水もしたたる二字熟語遊び

 上水 じょうすい 水上 すいじょう

(例)「上水は上クラスのきれいな飲料水だが、水上は上クラスの飲料水のことではない。

上水は上水道の略で、くだを通して届けられる飲料用の水。対義語は「汚水」である。上水と言えば玉川上水を連想し、玉川上水と言えば太宰治を連想する。1948年、太宰は愛人と玉川上水で入水じゅすいした。このことを知ってから上水のイメージが悪くなった。
水上は水の上ではなく、水面に近い水中を意味する。水上を「みずがみ」と読む医者にかかったことがある。また、「みなかみ」と読むと
川の源流の古風な表現になる。

 水分 すいぶん 分水 ぶんすい

(例)「果物の大半はかなりの量の水分を含んでいる。多いからと言って、ジュース用と他の用途に分けても分水とは言わない。

今時の料理評論家は「水分を含んでいる」と普通におっしゃるが、昔は「水気みずけが多い」と言ったものだ。水気は水分量の多さを示すことばであり、水っぽいや水くさいなどのように「まずい」という意味ではない。
分水から派生した分水嶺ぶんすいれいは文学やエッセイのタイトルにもなる粋な表現。雨水が異なる川に流れていく山の尾根の境界のことをそう呼ぶ。

分水嶺

 水深 すいしん 深水 しんすい

(例)「水深200メートル以上の所に棲息するのが深海魚。言うまでもなく、そこは深水地帯である。

海面や湖面から水中の底までの深さが水深。世界最長の推進はマリアナ海溝にあって、水深は1万メートル超。この深さと比較したら、ぼくの好物のアンコウのいる500メートルの深海は浅瀬みたいなものだ。
深水は、「しんすい」と読めば水中の深い所を意味する。しかし、「ふかみず」と読めば「切り花を長持ちさせる方法の一つ」だと、デジタル大辞泉に書いてある。手元の主だった56冊の辞書には出ていない。なお、「ふかみ」と読む苗字の先輩がいた。


〈二字熟語遊び〉は、漢字「AB」を「BA」と字順逆転しても意味のある別の熟語ができる熟語遊び。例文によって二つの熟語の類似と差異を炙り出して寸評しようという試み。大きく意味が変わらない場合もあれば、まったく異なった意味になることもある。熟語なので固有名詞は除外する。

ひとことコレクション(2025/10)

🖊 「自然に学べ。自然の中にこそ最高の形が存在する」(アントニ・ガウディ)

🖊 「風景画の中で僕が重んじるのは構図だ」(ベルナール・ビュフェ)


🖊 「週替わりはうどんですか? そばですか?」(麺屋のおかみさん)

🖊 「鶏皮はタレですか? 塩ですか?」(焼鳥屋のホール担当)


🖊 「10年以上使っていたら、キーホルダーから文字が消えた」

🖊 「秋来ぬと目にはさやかに見えねども、朝と夜はちょっと冷える」

🖊 「1,500円のクーポンが付与されました。知らんけど」

🖊 「パリで拾った14年物の熟成落葉。1枚だけ残っていた」


🖊 「茶はせんとうとしとす」(上田秋成)

🖊 「片付けは過去への執着からあなたを解放する」(美輪明宏/YouTube


🖊 「蓄積型・・・熱中症……新語だが流行語ではない」

🖊 「リチウムバッテリーがあるなら火の用心」

ことばの壁と口ごもり

二十代・三十代に書いたノートがかろうじて数冊残っている。現在の文章に比べると、その頃の文章のほうがよく対象を見ていて、心的作用を素直に描写できているような気がした。そう感じて当時のブログから100篇ほど自書自読・・・・して、昔の文章と比較してみた。10年前のこと。その時に述懐したのが下記の文である。

今の文章は、当該文とその前後の文をつなごうとしている。展開する考えが一貫するように筋を追いかけて書くことを意識している。その代償として、点としての対象の摑み、その対象について生起する感覚がおろそかになっているかもしれない。描写や比喩から執念が消えている。叙述することに熱心でなくなり、他者を意識した理屈っぽい説法が多くなっている。普遍を求めて情趣を失しているとすれば、まだまだ拙い証拠である。

