「十」何々と「十」何とか

四字熟語をビシッと英語で決めるのは難しい。四字熟語になる過程でニュアンスや文脈を閉じ込めているからだ。たとえば「十人十色」は、好きなこと、思っていること、性格などが人それぞれという意味。何が違うのかまで伝えようとすると、そのつど説明するしかない。

「十人十色をどう訳すか」と聞かれたら、コンパクトな表現の“To each his own”をすすめるが、「人はみな違う」ということは言えても、「何に関して」までは伝わらない。ちなみにGoogle翻訳では“Ten people, ten colors”と拙く幼く愛想がない。これでは人種の話になってしまう。色鉛筆の十本十色なら“Ten pencils, ten colors”でいい

十人十色以外に、「十何々と十何とか」という四字熟語がいくつかある。

百発百中だと弾がもったいないと思ったのか、「十発十中」というコストパフォーマンスのいい言い回しもある。いずれも、狙いを外さない、やっただけの結果が出ること。

使用例が少ないが「十全十美」というのがある。すべての要素がすべて美しいという感じがよく出ている。つまり、完全無欠で非の打ちどころがないさま。

「十月十日」もある。言うまでもなく、カレンダーの1010日、かつての体育の日のことではない。ご存知の通り、「とつきとおか」と読んで妊娠期間を示す。


十は、数字のちょうど10のことではなく、「いろいろ」とか「たくさん」の比喩である。一番ポピュラーな十人十色で済ませがちだが、冒頭で書いたように、意味を伝えようとすれば、何が人それぞれなのかを言わねばならない。「食べ物の味は十人十色だからね」というように。それなら、四字熟語だけでもっと具体的に言っておけばいいのではないか。と言う次第で、以前「十△十▼」という形式の創作四字熟語を作ったことがある。

十舌十味じゅうぜつじゅうみ  味覚は人によって違うこと。「これうまいねぇ」「さほどでもないなあ」という具合。自分が中トロ好きだからと言ってむやみに他人にすすめてはいけない。なお、この四字熟語は産地によって牛タンの味が変わるという語釈もできる。

十鼻十香じゅうびじゅうこう  この時期になると金木犀が香る。香ると言う人あり、匂うと言う人あり。臭うと書く人あり。あれはトイレの芳香剤の匂いだ、いやいや、心を落ち着かせる「甘いかほり」と人それぞれ。オーデコロンの纏い方にも気配りが必要だ。

十物十感じゅうぶつじっかん  同じコーヒー豆でも焙煎時間が10秒違うと味が変わる。挽き方も十段階以上あって、時間に長短が生まれ抽出成分も異なってくる。コーヒーと味覚のデリケートな関係は、そのコーヒーを注ぐカップでさらに印象に変化が生まれる。

十道十心じゅうどうじゅっしん  志す道によって心のありようも決まってくる。書道、華道、茶道、武道のみならず、鍛え貫き歩まねばならない道はいろいろ、精神のありようもいろいろ。ところで、この四字熟語、もしかして「十心十道」としても成り立つような気がしている。

秋が来て夏が終わる

散策をテーマにしたコラムを依頼された。「川岸の樹々の移ろいに気づく秋。暑さから解放されて一息つける今なら、遠くの野鳥のさえずりも枝葉のそよぎも聞こえてくる」と書き始め、ふと思う。川岸も樹々もさえずりも四季を選ぶわけではないが、どういうわけか、秋との相性がいい。ある日の街歩きを思い出した。

セーヌの川岸にて(2011年秋)

セーヌ川に沿ってエッフェル塔に近づき、シャン・ド・マルス公園の落葉絨毯の上を踏み歩いた。秋はほどよく深まり、物語が始まりそうな気配が漂っていた。いや、ある散策者にとっては物語の終わりだったかもしれない。あの歌詞のように。♪ 枯葉よ~

🍂

名詞には意味が備わる。音が刻まれる。意味と音が重なり合って色が見える。「秋」には意味があり、“aki”という音があり、そして色がある。こうして秋は、春や夏や冬との差異を感知させる。

🍂

ボードレールに「秋の歌」という詩があり、その一節に「きのふ夏なりき、さるを今し秋!」(堀口大學訳)というくだりがある。別の表現もある。「昨日きそ夏なりき、今し秋」(斎藤磯雄訳)。「昨日で夏が終わり、今日から秋」というわけだが、実際はこんなふうに時系列的に感覚がシフトするのではない。今日秋を感じたから、昨日夏が終わったことにしたのである。

