創作小劇場『おおブレネリ』

 親愛なるペーター
 長文のメールになりそうな気がするけど、読み流すのは暇な時でいいから。
 最近、耳にしたコマーシャルソングがある。『おおブレネリ』のメロディを使った替え歌なんだ。これがきっかけで、♪おおブレネリ……と久しぶりに歌ってみた。一応歌えた。

おおブレネリ、あなたのおうちはどこ
わたしのおうちはスイッツァランドよ
きれいな湖水のほとりなのよ
ヤッホ ホトゥラララ(……)
ヤッホ ホトゥラララ ヤッホホ

 正確には「ヤッホ ホトゥラララ」は5回繰り返される。ぼくとしては、「きれいな湖水のほとりなのよ」の次につなぎの一行が欲しいところなのに、いきなり5回も「ヤッホ ホトゥラララ」と繰り返したのはなぜだろう
 ペーター、きみがひいきにしているアンガールズの「はい、ジャンガジャンガジャンガジャンガ……」に似ていないかい? オチがなくて気まずい空気が流れるようなあの感じ。

おおブレネリ、あなたの仕事はなに
わたしの仕事は羊飼いよ
オオカミ出るのでこわいのよ
ヤッホ ホトゥラララ(……)
ヤッホ ホトゥラララ ヤッホホ

 2番がこんな歌詞だったとは……記憶とはいい加減なものだね。

 ブレネリはてっきり少女だと思っていたけど、仕事が羊飼いならオトナの可能性もある。いや、スイスあたりじゃ、その昔、子どもの時から仕事していたよね。そう言えば、イソップ物語のウソつき少年も羊飼いだった。と言うわけで、ブレネリの年齢は特定できず。

 ペーター、きみはスイッツァランド出身のスイス人で、今は東京にいる。もしきみが母国にいて誰かに「家はどこ?」と聞かれたら、「スイッツァランドだよ」と答えるかい? きっとノーだと思う。もっと具体的に町や村の名前を言うものだろう。
 でも、東京で同じことを聞かれたら、母国のことだと思って「スイッツァランド」と言うはず。ブレネリも同じ。きっと彼女はどこかの外国にいる。

 母国でない某国で住所と仕事を聞かれた。しかも、ブレネリは住所を聞かれたのに国籍を答えた。のっぴきならない入国手続き時の尋問光景か、某国に住んでいるブレネリが不審に思われて職務質問を受けている様子ではないか。
 歌詞にするとやわらかい調子になったが、ほんとうは次のような緊張感のある場面だったのかもしれない。

「住所は?」「スイッツァランドです」「スイッツァランドのどこだ?」「湖水地方です」「仕事は?」「羊飼いです」「家業の手伝いか?」「ええ。狼が出るので怖かったです」「そんなことは聞いておらん」

 もしこんなやりとりだったら、重苦しく気まずい空気になったはず。「ヤッホ ホトゥラララ」でとぼけるのもやむをえないな。

 なんでこんなことをきみに書いているのかと言うと、スイス民謡として親しまれているこの歌の背景に何か裏があると睨んだのさ。で、きみの意見を聞きたくなったというわけ。


 数日後、ペーターから返信があった。

 ぼくはね、日本に来る前はこの民謡のことは知らなかった。ブレネリにも違和感があった。だって、ブレネリというのはたぶん英語で、スイスではフレネリと発音するんだ。日本に来てからこの歌を知り、何度か歌ったことがあるし、ドイツ語の原作詞も調べたことがあるよ。
 きみのメールの解釈は、たぶん考え過ぎだな。異国で新しく友達になった誰かが素朴に質問しただけだと思うよ。


 そりゃそうだ。ペーターの言う通りかもしれない。長ったらしい駄文を読ませてしまった。翌日、お詫びのメールをすることにした。
 メールを打ち始めたちょうどその時、ペーターからのメールが受信ボックスに入った。

昨日メールを送った後に、きみの解釈が考え過ぎだと書いたのはどうかと思い、念のためにいろいろと調べてみたよ。驚いたね。あの歌詞には続きがあったんだ。

おおブレネリ、わたしの腕をごらん
明るいスイスを作るため
オオカミ必ず追い払う(……)
おおブレネリ、ごらんよスイッツァランドを
自由を求めて立ち上がる(……)

 「きれいな湖水のほとりで暮らし、小高い丘で羊飼いをしていたわたしたちに、ある日突然オオカミが襲ってきた。追い払え、負けてなるものか、自由と幸福と平和を守るのだ……」という時代背景から生まれた歌だとペーターは続けた。
 そして、「これはヨーロッパの穀倉地帯で今起こっていることの予言かもしれないな」とメールを結んでいる。

