語句の断章(66)蘊蓄

蘊蓄うんちくとは「十分に研究を積んで蓄えてきた、学問や技芸上の深い知識」のこと。蘊は「積む」という意味であり、畜は貯蓄に使われる通り「たくわえる」である。

「あの人は熱心に蘊蓄を語る」と言えば褒めことば。ところが、蘊蓄を「ウンチク」とカタカナにすると小馬鹿にした感じに変わる。一般的には「蘊蓄を傾ける」という連語を使うが、これを「ウンチクを垂れる」と言い換えると、これまた皮肉っぽく響く。「ぐだぐだとウンチクするよりも他に時間を割くべきことは山ほどあるぞ」という意味が言外に潜む。

蘊蓄よりも重要なことは世におびただしい。蘊蓄を有り難く拝聴するというケースは稀で、いつ終わるかもわからない専門の知識を滔々とうとうと語られるのは嫌がられる。知識や学問を蘊蓄してきたことと、それを披瀝することは同等の価値とは認めてもらえない。

しかし、蘊蓄を傾けることによって、語る側も聴く側も知識の深みと広がりに気づくこともある。ある特定の知識の知識全体におけるディレクトリー(場所や階層)が見えてきたりする。蘊蓄に付き合わされる側はつらいが、誰かを捕まえて蘊蓄を傾けるのは悪くない。知っていることを誰かに語るというのは究極の知的トレーニングなのである。

高齢者が同じ話を延々とし始めたら、「あ、脳のトレーニングをしているんだな」と鷹揚に構えて聞いてあげるのがいい。

語句の断章(65) 付箋

英語の「ポストイットPost-it)」付箋ふせんと訳したのではない。また、付箋のことをポストイットという英語で言い換えたのでもない。付箋とポストイットは同じ機能を持つ同種の文具だが、付箋は一般語で、ポストイットは3Mスリーエムという会社の商標である。Post-itというロゴの右上にはのマークが印されている。


ポストイットが画期的だったのは貼っても簡単にはがせた点だ。脱着可能な糊が発明されてポストイットが1968年に発売された。もちろんそれ以前からわが国に付箋はあった。注釈や覚書を書いた紙を本に挟んでいた歴史がある。はさむだけでは紙片が落ちるから、糊で貼った。昔の古文書に付箋が貼られているのを展示会で見たことがある。

企画会議などではポストイットと呼ぶ人が少なからずいる。もちろん、付箋という、少々古めかしいことばを習慣的に使う人もいる(若い世代にもいる)。ところが、書くとなると、ポストイットが増える。理由は簡単。付箋の「箋」が書けないのだ。便箋の箋なのに、使う頻度が異常に少ない。便箋は使うくせに便箋という漢字はあまり書かない。生涯一度も書かない人もいるはず。箋の字が書けない人は「ふせん」または「フセン」と書く。

新明解国語辞典によると、付箋は「疑問の点や注意すべき点を書いて、はりつける小さな紙切れ」。そう、付箋にはすでに「紙」の意が含まれている。だから、付箋紙と言ったり書いたりするには及ばない。便箋のことをわざわざ便箋紙と言わないのと同じだ。

実は、付箋は人気のあるステーショナリーである。文具店を覗いてみると品揃えの豊富さに驚く。本を読み企画をし文章を書く仕事に従事していたので、一般の人の何十倍も付箋を消費してきたと思う。重宝して使っているうちに、差し迫った必要もなく在庫もあるのに買う癖がついた。

本家のポストイットに比べて百均の付箋は激安だ。そのせいで気軽に買うから、どんどん増える。増えたら使えばいいが、付箋というものは使っても使ってもいっこうに減らないのである。同じサイズ・色のものばかり使っていると飽きるから、在庫があるのにまた買う。文具好きの机の引き出しには付箋の束が詰まっているはずである。

「音」を紡ぐように二字熟語遊び

風は見えないが、樹々の葉が揺れ動く時に風を感じる。葉が揺れてれて木の梢から時々音が生まれる。見えないが、音は方々から聞こえてくる。音は物が振動して波になって奏でられる。また、音は文字としても紡がれる。音はおもしろい

