窓からそよ風、二字熟語遊び

著名ちょめい名著めいちょ

(例文)著名でない人が書いた名著もあるし、名著なのに著者不明の作品もある。著名な著者の作品が必ずしも名著であるとはかぎらない。

デカルトは歴史に名を残している。「デカンショ」のあのデカルトはカントとショーペンハウエルと肩を並べる著名な哲学者だ。ところが、デカルトを知っている人は多いが、『方法序説』を知っている人は少なく、読んだ人になるとさらに少なくなる。執筆されてから時を経て今も評価されている本だが、読みもせずに名著だと思っている人がほとんど。

一画いっかく画一かくいつ

(例文)漢字では一筆で書く線を一画という。線を引いて区切った土地も一画と呼ぶが、戸建ての宅地の面積や形は画一とはかぎらない。

画数が一画の漢字は何? と問われたことがある。「一」と答えたが、もう一つあると言われてすぐに思いつかなかった。しばらくして「乙」を見つけた。一画の漢字が2つと言われていなかったら、さらに続けて頭の中を弄ろうとしたに違いない。

晴天せいてん天晴あっぱれ

(例文)晴天とは雨天や曇天と対照的な晴れた空のこと。空以外のことにはつかいづらい。他方、天晴は見事な出来映えに対してならどんなことにでも使える。

天晴はほめ言葉である。誰かが実力以上の成果を発揮したら「あっぱれ!」とほめる。出来映えが同じなら、力のある人よりも力のない人のほうがほめられる。

故事 こじ事故じこ

(例文)故事は古い時代から伝わる話やいわれで、「故事来歴」という熟語でも使われる。事故は不注意が招く人災や支障を来すことを意味するが、その故事はわからない。

事故の起源や由来を調べたことがあるが、「ことゆゑ」という昔の訓読みが出てくるばかりで、なぜそう言うようになったかは不明である。事故が「ことゆゑ」なら、故事は「ゆゑごと」と言うのか。辞書には見当たらないが、AIは「ゆえごととは先行する事柄を理由として後続する事柄が生じることを指すことば」と語釈を付けてくれた。


〈二字熟語遊び〉は二字の漢字「〇△」を「△〇」としても別の漢字が成立する、熟語遊び。大きく意味が変わらない場合もあれば、まったく異なった意味になる場合がある。その類似と差異を例文によってあぶり出して寸評しようという試み。なお、熟語なので固有名詞は除外。

語句の断章(57)衣替え

今日は101日。わが家には56種類のカレンダーがある。その一つ、洗面所の壁に吊ってるカレンダーは、今日が「衣替え」だと告げている。10月で他に印刷されているのが14日の「スポーツの日」と31日の「ハロウィン」。衣替えは、スポーツの日とハロウィンと堂々と肩を並べているのだ。

大阪では今週も最高気温30℃超えの日々が続くとの予報。明らかに残暑である。しかし、歳時というものは、実際の季節の変化とは無関係に型通りに暦に節目を刻む。衣替えも、まるで国民の休日を祝うかのように101日の枠に印刷されている。

衣替えの「ころも」は古めかしく響き、怠らずに執り行うべき儀式を思わせる。なにしろ更衣という字も「ころもがえ」と読ませるのだから手が込んでいる。衣替えの日を年中行事の一つとして捉えて、わざわざカレンダーに印刷するのは親切心かもしれないが、余計なお節介でもある。

年中行事の四季と現実の季節感がズレてきた今、暑さや寒さの変わり目と歳時が一致しない。春間近と秋間近の衣替えのタイミングは、風習や勤務先や学校ではなく、自分で決めるしかない。今日、タンスやクローゼットの整理整頓をするのは、少なくともわが住まう所では早過ぎる。半袖のTシャツ姿で眺める衣替えの文字が現実とシンクロしていない。