 ペーターにショートメールを送った。「ヤッホ ホトゥラララ」
 すぐにペーターから返信があった。「ヤッホホ」

創作小劇場『四月馬鹿』

 四月一日。わたしは陽気に誘われて散歩に出掛けた。足の向くまま歩いているうちに公園に来た。初めての公園だ。ベンチに腰掛けて子どもたちの遊ぶ様子を眺める。少し離れた所に一人でいる小さな男の子を見つけた。そわそわしていて、一見困っているようだった。ゆっくりと男の子の方へ向かった。

 「どうかしたのかい? おじさんに言ってごらん」
 男の子は半泣きになっていた。
 「おうちのカギをなくしちゃった。ポケットに入ってたカギ」
 「それは大変だ。おじさんが一緒に探してあげよう」

 その瞬間だった。背後に大勢の人の気配を感じて振り向いた。大人たち、若者たち、子どもたち十数人が立っている。少し異様な雰囲気だった。わたしは慌てることなく言った。
 「いったい何だね、あなたたち?」
 リーダー格の大人の一人がわたしとカギをなくした男の子の間に割って入った。
 「さっき『おじさん』と二度おっしゃいましたね?」
 「おじさんと二度? どういうことかな?」
 「『おじさんに言ってごらん』と言い、続けて『おじさんが一緒に探してあげよう』と告げられた」
 カギをなくした小さな男の子は、いつの間にか大勢側に立っていた。何かが変だとわたしは気づいた。
 
 「おじさんと二度言ったことがどうかしましたか?」と訊ねた。
 「誰が見てもあなたはおじいさん・・・・・ですよね。おじいさんなのに自分のことを『おじさん』と呼ぶのは詐称じゃないでしょうか?」
 「詐称とはちょっとひどいな。学歴や名前じゃあるまいし」とわたしは首を傾げた。
 「いえ、それが問題なのですよ。ぼくたちは子どもたちに嘘をついてはいけないとしつけていますから」
 「嘘? それもひどいな」
 「何か正当な理由がおありなら、聞かせていただきます」とリーダー格が言うので、わたしは思うところを語り始めた。

あなたたちからすれば、たしかにわたしは老人に見えるかもしれないし、もしそうならば「おじいさん」なのでしょう。けれどもね、わたしはそこにいる小さな男の子とは初対面ですよ。初対面なのに「おじいさん」と言うと、男の子の祖父みたいな関係になりはしませんか? だから、あの声掛けの場面では、身内じゃない他人、特に小さなお子さんには「おじさん」のほうがいいのじゃないでしょうか?

 「あの場面で、そんなことまで考えて、おじいさんではなく、おじさんと言ったというわけですか?」 リーダー格は軽くため息をついた。
 「そこまで考えたのかと言われれば、うーむ、考えていなかったかもしれない。しかし、『どうかしたのかい? おじいさん・・・・・に言ってごらん』とはわたしには言えない。理由はわからないけれど、わたしにはしっくりこないのですよ」
 「ところで、大変失礼ですが、お名前とお歳を聞かせてもらっていいですか?」とリーダー格が言った。
 「特に名前はないのです。一応『カミ』と呼ばれています。年齢は……ちょっと数えられないです」
 「カミ? 神様のカミ、ですか?」
 「ええ」
 「で、年齢もお分かりにならない?」
 「長く生きてますから」
 「ご冗談を」とリーダー格が言って右腕を挙げて指を鳴らした。取り巻きの全員が笑顔になりクスクスと声を漏らした。
 みんなが一斉に叫んだ、「エイプリルフール!」

 わたしは呆気にとられた。わたしのその表情を見てリーダー格が笑みを浮かべて、「神様、ごめんなさい」と頭を下げた。そして、「ところで、あなたもエイプリルフールごっこですか?」と訊ねた。
 「さっきも言いましたが、わたしは神です。年齢は不詳です」とわたしは言った。そして、「実は、さっき『おじさん』と言ったのは、『神に言ってごらん』と言っても信じてもらえないからです」と、別に言わなくてもいいことまで静かに伝えた。
 みんながまたクスクスと笑い、リーダー格が「はいはい、わかりましたよ。神様」と言って深々と一礼した。

 集団がほどけて、一人減り二人減りして、やがて誰もいなくなり、静寂の公園でわたしは一人取り残された。
 そうか、今日は四月馬鹿だったのか……長く人間界にいるが、見知らぬ人たちにかつがれて小馬鹿にされたのは初めてだ。それにしても、手が込んでいたなあ。わたしが住んでいた神の世界には四月馬鹿という風習がないから、これは希少な体験かもしれない。

