日だまりのことば拾い

昨日の午後、南の窓からちょうどよい具合の光が入り込み、微睡まどろみそうになった。こんな時には手が届く範囲の片づけをする。B6判のシステム手帳で使っている6穴ルーズリーフを整理した。古いノートの保存用バインダーが8冊くらいある。一日や二日で終わる作業ではない。せいぜい数十枚のルーズリーフをリングから外したり綴じたりするだけ。

ことわりを整える」のが整理。拾い読みしながら、書いてある内容に基づいて並べ替えたり分けたりして整える。手を抜かずに真剣に取り組む。責任を負う仕事の途中に微睡みそうになったくせに、手を抜いても誰にも迷惑をかけない道楽に眼が冴える。本当は逆でないといけないのに。


📓 徒然なるままにノートに文を綴るにしても、動機がなければ毎日続けることはできない。受容したり共感したりだけでは筆はしっかりと走ってくれない。仮に筆が動いたとしても、毎日同じようなことを書いてもしかたがないのだ。昨日と違う何かを書くには新しい発見、軽い批判、ちょっとした愉快、自虐などの動機付けがいる。

📓 「わざわいは福とぐる・・になっている」。ぼくの文案ではない。ドイツ由来の箴言だが、どんな文脈から切り取ったのか覚えていない。そう言えば、ぐるとまでは言わないが、真贋しんがんの関係もこれに似ている。本物とコピーにはどこかもたれ合っているところがある。
ともあれ、禍と福はどちらも「しめすへん」だ。コロナ禍も何らかの福と示し合わせてぐるになっているのだろうか。”ウィズコロナ”と言い出したのは福のほうである。

📓 箸が転ぶのを見て笑う様子は、箸が転ぶという事実よりも滑稽である。何の変哲もない出来事や現象も、笑うことによって滑稽になる。しかし、箸が転ぶのを見るたびに腹を抱えて笑っていると、徐々に笑いの感覚が錆び始める。笑いはすぐにマンネリ化するのだ。ハードルがどんどん上がっていってこその笑い。笑わせるのも笑うのも大変なのである。

📓 散歩中に碑や案内板の前を通り掛かると必ず立ち止まって読む。癖である。とりわけ地名の由来の説明は丹念に読む。こんな具合に。

この辺りは古くは淀川とその支流に囲まれた砂州だった……水辺に突き出たところを「さき」と呼んだ……石ころだらけの荒地だった……やせた土地や岩の丘を「そね」と言い、「そね」と「さき」で曽根崎という地名が生まれた……。

こういう由来にはわくわくさせられる。五百年前の梅田は菜の花見物で賑わうのどかな農村だった。

知らないことだらけ

知らないことだらけ? ちょっと待てよ、以前こんな題で書いた記憶があるぞ。「知らないこと」で検索。遡ること11年。似ているが違っていた。前に書いた題は『知らないことばかり』だった。

「これ、知らなかったなあ」と嘆息するのはいつものこと。あちこちに出掛けたりあれこれ読んだりした時ほど、一週間や半月のうちに何度も「知らなかったなあ」とひとり述懐する。この歳になればいろいろ知っているはずなのに、痛感するのは知らないことの圧倒的な多さである。


❓ コーヒーの粉をこぼした。箒でく。箒という漢字、文中で出くわせば苦もなく読めるが、書けないことに気づいた。書こうとしても、たけかんむり・・・・・・の後が続かない。たぶん箒という字は一度も書いたことがなく、今こうしてじっと見ているうちに初見のような感覚に襲われてきた。箒のあし・・のほうは「掃」のつくり・・・かと思ったが、微妙に違っている。

❓ 今月に入って、「換骨奪胎」と「汗牛充棟」という、初見の四字熟語に出くわした。前後からおおよその感じがつかめたらわざわざ調べないが、いずれもまったく見当がつかない。ことわざ辞典を引いた。ちゃんと載っている。
換骨奪胎かんこつだったいとは「古人の作った詩文について、あるいはその発想法を借用し、あるいはその表現をうまく踏襲して、自分独特の新しい詩文を作る技法」。焼き直しの意に用いるのは誤用とある。どうやらパロディでもパクリでもなさそうだ。守破離の「守」と「離」の併せっぽいが未だ明快ではない。もう一度出てきてもまた調べることになりそうだ。
汗牛充棟かんぎゅうじゅうとうは蔵書の多いことのたとえ。蔵書が増えてきて積もうとすればむねにつかえる。かと言って、運び出そうとすれば荷役に使う牛が汗をかくほど重い。文字から意味が連想できるので、これは思い出せそう。

