嘘か真か、真か嘘か

『夢中問答』第五十七に次のくだりがある。

「山水をこのむは定めて悪事ともいふべからず、定めて善事とも申しがたし。山水には得失なし、得失は人の心にあり」

悪事も善事もこちら側の感じ方次第。幸も不幸も対象の内にはなく、ただ己の幸不幸感があるのみ。ならば、嘘とまこともこちら側の判断に委ねられるのではないか。

『吾輩ハ猫デアル』は、元々『いいえ。実は吾輩は猫です』だったという説がある。吾輩、、とはずいぶん古風だが、時代が明治という理由だけではなかった。最初に「貴殿、、は犬ですか」と聞かれたのだから、初等英語のやりとりに従えば、そう応答するのもやむをえなかった。しかも、聞かれた方に犬という意識がまったくなかったので、正直に「いいえ」と答えた。初等英語の規則などどうでもいいではないかというのは素人考えだ。漱石が英語の教師だったことを思い起こさねばならない。

さて、「いいえ」と答えたものの、すぐにぶっきらぼうな返事だと気づき、身を明かすことにした。ゆえに、「いいえ」の後に「実は吾輩は猫です」と付け加えたのである。あの名作は最初の原稿の段階では、問いに対する素直な返事、『いいえ。実は吾輩は猫です』が題名だったらしい。

奇妙な題名であるが、それにもまして不親切ではないかと不安になった。前段の問いを含めないと読者には何のことかさっぱりわからないではないか。と言うわけで、『貴殿は犬ですか。いいえ、吾輩は猫です』と書き直した。「じっくりコトコト煮込んだスープ」よりも字数が多い。

編集者が助言した。「ですます、、、、ではぬるいので、である、、、にしてはどうか。しかも、問いと答えの形式にこだわる必要もなさそう。ついでに、思い切って短くし、ひらがなをカタカナにしてみたい」。と言うわけで、『吾輩ハ猫デアル』になった。あまりよく知られていないエピソードだ。

この作品には未完で未発表の続編があったとも言われている。『イカニモ貴殿ハ犬デハナイ』がそれだ。これもあまり巷間で取りざたされなかったエピソードである。

エピソードというものは嘘であれ真であれ、名立たる名作に付加され増幅される。どうやら嘘っぽいというのが直感だが、しかし、もしかして真ではないかと思うほうが愉快である。そんな嘘の話が世の中では蔓延はびこりやすい。

うなずき

 「とにかく彼は首を横に振らず、タテに振る。つまり、いつもうなずくのだよ」

 「それは聞き上手の人の特徴だね」

 「ところが、聞いているかどうかはわからない。『聞かない上手』かもしれない。見ざる・言わざるとセットになった聞かざるみたいな……」

「見もしない、言いもしない、聞きもしない?」

 「見る・言う・聞くが3点セットだから、見ない・言わない・聞かないも3点セット」

■ 「聞き上手ではなく、うなずき上手というわけか……」

■ 「うなずくからと言って、イエスとは限らないんだな。英語に“Yes-disagreement”という表現がある。異存はあるけれど、口先ではイエスと言っておくこと。まあ、ある種のうなずく振りだね」

 「振りができるのはなかなかの業師わざしだな」

 「ある意味でしたたかだね。人の話を聞かずにうなずくなんてかなり大胆さ。ぼくにはそんなマネはできない」

 「うなずく振りをしながら、何も言わないわけ?」

■ 「ぼくが『あのね』と話しかけた瞬間、首がちぎれるのではないかと思うくらいうなずき始める。ずっと黙っているわけではなく、時々合いの手を入れるんだ」

 「どんな合いの手?」

■ 「『うんうん、そうそう』が多い。とどめは『はいはい』。はいじゃなくて、はいはい。はいを重ねるから化けの皮が剥がれる。そこまで面倒くさいこと言わなくてもわかってますよ、という意味だからね」

 「ホンネは他人と交わりたくないのだけれど、処世術的にはやむをえない。その種の人たちならではの知恵だな。実際、使ってみると便利だもの」

 「おいおい」

都会から「まち」へ

(……………………)

都会の断片のほとんどが意味を失ってしまったかのようだ。
都会は意味を示さないまま生き長らえていくつもりのようだ。

断片を必死に繋いでも全貌を現わす気配はない。ぼくは苛立つ。
苛立ちに呼応して、都会も焦燥感を募らせながら鈍い輝きを放つ。

今住むこの都会とどのように折り合えばいいのか、ずっと考えてきた。
折り合えばその正体がうまく暴けるのだろうか、ずっと自問してきた。

いったいどうすれば都会を知ることができるのか。
アスファルトを引き剥がせばその姿は見えるのか。

人工的な覆いの下に眠る土はもはやかつての土ではない。
空気に触れても土が懐かしい匂いを放つことは決してない。

ブラタモリのように地形を現場で検証しながら歩いてみるべきか。
ピースを組み合わせたら都会のジグゾーバズルは完成するのか。

歩くだけならいつも数千歩や一万歩は歩いているのだ。
そぞろ歩きしながら見えざるものを見ようとしているのだ。

(……………………)

