語句の断章(54)「画竜点睛」

最初に「画竜点睛」に出合ったのは十代の半ばだったと記憶している。画竜を当然のように「がりゅう」と読んだが、後日それは間違いで、正しくは「がりょう」だと知った。しかし、後年、ある辞書に「がりゅうとも読む」と書いてあった。「がりょうてんせい」に慣れていたので、変えずに今に到る。

早合点がもう一つある。点睛のを、天気のはれだと勝手に思い込んだ。「点に晴」でどんな意味になるのか調べもせずに。「絵に描いた竜を明るく照らす」というような意味に解釈したと思う。これも辞書にあたる機会があり、睛が「ひとみ」のことで、点睛とは「ひとみを描き入れる」の意であることを知る。

画竜点睛は「りょうえがいてひとみてんず」と読み下す。竜の絵を描いたら最後に竜の目を入れるとは、物事を完成する最後の段階で一番肝心な部分を仕上げることを教えている。四頭の竜の絵を描いた名人が、ひとみを描き入れると竜が飛び立つからと言って瞳を描かなかった。人々は「そんなバカな! ウソだろ!」と言って名人に迫り、無理やり瞳を描かせた。すると、ひとみを入れた二頭の竜がたちまち天に昇った……。六朝時代の故事に由来する。

この四字熟語、ほとんどの場合「画竜点睛を欠く・・」という用い方をして、最後の仕上げが不十分だったり要が欠けたりすると出来映えが悪くなるというメッセージとして表現される。画竜点睛という物語にすでに「全体ができた後に最後の仕上げを忘れるな」という教訓が込められている。

だいぶ前の話だが、ぼくの講演の後に、司会者が見事に講演内容をまとめてくれたことがある。今日の話からよく学ぼうと上手に聴衆を鼓舞し、ぼくへの謝辞も丁寧に述べていただいた。最後に「本日多忙な折にお越しいただいた〇〇先生にもう一度拍手をお願いします」。鳴りやまぬ拍手。〇〇には「岡野」が入らなければいけないが、別の名前だった。ひとみが入らなかったのでぼくは天に昇れず、後味悪く床を這うように会場を後にした。

語句の断章(53)「句読」

「話はえんえんと続く、句読点もないままに」

田辺聖子の本で見つけた文章。印象に残ったので抜き書きしていた。ただでさえ長い話または文章に、しかるべき句読点くとうてん)がなかったら、文は終わる気配を見せない。

句読点とは「句は文の切れ目、読は文中の切れ目で、読みやすいよう息を休める所」と広辞苑に書かれている。二行や三行程度の文章を読むのに息を休める必要があるか。句読点は息継ぎスポットなのか。

句読点を付けることを「句読を切る」と言うが、文や語の切れ目を明らかにして、読みやすくしたり文意を明らかにしたりするためである。読みやすくというのは、視覚的な可読性のこと。わが国で句読点が文中に出るのは明治時代になってから。それまでは可読性に著しく難がある文章や物語を読み書きしていた。『源氏物語』の「桐壺」の原文は次の通り。

いづれの御時にか女御更衣あまたさぶらひたまひけるなかにいとやむごとなき際にはあらぬがすぐれて時めきたまふありけり

句読点のない文章に読み慣れれば意味もわかるようになるのだろうが、次のように句読を切り、ついでに漢字にルビを振れば、かなり読みやすくなる。

いづれの御時おほむときにか女御更衣にようごかういあまたさぶらひたまひけるなかにいとやむごとなききわにはあらぬがすぐれてときめきたまふありけり

修飾語が盛られた文章はおおむね悪文とされるが、句読点を使えば修飾語どうしの関係を明らかにできる。たとえば「いよいよやって来た蝶々が飛ぶあたたかい季節」という文では、いよいよやって来たのは蝶々と読まれかねないが、「いよいよやって来た蝶々が飛ぶあたたかい季節」と、読点一つで「いよいよやって来た」を「季節」に掛けることができる。

音声か、文字か?