 その日の夜、久しぶりに神の世界に帰省した。かなり世代交代していて、見知らぬ若い神々もいた。ありがたいことに小さな宴で温かく迎えてくれた。「人間界でちょっと愉快な体験をしたんだよ」と言って、わたしは話し始めた。熱心に耳を傾けてくれた。話が終わると、みんながにやりと笑った。神の一人が言った、「おじいさん、それ、エイプリルフールでしょ?」

〈完〉

創作小劇場『セミコロンとコロン』

某大学のある学生がエイゴの授業中、担当の助教にセミコロンとコロンの違いを尋ねたところ、その助教が「ほぼ同じだよ」と答えた。これが問題視され波紋が広がった。セミコロンとコロンをテーマにしたセミナーが企画された。

セミコロンとコロンが「ほぼ同じ」という発言が問題であるのなら、何が違っているのかを説明する必要がある。説明を申し出る関係者が現れず、また適任者も見つからなかった。残された切り札は一つ、〈文法書世界〉の権威であるセミコロン博士とコロン教授へのお願いだ。ノーを覚悟の上、辛抱強い交渉が続けられた。最終的にはノーがイエスに変わった。そして、セミナーが実現した。公開の場でお二人の肉声が流れたのは初めてのことである。セミナー冒頭の約10分をここに掲載する。


セミコロン(;)博士  セミコロンと申します。小生はカンマ(,)とピリオド(.)の役割を担う者です。しかしながら、カンマよりはやや強く、ピリオドよりはやや弱い立場だと自覚しています。敢えて言えば、機能はピリオドに近いかもしれません。

コロン(:)教授  ピリオドを二つ持つのでよくピリオドと間違われます。しかし、ピリオドの代わりに私を起用する場合は二つの文章が強く関連していることが条件になります。ピリオドのようでピリオドでないのが私の特徴。あ、申し遅れました、私の名はコロンです。

セミコロン(;)博士  小生も二つの文章をつなぎます。文章や比較的長めの句を、接続詞を使わずにつなぐことが多いです。たとえば、「今日はランチに出掛ける予定だ何を食べるかはっきり決まっているわけではないが」という具合です。

コロン(:)教授  二文に絡む点では私も同じですが、概要を伝える前文を受け、その概要の要素を紹介する文章にリレーします。たとえば、「あのホテルのレストランは3種類のランチを提供している和食と中華と洋食である」というのが一例です。

セミコロン(;)博士  今コロン教授が話した3つの単語が句になる場合があります。そして、それらの句の中ですでにカンマが使われていたら、句と句を区切る箇所にカンマを入れてしまうと紛らわしくなりますね。その時こそが小生の出番です。また、コロン教授の協力を得ることもあります。一例を示しましょう。「ランチの注文内容は次の通り営業部、中華弁当5個研究所、洋食弁当7個役員、特製松花堂弁当4個」。

コロン(:)教授  セミコロン博士が示された例とやや似た機能が私にもあります。大きな概念を伝えたのちに、具体的な代表例を示すというパターンです。「残業のある日は少なからぬ社員が夜食の手配を希望する昨夜は8人から申請があった」。

セミコロン(;)博士  文末が括弧で終わる文章が稀にあります。その時に小生がちょっと仕事します。こんな具合です。「彼女はプレゼント用にチョコレートを買った(高額のベルギー製商品)翌日、無事に彼に手渡すことができて幸せだった」。

コロン(:)教授  会話形式で話者のあとに台詞を続ける場合はたいてい私がいます。文献や証言を引用する時にも引用文の前に入ります。

T部長近くにオープンしたピザ屋のランチがおいしいらしいね。
Y主任一昨日行きましたよ。リーズナブルですしね。
T部長一昨日の今日で悪いけど、付き合ってくれよ。おごるから。
Y主任よろこんで。ピザは大好物ですからね。


【追記】 収録された元の音声はエイゴである。音声から書きおこした文章をニホンゴに訳出した。加えて、お二人の了解を得て、例文の一部をニホンゴ読者が理解しやすいように書き直している。なお、セミナーはこのあと約1時間続いた。「質問には答えない」というのが出席の条件だったので、セミナー終了直後に「ごきげんよう」と言うなり、セミコロン博士とコロン教授は謝礼も受け取らずに会場を後にした。おそらく〈文法書世界〉へ戻られたと思われる。