この時から10年経った今の述懐はこの通りではない。書くことにずいぶん慣れたはずだが、穏やかに素直に綴れない時も多々ある。そんな場面では、苦痛を覚える前にさっさと妥協して書き終えてしまう。しかし、『メルロ=ポンティ コレクション』の巻末、編者であり翻訳者の中山元の次の文章を読んで大いに反省した。

メルロ=ポンティの思想の魅力は、言いえないものを言おうとする強靭な思想的営為にある。わたしたちのだれもが予感のように感じながら、言葉に表現することのできないものを示そうとするメルロ=ポンティの文章は、よどみ、回り道をし、ときに口ごもる。しかし、その口ごもりにこそ、メルロ=ポンティが語ろうとしたものがある。

口ごもるのは話す時だけではない。文章を綴っている時にもよどむ。そう、「ペンも口ごもる」のだ。

メルロ=ポンティはことばの試練に真向から飛び込んでいこうとした。人は生を生きているが、同時に「ことばを生きている」。ことばを生きるのは並大抵のことではない。本来言いえないことを言おうとしても、ことばは明快性を置き去りにして対象から遠ざかっていく。

語りえないからと言って黙るのではない。書けないからと言ってそこでペンを置かない。もどかしくも、敗北感を覚悟しながら語り書く。その結果を問うてもしかたがない。書けたものが今の精一杯の自分にほかならない。ことばに詰まる、筆が進まない、そしてペンが口ごもる……書くとは試練に耐えることである。

語句の断章(71)こだわり

「何事にもこだわりをお持ちですねぇ」と言う人は悪気もなく相手を褒めているつもり。そう言われて素直に気分をよくする人もいるが、あまり褒められた気がしない人もいる。こだわりは「拘り」と書く。この文字は「拘泥こうでい」や「拘束」などに使われる。見た目の通り「とらわれている」感じがする。

他人から見ればどうでもいいことや意味のない瑣末なことになのに、当人には自分なりの理由や理屈があって必要以上に気にかけたり強い思い入れを示したりする――これがこだわり。「あの人は自説にこだわる、メンツにこだわる、枝葉末節にこだわる」は決して褒めことばではない。

「うちの魚は鮮度にこだわっています」は自店の強みのアピールであるが、プロとして当然の姿勢だ。「塩にこだわる焼肉店」もそれで結構。但し、「タレで食べたい」と言う客に対して血相を変えて「いや、塩しか出さない」と言い出すと、こだわりが度を過ぎてしまう。どうやらプラスのこだわりとマイナスのこだわりがあるようだ。

『昭和の初めから鰻のタレを継ぎ足ししている」のもこだわりだが、継ぎ足ししないで毎日作るタレとの違いがわからない。店で流すBGMがいつもボサノバだったイタリアンの店があった。「イタリアンなのになぜボサノバ?」と聞いたら、オーナーシェフ曰く「好きだから」。これは一人よがりなこだわり。

イタリアはボローニャの画家、ジョルジオ・モランディ(1890 ― 1964)が描いた絵はほとんどがガラスや陶器の瓶を配置した静物画だった。ほとんどの絵が「静物」と命名されていて戸惑ったことがある。こだわりの画家であり、最初はあまり好印象を抱かなかったが、やがて慣れてきて、まっすぐに自己流の芸術を探求した人なのだと納得するようになった。

あることにこだわりがあっても、それ以外のありようやその他のオプションを認めるのなら、それは決して思わしくないこだわりではない。「郷に入っては郷に従え」は強いこだわりのある主張だが、己の流儀を捨てる覚悟があるという意味では、懐の深い柔軟性のあるこだわりである。

食事処の様々な会話

知人との雑談@居酒屋

 落語はやっぱりまくら・・・ですよね。
 最近お気に入りのまくらは?
 家に帰ったら、母親がいただきもののシュークリームを必死に食べていてね。「おふくろ、ダメダメ、そんなに急いで食べたら喉を詰めるよ」と言ったら、おふくろが賞味期限のシールを指差して、「だってここに、なまものですのでなるべく早く・・・・・・食べてくださいと書いてあるのよ」
 そのまくらをぼくに披露するのは3度目かな。