部下「部長、東京から鈴木専務が午後に来られるそうです」
部長「いつわかったんだ?」
部下「昨日の夕方です」
部長「なぜもっと早く言わないんだ⁉」
部下「部長、東京から鈴木専務が午後に来られるそうです

上記のやりとりはジョークだ。しかし、文字面を見るだけではジョークだとわからない。文字ではこのおもしろさを仕込めないのである。

「なぜもっと早く言わないんだ⁉」と注意された部下は、「早く」を話すスピードと勘違いし、最初に告げた「部長、東京から鈴木専務が午後に来られるそうです」を、今度は早口で繰り返した。文字では下線部のせりふを早口で言ったことまで表現できない。

「ほら、やっぱりね。文字で表わせることには限界があるんだ。ぼくたちは生まれた時から、ことばをまず音声として聞き、そして音声を真似て発話する。文字はもっと先になってから学習する。つまり、音声あっての文字なんだ。落語を文字で読んでもおかしくも何ともない」……こんなことを言う人もいる。

なるほど……と思わないわけではないが、音声が文字よりも優位ということにはならない。昔の回覧板も今の電子メールも、メッセージは文字で伝えられる。留守電というのもあるが、聞きづらいし聞き間違いもよくある。音声だと「今週と今秋」の違いが出せない。精度を期するなら文字なのだ。

やっぱり文字を優先すべきなのか。いやいや、そうではない。タイトルを「音声か、文字か?」という二者択一で書いたが、ことばの伝達精度を高めようとすれば、「音声も文字も」と欲張らねばならない(もし可能なら、ここに絵や写真も加えたい)。

音声と文字で伝えてもらって腑に落ちる。但し、声に出しても文字で読んでも仕掛けがすっとわかるとはかぎらないこともある。仕掛けがわかっておもしろいと感じたものの不思議な異化感覚に包まれることもある。次の「段駄羅だんだら遊び」などはその典型である。

語句の断章(52)「もんがまえ」

構える格好をした漢字がある。たとえば門や口や包がそうだ。何かに反応したり備えたりして身構えているのではなく、それぞれ「もんがまえ」、「くにがまえ」、「つつみがまえ」という部首として漢字を構成している。住居の実際の門構えの意であり、部首の名称である「もんがまえ」が象形文字としてわかりやすい。

もんがまえの漢字はJIS1・2水準で64字あり、言うまでもなく、すべての漢字が「門」のDNAを引き継いでいる。最たるものが「開ける」と「閉める」だ。門あるところ、必ず開閉が伴う。開の「开」はケンまたはカイと音読みし、両手で門をあける様子だという。では、閉じるの「才」は? 突っ張り棒の斜め使いと直感したが、特に意味はなく、何となく門に才を合わせただけらしい。

もんがまえの漢字でユニークなのが「閃」。門の中に人がいて「ひらめき」とはこれいかに。実は、ちらっと見えたかと思うと隠れて見えなくなる様子。ずっと見えているのではなく、ちらっと見えるから一瞬ピピっとひらめくような感じがする。

「閑」はカン。「しずか」や「ひま」と訓読みする。門の中に木を配置しているが、木が門の前にあって門を遮っている状況という解釈がある。この場合は、「しきり」という成り立ちになるとか。

象形文字としておもしろいのが「閂」。「かんぬき」と訓読みする。門という字は見ての通り両開きの構造になっている。左右の扉が勝手に開かないように、一本の横木を通す。閂はその様子をよく示している。

もんがまえの64の漢字をすべてチェックして、「もんもんとする」の「悶」がないことに気づく。悶はもんがまえではなく、心を部首とした「りっしんべん」だと知る。ついでに補足すると、「問」も「聞」も門越しに誰かが問い誰かが聞いている雰囲気があるが、どちらももんがまえではない。問は「くちへん」で、聞は「みみへん」である。