🍂

近年、秋が短くなった。少なくとも、短く感じるようになった。遅れてやって来て足早に去る秋。去る前に早めの名残りを惜しんでおくのがいい。出会った次の日から送別会のリハーサルが始まる。

🍂

秋の夕焼けは美しい。日が暮れなずみ、やがて夕焼け空になる頃、メランコリックになる人がいる。ぼくの場合は昼食を軽めにしているので、夕焼け頃になると空腹が先に来る。精神的作用を催す夕焼けよりも生理的作用を刺激する夕焼けのほうがつねに優勢である。

🍂

今年特有のキャンペーン、いよいよ“Go to Eat”が本格化した。価格が25%分還元されればそれだけ過食になりかねない。豊穣の秋はご馳走の過剰に注意。名前の長さに比例してカロリーが高くなる料理がある。これまで出合った一番長い料理名は「地産ポークと有機無農薬野菜のガーリック炒め、小野さんのレモンイエロー有機卵の半熟目玉のせ」。文字数の多さに比例してガッツリ系だった。

饒舌と手抜きトーク

論理思考は手間がかかる。とことん凝ると、物事をわかりやすくするはずの論理思考が論理主義・・・・へと変貌し、狂信的な様相を呈する。学生時代に熱心に論理学を勉強した結果、自明の事柄を偏執的なまでに証明せねばならないことに辟易した。そして、論理とはくどくて冗長であるという印象だけが強く残った。

アルフレッド・ノース・ホワイトヘッドとバートランド・ラッセルの共著『プリンキピア・マテマティカ全3巻』はくどさの最たるものだと専門家に聞いたことがある。手に取ったことがなければ今後もまったく読む気もないが、1+1=2」の証明に至るまでに約700ページを費やしているそうだ。そして、最終巻の最後にようやく実数の存在が証明されるらしい。確かめる気がまったくないので、「そうだ」と「らしい」で許してもらうしかない。


論理的な語りは雄弁の条件の一つだが、饒舌という第一の特徴を見逃してはいけない。ほどほどにしようとしても、饒舌とはすでに抑制がきかなくなっている状態なので、「ほどほどの饒舌」というのがない。では、寡黙な省エネ話者のほうがましかと言えば、いやいや、饒舌以上に厄介な存在なのだ。ことばの過剰は適当に引き算すれば済む。しかし、ことばが不足なら足し算せねばならない。足すのは体力と気力を要する。

省エネ話者による手抜きトークへのわが述懐
そもそも他人の思惑などわからないと思っているし、語られなかったことを推理しようとするほど暇ではない。そんな面倒くさいことはせずに、相手が話したことを真に受けるようにしている。適当に喋ったかタテマエだったかは知ったことではない。語られたことのみを材料にして自分の思いや考えを継いでいく。後日、相手が思い違いだ、錯覚だと言いかねないし、無粋な奴だと思われるかもしれないが、やむをえない。かつて隠れた心理を読もう、ホンネとタテマエを見極めようと苦心したこともあるが、読みも判断もよく間違った。間違いは自分だけの責任じゃないのに……。と言う次第で、話しことばはたいてい額面通りに受け取るようにしている。

さて、語りについてだが、言うべきことや思うところを寄り道せずにストレートにことばにすればいい。しかし、必死に伝えようと意識しすぎると論理に力が入り、やっぱり回りくどくなる。ここで落胆してはいけない。常にとは言わないが、迷ったらことば足らずよりも饒舌を選ぶべきだ。饒舌が過ぎて終わるような人間関係は元々脆弱なのである。寡黙だったらとうの昔に終わっていたはずだ。

「素地」のその前

「素」という漢字が単独でいきなり出てきたら、何と読めばいいのか戸惑う。「す」か「そ」かと推し量るしかない。しかし、「素」はおおむね熟語として使われるので、必然読み方が決まる。「素のまま」なら「すのまま」だ。そうそう、「もと」とも読む。味の素を筆頭に、炒飯の素、わかめご飯の素、冷や汁の素などがある。