現在の衣替えは、冬から春・夏へと夏から秋・冬への年2回が一般的だが、江戸時代までは違っていた。冬から春、春から夏、夏から秋、秋から冬への変わり目の年4回だった。少々面倒だが、さぞかしお洒落で風情もあったに違いない。何よりも,今よりも四季のメリハリが利いていたのだろう。

語句の断章(56)「他人」

今さら念を押すまでもなく、他人は「たにん」と読むのが基本。しかし、例外があって、「ひと」とルビが振られていることが稀にある。他人を「たにん」と読ませる時と「ひと」と読ませる時では、意味とニュアンスの違いが出る。

Aを固有の人名だとする。「A他人たにんです」と言えば、Aは自分以外の人である。自分以外の人は、親族・親類とそれ以外の人に大別される。他人たにんは親族・親類以外の人とされる。おそらくAは友人や知人ではない。友人や知人なら、他人たにんなどとは言わない。他人たにんAと自分には道で見知らぬ者どうしが通り掛かる以上の関係はなく、この先どうなるかはわからないが、今のところ利害を共にしたりお互いを必要としたりする仲ではない。

他人を「ひと」と読ませたい時、「A他人ひとです」とは決して言わない。自分に直接関係のない事を「他人事ひとごと」と言うが、Aという人名と他人ひとをセットにしてしまうと、Aを適当に扱っていたり素知らぬ顔をしたりしている感じが色濃く出る。他人ひとと言う場合は、自分との分別を強く意識している。そこには「自他」という――現実の人間関係とは別の――存在関係がうかがえる。他人ひととは、自分とは異なる「他者」という存在なのである。

哲学に「他者問題」というのがある。自分には他者の心がわかるのか、仮にわかるとすれば、どのようにわかるのか……そんなテーマを考察する。今、友人一緒に食べているステーキを自分はおいしいと思っているが、他者である友人は自分と同じおいしさを感じているのかどうか。他者の頭痛、他者が見ている色、他者が言う「わかった!」という理解の程度を、自分はわかることができるのか。

他人たにん他人ひとの違いを出すために、他人ひと他人事ひとごとではなく、他者としてとらえてみたい。その瞬間、哲学の思索が始まって頭を痛めることになるが、やむをえない。赤の他人たにんを他者に見立てて論じようとすれば責任が伴うのである。

厳暑の日々の二字熟語遊び

今日のテーマは「日」。日を含む二字熟語をつないでみた。ある日が次の日にリレーする。日は別の漢字とくっついて、様々な日々の様相を呈してくれる。〇△の二字を△〇にするだけで、これまで馴染んだ熟語に新しい顔と意味を見つけることがある。

日毎ひごと毎日まいにち
(例文)
「焼けつくような天気が毎日続きますねぇ。冷たいのが恋しい」
「ええ、日毎暑さがつのります。かき氷目指して甘味処によくお邪魔しております」

日毎と毎日の意味は同じである。日毎は、毎日のやや文学的な言い回しと思えばいい。「日ごと夜ごと退屈している」と「毎日毎晩退屈している」はニュアンスと印象がだいぶ違う。ところで、毎日新聞を日毎新聞としたら、記事の文体も変わるはずである。

日曜にちよう曜日ようび
(例文)
「遅まきながら、“日曜日”が上から読んでも下から読んでも“にちようび”だと先日気づいたよ」
「月火水木金土ときて、次の日をわざわざ日にしなくてもよかったのに……。“天曜日”がカッコいいと思う」

夏休みのような長期休暇中は毎日が日曜みたいなものだから、曜日の意識が薄まる。曜日は空海が唐の時代にわが国に伝えたと言われている。主として吉凶の占いが目的だった。今のような週と曜日が始まったのは太陽暦と週休制が導入された明治6年らしい。

中日なかび日中にっちゅう
(例文)
「大相撲の中日のチケットが手に入ったけど、行ってみるかい?」
「それはいいねぇ。日中の早い時間に行って序ノ口や序二段から観てみたい」