ある日、雑居地帯のように扱ってきた都会を「まち」と呼び変えることにした。
その日から、都会は手招きするように親しげな表情を浮かべるようになった。

「ふわっ」

昨日からいろいろ考えていたが、初硯にこれという漢字が見つからなかった。朝から奈良に出掛けて、興福寺、春日大社、東大寺を廻ってきたので何かありそうなものだが、まったく思い浮かばない。小学生のように「春日大社」と書き初めする手もあるが、大社に筆を揮(ふる)うほどの思い入れがない。今日もあまりの人の多さに途中で引き返したほどだから。

書き初めに代えて彫り初めすることにした。消しゴムに「ふわっ」を彫った。「ふわっと」ではなく「ふわっ」。「ふわっと」だと「何が?」と問われそう。いったい何が浮かんだのだ、何がやわらかく膨らんできたのだと聞かれても困る。具体的な何かをイメージしたのではなく、ただ「ふわっ」。何となくの「ふわっ」なのである。

しかし、そんな「ふわっ」がありえるのか? たぶんありえない。敢えて言えば、気分や場面や人の性格のことになるのだろうか。なごませるような雰囲気、気持のよさ、温かいさま……。それなら「ほんわか」でもよさそうだ。いや、辞書に載っていない「ふわっ」のほうが面白味がある、と判断した次第。

「ふわっ」が苦手な性分である。意識すると、力が入って「ふわっ!!」になる。無理している感が漂う。「ふわっ」な感じの生き方をしている人が羨ましい。いい感じに生きているなあと思う。「ふう」と息を吐いて、少しでも「ふわっ」に近づけるようになりたいものだ。

ジョークの作法

ジョークでウケるコツは書き尽くせない。仮に列挙できるにしても、頭で理解したコツが場に及んでのワザになるのはごく稀である。PDCAサイクルを回すようにはいかないのだ。

ジョークはユーモアを醸し出す。ユーモアの語源は「体液」である。聞いてくれる人たちの体液のめぐりをよくしてあげれば笑いが取れる。医術やリンパマッサージによるのではなく、これをことばでやらねばならないのだから、コツを指南するのも容易でない。

しかし、作法なら書き出せる。ジョークの披露のしかたや聴き方には心得ておくべきことがいくつかある。

1.最初にジョークのテーマを告げてはいけない。
「ハンバーガーショップで働くフリーターにまつわるジョークなんだけど……」。こう言う人が結構いる。ジョークの命は意外性。前置きは野暮である。

2.自分で笑ってはいけない。
起承転結の転や結に差し掛かると、他人よりも先に吹き出してしまう人がいる。これをやってしまうと、オチの効果が半減する。笑うのもよくないが、途中で解説したり注釈を入れたりするのも避けるべきだ。

3.さほどおもしろくないジョークでもウケた振りをする。
これはなかなか難しいが、「振り」は人間関係万般に通じる作法だ。テレビの「人志松本のすべらない話」も半数以上すべっているのだが、芸人仲間の聞き手は上手に振る舞う。おもしろがっておけば、立場が変わった時にお返しがある。

4.すでに知っているジョークでも初耳のように聞く。
創作でないかぎり、ジョークはジョーク集や他人から仕入れている。すでに知っているジョークがあって当然。たとえ自分の十八番ネタであっても、知らん顔して辛抱強く聞かねばならない。

☆     ☆     ☆

とあるパーティー会場の一隅で雑談が熱を帯びている。ジョークを披露しようと誰かが喋り始めた。まだ話の入り口だと言うのに、「あ、そのジョーク、知ってるよ」と一人の若者が口を挟んだ。案の定、ジョークは不発に終わる。こんなことが何度か続いて、場がしらけかけていた。この光景を見かねて、傍らにいた初老の男性が若者に声を掛け、離れたバーカウンターに誘った。

「きみはお若いのによくジョークをご存じで感心していた。けれども、他人のジョークは黙って聞くものだ。たとえ知っているジョークでも、初耳のように装って最後のオチまできちんと聞く。それが礼儀作法だよ」。若者は素直に忠告を聞き入れ、感謝のことばを告げて仲間の輪に戻った。

