まだまだ続く二字熟語遊び

木材もくざい材木ざいもく
(例文)木材は、原木を切って材(材料)に用いるもの。つまり、木から材を作る。その材を長さや大きさの規格に合わせて製材したのが材木である。

厳密に言えば、木材店と材木店の扱うものは同じではない。かつて街中でもよく見かけたのは材木店で、すでに製材された板が立ててあったり加工された角材が積んであったりした。他方、木材店にあるのは、表皮を取り除いた、汎用性のある丸太や大きな一枚板。木材は、人の手による加工が入って材木になっていくのである。

人海じんかい海人あま
(例文)大勢の人が集まる様子を広い海にたとえる表現が人海。漁師や漁業などの海の仕事に従事する人は、多くても少なくても海人

人海を二字熟語として見ることはめったになく、たいてい人海戦術という四字熟語で使われる。「海女」を連想するので、「あま」というおんから女性を指すと思いがちだが、実は、海人、海女、海士、塰はすべて「あま」と読む。沖縄では海人は「うみんちゅ」と言い、職業は「あま」である。

文明ぶんめい明文めいぶん
(例文)ルールや法が高度になるにつれ、
文明社会ではそれらを文書として明文化するようになった。

稗田阿礼が完璧に暗誦しているからそれでいいとは誰も言わず、暗誦したものを太安万侶が筆録して『古事記』として編纂した。同じく、農耕や牧畜、都市と社会、技術と物資などにまつわる約束事は人々の記憶だけで共有できない。と言うわけで、文章として明確に書き留めたのである。もっとも書き留めたからと言って安心はできない。一般大衆はそんな難解なものを読まないからだ。


シリーズ〈二字熟語遊び〉は二字の漢字「〇△」を「△〇」としても別の漢字が成立する熟語遊び。大きく意味が変わらない場合もあれば、まったく異なった意味になる場合がある。その類似と差異を例文によってあぶり出して寸評しようという試み。なお、熟語なので固有名詞は除外。

語句の断章(55)「便利」

日常語ほど定義に苦労する。その語だけで十分明快なのに、説明を加えて逆にわかりづらくなる。「便利」などはその最たる例だ。この語を初めて辞書で引いてみた。「それを使う(そこにある)ことによって何かが都合よく(楽に)行なわれていること(様子)」と『新明解』には書いてある。あまり明解ではない。執筆者、ちょっと困っているのではないか。

便利とは何かと説明するよりも、便利を使った用例を示すほうがわかりやすい。たとえば、「今住んでいる所は買物に便利がいい」とか「知人にもらった8-in-1エイトインワンの多機能道具は想像していたほど便利ではない」とか。

『徒然草』は、長年書きためた随筆を吉田兼好が1300年の半ばにまとめた鎌倉時代の随筆集。この第一〇八段に「便利」という語が登場する。

一日のうちに、飲食おんじき便利べんり睡眠すゐめん言語ごんご行歩ぎやうぶ、やむ事をえずして多くの時を失ふ。そのあまりのいとまいくばくならぬうちに、無益むやくの事をなし、無益の事を言ひ、無益の事を思惟しゆゐして時を移すのみならず、日をせうし月をわたりて、一生を送る、最も愚かなり。

文中の便利は、現代の意味とは違う。古語辞典でチェックしたら、当時は仏教由来の「大小便のお通じ」の意味だった。

食べたり飲んだり、大小便をしたり、眠ったり、しゃべったり、歩いたりと、やめるわけにはいかないことに一日中時間を費やしている。残された時間が多くもないのに、役にも立たないことをやり、役にも立たないことを言い、役にも立たないことを考えて時が流れる。日を送り月を過ごして一生を送ってしまうとは、きわめて愚かなことだ。(拙訳)

食事、排泄、睡眠、会話、散歩が無駄だと言っているように聞こえるが、むしろ、それ以外のことをしていない日々の過ごし方への批評だと読むべきだろう。ともあれ、便利は大小便のことだった。役に立たないと片付けてしまうわけにはいかない。便利が滞ると「便秘」になってしまう。便利には「利便性」があるのだ。