音楽 おんがく 楽音 がくおん
(例)「何千人という学生を指導してきたが、音楽楽音の違いを的確に言えた者は一人もいない。音楽は芸術であり、楽音は楽器の音なのだ」」

少々苦し紛れの例文だと認める。解説は辞典の助けを借りることにしよう。
音楽とは「心の高揚・自然の風物などを音に託し、その強弱・長短・高低や音色の組み合わせによって聴者の感動を求める芸術」。聴き手が感動してこその音楽なのだ。他方、楽音とは「人間の耳に快感を与え一定の高さのものとして認識される、弦楽器・管楽器などの音」。これも快感を与えないといけないのだ。

大音 だいおん 音大 おんだい
(例)「もっと大音を響かせるようにして名乗りたまえ。君の声は音大卒とは思えないほど小さく弱々しいぞ」

辞典に大音という見出しはない(大音声や大音量ならある)。以前、何かの本で「大音を出す」という表現を見た。昔は「大音上げて名乗る」などの言い回しがあったという。
音大でボイストレーニングをすれば大音を響かせるようになれるだろうか。ところで、わが国には約80の音大があるそうだ。美大が30校だから、音楽という芸術の人気ぶりがわかる。

音波 おんぱ 波音 なみおと
(例)「ロマンを感じさせる文学的な波音は、実のところ、水中を伝わる音として知覚される、物理的な音波という波動にほかならない」

ものが振動すると音波が生じる。音波は空気中や水中を伝わる。水中を伝わる音波が波音だ。波は音を連れて、押し寄せては砕け、そして引いていく。上田敏の訳詩集の題になっている『海潮音』もまた波音。洒落た響きがある。

音声 おんせい 声音 せいおん
(例)「口と喉と胸を使って言語を形作るのが音声なら、声音はいったい何ですか?」「うーん、声音とは……こえ・・のことだよ」

音声は音がことばとして発せられて声になる。それなら声音も同じではないかと思い、辞書を調べてみたら「個々に、またその時々によって変わる声」と書いてあった。結論:音声も声音もこえ・・である。


〈二字熟語遊び〉は、漢字「AB」を「BA」と字順逆転しても、意味のある別の熟語ができる熟語遊び。例文によって二つの熟語の類似と差異を炙り出して寸評しようという試み。大きく意味が変わらない場合もあれば、まったく異なった意味になることもある。熟語なので固有名詞は除外する。

カタカナ語の記憶再生

カタカナ語に対する風当たりが強い時代があった。読みづらいし意味不明だとこき下ろされた。日本人なら日本語で書けとも言われたが、日本語に訳してもわからないものはわからない。それなら、原語の発音に近いカタカナで表記して別途意味を覚えるほうが手っ取り早い。カタカナが少々目障りなのは我慢するとして。

文化庁のサイトにカタカナ語の認知率/理解率を調査したデータが載っている。使用頻度上位10語は下記の通り。

■ストレス  ■リサイクル  ■ボランティア  ■レクリエーション  ■テーマ  ■サンプル  ■リフレッシュ  ■インターネット  ■ピーク  ■スタッフ

日本語として市民権を得たものばかり。ほとんどの成人は認知して意味を理解し、かつ自ら使えるはず。ところが、全120語中の頻度下位の10語になると一気に難度が上がる。

■モラルハザード  ■リテラシー  ■タスクフォース  ■バックオフィス  ■エンパワーメント  ■メセナ  ■ガバナンス  ■エンフォースメント  ■インキュベーション  ■コンソーシアム

英語ができて時事に少々精通していればある程度は認知できそうだが、日常生活では出番が限られた用語ばかり。しかし、ビジネスや高等教育の現場では時々出てくる。

記憶しづらいのは固有名詞だ。固有名詞はある種の記号なのでコトバとイメージを一致させる必要がある。興味のない人名、地名、店名などのカタカナ語は覚えづらい。他方、固有名詞の記憶が得意なオタクたちは、お気に入りの外国のスポーツ選手、俳優・歌手、街の名などは何十何百という単位で覚え、ものの見事に再生してしまう。