関西ではかけうどんを「うどん」と言う。うどんに具を加えないという特徴を現している。素うどんは料理の名。茹でたうどんに出汁をかけるだけで何も足さない。とは言え、薄いかまぼことネギくらいはあしらってある。素を「そう」と読ませるのは全国区の素麺。うどんも素麺も素朴な食べ物であって、高級感を引き算するのが常。

素に近いのが「」。顔や肌と言うだけでは化粧しているかしていないかわからないが、素顔や素肌と言えば何も足していない。加齢しているから、生まれつきのままとは言いづらいが、うどんでたとえるなら「打ちたての生地のまま」というところか。ともあれ、素と地が一つになって「素地」が生まれた。壁は素地が肝心、学問や芸事は素地次第、商売は素地がすべて……などと並べてみると、基礎や基本や原初などの意味が浮かび上がる。


運よく素地に辿り着いたとして、そこで満足せずに、その素地の前にはどんな素地があったのかと考えるむきもあるだろう。「始まり」があるのなら、始まりの前があったはずだ。しかし、そんなことは誰にもわからない。わからないから定義によって意味を限定して妥協する。『ギリシア文明の素地』を学者が著したら、その学者が遡ったところまでが素地なのだ。その素地の素地が何かまで詮索してもキリがない。

「水が原初である」などという説は世界中にある。「万物の根源は水」と説いたのは、ソクラテス以前の哲学者タレス(紀元前625年~547年頃)。根源が水というのは説であって確証ではないが、考えても答えが出ないテーマを探究するという哲学がここに生まれた。素地の素地のそのまた素地を知りたければ研究すればいいが、「宇宙が素地の起源だ」という結論だとがっかりする。そこまで辿るなら自分でもできる。。

ある小説家――たとえばリルケやカフカ――の影響を強く受けたとしても、そこには自分の個性や考えの型や経験が入り混じる。そういう自分色を首尾よく脱色することができれば、おそらくリルケやカフカの素地が現われてくるのだろう。しかし、どんなに頑張っても人間の素地は判別しづらい。うどんの生地を突き止めるようなわけにはいかない。素地はわからない。わからない素地のその前に遡ることに意味があるとは思えない。

「日」と「者」の夏

歯医者では受付で「非接触おでこ検温」される。先週のこと。「今日はちょっと高いですね」「何℃ですか?」「37.2℃です」「急ぎ足で来ましたからね」と言って手指をアルコールで消毒。この体温で治療が拒否されることはない。

中お見舞い」「残お見舞い」の葉書はありがたいが、水色の紙面に金魚や風鈴があしらわれていても、体感温度が1℃上がる。挨拶代わりの「今日もいですねぇ」の先制攻撃には2℃上昇うだるようなさ」と言うアナウンサーの声だと一気に3℃!  

ゆっくり歩くときついので、速足で一目散に歩く。アスファルトを避けて地下に潜る。何も見たくない、何も感じたくない。必然、視野角が狭くなり感受性も鈍る。中国の古い格言に「暑さの厳しい所から偉人は出ない」というのがある。ひどい偏見だと思う一方で、暑い➔頭を使わない➔賢くならない……と短絡的に連想して危うく同意するところだった。アフリカ諸国と昵懇じっこんの仲を保ち続けたい今の中国なら、決して口にすることはないだろう。


暑という漢字は「日」と「者」でできている。日は太陽を表わす。者は人のことではなく、「煮る」の煮の元になった字である。太陽が強く照りつけて、まるで煮えるような熱を帯びている状態そのものだ。こう書いているうちに、再び体感温度が上がってきた。

『歳時記百話』(高橋睦郎著)の夏のページをめくっていたら、まさかの「暑」の見出しがあった。次の文は夏という漢字に言及して書かれた箇所。

『日本国語大辞典』は八語言説を列記するが、最初にアツ(暑)の転、アツ(温)の義、アツ(熱)の義を挙げ、二にアナアツ(噫暑あなあつ)の義、三にネツ(熱)と通ずるか、という。語源としての当否はともかく、夏は暑いという実感が説の根拠だろう。関連の季語には暑さ、大暑たいしょ極暑ごくしょ溽暑じゅくしょ炎暑えんしょなどがある。

このくだりを読んで、漢字の凄みが伝わってきた。訓読みすると、噫は「おくび」であり、溽は「むしあつ(い)」だそうだ。読んでいるうちに窒息しそうなほど息苦しくなってきた。マスクのせいばかりではなさそうだ。