3年ぶりの二字熟語遊び

「ぜひお願いしたい仕事がある。来週は空けておいてほしい」と言われたものの、昨日無期延期の連絡。無期延期とは「ない」の意。溜まっている資料の整理でもするかとつぶやいたものの、退屈このうえない。ノートを繰っていたら202153日の、「子女―女子、前門―門前、保留―留保」のメモ。もう3年もブランクがあったとは……。

シリーズ〈二字熟語遊び〉は二字の漢字「〇△」を「△〇」としても別の漢字が成立する熟語遊び。大きく意味が変わらない場合もあれば、まったく異なった意味になる場合がある。その類似と差異を例文によってあぶり出して寸評しようという試み。なお、熟語なので固有名詞は除外。


速足はやあし足速あしばや
(例)陸上競技部のかける君はもちろん走るのが速いが、ぼくらのような並足に比べて歩調も速足だ。勉強のよくできるあゆむ君は走るのも歩くのもゆっくり。でも、遊んでいる時に塾の時間になると足速に立ち去る。

足が速いと言えば、走ることをイメージするが、速足は歩くことに限った用語のようである。みんなでハイキングに行けば、引率者が先頭で颯爽と歩いている様子がうかがえる。走るのが速いのは俊足、遅いのは鈍足と言う。鈍足なのに、自分の都合でさっさと足早に立ち去る者もいる。

長年ながねん年長ねんちょう
(例)知り合いの長年連れ添ったご夫婦は、金婚式の節目に海外旅行に出掛けた。「ところで、あのお二人、どっちが年上?」などと想像するのは野暮。半世紀も一緒に苦労を共にしたご夫婦にどちらが年長かはほとんど意味がない。

いくら久しぶりでも、5年や10年では長年とは言わないだろう。長年が具体的に何年を表すかは人によって違うが、仕事に携わるのであれば少なくとも30年、連れ添うのなら450年になるかもしれない。ところで、年長・年中・年少と区分してしまうと園児になり、もはやシニアには使えない。

道行みちゆき行道ぎょうどう
(例)浄瑠璃で相愛の男女の駈け落ちの、時に心中に到る場面を道行と言う。他方、行道は仏道の修行で、経を読みながら仏殿の周囲をぐるぐる巡る。いずれも道にあって歩を進めることに変わりはない。

道行は旅のことで、道中の光景や旅情を七五調の韻文で綴る。近松門左衛門の『曾根崎心中」のクライマックスが名調子である。

此世このよ名残なごり夜も名残 死にに行く身をたとふれば
あだしが原の道の霜 一足づつに消えて行く
夢の夢こそあはれなれ あれかぞふれば暁の
七つの時が六つ鳴りて 残る一つが今生こんじょう
鐘の響きの聞き納め 寂滅為楽じゃくめついらくと響くなり

器用な日本語

一つの言語内に漢字、ひらがな、カタカナ、アルファベットの文字が使われる。日本語は特異である。しかも、ほとんどの漢字の読み方は一通りではない。たとえば「生」はおんで「セイ」または「ショウ」と読む。さらに訓になると下記の通り。

生きるの「い」  生まれるの「う」  生えるの「は」  生そばの「き」  生意気の「なま」  生憎の「あい」  芝生の「ふ」  弥生の「よい」  

他の読みもあるかもしれないが、とりあえず以上で10通り。一文字でこれだけの読みがある。小学生や日本語を学ぶ外国人にとって文脈から読みを類推することはきわめて難しく、全部覚えるしかない。他方、英語の“life”という単語の発音は【láif】(ライフ)のみ。

こんな話を書くと、英語のほうが器用だと思われそうだ。しかし、1単語に一つの読みしかないのは、わかりやすいけれども、実は融通がきかない。たった一つの道具で10の作業や仕事をする人を器用な人と形容するように、日本語は器用なのだ。

