ネットか本か体験か

仕事が順調に進み、今日のように午後3時頃に終わると隣の部屋を覗く。“Spin_off”と名を付けた書斎兼図書室兼勉強部屋だ。56千冊収蔵してあり、しかも分類して書棚に並べたのはほかならぬこのぼくだから、どこに何があるかはほとんどわかっている。気まぐれに本を手に取る。

ワインの輸入元からDMが来た。この時期の宣伝は決まってボジョレーヌーヴォーである。おすすめが15本、値段はいろいろ。「34本に絞っておけば衝動的にネットから注文するかもしれないのに……」と思う。ところで、あの発音、Beaujolais nouveau”はフランス人でも人によって違うとワイン通に聞いた。その時はネットで手っ取り早く調べた。男女何人かの発音が聞けた。本ではそうはいかないし、実際に複数のフランス人に会って確かめる機会はありそうにない。

ボジョレーヌーヴォーから連想して書名になった『ダジャレヌーヴォー――新しい駄洒落』という本があり、以前おもしろおかしく読んだ。その一冊が隣の部屋にあるはずなので、ユーモアとジョークの棚を探したが、ない。こういう時は「誰かが持ち出したに違いない」と性悪説的になりがちだが、「これおもしろいよ」と自分から言って誰かに持ち帰らせる可能性のほうが大きい。

「ユーモアセンスがないもので……」と恥ずかしがる人がいたので、「下手なダジャレでいいではないか」と励ましたことがある。誰かのダジャレに「寒ぅ~」と小馬鹿にする連中がいるが、そういう連中にかぎってたいていおもしろいことが言えない。川柳を作ったことがある。

ダジャレだと馬鹿にするならきみ作れ  粋眼


さっさと調べるにはネットが便利、不要不急なら本でいい。ただ、ネットや本がインスピレーションのきっかけになるとはかぎらない。思い出したり何かが浮かんだりするソースとしては体験や観察も有力なのである。この時期のよく晴れた日にいつも浮かぶイメージがあり、そのイメージにはいつもよく似た感覚が注釈のようにくっついてくる。

非の打ち所がない青空、公園の木漏れ日びより。樹々と枝葉の影を楽しむ、ついでに自分の影も。近くの川岸の水も気も光もよどまずに流れる。自分が慌ただしくせわしくしていると流れは見えない。自分がじっとする時間のうちに移ろいが感じられる。

いつぞや昭和が匂う場末の喫茶店に入り、昼前でもぎりぎりオーケーのモーニングサービスを注文した。コーヒーとトーストとゆで卵。サラダやハムのない、ふつうのモーニング。今時珍しいモーニングの古典だった。

モーニングサービスとは、朝にコーヒーを注文した人への「おまけ」。以前本で調べ、ついさっきもネットでチェックしてみた。最初はピーナツやゆで卵だったらしい。実際、幼い頃に父に連れられて喫茶店に入り、ピーナッツやゆで卵が出てきたのを目撃している。父によれば「タバコ2本という時もあった」らしい。ネットにも本にもタバコのモーニングサービスの記載はなかった。はたして父は「タバコ2本」と言ったのか、それともぼくの聞き間違いだったのか……。わからない。確かなことがある。喫茶店でぼくがいつも飲んでいたのがミルクセーキだったこと。

覚えることと思い出すこと

「記憶することだけではいけないのだろう。思い出さなくてはいけないのだろう」(小林秀雄『無常といふ事』)。


好きでないことを強制されても、得しそうであり有利になりそうであるなら、覚えるものだろう。学校時代には大勢がそうしてきた。記憶力には個人差はあるものの、いつまでに覚えろとかテストに出るぞと告げられたら、少々記憶力の悪い者でも何とかしようとしたものだ。しかし、目的が達成されると、やがて人は覚えたことを忘れる。利害がなくなると特にそうなってしまう。