一度では覚えられそうにないワインや料理、植物、店名などを愛用の手帳にメモするようにしている。そのおかげでシッサスエレンダニカという観葉植物を覚えた。しかし、これは例外で、何度読み返しても忘れ、時間が経つとまったく再生できなくなるのがほとんど。

手帳のページを繰ったら、コスパのいい白ワインの名前が出てきた。

カンティーナ・ディ・モンテフォルテ/クリヴス・ソアーヴェ・クラシコ 

調べれば「カンティーナ・ディ・モンテフォルテ」はイタリアのヴェローナに本部を置くワインの団体だとわかる。そこが手掛けた白ワインが「クリヴス・ソアーヴェ・クラシコ」。くっつけると長くて覚えにくくなる。名前を知らずともワインは飲めるから支障はない。なのに、なぜ名前を覚えるのか。人差し指で「これ」と言うだけではつまらないからだ。

別のページ。2年前に初入店したモンゴル料理の店の料理名が記してある。店の名前は覚えている。3文字なのに「グジェ(羊の胃袋)」は忘れていた。他に「チャンスンマハ(塩茹での羊肉)」と「ツォイビン(羊肉と麺の炒め物)」。カタカナを見たら思い出すが、自分では再生できない。

海外滞在中に自分が撮った街の写真を見れば街の名前が言える。店の名前も割と記憶できるほうだが、バルセロナで入った老舗バルの名前は何度確認しても忘れてしまう。最初“El Xampanyet”の綴りを見た時にXエックスつながりでXeroxゼロックスの綴りと音を連想して「エル・ザン・・パニェット」と読んだ。それが今も尾を引いている。正しくは「エル・シャン・・・パニェット」(スペイン語ではなく、カタルーニャ語の発音)。

カタカナ語は面倒だが、カタカナの名と写真を結び付けると覚えやすい。また、何度も見、何度も発音し、関連する表現をセットとして覚えると忘れにくい。以上、カタカナ語の月並みな覚え方のコツをまとめたが、これは語学全般に当てはまるコツと同じである。

翻訳という「書き換え」

言語Aの文章が言語Bで見事に言い表されニュアンスまで汲み取っていればよい翻訳である。ところが、言い換える際の解釈間違いや大胆な超訳で意味不明の事態が頻繁に生じる。たった一つのことばの違いでも文の訳がひるがえる。

久しぶりの英日翻訳を終えた。一部翻訳ソフトでチェックしたが、まだまだ信頼はできない。原文がフランス語で、その英訳からの翻訳作業。時間がかかるのは覚悟の上で、フランス語も参照して翻訳の精度を上げるようにした。

さて、翻訳とは「書き換え」である。日本語の文章をブラッシュアップすべく別の日本語に書き換えるが、それと同じことを二国語の間でおこなうのが翻訳だ。


先日、四川料理の店に入った。四川だから辛いのをある程度覚悟していたが、注文した56品のうち、まずまず辛かったのは前菜の干し豆腐と野菜の和え物だけだった。辛さを謳ったと思われる店のスローガン「将麻辣迸行到底」とは程遠かった。

漢字そのままである程度推測できたので、比較的わかりやすい中国語である。将(ニ)は漢文で習った、今まさに何々せんとす。「~しようとしている」「~の予定」の意。麻辣は見ての通りの、ヒリヒリと痺れる辛さ。迸行は「ほとばしる」。到底は「最後まで」、超訳すれば「とことん」か。そんな見当をつけてスマホの翻訳ソフトを使ってみた。中国語の英訳は和訳よりも精度が高い印象があるので、まずは英語から。

Spread the spicy flavor to the end.

スパイシーな香りが最後まで広がる(続く)。たぶん原文が言いたいのはこういうことなのだろう。まともである。英語訳にはバリエーションが少なく、他の翻訳案も似たり寄ったりだった。

It’s going to be a hot mess.