無料大盛り@申告不要のラーメン店

 胡麻担々麺ください。
 (大きな元気な声で)辛さはどうしましょう?
 2辛にからで。
(耳元に顔を近づけて小声で)麺は大盛にしますか? 無料ですよ。

無料大盛り@要申告のうどん店

とり天うどんの大盛り

 週替わり定食、冷たいうどんで。
 はい(と言って立ち去ろうとする)。
 あ、大盛で。
 はい。

政治談議@焼肉店

■ (ロースとカルビを網の上に乗せながら)就任後のトランプ大統領はやりたい放題だね。
 第一次政権時のトランプ大統領を大いに批判していたアメリカ人夫婦がいて、「あの人が大統領だなんて、情けないにも程がある」と言っていた。
 元々は民主党支持の人たち?
 そう。だから次の選挙では当然バイデンを支持した。バイデンが当選し20211月に大統領に就任。
 昨年の大統領選、日本ではハリス候補が有力という識者が多かった。そこの肉、焼けてるよ。
 (肉をタレの皿に乗せて)アメリでは必ずしもそうではなかったようだ。結果、トランプが再選された。さぞかし悔しがっていると思い、アメリカ人夫婦に「トランプが勝ったね」とメールしたんだ。
 ご夫婦はどこの人?
 (肉を頬張りながら)カリフォルニア州。
 基本、あそこは民主党地盤だね。メールの返信は?
 メールに添付してある写真を見てびっくりしたよ。部屋にトランプのポスターが貼ってあったんだ。
 どういうこと? あ、カルビも焼けてる!
 細かいことは省くけど、バイデンの仕事ぶりにがっかりして共和党に転向したというわけ。ハリス候補の敗因は強いトランプではなく、弱いバイデンだった。このカルビはロースよりもうまいね。

語句の断章(70)間髪

この『語句の断章』では、これまで正用の語句を取り上げてきたが、今回の間髪は誤用であり、「かんぱつ」と読むのも間違いである。ゆえに「間髪かんぱつれず」と読むのも誤り。そもそも間髪などという語がない。

、髪を入れず」という熟語の最初の漢字を「間髪」とし、それを「かんぱつ」と読んだのが誤りの始まり。人間の身体のどこにも、間髪という、部分カツラのような髪は生えていない。

「間髪を入れず」ではなく、「間、髪を入れず」が正しく、「かん、はつをいれず」と読む。間とは何かと何かの隙間のことで、この熟語は「そこには一本の髪の毛すら入らない」ことを意味した。そしてやがて「すぐに」とか「とっさに」という意味に転じた。

講演会などで「間、髪を入れず」と言うと、「あの先生、間違っている」と思われる。そう懸念して、誰もが正しいと思っている「間髪を入れず」を使ってしまうと、それが誤用だとわかっている人に「あの先生、使い方間違っている」とつぶやかれる。

頻繁な誤用によって本家の正用が駆逐されてしまう。そのようにして慣用化した誤用の語句は少なくない。「間、髪を入れず」のように、途中で「、」で区切られる熟語で間違われるのが「綺羅星きらぼしのごとし」。綺羅星という名の星はない。これも正しくは「綺羅きらほしのごとし」である。

綺羅とは「美しい絹の衣装」。それを美しくまとった人たちが立ち並ぶ様子を星にたとえた表現が「綺羅、星のごとし」。「綺羅と星を誤って続けた語」と断りながらも、「きらぼし」を見出しに掲げる辞書もある。正用と誤用が互角に混在する今、それもやむをえない。

肉好きグルメの二字熟語遊び

肉牛 にくぎゅう 牛肉 ぎゅうにく

(例)「肉牛は食肉用の牛であり、生きた動物であるが、牛肉と呼ばれる時点では死んでいる。」

肉牛と二項対立の関係にあるのは、たぶん乳牛である。肉牛は肉を食用にされたり加工されたりし、乳牛は乳を飲用にされたり加工されたりする。
一般人が買うのは肉牛ではなく、屠畜されて部位に分けられた牛肉である。ちなみに牛肉料理の人気ベスト上位は焼肉、ステーキ、ハンバーグ、すき焼き、しゃぶしゃぶだそうだ。できればビーフシチューとローストビーフも加えて欲しい。