脳には、一時的に預けるロッカーのような保管庫と、容易に揮発せずに覚えたことが刻印される保管庫がある。前者を「一次記憶域」、後者を「二次記憶域」と呼んだりする。何から何まで覚えることはできないし、ずっと覚えていても役に立たないことも多いから、忘れて記憶情報を減らすのは理に適っていると言えるだろう。

努力しても記憶できなければ諦めるしかない。たとえば、読書をして一冊丸ごと覚えることなど不可能である。忘れたら、必要に応じて読んだところを繰り返せばよい。読みもしなかったことを思い出すことはできない。思い出すためには、一度は読んでいなければならない。読むには読んだし一度は覚えたはず、しかし、思い出せない……これが悔しいのである。脳が衰えてきたのではないかと、不安に苛まれる場面である。


十数年前に、とある自治体で12日の「官民合同研修」があった。それはマーケティング研修で、地場のブランドを全国化する企画実習を5班に分かれておこなった。地酒のブランディングをテーマに選んだ男性4人のグループがあった(県と民間それぞれ2名)。机間巡視中、そのグループのブレインストーミングの様子を窺った。

ショットバーで飲む地酒はどう?……それはおもしろい……日本酒に詳しいバーテンダー……つまみにぴったりの珍味小皿が出る……客のイメージは? 男か女か、年齢は?……カウンターの端に座る中年かシニアの男性がいいのでは?……たとえばタレントや俳優なら誰?……ほら、テレビでよく出てるあの人? 声が低くて渋い……

こんなふうに話が進んで行ったのはいいが、顔が浮かんでいるはずの言い出した人が名前を思い出せない。彼はいろんな情報を並べ、ついには「首にストールをねじって巻いているあの人だよ」と言ったところで、他の3人にようやく伝わった。しかし、思い出したのは顔だけで、誰一人として「中尾彬」が出てこない。たまりかねて、ぼくが名前を教えてあげた。

半時間後にグループの進捗具合をチェックしたら、「中尾彬と地酒は当たり前っぽくてやめました。ホテルのショットバー、キムタクと地酒でまとめています」と路線変更していた。キムタクはさっと思い出せたのだろう。ともあれ、人は覚えたこと、確実に知っているはずのことを思い出せなくなる。覚えることはたやすくないが、思い出すことはそれ以上に大変だ。冒頭の小林秀雄のことばが沁みる。

アイデアとデフォルメ

もう半世紀も前の話。知る人ぞ知る――しかし、当時はともかく、今となっては知らない人が圧倒的に多い――エドワード・デ・ボノが提唱した〈水平思考〉が一世を風靡した。水平思考とは、ありきたりな論理手順を踏む〈垂直思考〉の限界に挑戦した発想。考えるにあたって、深さよりも広さを優先し、掘り下げるのではなく見晴らすように考える。

デ・ボノは著書の中でアイデアが生まれる背景について、「個々の人々の心の内面で演じられた情熱があった。その情熱がアイデアを本物にし、ついに人間社会を変貌させる原動力になった」と語っている。対象を変えたいという願望が情熱を帯び、そのような願望を逞しくしていれば、考えるのと同等かそれ以上に〈偶察〉の機会に恵まれる可能性がある。

アイデアの海を思いのまま遊泳してみたいと願っても、おとなしくて平凡なことばでアイデアを引き寄せることはできない。経験的認識に偶然が作用してアイデアらしきものが触発されたとしても、それはいったいどんなもの? と尋ねられたら、ことばで示さねばならない。アイデアはことばによって揺り動かされ誇張されて形になる。


誰かのアイデアをみんなで共有する段になると、わかりやすく伝わるようにと意識するあまり、穏やかなトーンの表現になりがちだ。その結果、本来見所のあった「尖がったコンセプト」が均されてしまって、ゆるゆるになる。

そもそも既存の価値観から逸脱するからこそアイデアなのだ。どこかで聞いたことがあるとか、素直に受け入れられるとか言われたら、そんなものはアイデアではない。アイデアは平凡に対する非凡であり、テーマに対するアンチテーゼであり、常識や既存の知識では理解しづらい異種性を特徴とする。それゆえに評価の前に違和感が先立つ。