❓ 芝居や舞台は縁が薄いので知らないことばが多い。以前「見巧者みごうしゃ」を知った時、表現の絶妙に感心した。上手に観劇する力のある観客のことをいう。同時に、舞台は演じる者の技量と観客が持つ観劇眼によって成り立つことを教えてくれる。上手と上手はお互いに呼応する。見巧者についてやっとわかるようになったが、見巧者になるのは難しい。
「半畳を入れる」という熟語は先週出てきた。敷いている
座布団を下手な役者に投げる? 座布団ではなく、半畳の大きさの「ござ」のことだった。
テレビや映画はセリフや演技を見聞きするだけ。ライブでもなく双方向でもない。しかし、演芸や演劇にはそのつどの、演者と観客の間の打てば響くような暗黙のやりとりがある。時に期待が裏切られると客席からヤジが飛ぶ。ヤジでは気が済まぬ客が尻に敷いたゴザを投げ込む。これが半畳を入れる動作だ。普段の会話でからかったり揚げ足を取ったりすることにも使える。

❓ 知らないことだらけでも何とかやっていけるのは、それまで知らなかった対象のほとんどが、別に知らなくても仕事や生活に支障がないからである。しかし、支障がないからと言って、「知らなくてもいいのだ」と居直るのもちょっと残念な生き方のように思える。

様々な言い様

たいていのモノやコトには複数の言い表し方がある。意味が「ほぼイコール」のものや分化したファミリーを含めて、これらを「類語」とか「同義語」と呼ぶ。角川の『類語新辞典』で【未来】を引くと、「これから先に来る時」という共通概念が最初に書いてあり、続いて「先、行く手、末、今後、前途、将来」など、40もの類語が挙がっている。

類語は基本の意味を共有することば仲間と言える。類語探しによく似ているのがキャッチコピーやネーミングだ。ことばの工夫をしたりあれこれと言い換えてみたりして、これぞという表現をひねり出す。言いようによって雰囲気やニュアンスが変わる。

オフィスの図書室/勉強部屋は、悩みに悩んだ挙句、20185月にspin_offスピンオフと命名。いろいろ考えていた方向のものとはまったく違う名称になった。突発的に「いろんな試みが派生する場」というコンセプトが浮かび、派生の意味を込めて名付けたのである。

当初は図書室だから本や読書にちなんだ名前を考えていた。「本日は晴天なり」をもじって「本日は本の日なり」を思いつき、英語にしてみたら“It’s a book day today.”と語感もいいし、これはおもしろいとほくそ笑んだ。しかし、イベント名ならまだしも、部屋の名前をいちいち「イッツァブックデーツゥデイ」と呼ぶのは面倒である。「本日ほんじつカフェ」というのも浮かんだがボツ。

本というたった一文字の漢字からインスピレーションを得ようと実にいろいろ考えた。まさに「様々な言い様」を試行錯誤したのである。まず、本が授けてくれる恩恵を「本の○○」の形にしてみた。

本の希望  本の激励  本の快癒かいゆ  本の幸福  本の精神  本の所縁ゆかり
本の宝箱  本の夢中  ……

続いて、視点を変えて本という字を二つ使って「本の本○」という言い様にしてみた。

本の本気  本の本懐  本の本命  本の本末  本の本棚  本の本箱
本の本意  本の本位  本の本題  本の本分  本の本音  本の本体
本の本望  本の本質  本の本当  本の本能  本の本番  本の本論
本の本家  本の本線  ……

この発想はなかなかいいではないかと自画自賛したが、いくらでも思いつくのは平凡の証ではないか。それに、どれも部屋の名称向きではないと結論した。しかし、メモを捨てずに置いてあったのはなぜか。未練が残って、いつか「勉強会の今日のテーマ」として使おうと思ったからだ。

図書室を公開イベントの場として使わなくなって間もなく2年。活用してもらってこその空間である。当たり前の穏やかな日々が来る年に戻ることを願いながら、読書会、書評会、朗読会、また時事トークや笑芸を来春あたりから開催したいと考えている。

わかる? わからない?