難しそうな漢字には「ふりがな」が使える(例:顰蹙ひんしゅく)。本来の読み以外の読みにしたい時もふりがなを使う(例:解雇クビ)。一つの熟語を、蘊蓄、うんちく、ウンチクと表記できる。しかもカタカナで書くと、独特のニュアンスが出る。

青森と函館をつないで「青函トンネル」、下関と門司も「関門トンネル」。ロサンジェルスとサンフランシスコをつないでも、せいぜい“LA-SF”、表音できても表意は不可。バドミントンのペアを「オグシオ」とか「タカマツ」と頭文字で言い換えるのは朝飯前だ。

「回文」ということば遊びは器用な日本語の真骨頂である。土屋耕一の「軽い機敏な仔猫何匹いるか」は、前から読んでも後ろから読んでも見事に「かるいきびんなこねこなんびきいるか」。

石川県の能登で300年以上の歴史のある「段駄羅だんだら」は味のある高度な文芸の遊びである。五七五の「七」のところに、同じ読みだが異なる表現と意味の七音を二つ並べる。全国的にあまり知られていないが、もっとたしなんでいいと思う。

コミュニケーションだけではなく、日本語はその器用さによって、アート性に満ちたことばの冒険を楽しませてくれる。

語句の断章(54)「画竜点睛」

最初に「画竜点睛」に出合ったのは十代の半ばだったと記憶している。画竜を当然のように「がりゅう」と読んだが、後日それは間違いで、正しくは「がりょう」だと知った。しかし、後年、ある辞書に「がりゅうとも読む」と書いてあった。「がりょうてんせい」に慣れていたので、変えずに今に到る。

早合点がもう一つある。点睛のを、天気のはれだと勝手に思い込んだ。「点に晴」でどんな意味になるのか調べもせずに。「絵に描いた竜を明るく照らす」というような意味に解釈したと思う。これも辞書にあたる機会があり、睛が「ひとみ」のことで、点睛とは「ひとみを描き入れる」の意であることを知る。

画竜点睛は「りょうえがいてひとみてんず」と読み下す。竜の絵を描いたら最後に竜の目を入れるとは、物事を完成する最後の段階で一番肝心な部分を仕上げることを教えている。四頭の竜の絵を描いた名人が、ひとみを描き入れると竜が飛び立つからと言って瞳を描かなかった。人々は「そんなバカな! ウソだろ!」と言って名人に迫り、無理やり瞳を描かせた。すると、ひとみを入れた二頭の竜がたちまち天に昇った……。六朝時代の故事に由来する。

この四字熟語、ほとんどの場合「画竜点睛を欠く・・」という用い方をして、最後の仕上げが不十分だったり要が欠けたりすると出来映えが悪くなるというメッセージとして表現される。画竜点睛という物語にすでに「全体ができた後に最後の仕上げを忘れるな」という教訓が込められている。

だいぶ前の話だが、ぼくの講演の後に、司会者が見事に講演内容をまとめてくれたことがある。今日の話からよく学ぼうと上手に聴衆を鼓舞し、ぼくへの謝辞も丁寧に述べていただいた。最後に「本日多忙な折にお越しいただいた〇〇先生にもう一度拍手をお願いします」。鳴りやまぬ拍手。〇〇には「岡野」が入らなければいけないが、別の名前だった。ひとみが入らなかったのでぼくは天に昇れず、後味悪く床を這うように会場を後にした。

語句の断章(53)「句読」

「話はえんえんと続く、句読点もないままに」

田辺聖子の本で見つけた文章。印象に残ったので抜き書きしていた。ただでさえ長い話または文章に、しかるべき句読点くとうてん)がなかったら、文は終わる気配を見せない。

句読点とは「句は文の切れ目、読は文中の切れ目で、読みやすいよう息を休める所」と広辞苑に書かれている。二行や三行程度の文章を読むのに息を休める必要があるか。句読点は息継ぎスポットなのか。

句読点を付けることを「句読を切る」と言うが、文や語の切れ目を明らかにして、読みやすくしたり文意を明らかにしたりするためである。読みやすくというのは、視覚的な可読性のこと。わが国で句読点が文中に出るのは明治時代になってから。それまでは可読性に著しく難がある文章や物語を読み書きしていた。『源氏物語』の「桐壺」の原文は次の通り。