ほどなく輪の中の男性が「とっておきのジョークがあるんだ」と言って話し始めた。若者は時々うなずきながら最後まで聞き届け、反応よくみんなと一緒に笑った。笑いがおさまった頃、ジョークを披露した男性に若者は言った、「いやあ、三度目の初耳だったけど、おもしろいジョークだったよ」。

☆     ☆     ☆

不思議だが、どんなジョークも欧米っぽい匂いがする。日本での場面を想像しづらい。ジョークを披露し合うという文化がこの国ではまだ成熟していないからだろう。したがって、残念ではあるが、ぼくのジョークの作法にもあまり出番はないように思われる。

線描の時間

テーマはなく何本かの線だけを引き純正のラインアートだと自画自賛

わからない何時間も読み込んだのにサクサクわかる本がわからない

風物詩はほとんど消え去りかろうじて餅つき機のみ風習を継ぐ

「なるほど」が共感ではなくてただの癖だと見破った時の空気が微妙

ガイジンを昭和なと形容したらそれはトランプのことだろうと誰かが言った

筆を持ち林檎を一つ持ち合わせても林檎筆にはならぬ不条理

要するに形の中でほんとうに ノイズが踊る彼の感想

文字がなくもちろん本も書店もなくライブ伝誦していた時代

書くことは語ることより考える自分を表わす油断禁物

表象は浮かんでいるが午後のカフェは言葉を封じ苦吟を強いる

図書獨娯

元旦に参拝した神社の裏門の手前に献梅碑がある。王仁わに博士が梅花に和歌を添えて仁徳天皇に奉ったエピソードにちなむ。

難波津に咲くやこの花冬ごもり今は春べと咲くやこの花

王仁博士はわが国に『論語』と『千字文』を伝えた人物として知られる。『論語』は知の原典として、『千字文』は書のお手本として、古来知識人の教養に大いに与った。彼らがどのように読書に親しんだのかは想像しづらいが、津野海太郎の近著によれば、読書は個人的な行為であり、それゆえに「本はひとりで黙って読む。自発的に、たいていはじぶんの部屋で……」ということになる。この仮説に基づいて、日本人と本の読み方の歴史が探られる(『読書と日本人』)。

《書評輪講カフェ》という読書会を主宰して久しいが、本の読み方については自分自身がまだ試行錯誤を重ねている。故事成句の「読書三到」は、声に出して読む「口到」、よく目を開いて見る「眼到」、心を集中して理解する「心到」の三つを指す。今風に言えば、音読、黙読、熟読ということになるだろうか。では、なぜ本を読むのか。「読書万巻を破る」は大量に本を読破せよと教えるが、十を知って一を語ることを奨励している。人は一しか知らないのに十を語ろうと見栄を張るものだ。それを戒めている。一冊だけ読んで十冊読んだような振りをするぼくなどはまだまだ二流の読書人である。

☆     ☆     ☆

それでも、自分で読みたい本を選び、万巻からは程遠いが、独りでこつこつと読む。最近はこの傾向がますます強くなった。身近な人と交わって骨のある話を語るという機会がずいぶん減ったのが理由の一つ。たまに会っても同じ話題ではつまらないし、この歳になってもまだ現役で仕事をしているから、どうでもいいような話に時間を割くのが惜しい。だから本を読む。遠い時代の賢人の思想やことばに触れていれば、落胆させられることはあまりない。これがいわゆる「読書尚友」の意義である。

あまりなじみのない「図書獨娯」を書き初めの文字に選んだ。「としょひとりたのしむ」と読み下す。この熟語が生まれた頃の図書とは書画のことである。詩文やそれをしたためた書、墨絵などは独りで鑑賞して楽しむのがいいという意味だ。広く解釈して読書を含めてもいいだろう。本を読んだり美術を鑑賞したりするのは、個人的な体験であり、集団でおこなうよりも娯楽価値が高いと思われる。作品には独りで向き合うのがいい。

初硯は愚直に一回勝負を貫く。書き損じがあっても書き直しはしないことにしている。ああ、線が細かったか、バランスに少々難があるかなど、毎年筆を置いてから顧みる。ともあれ、独りとはもとより孤独のことではない。邪魔が入らないというのは至福の歓びなのである。

休日の倦怠と幸福

早朝の喧騒はムクドリ、姿は見えない。

鈍角な陽射しに流れ込むバロック音楽。

挽きたてのタンザニア珈琲、甘く香る。

異様なほど尖がっている短編小説の書評。

     ~~~

文字盤の秒針、せわしなく上滑りしている。

遠近法的に立ち並ぶ散歩道の電信柱。

じっと握られたままの萬年筆、文を綴らない。

大きな溜め息とあくびのような深呼吸。

%e5%80%a6%e6%80%a0%e3%81%a8%e5%b9%b8%e7%a6%8f

Katsushi Okano
Holiday’s ennui and happiness
2016

Pastel and ink

蟻かぞえの詩(うた)