まっとうに表現してしまうと、どんなにすぐれたアイデアも月並みに聞こえてしまう。ちょっと過激じゃないか、毒気が強すぎるという文句、大いに結構。これで大丈夫? と不安を感じてもらえれば半ば成功なのだ。そう、デフォルメしてちょうどいいのがアイデア。是と非が、可と不可が相半ばし、リスクが内蔵されているのが斬新なアイデアの宿命である。

アナロジーの効用

以前、本ブログで『言論について(9)類比・ユーモア・パトス』と題してアナロジー(類比・類推)を取り上げた。その中で紹介した〈発展途上国:経済支援=がん患者:モルヒネ〉というアナロジーの例の説明がてら話を始めたい。

ABの関係がCDの関係」に似ていたり類比したりできる時、〈A:B=C:D〉という式で表わすことができる。アナロジーの関係ではこの式が成り立つ。上記の〈発展途上国:経済支援=がん患者:モルヒネ〉は、「発展途上国への経済支援はがん患者にモルヒネを使うようなものだ」と読み下せる。類比した両者をつなぐのは「当面の苦しみ(痛み)には効くが、抜本的解決にはならない」。「何々とかけて何々とときます。そのこころは……」の「こころ」に相当する。なぞかけもアナロジーの一つだ。

つまり、あることをそのことだけで説明してもわかりにくいなら、別の情報をそこに重ねて理解を促そうとする試み。主題〈AB〉に対比させる〈〉は主題よりもわかりやすく身近であることが望ましい。とは言え、難易や親近感は人それぞれだから、アナロジーによる認知過程は誰にとっても同じというわけにはいかない。


模倣したものと模倣されたものもアナロジーの関係を結ぶ。有名なのは「液晶とイカの神経構造」。昔の液晶は軽く触れて押すとイカの表面のように赤くなったり青くなったりしたものだ。実際にイカの内臓を使ったタイプの液晶もあると家電メーカーの研究員に聞いた。液晶はイカの神経構造からインスピレーションを得た、先端技術のアナロジーの例である。

魚釣りの撒き餌とデパ地下の試食もアナロジー。マーケティングのアナロジーだ。撒き餌上手なら魚が釣れる。試食皿を絶妙のタイミングで差し出して一言添えるスーパーの担当者がいる。あのおばさんが売る粗挽きウインナーはほぼ買わされてしまう。他にも、成功する会議と成功する演劇がアナロジーになる。成功要因を探っていくと共通項がとても多いことに気づく。

A:B=C:D〉のような二項類比だけでなく、文章全体をアナロジーの型として見立てることもできる。

「文法」に先立って「言語」が存在し、「言語」は「社会において他者の用いることばを経験することによって習得され、社会の一員としての共通観念によって運用される」。「文法」「言語」の習得と運用の高度化に資する役割を担う。

上記の文法と言語の関係式の型を借りて、法律と生活行動の関係式に書き換えてみよう。

「法律」に先立って「生活行動」が存在し、「生活行動は「社会における他者の習慣を経験することによって見習い、社会の一員としての賢慮良識によって実践される」。「法律」「生活行動」の規律の遵守に資する役割を担う。

アナロジーはすぐれた思考練習になると同時に、わかりやすい表現とは何か、粋な言い回しとは何かについてのヒントを授けてくれる。

小さな気づきや考えごと

かなり古めかしい喫茶店。コーヒーではなく、珈琲と書くのがふさわしい。出てくるまでの間延びした時間は手持ちぶさたの時間。それも珈琲代金の一部。

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森よりも「樹々」がいい。都会でも調達できるから。

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ふれあい、人にやさしい、思いやり、安心・安全などと言っておけば無難。無難であるとは、誰に対しても余計な気遣いや気配りをしなくても済むということだ。