「鉛筆で文字を書く」という一文が意味することはすぐにわかる。もう少し詳しい情報があれば、状況や場面も映像として浮かび上がってくるだろう。鉛筆は触れることができる。鉛筆は〈〉のイメージにほぼ対応する。書かれた文字は実際に見えるし、書くという行為も繰り返し何度も経験済みだ。

では、「幸せな生活を過ごす」はどうか。誰もがよく使う一文である。言ったり書いたりする方はわかったうえで使っていると胸を張れるか。聞いたり読んだりする方も意味がわかると言い切れるか。意味がはっきりしていると思って使い、だいたいわかった気になっているかもしれないが、いざ「幸せとは?」「生活とは?」「過ごすとは?」と突っ込まれて困り果てる。

幸せや生活のことを鉛筆や文字と同程度にはわかっていないのである。わかっていないけれども、あまり深く考えずに頻繁に使っている。ある時、根掘り葉掘り突っ込まれてはじめてわからないままに使っていることに気づく。突っ込まれて、意地悪されたとか恥をかかされたとか思ってはいけない。それどころか、ことばと思いの乖離に気づかされたことに感謝すべきだ。


あらためて辞書で確認するとしよう。たいていの辞書は、幸せを「満たされた状態」、生活を「考えたり行動したりして生きること」という程度の定義しか示してくれない。ことばを定義してもらっても、意味がわかったり使った人の思いが理解できたりするわけではないのだ。つまり、いくら語義を深く追究しても、文字面以上に「幸せな生活」をわかることはほとんど不可能なように思える。

文をばらして個々のことばを深掘りしても意味は明快にならない。ことばの意味や概念は、ことばを説明されたり言い換えられたりしてわかるのではなく、例示されてやっと何となく・・・・イメージとして見えてくるものなのだ。「幸せな生活」の場面や状況を、できれば複数の例によって描き出すことが「わからない」を「わかる」に変える。

話し手や書き手は「幸せな生活を過ごす」の後に「たとえば……」と続ける。「幸せな生活を過ごす」だけで終わった相手に対して、聞き手や読み手は「幸せとは何だ?」とか「生活とは何だ?」と突っ込まずに、「たとえば?」と協力する。意味は一人では明らかにならない。双方が明らかにしようと努めてはじめて意味は共有への一歩を踏み出す。

表現品性とユーモア

以前紹介したが、『増補版 誤植読本』(高橋輝次編著)という本がある。錚々たる書き手による誤植のエピソードをまとめたもの。竹内寛子の「誤字」という一文が印象に残っている。誤植は作者の非ではなく、製版や印刷過程で生じるミスプリント。対して、誤字は原稿時点での作者の間違い。竹内は言う、「間違い方にも人は出る。よきにつけ、あしきにつけ、人と離れようのないのが文字遣いであり、言葉遣いである」と。

ことばのミスを完全に避けることはできない。絶対にしてはいけないと気を引き締めていてもミスの罠はあちこちに仕掛けられている。しかし、「間違い方にも人は出る」と指摘されると心中穏やかではない。悪気はなく、舌が軽く滑っただけなのに、失言に人柄や品性が出てしまう。下品が失言すると下品になり、上品は失言しても何とか品を保つ。

ネット上で注目された56年前の投稿を思い出す。文中に散りばめられた強烈なことば遣いの数々。「保育園落ちた 日本死ね」「一億総活躍社会じゃねーのかよ」「何が少子化だよクソ」「子供産むやつなんかいねーよ」「そんなムシのいい話あるかよボケ」……。

違和感のある表現が、このようにほざくしかなかった事情の前に立ちはだかる。事情がどうであれ、「死ね」「じゃねーのかよ」「クソ」「ボケ」などのことばを多用する者をぼくは原則信用しないことにしている。こうした表現をギャグとして使うお笑い芸人もいるが、芸もたかが知れている。上品がつねにいいとは言わないが、下品はつねによくない。ほどよい品性を下地にしてこその批評であり喜劇なのである。