いづれの御時にか女御更衣あまたさぶらひたまひけるなかにいとやむごとなき際にはあらぬがすぐれて時めきたまふありけり

句読点のない文章に読み慣れれば意味もわかるようになるのだろうが、次のように句読を切り、ついでに漢字にルビを振れば、かなり読みやすくなる。

いづれの御時おほむときにか女御更衣にようごかういあまたさぶらひたまひけるなかにいとやむごとなききわにはあらぬがすぐれてときめきたまふありけり

修飾語が盛られた文章はおおむね悪文とされるが、句読点を使えば修飾語どうしの関係を明らかにできる。たとえば「いよいよやって来た蝶々が飛ぶあたたかい季節」という文では、いよいよやって来たのは蝶々と読まれかねないが、「いよいよやって来た蝶々が飛ぶあたたかい季節」と、読点一つで「いよいよやって来た」を「季節」に掛けることができる。

音声か、文字か?


部下「部長、東京から鈴木専務が午後に来られるそうです」
部長「いつわかったんだ?」
部下「昨日の夕方です」
部長「なぜもっと早く言わないんだ⁉」
部下「部長、東京から鈴木専務が午後に来られるそうです

上記のやりとりはジョークだ。しかし、文字面を見るだけではジョークだとわからない。文字ではこのおもしろさを仕込めないのである。

「なぜもっと早く言わないんだ⁉」と注意された部下は、「早く」を話すスピードと勘違いし、最初に告げた「部長、東京から鈴木専務が午後に来られるそうです」を、今度は早口で繰り返した。文字では下線部のせりふを早口で言ったことまで表現できない。

「ほら、やっぱりね。文字で表わせることには限界があるんだ。ぼくたちは生まれた時から、ことばをまず音声として聞き、そして音声を真似て発話する。文字はもっと先になってから学習する。つまり、音声あっての文字なんだ。落語を文字で読んでもおかしくも何ともない」……こんなことを言う人もいる。

なるほど……と思わないわけではないが、音声が文字よりも優位ということにはならない。昔の回覧板も今の電子メールも、メッセージは文字で伝えられる。留守電というのもあるが、聞きづらいし聞き間違いもよくある。音声だと「今週と今秋」の違いが出せない。精度を期するなら文字なのだ。

やっぱり文字を優先すべきなのか。いやいや、そうではない。タイトルを「音声か、文字か?」という二者択一で書いたが、ことばの伝達精度を高めようとすれば、「音声も文字も」と欲張らねばならない(もし可能なら、ここに絵や写真も加えたい)。

音声と文字で伝えてもらって腑に落ちる。但し、声に出しても文字で読んでも仕掛けがすっとわかるとはかぎらないこともある。仕掛けがわかっておもしろいと感じたものの不思議な異化感覚に包まれることもある。次の「段駄羅だんだら遊び」などはその典型である。

語句の断章(52)「もんがまえ」

構える格好をした漢字がある。たとえば門や口や包がそうだ。何かに反応したり備えたりして身構えているのではなく、それぞれ「もんがまえ」、「くにがまえ」、「つつみがまえ」という部首として漢字を構成している。住居の実際の門構えの意であり、部首の名称である「もんがまえ」が象形文字としてわかりやすい。

もんがまえの漢字はJIS1・2水準で64字あり、言うまでもなく、すべての漢字が「門」のDNAを引き継いでいる。最たるものが「開ける」と「閉める」だ。門あるところ、必ず開閉が伴う。開の「开」はケンまたはカイと音読みし、両手で門をあける様子だという。では、閉じるの「才」は? 突っ張り棒の斜め使いと直感したが、特に意味はなく、何となく門に才を合わせただけらしい。

もんがまえの漢字でユニークなのが「閃」。門の中に人がいて「ひらめき」とはこれいかに。実は、ちらっと見えたかと思うと隠れて見えなくなる様子。ずっと見えているのではなく、ちらっと見えるから一瞬ピピっとひらめくような感じがする。