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♪きゅーしん、きゅうしん。♪ひや、ひや、ひやの、ひやーきおーがん。♪大正漢方胃腸薬。♪タケダ、タケダ、タケダ。身近にあるにはにテーマソングがわっている。まさに「常備薬」。

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経験的に言うと、アルコールを飲めない人ほど高くつく。

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よく勉強会をしていた頃、勉強会後に懇親会がくっついていた。いつも同じ場所にしておけば楽なのだが、それでは芸がない。と言うわけで、懇親会の会場をよく下見した。「下見」とは、別名「味見」。

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世間の最近の傾向。暇が増えたのではなく、リスクが高まったのである。

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「うちの親の家とは理想的な『スープがぬるくならない距離』なんですよ」
「それを言うなら『スープがさめない距離』でしょう?」
「あ、うちのは冷製スープですから」

理系と文系の話

「理系おもちゃ」なるものがあるのを先日テレビで知った。女子に理系への興味を持たせるためだそうである。

人を理系タイプと文系タイプに分類するのは学問体系的な視点であり、大学で学んだ人たちに多い発想だ。大学に入ってからは学科が枝分かれする。ややこしいので、理系と文系に大雑把に分ける。中高卒の人たちはめったにそんな話を持ち出さない。少年少女は理系・文系などと自分を型にはめることはめったにない。あるとしても、「宇宙飛行士になりたい」とか「ケーキ屋さんになりたい」と言うくらい。

動物、草花、空、家々……日々使う道具の類……時事的な諸問題……どこからどこまでが理系で文系なのか。そんな線引きは現実のどこにもなく、架空の概念にほかならない。「女子に理系への興味を持たせる」と言う時の、理系とはいったい何なのか。興味や行為の境界線はどこにあるのか。

希望する学問がいわゆる文系だとしても、本家理系よりも数学が得意というケースがある。工学部だがロボットに不案内の学生がいるし、小説好きの宇宙マニアがいる。医学部出身の小説家には森鴎外、安部公房、北杜夫らがいる(文学部出身の医者は聞いたことがないので、理は文を兼ねることができそうだ)。

ぼく自身、プロ棋士に将棋を教わって、定跡が数理的であることに気づかされた(それが証拠に、定跡を天文学的にデータ処理して学習するAIに対して、昨今一流のプロ棋士でも勝ち目がなくなった)。「棋理にかなう」ということばがあるように、〈9×9の桝目の盤上〉は理系的である。だからと言って、理系が必ずしも将棋に強くて詰将棋が作れるわけではない。人間どうしなら、盤外の駆け引きや所作も関係する。こちらは文系的かもしれないが……。


論理学を指導していたことがある。論理学は理系なのか文系なのか。数日前から講談社ブルーバックスの『鳥! 驚異の知能』という本を読んでいるが、これを読んでいるからと言って、理系の証拠になるはずもない。公園で鳩と戯れて餌を与えているホームレスのおじいさんを文系と言って片づけることもできない。

一杯のコーヒーを淹れるのは生活習慣の一コマだが、本気を出して淹れようとすれば理系的知識への好奇心が欠かせない。豆の成分、焙煎の時間、挽き方、湯の温度など、より美味しく飲もうとすれば科学的でなければならない。しかし、パリの有名カフェでサルトルとボーヴォワールが論争を繰り広げた時は、文芸サロンに薫る飲み物として重宝された。

上記の『鳥……』と併読しているのが“ALL ABOUT COFFEE”コーヒーのすべてだ。ここには歴史、経済、文化、地理、技術、化学、工学のすべてが盛られている。帯文には「本書を読まずしてコーヒーを語るなかれ!」と書かれている。一杯のコーヒーに精通するためには文理両用であることが求められる。

読んだ本の取り扱い

書店巡りをして本を買ったらブックカバーを付けてくれた。次のような宣伝文が印刷されていた。

「読み終わりましたらぜひお売りください」(TSUTAYA)
「家にある本、お売りください」(BOOK-OFF)