中日はドラゴンズのことではない。野球ではなく、大相撲の八日目を指す。また、興行期間の長い芝居の公演の真ん中の日も中日という。日中にも、日が高くのぼり始める午前10時頃から午後3時~4時までという慣習的な定義がある。

数日すうじつ日数にっすう
(例文)
「こんな内容だけど、受けてもらえるかな? できれば数日以内に……」
「いやあ、ちょっと無理です。そのお仕事なら、日数をいただくことになります」

数日は慣習的には34日、時に56日で、よほどのことがないかぎり、2日や8日、9日ではない。明確に何日とは言わないが、以心伝心的にはお互いが承知している。数日が短くて日数が長い感じがするから、「数日ほど日数をいただきます」は誤解を与える。


〈二字熟語遊び〉は二字の漢字「〇△」を「△〇」としても別の漢字が成立する、岡野勝志が発案した熟語遊び。大きく意味が変わらない場合もあれば、まったく異なった意味になる場合がある。その類似と差異を例文によってあぶり出して寸評しようという試み。なお、熟語なので固有名詞は除外。

レトロ・ロマン・モダンの広告文拝見

大阪くらしの今昔館で開催中の企画展『レトロ・ロマン・モダン、乙女のくらし』を見てきた。女性のファッション、化粧品のデザインとパッケージ、石鹸や生活雑貨、絵葉書・雑誌など、明治から昭和初期までのおびただしいコレクションが展示されている。

デザインもさることながら、かつて「引札ひきふだ」と呼ばれていた商品や店の広告チラシの文章を楽しませてもらった。知りもしない過ぎし時代を感じるのは当然だが、着眼と切り口、文案と表現のセンスの良さに感心した。

新規開店の喫茶店のチラシ

つかみのコピー、概要のコピー、本文のコピーを棲み分けして書いている。「人と話の出來る 喫茶 キューカンパ―」と店を紹介し、「新開店」であり「來易く氣安で高尚」な店だと訴求し、「喫茶と輕いお食事」ができると伝える。本文は、まるで小説か散文詩のようなタッチで綴られ、不思議な空気を醸し出している。

春です‥‥‥アスフアルトの街
路に流れる軽快な足どりの、
リヅムにあでやかな、薫香の
どよめきが踊つてゐます。春
です‥‥‥全ては芽ぐみのび立
つて享樂の階調にしたつてゐ
ます。紫の氣の立ちこめたコ
バルトの空に獨り立ちの翼を
ひろげて精一杯の呼吸をつい
た時たよりない力と希望のぞみから
を破つて巢立ちしたキユーカ
ンは皆様にお願ひいたします
キユーカンパー‥‥‥キユーカ
ンパー‥‥永しえに御引立てを

所々の旧字に味がある。二字熟語を使った「薫香のどよめき」も「享樂の諧調」も語感がいい。一瞬読み方に戸惑った「とこしえ」という、何とも大仰な言い回しが、今では逆に斬新だ。「春です‥‥‥」を二度繰り返す技を掛けられて、つい文章を読み進めてしまった。

もう一つユニークなコピーを見つけた。六個入り壹圓の石鹸。「五つの特色」と謳う。

芳香温雅
泡立良く
生地を細に
肌を荒さず
最後迄形体
崩れず。

ルビは次のように巧みに振ってある。

にほひやはらか
あわだちよく
きぢをこまかに
はだをあらさず
しまいまでかたち
くずれず

レトロとロマンとモダンの文章、思っていた以上に自由度が高く創作性が豊かである。

誤字・誤植、または表現の違和感

文章を書くことや編集に携わってきたので、校正や校閲の機会も多かった。原稿と仮刷りを照合して誤字を訂正するのが校正。文字に間違いはないが、文章の読みづらさや表現の分かりにくさを改めるのが校閲。自分が書いたものなら遠慮なく校閲できるが、他人様の文章だと勝手に書き換えるわけにいかず、筆者に直接確認したり文案や表現を提案したりする。