「こまめ」がわかりにくい

わかっているつもりなのに、実はあまりわかっていないのが「こまめ」。やわらかい語感と見た目に反して、癖の強い晦渋語の一つである。

こまめ(【小まめ】)とは、まずもって骨惜しみをしないことだ。まじめであり、何かに向かってかいがいしく行動している様子が見えてくる。しかし、「もっとこまめに何々していれば……」などと反省するにしても、その「こまめ」と「もっとこまめ」の違いがはっきりしない。

「熱中症予防にこまめな水分補給を」と言われてから、四六時中ちびちびと飲んだ人がいた。結果、こまめにトイレに行かざるをえなくなった。こまめの頻度と量は具体的に示しづらい。体調や暑さなど、人によって状況によって当然変わる。「30分ごとに」と言う専門家は飲む量を示していなかった。「1015分おきに一口か二口」という助言もあるが、炎天下で15分歩く時に上品な一口では足りないのではないか。


こまめから、面倒くさがらずに細々こまごまと注意したり気配りしたりする様子がイメージできるが、こまめの程度、つまり頻度や量については個人の判断に委ねられる。だから、かねてから水分補給の修飾語として適切なのかどうか気になっていた。

喉の渇きを覚えてから水を飲んでも手遅れ。それでは予防にならないらしい。しかし、喉が渇く前というのはある程度喉が潤っている状態である。「もっと水を!」と求めていない状態で口に水分を運ぶのは簡単ではない。それができるためには、生理的欲求まかせではなく、意識的に水分補給を習慣づけする、何らかの訓練がいる。

こまめとは「労をいとわない、かいがいしく行動すること」とある辞書に載っていた。そうすると、「こまめに」と「こまめな」に続く行為が必然絞られてくる。こまめに辞書を引けても、こまめに笑うことはできそうもない。こまめな水分補給は推奨されるが、こまめなアルコール摂取はよろしくない。

「なまものですので、なるべく早めにお召し上がりください」とは書いてあるが、「なるべくこまめにお召し上がりください」という注意書きは見たことがない。仮に書いてあったとしてもどう食べればいいのかわからない。だから、「なるべくこまめに水分補給をしてください」もやっぱりよくわからない。こまめの代案を考えてみようと思うが、今日のところは思い浮かばない。

巷で耳にしたつぶやき

リリー・フランキーの『誰も知らない名言集』のあとがきに、あのミスターがイチローに贈った色紙の話が出てくる。色紙にはこう書いてあったらしい。

野性のような鴨になれ
  イチロー君へ  長嶋茂雄

可笑しさが半時間ほど持続した。さすがのミスターである。不可解は名言の必要条件ではないが、見る者聞く者をしばし立ち止まらせ、稀に息を詰まらせ、そして余韻を残す。不可解であることは名言の格を上げるのだ。他意もなくつぶやかれることばはおびただしく、ほとんどが消えていくが、稀に名言や言として記憶に残る。

名言が吐かれる場面に出くわすことがあるが、周到に用意され練られたものばかりでつまらない。その場で即興的に発せられた名言というものをほとんど知らない。

名言には説明や経緯が欠落しているものが多い。説明を加えたり経緯を推理したりするのは名言を読んだり聞いたりする側である。名言を吐く者には、結実させたことばに至るいろいろな事情や理由があるのだが、そんなことは書かないし言いもしない。だから、おおむね名言は短くて、唐突で、不可解なつぶやきのようなのだ。


つぶやきが忘れられぬ迷言になった瞬間に何度か立ち会ったことがある。

「やっぱりバナナと卵と納豆だな」

唐突にバナナと卵と納豆である。しかも、けろりと「やっぱり」と言ってのけた。ミスターといい勝負ができる。朝食としてはこれで十分そうだが、発作的に朝食に言及したのかどうかはわからない。ここ何十年も物価上昇していない三品目だと気づいたが、つぶやいたのはぼくではないから、真意は不明のままである。気持ち悪いが、迷言を追及してはいけない。

「キャラメルボーイじゃないんだから」

一回り年上の大学の先輩。自分は常連客なのに、ママは一見さんの面倒ばかり見ている。「ママ、ぼくにも水割り売ってよ・・・・」と、いいオトナが突然甘え声で拗ねてみせた。「あら、気づかずにごめんね、ぼくちゃん。今すぐに作って売ってあげるから」とママ。先輩、さらに甘えてみせた。「ママ、ぼくはキャラメルボーイじゃないんだから」。二人とも芸達者だった。

「松坂は上手に年取ってるなあ。それにひきかえ、吉永は下手に清純だなあ」

雑談中にため息まじりにこれである。意味はわかった。一理あると思う。松坂は慶子であり、加齢しておとぼけができている。吉永は小百合であり、固着したクリーンなイメージから脱皮できないのは気の毒だ。清純というイメージを背負わねばならない品性は……などと分析しかけたが、そんなことはどうでもよい。きみ、なぜ今それを言わねばならなかったのか?