あるあるを詠み、歌う

昨日の『何か愉快なことないですか?』の記事で愉快なことを書くことを推奨したのに、どんなことを書けばいいのかを示さなかったのは不親切だった。話を続けておきたい。

俳句や短歌の鑑賞は好きだが、自分で創作して楽しんできたのはもっぱら五七五の川柳的な、五七五七七の狂歌的な、そして七七七五の都々逸的な「もどき」。ふざけているかぎり自己陶酔に陥らずに済むので性に合っているような気がする。駄作しかできない。だから偉そうなことは言わないが、ただ十七文字、三十一文字、二十六文字をなまくらにつなげばいいのではないだろうか。「あ、そんなことあるある、身に覚えがあるしデジャヴもある」と感じてもらえたら一行に意味あり。折を見て披露しようと思う。


🖌 叱る人が少なくなった。「ボーっといきてんじゃねーよ」と叱りつけてくれる他人は今時チコちゃんだけではないか。但し、身内になると話は別で、叱り放題。友人は叱られるのを通り越してひどい目に合った。

嫁はんに「お~いお茶」と言ってしばかれる

🖌 夜に出歩かなくなったので、楽しみは昼ごはんのみ。蕎麦やうどんの店が便利だ。

蕎麦よりもうどんがうまい蕎麦処

初入店 まかないうどん八百円の冒険をした もう二度と

🖌 メニューが豊富で好きなものを選べるのでランチタイム時の中華料理店は重宝する。余裕のソーシャルディスタンスを取っているホテルに来客と行く。

わがより隣りの芝生青く映え きみの青椒肉絲チンジャオロースがうまそう

🖌 南天満公園にて、気になっていた碑をじっくり見る。

「将棊島粗朶水制跡」文字読めずGoogleに問い合わせもできず

後日「しょうぎじまそだすいせいあと」と読むことがわかり、そこからいろいろ検索していい勉強になった。歴史や河川の勉強ではなく、国語の勉強。

🖌 慣れるとなおざりに使うのに……。

買い替えて半月ほどは腫れ物に触るようにスマホを扱う

🖌 オフィスの本棚に見つけて「この本読んだの?」と知り合い。「拾い読み程度かな」「アレントはアーレントとも言うね?」「ぼくはアーレントと覚えたので、そのほうが言いやすい」「いいこと書いている」「あまりよくわからないけど……」

アーレントよく知ってるよ 労働と仕事と活動が…どうしたんだっけ?

🖌 波が繰り返し、長引くコロナ禍。やりとりはメールばかり、見聞きするのはパッとしないニュースばかり。

また今度飲もうと言って早や二年

デルタ株オミクロン株混じり合い新たに変異のデルタクロン?

創作小劇場『言語異化学探究所』

 

 ここ・・に来るチャンスを得たのは、ジャン・エクスオー先生のコネのお陰でした。ジャン・エクスオー先生は日本語に堪能で、見た目も典型的な日本人の顔と体型なので、全然ジャンという雰囲気ではありません。ところで、ジャン・エクスオーを前後入れ替えるとエクスオー・ジャンで、香港料理に使うあの調味料「XOジャン」と同じ。たぶん仮名かペンネームなのでしょうが、「本名ですか?」とは聞きづらく、出会ってからずっとジャン・エクスオー先生と呼んで今に至っています。

 ここ・・とは「言語異化学探究所げんごいかがくたんきゅうしょ」。その名の通り、言語を探究していると聞いています。いつも見たり聞いたりしているものがある時突然異様なものに見えたり聞こえたりすることがあります。逆に、いつも変に見えたり聞こえていたりしていたものを何かの拍子で近しく感じることもあります。どちらも異化作用です。当探究所では、ものよりもことばを取り上げるようで、パンフレットにも「見慣れたことばの中に潜んでいる知られざる要素に気づき再発見しようという活動、云々」と書いてあります。

 今日は取材のために訪れました。ジャン・エクスオー先生の都合がつかなかったので、初訪問にして一人でやって来ることになりました。応対してくれたのは探究所所長代理の「1120氏」。ぼくの住んでいるマンションの部屋番号と同じ数字だったので、少し――いや、かなり――驚きました。単なる偶然だと思いなさないと、変な気持ちが尾を引きます。

 「話はジャン先生から聞いています。たいていのご質問にはお答えできますので、どうぞ遠慮なさらずに」と1120氏。ここでは探究者番号でお互いを認識し呼び合う習わしがあるとのことでした。
 この探究所設立の経緯と探究している代表的事例を聞きたいと告げました。