✅ 以前よく通っていたイタリア料理店の前を通り掛かった。店は閉まっていた。ドアノブに「closed: sandays and mondays」の表示板が掛かっている。がっかりした。がっかりしたのは、日曜日と月曜日が休みだからではなく、sundaysandayだったからだ。語学に自信がない人ほどマメに辞書を引かない。

✅ 私塾のテキストを京都の主催者に送った。タイトルは『愉快コンセプトへの誘い』。「誘い」は「いざない」だが、ルビを振らなかった。当日配付されたタイトルは『愉快コンセプトへのお誘い・・・』に変更されていた。校閲者は「誘い」を「さそい」と読み、受講者に失礼だと判断して、「お誘い」としたようであった。力抜けしそうなタイトルになった。

✅ ある本に「(……)レストランのシェフと家庭のシュフとは、そこが違う」という一文があった。誤植ではない。家庭のシュフを「家庭のシェフ」に勝手に校閲してはいけない。「シェフとシュフ」だからおもしろいのである。

✅ 「さっさと食事を済ませて、出掛けることにした」。この一文に校正の余地はなさそうだが、「さっさと」でいいのか、「ささっと」ではないのかとちょっと立ち止まる。「さっさと」だと食事の扱いが軽くなる。「ささっと食事を済ませて」なら動作やスピードなので否定的ではない。「さっさと」と「ささっと」は同じ意味だが、書き手の気分の伝わり方が違ってくる。

✅ あまり見聞きしなかった「日常着」。知らない所で、まずまず使われていることを知った。普段着との細やかなニュアンスの違いがわからない。日常着という表現に出合ったら、違和感を覚えるので、ぼくなら「普段着」に書き換えるだろう。しかし日常着を常用している人もいるようなので、その人が校閲したら朱が入らない。校閲には校閲者の語彙体系が反映される。

✅ 二十代の頃の話。一回り以上年上の先輩からの手紙に、「(……)扨て、いよいよ来週に迫ってきましたね」という一文があった。「扨て」が読めない。読めないが、新しい段落の始めなので、「さて」と読んだ。まぐれで正解。この人は著名な文人の甥で、大正生まれでは? と思うほど、ひらがなで済ませられる箇所を漢字表記する人だった(「就中」と平気で書いたりもした)。
「さて」で事足りるのだから、「扨て」でなくてもいいはずと思い、その頃から、「有難う御座います」や「如何」などもひらがなで書くようになった。現代文では機能語はすべてひらがなでいい。

まだまだ続く二字熟語遊び

木材もくざい材木ざいもく
(例文)木材は、原木を切って材(材料)に用いるもの。つまり、木から材を作る。その材を長さや大きさの規格に合わせて製材したのが材木である。

厳密に言えば、木材店と材木店の扱うものは同じではない。かつて街中でもよく見かけたのは材木店で、すでに製材された板が立ててあったり加工された角材が積んであったりした。他方、木材店にあるのは、表皮を取り除いた、汎用性のある丸太や大きな一枚板。木材は、人の手による加工が入って材木になっていくのである。

人海じんかい海人あま
(例文)大勢の人が集まる様子を広い海にたとえる表現が人海。漁師や漁業などの海の仕事に従事する人は、多くても少なくても海人

人海を二字熟語として見ることはめったになく、たいてい人海戦術という四字熟語で使われる。「海女」を連想するので、「あま」というおんから女性を指すと思いがちだが、実は、海人、海女、海士、塰はすべて「あま」と読む。沖縄では海人は「うみんちゅ」と言い、職業は「あま」である。

文明ぶんめい明文めいぶん
(例文)ルールや法が高度になるにつれ、
文明社会ではそれらを文書として明文化するようになった。

稗田阿礼が完璧に暗誦しているからそれでいいとは誰も言わず、暗誦したものを太安万侶が筆録して『古事記』として編纂した。同じく、農耕や牧畜、都市と社会、技術と物資などにまつわる約束事は人々の記憶だけで共有できない。と言うわけで、文章として明確に書き留めたのである。もっとも書き留めたからと言って安心はできない。一般大衆はそんな難解なものを読まないからだ。