別案のこれには驚いた。熱い(≒辛い)混乱? めちゃカラ? うんざり? お手上げ? 良からぬ文章と判断したようだ。さて、中日翻訳はどうか。

①スパイシーな味わいを最後まで引き立たせる
②スパイシーな味わいが最後まで広がります

①と②の違いは動詞。安易にスパイシーという語に逃げるのは感心しないが、麻辣の辛さをとことん堪能する感じは出ている。困った時は直訳が無難だと思われるが、スローガンとしては調子が平凡で訴求力が足りない。

③どこまでもスパイシー
④辛さがずっと続きます
⑤スパイシーなアクションを最後までやり遂げる

③は省略し過ぎ。ニュアンスを汲むのが面倒くさかったのか。④も手抜きしている。⑤はひねり過ぎ。スパイシーなアクションと言ったら、花椒や唐辛子を鍋にぶち込んでいる調理の様子になる。アクションと訳したら「やり遂げる」で締めくくるのもやむをえない。

⑥ぴりぴりした辛さを噴き出してよく徹底的にします
⑦辛辣さを最後までほとばしる
⑧麻薬を底まで運ぶ

これら⑥⑦⑧は滑稽三部作。どれもAI翻訳以前の辞書の学習機能に問題がありそうだ。人間の学習者と同じく、だいたい滑稽な翻訳は辞書と文法の欠陥に由来する。⑥の「噴き出して」と「徹底的にします」は辞書の語彙不足。麻辣を辛辣さと訳した⑦、麻薬と訳した⑧は、そもそも元の文章が料理や味付けのことだと判断できていない。

言語A→言語Bの翻訳においては、おおむね言語Bの表現力が問題になる。中日翻訳でも英日翻訳でも、日本語表現の拙さゆえに珍訳が生まれてしまうことが多いのだ。なお、勇み足をするAI翻訳は、滑稽さにおいてすでに人間の迷訳・珍訳を超えている。

語句の断章(64) だいたい

都会の住宅地の公園に日時計がある。棒のかげがだいたい・・・・1030分あたりに落ちていた。腕時計を見ると、若干の誤差がある。若干? 23くらい・・・か。日時計の時の刻み方はおおまか・・・・だが、この程度・・の差なら、おおらかで許容範囲である。

散歩から帰って書いた十数年前の小文。日時計が時を告げている珍しい場面に遭遇して日常生活の「質感」に触れた気がして新鮮だった。デジタル時計のような杓子定規な几帳面さからは生まれてこない、天然の悪意のない大雑把にほっとした。

「だいたいやねぇ」は評論家の竹村健一の口癖だった。芸人がよくモノマネをしたのは茶化す意味もあったはず。だいたい、ざっくり、大雑把に見て……などの物言いはいい加減だとして時々厳しい目が時々向けられる。しかし、枝葉末節にとらわれず、主だった部分と意図さえ押さえておけば、日々の生活で大事に到ることはほとんど・・・・ない。


上記のように、だいたいには類語の仲間がいろいろある。類語が多いのは頻度が高いのと同時に、ニュアンスがきめ細かく分化してきたからである。明言を避けて少しだけ不透明にできるから、だいたいの仲間を重宝する人たちも少なくない。

「頃」もそんな仲間だ。「頃あいを見計らう」と言えば、ある時ちょうどではなく、その前後を指している。ここでは「ころ」と読む。ところが、頃を「ごろ」と読むと、見頃とか食べ頃のように、ちょうどよい程度を表わす。なお、英語のアバウトはだいたいの仲間に加わって久しいが、つねに適当感と無責任感がつきまとうので要注意だ。

上でも中でも下でも、二字熟語遊び

今日は「上、中、下」で遊んでみた。

上船 じょうせん 船上 せんじょう

(例文)「陸から船に乗り込むのが上船。いったん上船したら、下船しないかぎり船上にいることになる。船上にいると言えば、説明しなくても船中にいることを意味する。」

船上とは文字通り船の上のことだが、船に乗っている状態である。船上で食事と言っても、必ずしも船のデッキに出て食べているとはかぎらず、船室内での食事かもしれない。
上船は船に乗り込むという一義以外に意味はない。しかし、船上は多義語である。なお、上船は乗船とも書く。ほぼ同義である。