語句の断章(51)「けれん」

若い頃、初見の「外連」が読めなかった。ソ連の別名に見えた。調べて、これがあの「けれん」だと知る。外連は借字しゃくじなので読めなくてもしかたがないが、そもそも意味がわかっていなかった。

浪花節や義太夫由来としてある辞書が多いが、最初に調べた本では俗受けをねらう歌舞伎の演技というふうに書かれていた。先日Googleで検索していたら、たまたま英語版のWikipediaに導かれた。

Keren are stagecraft tricks used in Japanese kabuki theater, making use of trapdoors, revolving stages,  and other equipment.

「けれんは日本の歌舞伎で使う舞台の仕掛けで、落とし戸や回り舞台などの装置や道具のこと」と書いてある。日本人が日本人向けに説明するよりもわかりやすい。大向こうを唸らせる、派手なトリックや奇抜な演技もけれん。鳥類では孔雀がけれん使いの筆頭だろう。

けれんは舞台の受けねらいから離れて一般化し、今では転じて「はったり」や「ごまかし」の意味で使われることが多い。「けれん」だけをポツンと使うことはあまりなく、ふつうは「けれんみ」か「けれんみがない」が一般的な用法だ。

打ち消しの語感のせいか、「けれんみがない」と評されると、あまり褒められた気分にならない。しかし、「あなたの話し方や書かれる文章はけれんみがない」は正しい用法の一例。こう言われたら、褒められているのである。

語句の断章(50)「加減」

加減ということばから真っ先に想起するのは、学生の頃なら四則計算の足したり引いたりの加減。ついでに、「いい加減」が口癖だった教師も思い出す。口調や顔つきもついでによみがえる。

数学なら足したり引いたりの多少に縛りはないが、熱や水や調味料や圧力になるとデリケートに調整してほどよい状態にする必要がある。数学離れをした今では、加減と言えば、塩・砂糖・醤油などの調味料の量や味のことであり、強火・中火・弱火などの調理のことを連想する。

「匙加減」を辞書で引くと、薬剤の微妙な調合をおこなうことと書いてある。料理用語になる前は、医者が匙で薬剤をすくって混ぜていた。だから、「匙加減一つでどうにでもなる」とは、患者を生かすも殺すも医者の薬の量次第という意味だった。

現在、加減は多義にして多用に使われる。勝負事に弱い相手には少し手加減をしてあげるし、風呂には人それぞれの好みの湯加減がある。風邪気味で身体の加減がかんばしくなくなったり、待ちに待った春先には陽気の加減で体調が思わしくなくなったりする。仕事やミッションを途中で投げ出すといい加減なやつだと言われ、ついには堪忍袋の緒が切れた上司に「いい加減にしろ!」と怒鳴られる。

いい加減のいい・・は元は「い」だから、文字通り好ましい意味だったが、否定的なニュアンスが込められるようになった。単発で「いい加減」と書いたり言ったりすると、テキトウとか無責任という意味に取られる。肯定的に使おうとするのなら「好い加減」と書き、「い加減」と言えば誤解されずに済む。そうそう、あの昔の教師は「いい加減」ではなく「よい加減」と言っていた。

語句の断章(49)「須く」

文化庁が2020年に実施した「国語に関する世論調査」。「すべからく」の意味に関して次のような結果が出た。

半数以上が意味を正しく知っているとは……。正直なところ、これには驚いた。なぜなら、漢文訓読調の「須く~すべし」という表現を使った知り合いのほとんどが、「すべて」という間違った意味で使っていたから。「世の中は何もかも、すべからく・・・ですからね」という具合。

正答が誤答を上回った理由はすぐにわかった。須くの意味は「当然、ぜひとも」か、それとも「すべて、みな」かという二者択一でアンケートを取ったからだ。初見の人もすべてという意味だと思っていた人も、逆を選んで正答になったのだろう。