「閑」はカン。「しずか」や「ひま」と訓読みする。門の中に木を配置しているが、木が門の前にあって門を遮っている状況という解釈がある。この場合は、「しきり」という成り立ちになるとか。

象形文字としておもしろいのが「閂」。「かんぬき」と訓読みする。門という字は見ての通り両開きの構造になっている。左右の扉が勝手に開かないように、一本の横木を通す。閂はその様子をよく示している。

もんがまえの64の漢字をすべてチェックして、「もんもんとする」の「悶」がないことに気づく。悶はもんがまえではなく、心を部首とした「りっしんべん」だと知る。ついでに補足すると、「問」も「聞」も門越しに誰かが問い誰かが聞いている雰囲気があるが、どちらももんがまえではない。問は「くちへん」で、聞は「みみへん」である。

語句の断章(51)「けれん」

若い頃、初見の「外連」が読めなかった。ソ連の別名に見えた。調べて、これがあの「けれん」だと知る。外連は借字しゃくじなので読めなくてもしかたがないが、そもそも意味がわかっていなかった。

浪花節や義太夫由来としてある辞書が多いが、最初に調べた本では俗受けをねらう歌舞伎の演技というふうに書かれていた。先日Googleで検索していたら、たまたま英語版のWikipediaに導かれた。

Keren are stagecraft tricks used in Japanese kabuki theater, making use of trapdoors, revolving stages,  and other equipment.

「けれんは日本の歌舞伎で使う舞台の仕掛けで、落とし戸や回り舞台などの装置や道具のこと」と書いてある。日本人が日本人向けに説明するよりもわかりやすい。大向こうを唸らせる、派手なトリックや奇抜な演技もけれん。鳥類では孔雀がけれん使いの筆頭だろう。

けれんは舞台の受けねらいから離れて一般化し、今では転じて「はったり」や「ごまかし」の意味で使われることが多い。「けれん」だけをポツンと使うことはあまりなく、ふつうは「けれんみ」か「けれんみがない」が一般的な用法だ。

打ち消しの語感のせいか、「けれんみがない」と評されると、あまり褒められた気分にならない。しかし、「あなたの話し方や書かれる文章はけれんみがない」は正しい用法の一例。こう言われたら、褒められているのである。

語句の断章(50)「加減」

加減ということばから真っ先に想起するのは、学生の頃なら四則計算の足したり引いたりの加減。ついでに、「いい加減」が口癖だった教師も思い出す。口調や顔つきもついでによみがえる。

数学なら足したり引いたりの多少に縛りはないが、熱や水や調味料や圧力になるとデリケートに調整してほどよい状態にする必要がある。数学離れをした今では、加減と言えば、塩・砂糖・醤油などの調味料の量や味のことであり、強火・中火・弱火などの調理のことを連想する。

「匙加減」を辞書で引くと、薬剤の微妙な調合をおこなうことと書いてある。料理用語になる前は、医者が匙で薬剤をすくって混ぜていた。だから、「匙加減一つでどうにでもなる」とは、患者を生かすも殺すも医者の薬の量次第という意味だった。

現在、加減は多義にして多用に使われる。勝負事に弱い相手には少し手加減をしてあげるし、風呂には人それぞれの好みの湯加減がある。風邪気味で身体の加減がかんばしくなくなったり、待ちに待った春先には陽気の加減で体調が思わしくなくなったりする。仕事やミッションを途中で投げ出すといい加減なやつだと言われ、ついには堪忍袋の緒が切れた上司に「いい加減にしろ!」と怒鳴られる。

いい加減のいい・・は元は「い」だから、文字通り好ましい意味だったが、否定的なニュアンスが込められるようになった。単発で「いい加減」と書いたり言ったりすると、テキトウとか無責任という意味に取られる。肯定的に使おうとするのなら「好い加減」と書き、「い加減」と言えば誤解されずに済む。そうそう、あの昔の教師は「いい加減」ではなく「よい加減」と言っていた。