世間の最近の傾向。暇が増えたのではなく、リスクが高まったのである。

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「うちの親の家とは理想的な『スープがぬるくならない距離』なんですよ」
「それを言うなら『スープがさめない距離』でしょう?」
「あ、うちのは冷製スープですから」

理系と文系の話

「理系おもちゃ」なるものがあるのを先日テレビで知った。女子に理系への興味を持たせるためだそうである。

人を理系タイプと文系タイプに分類するのは学問体系的な視点であり、大学で学んだ人たちに多い発想だ。大学に入ってからは学科が枝分かれする。ややこしいので、理系と文系に大雑把に分ける。中高卒の人たちはめったにそんな話を持ち出さない。少年少女は理系・文系などと自分を型にはめることはめったにない。あるとしても、「宇宙飛行士になりたい」とか「ケーキ屋さんになりたい」と言うくらい。

動物、草花、空、家々……日々使う道具の類……時事的な諸問題……どこからどこまでが理系で文系なのか。そんな線引きは現実のどこにもなく、架空の概念にほかならない。「女子に理系への興味を持たせる」と言う時の、理系とはいったい何なのか。興味や行為の境界線はどこにあるのか。

希望する学問がいわゆる文系だとしても、本家理系よりも数学が得意というケースがある。工学部だがロボットに不案内の学生がいるし、小説好きの宇宙マニアがいる。医学部出身の小説家には森鴎外、安部公房、北杜夫らがいる(文学部出身の医者は聞いたことがないので、理は文を兼ねることができそうだ)。

ぼく自身、プロ棋士に将棋を教わって、定跡が数理的であることに気づかされた(それが証拠に、定跡を天文学的にデータ処理して学習するAIに対して、昨今一流のプロ棋士でも勝ち目がなくなった)。「棋理にかなう」ということばがあるように、〈9×9の桝目の盤上〉は理系的である。だからと言って、理系が必ずしも将棋に強くて詰将棋が作れるわけではない。人間どうしなら、盤外の駆け引きや所作も関係する。こちらは文系的かもしれないが……。


論理学を指導していたことがある。論理学は理系なのか文系なのか。数日前から講談社ブルーバックスの『鳥! 驚異の知能』という本を読んでいるが、これを読んでいるからと言って、理系の証拠になるはずもない。公園で鳩と戯れて餌を与えているホームレスのおじいさんを文系と言って片づけることもできない。

一杯のコーヒーを淹れるのは生活習慣の一コマだが、本気を出して淹れようとすれば理系的知識への好奇心が欠かせない。豆の成分、焙煎の時間、挽き方、湯の温度など、より美味しく飲もうとすれば科学的でなければならない。しかし、パリの有名カフェでサルトルとボーヴォワールが論争を繰り広げた時は、文芸サロンに薫る飲み物として重宝された。

上記の『鳥……』と併読しているのが“ALL ABOUT COFFEE”コーヒーのすべてだ。ここには歴史、経済、文化、地理、技術、化学、工学のすべてが盛られている。帯文には「本書を読まずしてコーヒーを語るなかれ!」と書かれている。一杯のコーヒーに精通するためには文理両用であることが求められる。