須くは辞書にちゃんと載っている。昔に書かれた本を読むと目にすることがある。現代文ではめったに出くわさない。会話ではぼくよりも若い世代の、いわゆるインテリ系がたまに使う。古い本では正しく使われ、会話では間違った意味で使われる。

わざわざ「青年は須く勉学すべし」などと言ったり書いたりしなくても、「若いうちにぜひともしっかり勉強してもらいたい」でいい。つまり、今の時代、須くにはほとんど実用の出番がない。須くは読み方と意味を尋ねる雑学クイズか漢字検定で使うために生き残っているようなものだ。

なお、読みも意味も知っているが、この歳になるまで須くを一度も使ったことはない。仮に無理して使ったとしても「すべて」という意味に取られるはずである。

一二三カルタ

2016年のわが年賀状のテーマは『いろはカルタ』だった。「を」と「ゐ」と「ゑ」と「ん」以外の「いろは……」を創作して何とか恰好をつけた。いろんな本や辞書に目を通したが、岩波のカルタ辞典が大いに参考になった。

その年賀状は思いのほか評判がよく、「ぜひ続編を」という数人からの励ましがあった。そこで「いろは」に替えて試みたのが「一二三いちにさん」の数字を含むカルタ。数にちなむ諺や故事成語を発展的に解釈したのである。

2016128日付けの「2017年の年賀状(案)」というメモが残っている。いろいろ考えた末の最終候補作」が走り書きしてある。

いの一番、一意専心
二兎追う者……、二番煎じ
三枚目、三人寄れば……
四苦、四十アラフォー
五臓六腑、双六
七福神、七転び八起き、七転八倒
九回裏
十戒
十二1ダース
十五十六十七
十八番おはこ

十一、十三、十四は欠番のつもり。案が出なかったのではなく、単にスペースがないだろうと判断したから。


さて、最終案はどうなったか。「二兎」「双六」「九回裏」「十五十六十七」「十八番」が残り、他はすべて入れ替わった。あれから6年、今の思いをコメントしてみた

一言以て之を蔽う(いちげんもってこれをおおう)……この論語を一番バッターに据えたのは力が入り過ぎ。
二兎を追う者は(にとをおうものは)……やや月並み感あり。「二足のわらじ」にするかどうかで大いに悩んだ。
読書三到(どくしょさんとう)……口到、眼到、心到という知識の見せびらかし。「三度の飯」くらいでよかった。
四面楚歌(しめんそか)……中国古典由来のものは難しく、カルタ遊びに向かない。
五里霧中(ごりむちゅう)……読書三到、四面楚歌に続いて四字熟語が三つ並んだ。
双六(すごろく)……やっと普通のことばで一安心。
無くて七癖(なくてななくせ)……胸を張れる七ではない。この七は「いくつか」という意味だから。
腹八分(はらはちぶ)……数字カルタとしてとてもわかりやすい。
九回裏(きゅうかいうら)……
期待とガッカリを併せ持つ、表ではなくて裏だからこその九。ちょっとした裏ワザだと自負。
十で神童(とおでしんどう)……二十歳で平凡な人になるための条件としてとらえるとおもしろい。
十二進法(じゅうにしんほう)……十二はぜろに次ぐ大発明で、一二三カルタには欠かせない。
十五十六十七(じゅうごじゅうろくじゅうしち)……演歌の世界では人生で特に暗い3年間ということになっているが、カルタ一枚で三役がさばけるならスグレモノ。
十八番(おはこ)……いろはカルタと違って一二三カルタは延々と続く。十八はちょうどよい止め時ではないか。

年賀状レビュー〈2023年版〉

新年の年賀状が刷り上がるこの時期、前年暮れに差し出した年賀状をレビューすることにしている。したためた時の思いと今の心境を照らし合わせて自己検証するために。あるいは、手前勝手な心変わりがあったなら自己批判するために。