人は蟻の集団や隊列を見ると何匹いるのかかぞえたがる。
人は一生のうちに少なくとも一度は蟻をかぞえるらしいのだ。
“蟻は健気な存在であり、その蟻をかぞえる人間もまた健気である”
“蟻は不憫な存在であり、その蟻をかぞえる人間もまた不憫である”

ところで、「“”」は二重引用符だ。
二重引用符を並べたら何に見える?
“”“”“”“”“”“”“”“”“”“”“”“”“”“”“”“”“”“”“”“”“”
「蟻」の話をしたから、蟻の隊列に見えてしまうだろう。

大型のガラス瓶に土を入れて蟻を飼ったことがあるかい?
ぼくはある。毎日毎日飽きずに観察したものだ。
先日、公園のベンチに腰かけていた。蟻の隊列が見えた。
ミミズの死骸を穴の中に運んでいるのだった。

上田敏が訳したレミ・ドゥ・グルモンの詩篇、『髪』の一節。

柊(ひいらぎ)の匂、苔の匂、
垣根の下に實(み)が割れた朽葉色(くちばいろ)の
萎(しお)れた雑草の匂がする。

次の節あたりに蟻が出てきそうな予感がしないかい?
けれども、蟻の出番はなく、ただ匂いの描写ばかりが続く。
数行先に視線を飛ばしてみる。

蜜蜂の匂もする。牧の草原(くさはら)に
さまよふ生物(いきもの)の匂がする。

蜜蜂が出てきたら、草原にさまよう生き物は蟻だ。
しかし、いよいよ出てくるだろうという期待は裏切られ、
この後に四行だけが紡がれて詩は容赦なく終わる。
ついに、この詩に蟻は登場しなかった。

ルナールは「蟻が“3”に似ている、うようよいる」と言った。
おびただしい数の蟻を“333333333333333……”と表現した。
蟻が3に似ていると思えるかい? とめどなく並ぶ3に。
“”“”“”“”“”“”“”“”“”“”“ と 333333333333333、どっちが蟻に見える?

 

%e8%9f%bb%ef%bc%92蟻かぞえの詩(うた)

ありありありありありありありありありありありありあり
あり あり あり あり あり あり あり あり あり あり あり
あり、あり、あり、あり、あり、あり、あり、あり、あり、
あり、あり、あ、あ、あり、あ、あ……
あり、うごくな!

シミュラークル

シミュラークル(simulacre)は一応フランス語とされている。手元にある白水社の『ラルース仏和辞典』には載っていない。模倣、摸造、虚像のことだ。「コピー」と呼んでおく。

コピーは何かを真似たはずなので、《オリジナルなきコピー》はありえない。しかし、コピーのコピーのコピーのコピー……を繰り返しているうちに、元を辿れなくなるかもしれない。例の伝言ゲームの最終メッセンジャーの片言にオリジナルの微塵も残っていないのはよくあることだ。

美川憲一のマネをするコロッケ。そのコロッケのマネをする匿名x、そのxのマネをする匿名y……yがマネしているのはいったい誰か? 美川やコロッケでないような気がする。本物に似ているからコピーだとわかるのだ。コピーはリアリティに依存する。本物がさっぱりわからなければ、リアリティが失われ、コピーの価値は消滅する。

ぼくらが厚かましく知性と呼ぶ本質も、直接経験に根ざす類を除けば、シミュラークル知識群で構成されている。ぼくが知人から聞いた話をAに伝えたところ、後日AはBにあたかもオリジナルのように話した。別の機会にぼくがBに同じ話をしたら、Bが「Aのネタをパクリましたね」とぼくに言った。コピーは一方通行のみならず、可逆したり循環したりする。

もはやオリジナルと照合できないほど劣化したコピーのコピーのコピーに成り下がるよりは、限りなく本物に近いコピーでありたいと思う。産地直送のシミュラークルである。

《着想》と題した抽象画を描いたことがある。何かからインスピレーションを得たはずだが、その何かが写真だったか文章の一節だったか覚えていない。シミュラークルのようで、シミュラークルとも断定できず、宙ぶらりんが気持悪い。と言うわけで、画像処理をしてみた。ぼくが描いた作品のコピーが誕生した。ほっとしている。

concepimento di un'idea 5724Katsushi Okano
Concepimento di un’idea (着想)
2005

Color pencils, crayon, pastel (part of image digitally processed)