周囲に目配りも気配りもせず、車内の優先座席で座って知らん顔している高校生にいきなり罵言を吐き怒号を浴びせた高齢の男性がいた。正義感に火が付いての言動だったが、下品に過ぎた。高校生のマナー違反の現象が小さく見えてしまい、高齢者の正義感を誰も支持しなかった。「じいちゃんの言う通りだ」と共感した乗客はほとんどいなかった。

「保育園落ちた」にも「座席ポリス」にも共感者はいる。自分勝手にテンションを上げていると感じるから、ぼくにはどちらも後味が悪く、苦笑いすらできない。読んだり居合わせたりするこっちの顔が引きつるばかりである。英語スピーチ術の定番の教え、It’s not what you say, but how you say it.”は「何を言うかではなく、どのように言うかである」という意味だ。表現の質は意見の妥当性よりも重要である。

うまそうな肉を焼いたのに、乗せた皿が悪かった。主張に引き込もうとしたのに、そんな言い方はないだろうといさめられる。とは言え、表現品性を高めるのも容易ではない。しかし、ミスにしても批評にしてもほんの少しユーモアの色味を足せば、何とかなるのではないか。

神がいないばかりではない。もっとひどいことに、週末にブリキ職人に来てもらうこともできない。

「神がいないこと」を下品に言うと大変なことになるが、ブリキ職人を登場させるだけで愉快な批評になる。これはウッディ・アレンのことば。怒鳴っていないし、いきり立っていない。

漢字の認識と運用

「漢字を書く」と言っても、PCのワープロソフトを使っている時は漢字を書いてはいない。キーボードでたとえば”koushou”とローマ字入力して、画面に現れる「交渉」をはじめとする、「こうしょう」と同音のおびただしい候補リストから自分が使いたい漢字を選んでいるにすぎない。

鉛筆やペンで紙に漢字を書く時に、「さあ、あなたの欲しい漢字はどれ?」と誰も聞いてくれないし、選択肢も与えてくれない。自分の〈脳内辞書〉で候補を検索しなければならない。そして必要な漢字を実際に正確に手書きしなければならない。翻って、ワープロソフトを使う時は漢字は書いていない。認識したり選択したりしているだけである。

「林檎」と書けなくてもいいのだ。“ringo”とキーを打ち込めば、「りんご」や「リンゴ」に混じって林檎が出てくる。漢字はそれだけなので、その文字をクリックすれば文中でそのまま使える。「きかい」の同音仲間には機械、機会、奇怪、貴会などが出てくるが、知っていて認識さえすればどれも正確に書けなくてもよいのである。


ぼくの企画研修の中に「コンセプトの創造」という一章がある。講義の冒頭で「たか・・わし・・が書けますか?」と尋ねる。受講生のほとんどは20代~40代半ば。両方書ける人は1割にも満たない。鷹と鷲を書けなくても特に困ることはない。タカ、ワシと書けば済む。ちなみに、コンセプトは人が創るものという説明のために、「鷹も鷲もタカ目タカ科であり、生態的差異と言うよりもコンセプトの差異によって区別されている」という話をする。

鷹と鷲が書けない大人は大勢いるが、“taka”と入力すれば「高」と「鷹」しか出てこないから、鷹を選べる。”wasi”と打てば「和紙」と「鷲」くらいしか出てこないから、これも選ぶのは簡単である。認識はできるが、運用できるかどうかはわからない。しかし、運用ができれば――つまり、書ければ――読むことはできるはずだ。

ほとんどの文書作成がワープロでおこなわれる現在、漢字が読めたり書けたりするのは「検定的意義」か「雑学的価値」しか持たない。まあ、難読字を知っていれば周囲に少しは自慢もできるだろう。言語学では以前から「認識語彙:運用語彙=31」と言われてきたが、差はもっと広がっていそうだ。これから「手書き」はどうなっていくのだろうか?