ここで紹介する2023年版が創業以来35年続けてきた、文字まみれの年賀状スタイルの最後となった。年賀状をやめるか続けるかをしばし思案して、とりあえず来る2024年の新春のお慶びをこれまでと違うスタイルで申し上げることにした。それ以降のことはわからない。


一九八七年十二月一日創業、翌年に年賀状を差し出して以来、本状が数えて35葉目になります。過去の年賀状にしたためたメッセージを元に、その時々の象徴的な思いを綴り直してこれまでの35年を振り返ってみました。

一九八九年  出会いはいつも、偶然と必然を背中合わせにして喜怒哀楽の表情を見せる。ひとたび人と人が出会えば談が弾み、風がそよぎ始め、熱い渦を巻く。談は「言葉の炎」なり。

一九九〇年  知らぬがゆえに新しい発見に恵まれるという逆説。忘れ去ることにも意味がある。忘は「心、亡きがごとし」。手垢のついた知識を捨て、空想の中に心を解き放とう。

一九九一年  自ら動けばエネルギーが沸き起こる。動は「重い力」。変化を生み出す重力を受け止めたい。

一九九二年  先が見えない時代の渦中にあって、何かにつけ「?」の多い年になるらしい。不確実な「?」に好奇心の「?」で勝負を挑んでみよう。

一九九三年  こうと決めた自らの仕事を今一度振り返る。上げ底や見かけの飾りを捨て、「足を地に着ける味」、すなわち「地味」に回帰する。

一九九四年  「企画業、七年目の背伸び」。フィクションとノンフィクションというジレンマを克服するのが企画。

一九九五年  仕事と肩書を無数に組み合わせれば守備範囲はいくらでも広がる。敢えて二、三足の草鞋を履く。

一九九六年  人は人からもっとも多くを学び、人に励まされ、互いに触発し合う。今年、〈談論風発塾〉という人間交流実験に取り掛かる。

一九九七年  一見できそうもないことをやらねばならない時がある。できそうもないことをやり遂げるには身体を張る覚悟をしなければならない。

一九九八年  アイデアが二つ以上あって採択に迷ったら、是非や成否のことを考えずに、愉快なほうを選ぶ。愉快は情熱と継続力の源泉である。

一九九九年  「学力から力学へ」。学校時代の力の尺度は成績に表れる学力。社会に出ると、仕事力が学力よりも優勢になり、力学の勝負になる。

二〇〇〇  睨む、想う、狙う、考える、分ける、組む、離れる、絞る、明かす、書く、叩く、結ぶ……企画は動詞的であり、形容詞的ではない。

二〇〇一年  習慣は第二の天性なり。「アイデアを捻り出すのが癖でして」と言えるようになれば申し分ない。

二〇〇二年  世の中、注文や仕事は「ついで」に発生する。眼鏡のクリーニングのついでに新しい眼鏡を買い、一皿二百円の小鉢の注文ついでに一杯千円の大吟醸を二杯飲む。

二〇〇三年  一枚の紙、鉛筆、車内広告、ぼんやりの時間、雑談、接頭語、手紙、散策、頭など、知的発想作業のための非流行的小道具を見直す。

二〇〇四年  世間は読むほうがいい本を推奨してくれるが、読んではいけない本を教えてくれない。

二〇〇五年  コンセプト訴求失敗の原因は、平凡、焦点ボケ、時代錯誤、専門性、思い入れ、下手のいずれか。

二〇〇六年  アイデア、エスプリ、コンセプト、シナリオ、ダイアローグ、パラダイム、ファンタジーなどは訳さずに、カタカナで使うほうがわかりやすい。

二〇〇七年  独学向きの学問として、愉快学、乱学、不思議学、話題学、問学、隙間学、回遊学を推奨する。

二〇〇八年  時代が「どんだけぇ~」変わっても、流行など「そんなの関係ねぇ」。これからもよき仕事、高い技術を目指して「どげんかせんといかん」。

二〇〇九年  二元的に時代を見る。有無、方円、真偽、需給、上下、内外、清濁、伸縮、縦横というふうに。