この季節の歳時

自宅の蔵書のほとんどをオフィスに運び込んでから2年が過ぎた。にもかかわらず、ほとんど本のない自宅の書斎で、時々がらんとした本棚に手を伸ばそうとすることがある。身についた習慣は条件反射的だ。

今月の初旬も自宅にはない一冊の本を探しかけた。金田一春彦著『ことばの歳時記』がそれ。かつて愛読していたこの本は、オフィスに移してから手にもせず捲りもせず。七月三日の日に、オフィスの書棚からさっと取り出した。どこに置いてあるかはわかっていたから。

前日の二日が「半夏生はんげしょう」で、翌日の四日が「雨男」。ことばの歳時記をヒントにして書き始めるには申し分のない見出しが立っている。ところが、三日のその日のことばは「お中元」だった。半夏生や夏男に比べると現実的である。やや物足りなかったが、お中元のことなどあまりよく知らないではないか。


昔、年寄りたちが「うらぼん」と言っていた。盂蘭盆うらぼんと書く。中元はその行事だ。正月十五日を上元じょうげん、十月十五日を下元かげんとして祝った。では、七月十五日あたりに佳節かせつとして中元を祝おうということになった。それが事の起こりらしい。

お中元と言えば贈り物。贈り物は歳時によって名を変える。正月には「お年玉」と呼び、年末には「お歳暮」という。病人を訪ねる時は手に「お見舞い」であり、別れる人には「餞別」を手渡す。どこかに行けば「お土産」を手にして帰ってくる。『ことばの歳時記』によれば、お土産を人にあげる時は「贈り物」と言い、自分がもらうお土産のことを「到来物とうらいもの」と言ったそうだ。初耳である。

オフィスでの打ち合わせを慎んでいるので、来客が少なく、したがって例年に比べて「到来物」を直接いただけない日々が続く。それでも、律儀な方々からのお中元が宅配でやって来る。この時世だけに、かたじけなさに涙こぼるる心境だが、受領印を押すたびに口元は緩む。そうそう、今日は珍しく直接いただいた。それは「到来」だった。

隙間の時間に二字熟語遊び

仕事が予定通りに進まないとストレスがたまる。無駄な時間もできる。ところが、無駄な時間を「隙間の時間」と言い換えれば、逆縁転じて順縁となる。隙間の時間は「ちょっとした時間」なので、物語性のある読書には向かない。AIソフトと早指し将棋一局ならちょうどよい。そして、今日のこの、相変わらずの二字熟語遊びも隙間向きである。

二字熟語アイコン#9

【中年と年中】
(例)元日に「中年」だと認識されたら、その年の大晦日も依然として「中年」だろう。そう、中年は「年中」中年なのである。

青年や老年は何となく見当がつくが、中年ほど曖昧な概念はない。壮年というのもわかりづらいが、30代~40代の働き盛りだと承知している。いや、40代の後半になれば中年と呼ぶべきか。手元にある辞書を数冊調べてみた。「50代半ば~60代前期」「40歳前後~50代」「青年と老年の中間の年代」。ますます混乱している。

【音波と波音】
(例)ロマンを感じさせる文系的な「波音なみおと」は、実のところ、水中を伝わる音として知覚される、理系的な「音波」という波動にほかならない。

ものが振動すると音波が生じる。音波は空気中や水中を伝わる。水中を伝わる音波が波音だ。波は音を連れて、押し寄せては砕け、そして引いていく。上田敏の訳詩集の題になっている『海潮音』もまた波音だが、洒落た響きがある。

【相手と手相】
(例)その占い師はろくに「相手」の顔を見ずに、ただひたすら手のひらだけを凝視して「手相」に性格と人生を見るのだった。

手相とは手のひらに刻まれた線であり、線が織りなす模様である。手のひらを見ると他人の運勢を告げたくなる人がいて、俗に占い師と呼ばれる。自分の手相でも誰の手相でも占えるらしいが、職業にするなら、わざわざやって来る客という相手の手のひらを見なければならない。