 「では、設立のきっかけから。ところで、アメリカの哲学者のW.V.クワインをご存知?」
 名前だけ知っているという程度なので、「ほとんど知りません」と答えました。
 「変わった人ですが、ユーモアのある人。『定義よ、汝自身を定義せよ』なんて言った人です」
 そう言って、探究所の所長がクワインからインスピレーションを得た話を語り始めたのです。

クワインは「知っている」と「できる」が交換可能なことに気づいた人です。「方法を知っている」は「できる」ということを意味します。そして、「それができる」とはとりもなおさず「それを知っている」ことでもあります。英語では「知っているけれど、できない」などとはあまり言わないのです。

 「たとえば?」と一例をお願いしました。
 「クワインは英語の知る・・できる・・・を例として挙げ、これら二つの動詞は究極的に同一の語だと断定したのですよ。書いたほうがわかりやすいですね」
 そう言って1120氏は立ち上がり、“I know how to play the piano.”“I can play the piano.”という英文を声に出しながらホワイトボードに書きました。
 「ピアノの弾き方を知っている、ピアノが弾ける。この二文はね、同じ意味なのですよ。二つの単語に注目してください」
 1120氏はknowcanの下に赤いマーカーで傍線を引いて説明を続けました。
 「ほら、knowkncancnをご覧なさい。どちらもクンという音です。元々同じことばだったのですよ」
 1120氏はこの二語の関係性には意味があると言いました。しかし、クワイン博士の最初の音「ク」と最後の音「ン」をつなぐと「クン」になるのは偶然に過ぎず、そこに意味はないと言いました。

 「二つ目の質問への答えは、当探究所設立の動機そのものです。つまり、ここでは様々なことばの音や綴りに着目して、異化作用や意味性と無意味性を探究しているのです」
 失礼ながら「うーん」とつぶやいたかもしれません。正直言ってよくわからなかったのです。ことばを継げそうもないので、再び「たとえば?」と聞くしかありませんでした。
 「あなたは英語の“walk”と日本語の歩くが関連すると思いますか?」
 うぉーく、ウォーク、walk……あるく、アルク、aruku……ひらがな、カタカナ、アルファベットがあれこれと頭に浮かびました。
 「どちらもクの音で終わりますね」
 「他に何か関係性とか、気づきませんか? 英文字の中に」
 アルファベットをいろいろと浮かべているうちに、ついに「歩く」を“alk”と表記できることに気がつきました。
 「ええー、walk“alk”が入っているではないですか!?」
 無条件反射的に声が大きくなっていました。
 「そんなに驚くことはないですよ。わたしたちは、だから英語と日本語に接点があるなどと言いません。ただ、この一致に気づいたら最後、もうwalkの中にalkを意識せざるをえなくなります。これが異化作用です」

 何が何だかわからないような、戸惑った表情をしてしまったのでしょう。1120氏は別の例を取り上げました。
 「日本語の道路はドーロと発音します。英語ではロードです。太平洋を渡っているうちにさかさまになりました。フフッ」
 カッコ笑いのような笑いでした。
 「まさか……冗談ですよね」
 「そんなバカなことはないですね。フフッ。ただのことば遊びです。わたしたちはこんなことも探究しますけどね」
 その後もこうした話が少し続いたが、約束の時間が過ぎたので失礼することにしました。

 話についていけたかどうか、自信はありませんでした。探究テーマの妥当性や意義についても半信半疑でした。しかし、「歩く」と“walk”の、いわゆる異化作用には偶然以上の何かを感じざるをえなかったのです。帰りにカフェに寄り、コーヒーとケーキのセットを注文しました。しばらく不思議な感覚に包まれていましたが、「いや、もしかするとそんな例はいくらでもあるかもしれない」と思い始めました。手帳を取り出して、思いつくまま英語の動詞を書き、それと対照になる日本語を並べていきました。飲むとdrink、見るとsee、書くとwrite、考えるとthink、払うとpay……という具合に。途中、喋るとtalkを思いついた時、alkにハッと気づきました。しかし、talkの中には喋るも話すも語るもありません。

 語尾の音が同じで、英語の中に同じ意味の日本語が内蔵されているような他の例はないかもしれない……ということはどういうことだろうか……例が一つしかないとは? 他に例が見つかるとは? どっちにしても驚くほどのことじゃないのではないか……。ぼくの頭の中で異化作用が現れ始めていました。めったにない偶然などは大した不思議ではなく、逆によくあることのほうが不思議なのではないかと。
 ところで、帰宅してからカフェのレシートを見たら、コーヒーとケーキのセットの料金は1120円でした。まあ、よくある偶然です。