食肉 しょくにく 肉食 にくしょく

(例)「肉と言えば、関西では牛肉、関東では豚肉ということになっているが、他に鶏肉、羊肉、山羊やぎ肉、馬肉も食肉である。食肉を好んで食べることを肉食という。」

肉食と二項対立を成すのは草食である。肉類を好んで食べ、肉を主として食べる習性のある動物を肉食動物という。人間は雑食だが、肉類を好む者を肉食主義者、野菜類を好む者を菜食主義者と呼ぶ。おそらく人間を肉食動物や草食動物とは呼びづらいので、主義者と言うのだろう。ベジタリアンの知人は何人かいるが、食事を共にしたことは一度もない。

眼肉 がんにく 肉眼 にくがん

(例)「鮪の頭を調理する時、わが肉眼を見開いて鮪の眼の回りの眼肉をじっと見る。」

鮪の眼肉のユッケ

鮪の眼肉は滅多に流通しないが、ごく稀にスーパーで売られていることがある。魚類の眼の回りの肉では鮪が最も希少だ。鮪の眼玉の回りの肉を牛肉に見立てて細切りにし、味付けして卵の黄身をのせると、牛肉のユッケ以上の味に化ける。もちろん煮付けても上等だ。
眼は、それが人のであれ魚のであれ、よく似ている。じっくり見ていると、見返されているようで不気味になってくる。


〈二字熟語遊び〉は、漢字「AB」を「BA」と字順逆転しても意味のある別の熟語ができる熟語遊び。例文によって二つの熟語の類似と差異を炙り出して寸評しようという試み。大きく意味が変わらない場合もあれば、まったく異なった意味になることもある。熟語なので固有名詞は除外する。

語句の断章(69)姑息

姑息こそくは、近年の国語調査ではいつも誤用ランキングの上位に入っている。令和3年度の文化庁の「国語に関する世論調査」でも、姑息の意味を「卑怯ひきょう」とした人は73.9パーセント、「一時しのぎ」とした人が17.4パーセントだった。本来の意味は一時しのぎだが、誤用の卑怯が浸透してきたため俗用として広く使われるようになってしまった。

姑は「しゅうとめ」だが、他に「しばらく」という意味がある。息は「休む」であるから、姑息は「しばらく息をついて休む」。これが転じて「一時の間に合わせ」や「一時しのぎ」が正用となった。しかし、ほとんどの日本国民は姑息を「ずるさ」だと思っている。

一時の間に合わせやその場しのぎだから、姑息は「おざなり」に近い。抜本的に策を講じるのではなく、適当に繕って用を済ませてしまうのである。たとえば、お客が来た時に、座布団を出そうとしたら破れていたのでひっくり返して裏面を使うとか、障子の破れを適当な紙切れで貼って隠すとか。

姑息の出典を調べていたら、儒教の基本的な経典の一つ、紀元前に編纂された『礼記らいき』に行き着いた。

君子の人を愛するや徳をもってし、細人さいじんの人を愛するや姑息を以てす。
(君子は徳によって人を愛するが、心の狭い者は場当たりで他人を愛する)

なるほど、ずるいとか卑怯とかではなく、適当な、行き当たりばったりという意味である。

なお、因循いんじゅん姑息という四字熟語もある。古くからの習慣にこだわったり従ったりして一時逃れをすること。たしかに、昔からの伝統やしきたりを持ち出してその場しのぎの言い訳に使う場面にはよく出くわす。

数字の二字熟語を遊ぶ

数字を含む二字熟語の数は限られているが、あることはある。あることはあるが、字順逆転すると意味不明になるものが多い。数少ない例から3つ選択。

五七ごしち七五しちご

(例)五七の五文字と七文字を並べ替えて七五にしても意味が変わらないという人がいるが、ニュアンスと調子は見事に変わる。

俳句は五七五、短歌は五七五七七。たとえば、「春過ぎて夏来たるらし白妙の衣ほしたり天の香具山」という和歌は、五七を二度繰り返して七で終わる。
「恋に焦がれて鳴く蝉よりも鳴かぬ蛍が身を焦がす」は都々逸で、七七七五。下線部の〆は七五調だ。
七五調は浄瑠璃の特徴。近松門左衛門の『曾根崎心中』の名調子が有名。