 道中 どうちゅう 中道 ちゅうどう

(例文)「道中、行く先々でいろいろなハプニングがあったが、極端に無理をせず、まるで中道を歩む修行僧のごとくやり過して無難に長旅を果たした。」

中道という用語を見聞きすることが少なくなった。左でも右でもなく、極端に走らずに穏当おんとうであることが中道だ。無難で特徴がないと皮肉られることもある。
他方、道中とは長旅や行程のこと。道中という語感は行く先々の土地柄やエピソードを連想させる。『東海道中膝栗毛』をテーマにした道中双六は滑稽だろうが、中道双六があるとしても、イデオロギーや政治の話ばかりではさぞかし退屈に違いない。

下地 したじ 地下 ちか

(例文)「いい仕事に就きたければ、技能や教養の下地を整えなさい。秘密組織に入ったりトンネルを掘ったりレアメタルを掘り当てたりしたければ、地下に潜りなさい。」

何かを最終的に仕上げる前段階として下地という準備がある。見た目、それは仕上げの面の下に隠れている。壁の下地も化粧の下地も隠れている。
下地と同じく、地下も地面の下に隠れているので直接見えない。隠れていて見えないものには
怪しいものが多いが、稀に大当たりもあるから地下に行く者は後を絶たない。


〈二字熟語遊び〉は、漢字「AB」を「BA」と字順逆転しても、意味のある別の熟語ができる熟語遊びである。例文によって二つの熟語の類似と差異を炙り出して寸評しようという試み。大きく意味が変わらない場合もあれば、まったく異なった意味になることもある。熟語なので固有名詞は除外する。

語句の断章(63)らしさ/らしい

二十代の頃の職場に物静かで口数の少ない同僚Iがいた。ある日、上司とぼくが喫茶店に誘ったら付き合ってくれた。上司が当たり前のように「コーヒー3つ」とウェイトレスに告げた瞬間、「あのう、コーヒー飲まないんです」とI。紅茶と思いきや、彼が注文したのはシュガー抜きのホットミルクだった。上司が「らしい・・・ねぇ」とつぶやいた。

ホットミルクを注文したのがIらしい・・・のなら、ホットミルクの愛飲家は物静かで口数が少ないということになる。ある辞書は、らしさ・・・とは「飾らずに備えている独自性」と定義している。ホットミルクを注文するのは彼らしい・・・、コーヒーを飲まないのも彼らしい・・・、喫茶店に誘ったら断ると思ったが、付き合ってくれたのは彼らしくない・・・・・……。

上司は彼のことをあまりよく知らないのに、今しがたホットミルクを注文したことを彼らしい・・・と言った。本人の中で自分の独自性とホットミルク嗜好がつながっているはずがない。他人である上司が勝手にらしさ・・・を決めて、「ふさわしい」だの「いかにもな感」だのと評しているに過ぎない。

「職人らしい・・・職人」という言い方がある。あれは何を表現しているのか。職人らしい・・・と言えるためには職人が備える条件や資質を知らねばならない。職人がどういう人なのか知らずに「親方は職人らしい・・・職人だなあ」などとつぶやけない。「あいつらしい・・・阿漕あこぎなやり方だ」と言えるためには、あいつのことを知り尽くしている必要がある。

ここしばらく寒い日が続いた。気象予報士が「明日も冬らしい・・・冬になりそうです」と言うのを何度も聞いた。「西側に高気圧、東側に低気圧が位置する気圧配置」が冬型の典型ならば、冬らしい・・・冬とはそんな冬型の典型ということになる。しかし、例年の冬や平年並みの冬は一定ではないから、冬らしい・・・冬がどんな冬なのか、気象の素人にはよくわからない。

ナポリ生まれのイタリアの哲学者、ジャンバッティスタ・ヴィ―コ(1668-1744)は「真実なるものと作ったものは換位される」と言った。作ったものでも真実らしければ――たとえ真実という確証はなくても――ほぼ真実だと言えるかもしれない。コーヒーらしい・・・コーヒーはほぼコーヒーなのである。

語句の断章(62)蒼穹

蒼穹。読みは「そうきゅう」。蒼は「青い」で、穹が「弓のかたち」。合わせれば、弓形の青い大空。広い青空の意だから、わざわざ蒼穹などと難しい漢語的表現をひねらなくてもいいような気がするが、青空では物足りない文脈があるのだろう(たとえば、浅田次郎の『蒼穹の昴』)。