二〇一〇年  誰もが「何か変」と感じているが、「変」の一部が自分にも起因していることに気づいていない。

二〇一一年  思惑があると遊びにならない。ふざけるだけの遊びもない。俗世間を気にせず三昧するのが遊び。

二〇一二年  弱い犬はかまびすしく吠えたて、三流芸人は芸を誇張する。

二〇一三年  「次の角を曲がれば、その向こうに新しい景色が見えるはず」という予感と希望を構想と呼ぶ。

二〇一四年  仕事には普段の知の習慣形成が反映される。無為だと奇跡は起こらない。都合のよい魔法もない。

二〇一五年  本の読み方は環境(人・時代・世界)の読み方の縮図である。

二〇一六年  腕を組んで考えても苦悶は増すだけ。素直に紙に書いてみる。これを「苦しい時の紙頼み」という。

二〇一七年  縁と機会に恵まれて今ここに到れたのは感慨深い。他人様に期待され、その期待に応える相応の努力を重ねる日々は濃密である。

二〇一八年  変わらぬテーマは「コンセプトとコミュニケーション」。見えざるものをことばとイメージに変える。

二〇一九年  「一つの正解を探せ」、「あらゆる要素を考えろ」、「ことば遊びをするな」、「深く掘り下げよ」。どれもあまり信用しないほうがいい。

二〇二〇年  「星に手を差し伸べても、一つだって首尾よく手に入れることなどできそうもない。だが、一握りの泥にまみれることもないだろう」。レオ・バーネットの至言に耳を傾けたい。

二〇二一年  旅がままならない今、本と読書との縁を結び直して、希望、快癒、愉快、幸福の修復を祈りたい。

二〇二二年  当たり前の穏やかな日々と小さな幸せを感受できる時間が早く取り戻せますように。

語句の断章(48)「中待合」

なかまちあい・・・・・・に呼ばれて」と音で聞いたら、中町愛さんに呼ばれたと思うか? ぼくは思わないが、思った人がいる。ある日、その人は初めて「中待合なかまちあい」を耳にした。

よく見聞きする待合は「待ち合う」から派生して、誰かと誰かが――または誰かが何かを――待つ場所を意味する。たとえば客が芸者さんを呼んで遊興する場とか。待ち合うという行為よりも待ち合うという場、すなわち駅や病院などの待合室を指すことが多い。

待合も待合室もどんな辞書にも収録されている。ところが、中待合は『新明解国語辞典』にも『広辞苑』にも載っていない。広辞苑をめくった時、「なかまち……」を見つけて、「あ、あるぞ」と早とちりしたが、「なか」ではなく「なが」で、長町裏と長町女腹切だった。いずれも浄瑠璃の話。

ある病院のホームページに中待合の説明を見つけた。「診察を受ける前に、リラックスしてもらうためのスペースであり、診察室の声が待合室に聞こえないための空間」という記述。中待合についてホームページで説明するのは、知らない人が多いからではないか。

定期的に検査してもらっている病院では、採血場に中待合がある。数十人が座れる広い待合室、そこから数メートル向こうに採血カウンターがあり、看護師が常時5人はいる。数メートルの距離の間に6人が座れる中待合がある。待合室では随時23人の番号が表示され、当該番号の人が中待合へ移る。待合と中待合、中待合と採血カウンターの間には仕切りも何もない。注射嫌いの人はリラックスしていないし、看護師の声は待合まで聞こえる。

中待合。実に不思議な場だ。受付を済ませ、指示された番号の診察室前に行くと、そこに中待合がある。名前を呼ばれて診察室に入ると、そこに椅子が何脚かあって、それもまた中待合空間なのである。そう、中待合のための中待合があったりする。

中待合は、待合と診察室をつなぐ緩衝地帯バッファーゾーンのようである。茶室の入口のつくばいに似た、いきなりを嫌う日本独特の小空間なのではないか。