新刊であれ古本であれ、本をよく買う。買った本は読むか読まないかのどちらか。読まないのなら買わなければよさそうなものだが、読まなかったというのは結果の話。読む気があったから衝動買いしたのである。買った本はそれぞれおよそ3分の1の割合で分類できる。完読する本、拾い読みする本、まったく読まずに書棚に並べられる本。

読んでいない本を処分しないのは、気になるから置いているわけで、いつかは手に取って読もうという気はある。しかし、もし本を売るとなれば、読んだ本ではなく、読んでいない本だろう。BOOK-OFFの宣伝文句にある「家にある本」で買ったままそのままにしている本のほうが処分の対象になりうる。


文庫本と違って、単行本は置き場に困る。すでに読んだ本をダンボール56箱に収納していたことがある。もう30数年前のこと。大掃除の日に家人が誤って廃棄してしまった。不用だという判断をしたのも無理はない。ダンボールには、ガルシア・マルケスの『百年の孤独』などのラテンアメリカ小説、ビュトールなどのお気に入りのアンチロマン小説を入れていた。読了した本が手元から消えて、ちょっとした寂寥せきりょう感に襲われたのを覚えている。意図に反しての処分だったが、本を処分したのはこの一件のみ。

数年前に『百年の孤独』を再読しようと思い書店に行った。まだ文庫化されていなかった。今も文庫になっておらず、間違って廃棄したのと同じ単行本しかない。しかも、当時よりも値段は上がっている(ちなみに、ウンベルト・エーコの『薔薇の名前』もまだ文庫化されていない。世界的ベストセラーになった小説はなかなか文庫にならないのである)。

以上のことからわかるように、ぼくは読み終わった本は捨てないし売りさばかない。気に入った本は二度読みするにかぎる。読んだからこそ、手元に置いて再読機会を待つのである。

記憶の方法

同輩だけでなく一回りや二回りの年下が「物忘れがひどくなった」と嘆く。覚えたことが出てこない。では、揮発しないように知識を脳内に格納するとしよう。たとえば、広辞苑に収録の25万語のUSBを脳につなぐ。これで記憶は万全になるか。検索はできるかもしれないが、記憶されたことばが再生できる保証はない。ことばは使うことによってより強く記憶されるからだ。

なぜ人は記憶しようとするのか。いつか再生するためである。再生の必要も機会もないことを覚える必要はない。たとえば賃貸契約書。丸暗記などせずに、いつでも参照できるように記録する。たとえば長編の小説。将来再生することはないから事細かに覚えない。しかし、どこかで使うかもしれない名調子の文章なら覚えておこうとするかもしれない。

うんと昔に読んだ夏目漱石の『草枕』など、あらすじはほとんど覚えていないが、冒頭の「智に働けば角が立つ、情に棹させば流される、意地を通せば窮屈だ。とかくに、人の世は住みにくい」という名調子だけはよく覚えているし、いつでも再生できる。「これは使えるぞ」と直感する。そういう意識のアンテナが立って、『草枕』の知情意がアリストテレスの『弁論術』に関連づけられたりもする。


記憶力の強化について、脳研究者の池谷いけがや裕二が次のように書いている。

脳は入ってきた情報を「記憶すべきかどうか」と品定めします。このときの判断基準は「出力」の頻度です。
脳は「この情報はこんなに使う機会があるのか。ならば覚えておこう」と判断します。「こんなに頻繁に出会うのか。ならば覚えておこう」ではないことに注意してください。
(『自分では気づかない、ココロの盲点 完全版』、下線は岡野)

よく出てくるから覚えようという時は「入力インプット」に軸足を置いている。入力の行き先が定まっていない。他方、使えそうだと判断する時はすでに「出力アウトプット」を意識している。「これを覚えておけば使えるぞ」という魂胆をさもしいと片づけるむきもあるが、ひとまず使ってみることで記憶は強化される。池谷は「繰り返し学習して頭に叩き込むよりも、テストを解く」ことを推奨する。テストを解くというのは、覚えたことを使ってみるということにほかならない。