創作小劇場『そば湯』

 

 〈そば切り 文目あやめ〉がかなりいいそばを打つらしいと聞いていた。近くに行く用事があれば寄ってみようと思っていた。ようやく機会に恵まれた。
 オフィス街の外れだが、住宅地の町内で時々見かける質素な店構えだ。気根が丈夫そうな鉢植えのガジュマルが置いてある。背広姿が二人出てきた。入れ替わりに暖簾をくぐる。
 そば屋は主人も店員も、たいてい藍、白、抹茶、茶、黒のいずれかの作務衣を着る。迎えてくれた初老の男は白だった。店主だと直感した。厨房は息子に任せて客応対に専念していると推理した。

 「は~い、いらっしゃいまし~。奥の方へどうぞ、奥の方へどうぞ」
 口調も空気も今は亡き
桂枝雀に似ている。茶が出た。一口啜る。そば茶だった。客に「そばアレルギーはございませんか」などと野暮は聞かない。そばアレルギーが来ることはない。だから黙ってそば茶を出す。
 「今日は何を召し上がりますか? 何がよろしいですか?」
 一見いちげんのそば屋でメニューは見ない。行きつけの店に行ってもたいてい注文は決まっている。冷ならざる、温なら天婦羅そばだ。
 「ざるそばをください。後で替えそばを」
 ちなみに、ざるそば730円。替えそば400円。

 ほどなく二八のざるが運ばれてきた。ゆるいところがまったくない麺。嚙み心地ものど越しも申し分ない。麺に合ったつゆにワサビ。一枚終わってしばらくして替えそばがきた。そば徳利の汁を器に足して薬味も加える。あっという間に平らげた。
 「こちらそば湯です」
 絶妙のタイミングだった。使い込んだ朱塗りの湯桶ゆとうが置かれる。
 「だいぶ膨らんだので、すみません、今日はパスで」
 腹あたりをさすりながら、そう言った。

 その時である。離れたテーブルに座っていた常連風の初老の男性が突然喋り出した。
 「ビタミンB1B2、葉酸、タンパク質……亜鉛、カリウム、食物繊維……ロイシン、イソロイシン、リシン、バリン、メチオニン、フェニルアラニン、スレオニン、トリプトファン、ヒスチジン等々のアミノ酸……便秘解消、食欲増進、高血圧と脚気に効能発揮……熱々の白濁そば湯、当店自慢はとろみの強いこってり系。さあ、汁に注いで召し上がれ」

 調子のよい口上に、目を丸くしてたぶんポカンと口も開いただろう。お見事だった。店主を見れば、何もかも承知した上で笑いをこらえている。そば湯をすすらない客へのいつもの啓発か。
 あっさりと促されてそば湯を飲み干す。そば湯をパスしかけた自分を恥じはしなかったが、
そば湯目当てに足繫くそば屋に通った頃を懐かしく思い出す。そうだ、そば湯をそばの「ついで」にしてはいけない。
 「ありがとうございました。またのお越しを、またのお越しを」

 次の日も、一週間後も暖簾をくぐった。

エスプレッソ?(マジで?)

コーヒーが当たり前の嗜好品になって久しいのに、「ある種のコーヒー」だけがまだ蚊帳の外。それは、「急行」という名のコーヒー、エスプレッソだ。


シーン1: 友にウンチク

「またエスプレッソ?」
「また、と言われるほど飲んでない。エスプレッソのマシンが見えて、いかにもエスプレッソを売りにしているような店では注文するけどね」
「エスプレッソってイタリア語だったよね?」
「うん、急行という意味の」
「なんで急行?」
「注文してすぐに出てくるから。それに、出てきたら砂糖をたっぷり入れてかき混ぜ、これまた一気に飲むから。注文から飲み干すまであっと言う間。だから急行」
「本場にはぼくたちがよく飲む、例のホットコーヒーもある?」
「あるよ。カッフェ・アメリカーノ」
「いわゆるアメリカンというやつ?」
「いや、ベースはエスプレッソなんだ。ほとんどのバールではそれを湯で薄める」
「ゆ、湯で!?」
「そう」
「ところで、いまカッフェって言ったよね。エスプレッソとカッフェは違うもの?」
「同じものさ。そもそも、バールに入ってエスプレッソを注文する時、誰もエスプレッソなんて言わない。カッフェと言えばエスプレッソのこと。エスプレッソが苦手な日本人が、普通のホットコーヒーのつもりでカッフェを頼むと、エスプレッソが出てくる」
「イタリア料理店でエスプレッソを飲む場面は稀に見るけど、一緒に喫茶店に入って、エスプレッソを注文した知り合いはきみが最初だ。そしてたぶん、これからもきみだけ」
「コーヒーと言えばエスプレッソを意味するイタリア、コーヒーと言えば絶対にエスプレッソを意味しない日本。おもしろいね」