シリーズ〈二字熟語遊び〉は二字の漢字「〇△」を「△〇」としても別の漢字が成立する熟語遊び。大きく意味が変わらない場合もあれば、まったく異なった意味になる場合がある。その類似と差異を例文によってあぶり出して寸評しようという試み。なお、熟語なので固有名詞は除外。

語句の断章(55)「便利」

日常語ほど定義に苦労する。その語だけで十分明快なのに、説明を加えて逆にわかりづらくなる。「便利」などはその最たる例だ。この語を初めて辞書で引いてみた。「それを使う(そこにある)ことによって何かが都合よく(楽に)行なわれていること(様子)」と『新明解』には書いてある。あまり明解ではない。執筆者、ちょっと困っているのではないか。

便利とは何かと説明するよりも、便利を使った用例を示すほうがわかりやすい。たとえば、「今住んでいる所は買物に便利がいい」とか「知人にもらった8-in-1エイトインワンの多機能道具は想像していたほど便利ではない」とか。

『徒然草』は、長年書きためた随筆を吉田兼好が1300年の半ばにまとめた鎌倉時代の随筆集。この第一〇八段に「便利」という語が登場する。

一日のうちに、飲食おんじき便利べんり睡眠すゐめん言語ごんご行歩ぎやうぶ、やむ事をえずして多くの時を失ふ。そのあまりのいとまいくばくならぬうちに、無益むやくの事をなし、無益の事を言ひ、無益の事を思惟しゆゐして時を移すのみならず、日をせうし月をわたりて、一生を送る、最も愚かなり。

文中の便利は、現代の意味とは違う。古語辞典でチェックしたら、当時は仏教由来の「大小便のお通じ」の意味だった。

食べたり飲んだり、大小便をしたり、眠ったり、しゃべったり、歩いたりと、やめるわけにはいかないことに一日中時間を費やしている。残された時間が多くもないのに、役にも立たないことをやり、役にも立たないことを言い、役にも立たないことを考えて時が流れる。日を送り月を過ごして一生を送ってしまうとは、きわめて愚かなことだ。(拙訳)

食事、排泄、睡眠、会話、散歩が無駄だと言っているように聞こえるが、むしろ、それ以外のことをしていない日々の過ごし方への批評だと読むべきだろう。ともあれ、便利は大小便のことだった。役に立たないと片付けてしまうわけにはいかない。便利が滞ると「便秘」になってしまう。便利には「利便性」があるのだ。

3年ぶりの二字熟語遊び

「ぜひお願いしたい仕事がある。来週は空けておいてほしい」と言われたものの、昨日無期延期の連絡。無期延期とは「ない」の意。溜まっている資料の整理でもするかとつぶやいたものの、退屈このうえない。ノートを繰っていたら202153日の、「子女―女子、前門―門前、保留―留保」のメモ。もう3年もブランクがあったとは……。

シリーズ〈二字熟語遊び〉は二字の漢字「〇△」を「△〇」としても別の漢字が成立する熟語遊び。大きく意味が変わらない場合もあれば、まったく異なった意味になる場合がある。その類似と差異を例文によってあぶり出して寸評しようという試み。なお、熟語なので固有名詞は除外。


速足はやあし足速あしばや
(例)陸上競技部のかける君はもちろん走るのが速いが、ぼくらのような並足に比べて歩調も速足だ。勉強のよくできるあゆむ君は走るのも歩くのもゆっくり。でも、遊んでいる時に塾の時間になると足速に立ち去る。