インプットしたものをアウトプットするという考え方はインプット主導型。空っぽの脳ならそれでいい。知識を仕入れなければ話にならないから。しかし、何十年も生きてきて脳内には知識も経験も言語の在庫もある。いくらでも出荷できるのだ。

加齢にともなって記憶力が衰えると言うが、実は脳の問題ではない。定年になり他人との交流機会が減ってアウトプット量が激減するのが原因だと睨んでいる。同輩と雑談したり後輩に蘊蓄したり……喋ることに関しては生涯現役を続けることが理想的な記憶の方法なのである。

反復という習慣

風土を決定する要因は数えきれないが、風土という文字が示すように「風」と「土」が主要因になりそうだ。食は風土によって決定される。人類は好きなものを食べてきたのではなく、風土に育まれた食材を口に運んだ。環境に食性を決定されてきた。今は何でもありになったのでこのことを忘れがちだが、われわれの祖先は日々ほぼ同じものを――好きとか嫌いとかつべこべ言わずに――繰り返し糧にしてきたのである。

何度同じことを言い、同じことを書いてきたことか。そうこうしているうちに、言語は脳で記憶するだけでなく、身体、とりわけ筋肉と同化する。母語も外国語も反復によって習熟度が高くなる。只管朗読、只管筆記、侮るべからず。

来年2月に本ブログは1,500回に達する見込み。約11年半、月平均10回、1回の記事は原稿用紙に換算すると平均34枚。特別な才能も大いなる努力もいらない。ある種惰性のような執拗さとただひたすら繰り返すことだけが求められる。

繰り返し(あるいは反復)はマンネリズムと安心(あるいは油断)を生む。いちいち考えなくてもよくなる。同時に、ある事柄に精通し、熟練度が進む。功罪相半ばする。さあ、どうしたものだろう。

反復しながらも、意識的に何かを少し変えてみると、いつもの景色が少し変わる。昨日と違う緊張感と新鮮味が出てくることがある。飽き性の凝り性だからそこに期待するしかない。ここ10日間ほど、どちらかと言えば機械的な作業をずっとやってきた。最初は愚痴をこぼしながらやっていたが、完了間際にして楽しんでいることに気づいた。仕事は……たとえそれがマンネリズムに満ちることがあっても、選んだ以上は楽しむに限るのである。

コンセプトの現実と想像

コンセプト(concept)は好き勝手に解釈され定義されてきた。一般的には「概念」や「考え」の意味で使われる。それならわざわざコンセプトと言う必要がない。概念や考えやアイデアとは微妙に違うから出番が与えられている。「ことばで表される大まかな想い」という意味を基本として、「他とは違う固有の差異を表す表現」としてとらえてみよう。

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「コンセプトの発見」とか「コンセプトを探す」などと言われるが、コンセプトはどこかにすでに存在するものではない。モノや考えに付属しているのではなく、モノや考えをとらえる人の頭で湧き上がる。つまり、そのつど想像するものであり、想像の結果、新たに「創造」される。

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タカとワシは峻別されている。発音も違うが、漢字も「鷹」と「鷲」と書き分ける。誰もがタカとワシが別の鳥だと認識している。では、実物のタカとワシを見て、正しく見分けられるか。タカもワシも「タカ目タカ科」であり、そもそも個体識別ができないと専門家は言う。

見分けられないのなら、一つの呼び名、一つの漢字だけで良さそうなものなのに、わざわざ二つの別の呼び名、二つの別の漢字で表そうとした。それがコンセプト。発見したのではない。想像によって、ことばによって、コンセプトを創造して種を分化させたのである。

コンセプトは必ずしも現実を反映するわけではない。生態的にも観察的に区別がつきにくいにもかかわらず、慣習的に取り決めたコンセプトを創ったのである。やや大型のものをワシと呼ぼう、人が訓練でき狩りをさせることができるのをタカと呼ぼうという経緯があったと思われる。