シーン2: 使用上の注意

「エスプレッソください」
「はい?」
「エスプレッソのシングル」
「お客様、エスプレッソは苦いコーヒーですが、よろしかったでしょうか?」
「はい」
「ごく少量になりますが……」
「知っています。シングルで」
「シングルですとこちらの小さなサイズのカップになりますが、よろしかったでしょうか?」
「それで結構」
「砂糖とミルクはご入用ですか?」
「砂糖だけでいいです」
(しばらくして)
「お客様、こちらエスプレッソのシングルになります」


シーン3: ほんとにいいんですか?

「エスプレッソください」
「えっ? お客さん、いま何て言いました?」
「エスプレッソ」
「エスプレッソ? ほんとに? この店始まって以来の初注文!」
「驚かれても……。だってメニューにあるんだから」
「ええ、マシンがあるので一応書いてはありますがね。ほんとにいいんですかあ? ほら、こんな小さなカップですよ。それにとびきり苦い」
「わかって注文してる。ダブルで」
「ダ、ダブル!? シングルじゃなくて?」
「エスプレッソのダブル」
「お客さん、もう一度確認しますね。いま注文されているのはエスプレッソのダブル。よろしいでしょうか?」
「それでよろしく」
「最終確認です。小さなカップに少量、それで450円。よろしいですね。後悔しても責任は負えませんので。(別のスタッフに)エスプレッソダブル入りました。マジで!」

一行詩と一文詩

ネット検索で「一行詩いちぎょうし」は出てくると思っていたが、一文詩いちぶんし」もヒットしたのは想定外だった。こういう命名は誰もが思いつくものなのか。但し、いずれも詳しく書かれていない。つまり、詩の形式としてはまだまだ一般的ではなさそうである。ちなみに、「一句詩」と「一語詩」は出てこなかった。出てこなくても、そのように名付けて詩作するのは人の勝手だ。

文字数にとらわれて書くと難度が高まる。文字数の制限から解放されると、長短どっちに転んでも意のままなので書きやすくなる。書いた文がいくつかの行にわたり、ほどよく調子が整うとその体裁を一応「詩」と呼んでもいい。定型詩でなくても、五七五でも五七五七七でなくてもいい。一行でも一文でもかまわない。

一文すなわち一行とは限らない。長い一文は縦書きでも横書きでも、紙面サイズの制限を受けるから、必然強制改行して行は複数になる。一行に収めるならまずは文字数を減らさねばならない。さもなければ極端に小さな字にして無理やり一行にしてしまうかだ。

種田山頭火がこんなふうに考えたとは思えないが、定型にこだわらない自由な一行詩、一文詩には俳句のようで俳句でなさそうな、俳句でなさそうで俳句のような魅力がある。

窓あけて窓いつぱいの春

さすがだと思う。春が来ているし、ガラス越しでないことがわかる。


若い頃、俳句に川柳、短歌に詩と一応いろいろやってみたが、文字に制限があるので見たこと感じたことを削るか象徴することになる。それが楽しみの一つであり、それだからこそ言外の意味も生まれ余韻も残るのだが、文字数を合わせるのに意識過剰になるとストレスがたまる。気がついたら下手な自由詩ばかり作っていた。それも二十代半ばでばったりやめた。ちなみに、アルチュール・ランボーが二十歳で詩作をやめたのとは関係ない。

その後コピーライターの仕事のチャンスがあり、俳句や短歌ほどではないが、いくぶん字数を気にしたり調子を考えたりしながら作った。一行や一文のキャッチコピーを作った経験は、巧拙はさておき、書くことに生かせているような気がする。シンプルな広告のキャッチコピーは一行詩であり一文詩であり、鑑賞価値が高いものもある。

「なにも足さない、なにも引かない。」(サントリー)

「おーいお茶」(伊藤園)

「でっかいどお。北海道」(全日空)

「そうだ 京都、行こう。」(JR東海)

三つ目は眞木準の代表作。眞木準の作品集を座右の書にしていた時期がある。ところで、『新明解』では詩を「自然・人情の美しさ、人生の哀歌などを語りかけるように、また社会への憤りを訴えるべく、あるいはまた、幻想の世界を具現するかのように、選びぬかれた言葉を連ねて表現された作品」としているがちょっとハードルが高く、料簡が狭いのではないか。