【奇数と数奇】
(例)「数奇」な運命を背負っている数字ではないのに、「奇数」を見ると、それがただ2で割り切れないという理由だけで落ち着かなくなる連中がいる。

どういうわけか知らないが、人間は81220だと落ち着き、91317を見ると心がざわつくらしい。奇数は数奇な何か――不運や不幸やかんばしくない転変――を連想させるのか。数奇の奇を「寄」に変えて「数寄すき」にすると粋で風流になるのだが……。

【始終と終始】
(例)「始終」と「終始」の意味は基本的に違うが、「いつも」とか「常に」という意味の重なりがある。

「一部始終」とは言うが、一部終始とは言わない。始終は最初から最後までのいろいろなコンテンツとそれらの流れを示す。他方、「終始一貫」とは言うが、始終一貫とは言わない。終始は最初の状態が最後までずっと貫き通されることである。
赤➔白➔黒➔青……と色の種類や変化を順番通りに示せば始終、ずっと赤➔赤なら終始。多色の始終、終始の一色である。


シリーズ〈二字熟語遊び〉は二字の漢字「〇△」を「△〇」としても別の漢字が成立する熟語遊び。大きく意味が変わらない場合もあれば、まったく異なった意味になる場合がある。その類似と差異を例文によってあぶり出して寸評しようという試み。なお、熟語なので固有名詞は除外。

句読を切る

もう35年程前の話。夜遅くに電話が鳴った。拙宅であることの確認の後に、神戸市の何とか警察署だと名乗った。いまキム・モンタナというアメリカ人がいる、もめごとがあった、夜も更けたので帰らせるわけにはいかない、聞けばあなたが身元保証人だと言う、それは間違いないか……」というような内容だった。

当時のぼくは勤め人で、海外広報の会社の国際部マネジャーをしていた。英文コピーを書くネイティブライターが数人いて、一応ぼくの部下だった。カリフォルニア州出身のキム・モンタナはその一人である。コワモテだが根はやさしい男で、広告文はあまり上手でなかったが、技術系企業のプロフィールになるといい文章を書いた。身元保証人ではなかったが、そういうことにして、翌日にひとまず解放するようにお願いした。

段落パラグラフのことで議論したことを覚えている。第一段落と第二段落は同じテーマを扱っているから一つの段落にすべきだと指摘したところ、彼は「それだと長すぎる」と言った。いやいや、段落は長いとか短いとかの見た目で決めるものではないと言えば、彼は「ちょっと長いぞと思ったら、息継ぎのつもりで変えればいいのさ。それが段落」とすまし顔をした。


あまりよく知らないことを聞かれると、ネイティブはプライドゆえかつい屁理屈を言うものだ。あの時、ピリオドとコンマはどうなんだ? と追い打ちをかけたら、それも息継ぎだと言ったかもしれない。しかし、後日、広辞苑で句読点(マルとテン)の説明を見て驚いた。「句は文の切れ目、読は文中の切れ目で、読みやすいように息を休める所・・・・・・」と書いてあったのだ。まるでキム・モンタナではないか。

あの「。」と「、」を句読点と呼ぶのを知ってからしばらく、どう考えても句点のほうが「、」で読点が「。」と思えてしかたなかった。文章の句だから途中に「、」を付け、読は読み終わりなので「。」を打つ。そのほうが「らしい」のではないか。ところで、句読点と言えば「付ける」か「打つ」だが、単に句読と言うなら「切る」である。句読を切るという言い方をしてみると、単なる息休めではなく、文に対する何らかの意思を感じる。息苦しくなったから、適当に「、」を打っているのではない。

田辺聖子のエッセイに「話はえんえんと続く、句読点もないままに」というくだりがあった。悪文ほど句読点が少ない傾向があるが、かつての古文などはそんなもの関係なく延々と書き綴ったのである。西洋の哲学者には数ページにわたって段落を変えずに書くスタミナ思考の猛者がいる。切るに切れないほど一本の線でものを考えているに違いない。

特に息苦しくなって息を継ぎたくなったわけではないが、これ以上続けるだけのネタもないので、ここで句点を打つことにする。