あれかぞふれば暁の
七つの時が六つ鳴りて
残る五つが今生こんじょう
鐘の響きの聞きをさめ
寂滅為楽じゃくめついらくと響くなり

五音と七音の韻律は日本人に快く響く。五七調は荘重で、七五調は軽やかな調子と言われる。声に出してみてこその韻律である。

十二じゅうに二十にじゅう

(例)ちょうど感をあまり覚えない十二なのに時間やカレンダーには不可欠。他方、ちょうど感があるのに二十という数字はわが国では二十歳はたちの他に出番が少ない。

十進法に比べて十二進法は使いにくそうに見えるが、時計盤の文字、1ダース、年十二ヵ月、十二支、星座で身近にお世話になっている。二十という数字は、20ドル紙幣や20ユーロ紙幣など、世界では貨幣の単位としてスタンダードである。

万一まんいち と 一万いちまん

以前取り上げたが、例文を新たにして書いてみた。

(例)「万一そんな事態になったら……」とは通常ありえないこと――めったにないこと――を仮定している。他方、一万は昨今さほど珍しいものではなくなった。

千を10倍、百を100倍、十を1,000倍にするとそれぞれ一万になる。一万の大きさを説明するのにこれ以上詳しい方法は見当たらない。こんなに大きな数字なのに、一万円という文字は見た目が軽い。祝儀袋に「壱萬圓」と画数の多い漢字を使うのは貫禄を示すためである。


〈二字熟語遊び〉は、漢字「AB」を「BA」と字順逆転しても意味のある別の熟語ができる熟語遊び。例文によって二つの熟語の類似と差異を炙り出して寸評しようという試み。大きく意味が変わらない場合もあれば、まったく異なった意味になることもある。熟語なので固有名詞は除外する。

語句の断章(68)結構

いつもの辞書ではなく、久しぶりに類語辞典を手に取る。「結構けっこう」は多義語で、大きく3つの意味がある。辞書の用例を自分なりにアレンジしてみた。

① 構成・趣向。「この建造物の結構は壮麗だ」とか「文章の結構がなかなかよい」というのが元来の用法。
② 優等。「結構な出来映えだ」、「結構な品物をいただきました」というような使い方をする。
③ 十分/不十分。「この道具で結構間に合う」や「彼の英語は結構通じる」。「意外なことに」とか「想像以上に」というニュアンスが感じられる。

建物や文の構成が始まりで、褒めことばとして「結構がいい」などと言ったようだ。これが変化して、たとえば「結構なお庭ですなあ」とか「旅も食事も結構づくめだった」などと使うようになった。しかし、「結構なご身分だこと」という評になると、本意か皮肉かがわからなくなる。このあたりから意味が二重化してきた。

やがて、上記の例のように、褒めと、不要/お断りの両義を持ち合わせるようになる。結構な味ですと満足を示すこともできれば、もう十分ですという意味でも使える。なぜ結構は多義後になったのか?

国語学者、岩淵悦太郎の『語源散策』にヒントが見つかった。昔は「すぐれた結構」と言っていたのが、やがて表現を短縮して結構だけで「すぐれた結構」という意味になったという。そして、使う対象が建築や文章だけでなく、天気や料理や人柄などに広がっていった。

なるほど、表現を短縮化し、かつ適用範囲をどんどん広げていけば、意味が曖昧になるのもやむをえない。こうして、結構はイエスとノーの両義を持ち、意味の解釈は相手に委ねられることとなった。

曖昧ついでに「結構毛だらけ猫灰だらけ」などとも言う。意味よりもただ単に語呂を楽しむ表現として使われてきた。ちなみに、ありがとうございますの意の「ありがた山のかんがらす」。大河ドラマ『べらぼう』の蔦重つたじゅうこと蔦谷重兵衛のあのせりふも、これとよく似た語呂遊びである。