今年に入ってから読んだ本に、見たことも聞いたこともない「筐底きょうていに深く秘する」というくだりが出てきた。語感から詩を感じた。「人目に触れないように箱の底深くにしまっておく」という意味らしい。以前、芥川龍之介の小説の中の一文、「その瞬間彼の眼には、この夕闇に咲いた枝垂桜が、それほど無気味に見えたのだった」にも詩情を覚えたことがある。なぜだかわからないが、波長が合ったと言うほかない。

最後に、拙作の「一{行 文 句 語}詩」をいくつか。

手に負えぬ書物を書棚に隔離する儀式を執りおこなう

大手門の巨石に花が影を落としている、肌寒い

裏窓から未来の時間を刻む音が時々聞こえてくる

朝にため息はつかない、夜のために取っておく

「落書」をエアゾールで消す、一件「落着」

「あ、こんな時間」 日時計の時刻を見て約束場所へ急ぐ

都会の隙間に目を凝らす、耳を傾ける、言葉を紡ぐ

腹八分目の生き方

謹賀新年。いつも拙い文章をご笑覧いただきありがとうございます。本年もよろしくお付き合いのほどお願い申し上げます。


「う~ん、ちょっと物足りないなあ。もう少し欲しいが、いや、う~ん、やっぱりここらでめておくか……」

長年、出張先の朝食はほぼビュッフェスタイル。食べられるだけ食べていた。時には、その貪りようを卑しいと思うことさえあった。一年前の34日の出張では満腹前に席を立つようにした。言うまでもなく、腹いっぱいよりは軽快に朝を過ごすことができた。

「腹八分目」とは食べることについて言っているのだが、食べること以外の生活上、人生上の諸々の比喩でもある。つまり、貪るな、分をわきまえよと促し、過剰よりも「やや不足」のほうをすすめる。欲望と抑制のバランスを上手に取るのは容易ではない。

何を嗜むにしても程々がよいのは承知している。たった一回でも度を過ぎてしまうと、そのツケをしばらく払い続けることになる。かと言って、何もなければどうしようもないから、必要なものは求めようとするし、ついでに欲するもの望むものも手に入れたくなる。「不要不急」? たしかに。人生の大半はそういうものだろう。

去る二日に書き初めをしようと思い、納戸から道具を取り出したが、半紙だけがない。次の日に近くのモールの文具売場で買い求めた。さて、半紙は必要だったのか否か。なければないで、書き初めを諦めれば済む。しかし、何もかも不要不急で片づけてしまうと、文化は消え、人生は殺伐となる。極端はいけない。腹八分目といういいことばがあるではないか。と言うわけで、少し遅くなったが、今年の初硯は「人生腹八分目」とした。

複文のことば遊び

ウンベルト・エーコの『ヌメロ・ゼロ』に、ありきたりな言い方の反対を考えるシーンが出てくる。登場人物の一人が言う、「(……)礼節を知って衣食足りる、ぼけているが歳をとっていない(……)」。ありきたりな言い方だと「衣食足りて礼節を知る」であり、「歳をとったのでぼけている」である。

前件の単文と後件の単文から成る文章を〈複文〉という。複文の前件と後件を逆にした上で、肯定を否定に(あるいは否定を肯定に)してことばを遊ぶと、別のありきたりな文章になることもあるが、ありきたりでない偶然の文意が生まれることもある。可笑しさの判断は人それぞれ。

🔄

「歳はとったが、まだボケていないぞ」
「ボケてはいるが、歳はとっていないぞ」

「かなり飲んだが、まだ酔っていない」
「すでに酔っているが、まだ飲んでいない」

「滑る気はあったが、滑り台には上がらなかった」
「滑り台に上がったが、滑る気はなかった」

「今なら90パーセントOFFなので、大変お買い得です」
「かなりお買い損なのは、90パーセントONだから」

「前菜をお召し上がりになるまでは、メイン料理をお出ししません」
「メイン料理をお出ししますが、前菜をお召し上がりにならないように」

「間違って書いた場合も、消しゴムは使わないでください」
「消しゴムを使う場合も、間違わないように書いてください」

「劇場内にいる間は、ポップコーンを食べてもよい」
「ポップコーンを食べないなら、劇場から出て行ってくれ」

「本場の英国ほどではないが、わが国にもシェークスピア研究者は多い」
「わが国にはシェークスピア研究者が少ないが、本場の英国以上いる」

「善人であり、元政治家でもある」
⇒ 「現役の政治家であり、悪人である」