蒼穹にはいくつかの類義語がある。

晴れた空の意である「青空」。空を天井に見立てた「青天井」。晴れわたる様子の「青天」、そこに雷が轟けば「青天の霹靂へきれき」。一片の雲もない様子で、特に青緑に見えるのが「碧空へきくう」。深い青色になると「蒼空そうくう」。遠い場所の空をイメージさせるのが「碧落へきらく」。どの語にも青くて、晴れていて、大きいという共通の意味があるが、ニュアンスの違いを執拗に求めていくと、類語表現が増えていく。

蒼穹は稀に「天球」という意味でも使われる。そして、どういう経緯か理由か知らないが、天球としての蒼穹(つまり地球)は、あのギリシア神話の神であるアトラスが支えていることになっている。この巨躯の神は地球を後頭部に置いて両腕で持ち上げている。

当然、アトラスは宇宙空間のどこかに立っているはずだ。どの彫刻や絵画でもアトラスは立つか膝を立てて脚で踏ん張っている。踏ん張るためにはどこかに乗っかる必要がある。「アトラスは何に乗っているのか?」と聞かれたら、亀の背中に乗っていると言う。では、その亀は何の上に乗っているのか? 別の亀の上だ。こうして、亀の下に亀、そのまた下に亀……という無限後退の図が描かれる。巨神のアトラスを乗せる亀もガメラ級の巨体のはずである。

蒼穹という表現と「そうきゅう」という発音がなぜ求められるのか。それは、青空のアトラスや地球のアトラスよりも、蒼穹のアトラスのほうが物語性に優れ、想像を刺激するからである。

立春過ぎてまだ春遠し、二字熟語遊び

根性 こんじょう 性根  しょうこん

(例文)太郎は根性わっていて、一つのことをやり遂げようとする性根もある。一方、次郎は性根がなく飽き性。一人前になるためには根性を叩き直さないといけない。

根性とは態度・考え方・行動の根本となる性質である。根性が良いとか悪いという言い方はしない。根性は、あるかないか、または、まっすぐかひねくれているかが問われる。性根は「しょうこん」と読むとおおむね根気の意味になり、「しょうね」と読むとほぼ根性の意味になる。

関税 かんぜい 税関  ぜいかん

(例文)関税脅しは米大統領の切り札トランプの一つだが、実は不法入国や密輸対策として税関がもう一つの課題になっている。

カナダとメキシコの関税を25%に引き上げだ、中国は10%の追加関税だと、粗っぽく、いとも簡単に関税率を変える。米国への輸入品に課される税金を上げれば、国内産業が保護でき、関税は国の収入となって国庫の財源が確保できるという目論見。もちろん対抗措置の覚悟はいる。

港や空港で関税の賦課と徴収をおこない、貨物の取り締まりにあたるのが税関。国内に持ち込まれる物品の申告を受け検査をするが、外国からの入国者のテロや密輸などの犯罪の兆候をつかむ。関税と、字順を逆にした税関。これら二字熟語は、今やあの大統領の駆け引きの常套手段になった。

 読解  どっかい 解読  かいどく

(例文)「どうだ、文章は解読できたか?」「今、辞書を引いて読解しているところです」「読解? 違う、違う。きみの任務は解読だぞ!」

読解は文章を読んで、その意味を正しく理解すること。対して、解読は分かりづらい文章や記号を正確に読み解くこと。解読はある種の「深読み」であり「裏読み」である。文字面に現れない隠れた独自の文法と意味を探り出そうとする。中高生時代、国語の授業で求められたのは読解力であり、暗号解読ではなかった。

文章の<読解>
暗号の<解読>

〈二字熟語遊び〉は二字の漢字「AB」を「BA」と字順逆転しても別の熟語ができる熟語遊び。大きく意味が変わらない場合もあれば、まったく異なった意味になる場合がある。その類似と差異を例文によってあぶり出して寸評しようという試み。なお、熟語なので固有名詞は除外。