語句の断章(30)概念

「コンセプト」という用語を使わずに企画手法を講義するのは難しい。広告業界で普通に使っているこのことばを、はたして初めて企画を志す人たちにきちんと説明できるだろうか……ある時ふとそう思い、私塾の講座の前にいろいろ調べたことがある。

ラテン語起源のconceptコンセプトには「つかむ」という意味がある。哲学用語としてよく使われるBegriffベグリッフはドイツ語で、これも「つかむ」である。明治時代にこうした外国語に触れた時、対応するやまとことば・・・・・・が見当たらず、「概念」という和製漢語をこしらえた。でたらめに漢字を選んだわけではない。「概」にもつかむという意味があったのである。

概は「ガイ」と音読みし「おおむね」と訓読みする。稀に別の読み方がある。「とかき」がそれ。升に盛った穀類や豆類を平らにならす時に使っていた棒、あれが「斗搔とかき」だ。適当に米や小豆を升に盛り、盛り上がった分を斗搔きですり切り、升の中の内容量を「いつものようにほぼ・・同じ」にする。

概はおおむねなのだから、厳密に正確ではないし多少の例外も生じる。しかし、全体がある程度正しければ良しとする。手でジェスチャーするのは難しいが、「こんな感じのコンセプト」と言う時に、ややことば足らずながら、何とか苦心して一言にしたり一行にしたりする。概念は「対象をおおよその認識でつかむこと、そしてその想いをことばにすること」という感じなのだ。

コンセプトを概念と訳してしまうと哲学や思考の難しい方面の響きになるが、感覚を言語に置き換えるプロセスでの「だいたいこんな感じ」という、仮のつぶやきだと思えばいい。概念は抽象的と誤解されるが、決してわかりづらいものではない。個々の特殊性にこだわらず、全体を見た時にどんな共通性があるかをざくっとつかむことなのである。

語句の断章(29)自家製

「自家製」と言っても、作るものの要素の何から何までもが自家製であることは稀だ。一般家庭の自家製ポテトサラダの場合、ジャガイモ、ニンジン、タマネギ、それにマヨネーズはスーパーで買ってきているはず。自家製なのは、潰したり切ったりえたりする調理過程だけである。

使い慣れた自家製だが、その意味は? 『新明解国語辞典』には「自家」という見出しがあるのみ。「その人自身の家」と説いて「――・製」という例を示すにとどまる。これでは何だかわからない。『広辞苑』はどうか。自家製とは「自分の家で作ること、またそのもの」と書いてある。そんなことくらい、漢字を見たらわかるではないか。

「自分の家」で用意するものと他所よそから調達するものの割合によって自家製と呼べる・呼べないがあるのかどうか。その境界がよくわからないし、作る対象によって自家製と呼べたり呼べなかったりするような気がする。ポークのゼリー寄せという料理がある。豚を飼っていて屠畜して肉を使っていれば純粋に自家製だ。しかし、豚のスネ肉や足を買ってきて細かく刻んで自ら調理しているなら、それもれっきとした自家製である。

ポークのゼリー寄せ

自家製は「作る」という視点ではなく、「他所で出来上がったものをそのまま使っていない」という意味でとらえるのが正しい。うちの自家製ポテトサラダは業務用に売られているものを使っていない、うちの自家製ポークのゼリー寄せはデパートで買ったものではないという主張であり、少なくとも調理過程では自分の手で工夫しているということだ。

麵、スープ、焼き豚を自分で作っているのなら、自家製と呼んでもいい。しかし、ぼくが自宅で作るパスタ料理を自家製パスタと呼ぶには違和感がある。だから「家で作ったパスタ」でいい。買ってきたベーコンではなく、自分で燻製にしたベーコンを使っているのなら、自家製の燻製ベーコンと言えばいい。どうやら、自家製と相性がいいのは料理の要素であり、出来上がった料理そのものではなさそうだ。

だから自家製サラダは不自然に響く。「自家菜園で採れた野菜を使ったサラダ」と言えばいい。スーパーで買ってきた野菜に市販のドレッシングを使ったサラダは、たとえ手作りであっても自家製ではない。梅もリカーも買ったけれど、自分で漬ければ自家製梅酒。同じく、漬物も自家製と名乗ってよい。なお、器具や機械を使っても手作りと呼ぶことがある。もし手以外に何も使っていないことを強調したいのなら、たとえば「手ごねハンバーグ」である。

シャンプーとリンス

この時期理髪店に行くと、シャンプーもトニックも涼感メントールを使ってくれる。すっきり爽やかな気分になって店を出る。但し、効果は長続きしない。灼熱の空気の中をしばらく歩いているうちに頭と額から汗が滲み出る。