足が速いと言えば、走ることをイメージするが、速足は歩くことに限った用語のようである。みんなでハイキングに行けば、引率者が先頭で颯爽と歩いている様子がうかがえる。走るのが速いのは俊足、遅いのは鈍足と言う。鈍足なのに、自分の都合でさっさと足早に立ち去る者もいる。

長年ながねん年長ねんちょう
(例)知り合いの長年連れ添ったご夫婦は、金婚式の節目に海外旅行に出掛けた。「ところで、あのお二人、どっちが年上?」などと想像するのは野暮。半世紀も一緒に苦労を共にしたご夫婦にどちらが年長かはほとんど意味がない。

いくら久しぶりでも、5年や10年では長年とは言わないだろう。長年が具体的に何年を表すかは人によって違うが、仕事に携わるのであれば少なくとも30年、連れ添うのなら450年になるかもしれない。ところで、年長・年中・年少と区分してしまうと園児になり、もはやシニアには使えない。

道行みちゆき行道ぎょうどう
(例)浄瑠璃で相愛の男女の駈け落ちの、時に心中に到る場面を道行と言う。他方、行道は仏道の修行で、経を読みながら仏殿の周囲をぐるぐる巡る。いずれも道にあって歩を進めることに変わりはない。

道行は旅のことで、道中の光景や旅情を七五調の韻文で綴る。近松門左衛門の『曾根崎心中」のクライマックスが名調子である。

此世このよ名残なごり夜も名残 死にに行く身をたとふれば
あだしが原の道の霜 一足づつに消えて行く
夢の夢こそあはれなれ あれかぞふれば暁の
七つの時が六つ鳴りて 残る一つが今生こんじょう
鐘の響きの聞き納め 寂滅為楽じゃくめついらくと響くなり

器用な日本語

一つの言語内に漢字、ひらがな、カタカナ、アルファベットの文字が使われる。日本語は特異である。しかも、ほとんどの漢字の読み方は一通りではない。たとえば「生」はおんで「セイ」または「ショウ」と読む。さらに訓になると下記の通り。

生きるの「い」  生まれるの「う」  生えるの「は」  生そばの「き」  生意気の「なま」  生憎の「あい」  芝生の「ふ」  弥生の「よい」  

他の読みもあるかもしれないが、とりあえず以上で10通り。一文字でこれだけの読みがある。小学生や日本語を学ぶ外国人にとって文脈から読みを類推することはきわめて難しく、全部覚えるしかない。他方、英語の“life”という単語の発音は【láif】(ライフ)のみ。

こんな話を書くと、英語のほうが器用だと思われそうだ。しかし、1単語に一つの読みしかないのは、わかりやすいけれども、実は融通がきかない。たった一つの道具で10の作業や仕事をする人を器用な人と形容するように、日本語は器用なのだ。

難しそうな漢字には「ふりがな」が使える(例:顰蹙ひんしゅく)。本来の読み以外の読みにしたい時もふりがなを使う(例:解雇クビ)。一つの熟語を、蘊蓄、うんちく、ウンチクと表記できる。しかもカタカナで書くと、独特のニュアンスが出る。

青森と函館をつないで「青函トンネル」、下関と門司も「関門トンネル」。ロサンジェルスとサンフランシスコをつないでも、せいぜい“LA-SF”、表音できても表意は不可。バドミントンのペアを「オグシオ」とか「タカマツ」と頭文字で言い換えるのは朝飯前だ。

「回文」ということば遊びは器用な日本語の真骨頂である。土屋耕一の「軽い機敏な仔猫何匹いるか」は、前から読んでも後ろから読んでも見事に「かるいきびんなこねこなんびきいるか」。

石川県の能登で300年以上の歴史のある「段駄羅だんだら」は味のある高度な文芸の遊びである。五七五の「七」のところに、同じ読みだが異なる表現と意味の七音を二つ並べる。全国的にあまり知られていないが、もっとたしなんでいいと思う。

コミュニケーションだけではなく、日本語はその器用さによって、アート性に満ちたことばの冒険を楽しませてくれる。