「シャンプーとリンス」という題名ではあるが、記憶と検索にまつわるエピソードを書く。先日、シャワーを浴びシャンプーをしている最中に「ブログでシャンプーということばを使ったことがあったかなあ?」とふと思ったのである。書いた覚えはあるが、どんな内容かまったく思い出せない。

こんな時、手帳で探し当てるにはエネルギーを要するが、ブログなら記憶にないことを一発検索できる。検索窓に「シャンプー」と入力したら1件がヒットした。1件のみである。次のような文章を7年半前に書いている。

「理髪店に行くと、何かが変わる」という一文を読んだことがある。たしか、「まずヘアスタイルが変わり気分が変わる」ようなことが書いてあった。そして、「もしかすると、魂が変わり、ひょっとすると、髪型だけではなく顔も変わるかもしれない」というようなことが続いた。しかし、現実に変わるのは髪型と気分だけで、それ以外は変わらない。変わると思うのは妄想である……と書いてあったような気がする。理髪店は妄想の時間を提供してくれる。だから、最後にシャンプーで妄想を洗い流す……

以前読んだ本のうろ覚えの話を再現した文章である。妄想多き人にはシャンプーをおすすめしたい。


シャンプーとくれば、次はリンスである。シャンプーのことは書いても、リンスはたぶん書いていないと半ば確信して、これも検索してみた。驚いた。1件だったシャンプーに対して、リンスは3件ヒットしたのである。リンスのことを3回も書いたとはにわかに信じがたかった。1件目は次の文章である。

(……)カフェやレストランは四季の節目単位で模様替えしているかのようである。しばらく足を踏み入れないと、迷宮(ラビリンス)のさすらい人になりかねない。

意味内容まで精査せずに、文字づらだけを探し出すのが検索。ラビリンスの「リンス」を拾った。リンス違いである。シャンプーで妄想を流した後は、リンスしてさまようのか。

2件目と3件目は同じ。なんと「ガソリンスタンド」である。ガソリンスタンドからリンスを拾うとは、PC検索ならではの「ぎなた読み」である。

と言うわけで、本家のリンスについては一度も書いてないことがわかったが、今回のこの記事の公開後、早速検索に引っ掛かることになる。

「たちはたらく」

「たちはたらく」とあれば、「たちは/たらく」とか「たちはた/らく」とか「たち/はた/らく」ではなく、たいてい「たち/はたらく」と読む。では、この「たち」の漢字はどうか。これも、達、舘、質、太刀などとひねることはなく、おそらくシンプルに「立ち」と想像して、「たちはたらく」を「立ち働く」と突き止めるはずである。

この「立ち働く」ということばが読んでいた本に出てきた。自ら使ったことはない。どこかで見たような気がしないでもないが、めったにお目にかかれない表現だ。この立ち・・が「立っている」という意味でないことはわかる。その場にじっと立っているだけでは稼ぎにならない仕事もある。「小まめに働く様子」が浮かぶ。念のために辞書を引いてみた。

『新明解国語辞典』

「立ち」は接頭辞である。これが付く動詞は少なくないが、「身体的に立つ」という意味を持つのはわずかである。「立ち――」は「実際に――する」というニュアンスを感じさせる。


「あの人は立会人のくせにずっと座っていた」などといういちゃもんは成り立たない。立会人の仕事は終始立つことではない。席に座っていても立ち会うことができる。実際にその場にいることが重要で、立っているか座っているかは問題ではない。バーチャルではなくリアルに臨場することが立会人の果たす使命である。

「立ちまさる」という表現もある。単に「優れている」とは違う。「立ち」は、その後に続く行動・行為の一途いちずさを強調する。何もかもが勝っているのだ。断然で圧倒的で決定的な勝りようであり、その立場は現実には覆りそうもない。大きくリードした九回裏に易々と逆転されることもない。

立ち至る、立ち返る、立ち向かう……いろんな表現がある。「立ち至る」は、「重大な局面に立ち至った」と使うように、予測ではなく、現実になる状況を示す。「立ち返る」は、体操の技ではなく、もと居た所や出発点に戻る意にほかならない。敵に立ち向かうのなら、覚悟して本気で掛かっていかねばならない。ある方角に赴くという意味の「向かう」とは一線を画しているのだ。