複文のことば遊び

ウンベルト・エーコの『ヌメロ・ゼロ』に、ありきたりな言い方の反対を考えるシーンが出てくる。登場人物の一人が言う、「(……)礼節を知って衣食足りる、ぼけているが歳をとっていない(……)」。ありきたりな言い方だと「衣食足りて礼節を知る」であり、「歳をとったのでぼけている」である。

前件の単文と後件の単文から成る文章を〈複文〉という。複文の前件と後件を逆にした上で、肯定を否定に(あるいは否定を肯定に)してことばを遊ぶと、別のありきたりな文章になることもあるが、ありきたりでない偶然の文意が生まれることもある。可笑しさの判断は人それぞれ。

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「歳はとったが、まだボケていないぞ」
「ボケてはいるが、歳はとっていないぞ」

「かなり飲んだが、まだ酔っていない」
「すでに酔っているが、まだ飲んでいない」

「滑る気はあったが、滑り台には上がらなかった」
「滑り台に上がったが、滑る気はなかった」

「今なら90パーセントOFFなので、大変お買い得です」
「かなりお買い損なのは、90パーセントONだから」

「前菜をお召し上がりになるまでは、メイン料理をお出ししません」
「メイン料理をお出ししますが、前菜をお召し上がりにならないように」

「間違って書いた場合も、消しゴムは使わないでください」
「消しゴムを使う場合も、間違わないように書いてください」

「劇場内にいる間は、ポップコーンを食べてもよい」
「ポップコーンを食べないなら、劇場から出て行ってくれ」

「本場の英国ほどではないが、わが国にもシェークスピア研究者は多い」
「わが国にはシェークスピア研究者が少ないが、本場の英国以上いる」

「善人であり、元政治家でもある」
⇒ 「現役の政治家であり、悪人である」

愉快な文房具

『ないもの、あります』という本がある(クラフト・エヴィング商會)。聞いたり読んだりしたことはあるが、実際に見たことのないものがラインアップされている。左うちわ、転ばぬ先の杖、思う壺、一本槍……という具合。在庫があるなら、プレゼント用に一つ手に入れてみたくなる品々だ。

贈って喜ばれるような新種のプレゼントを文房具に求めたことがあるが、思いのほか発案に苦労した。まじめに書くならいくらでも書けるが、ユーモアを込めてことば遊びするには文房具は案外種類が少なく、すぐにネタ切れを起こしてしまった。未完の『愉快な文房具』のメモの一部をアイウエオ順に紹介しよう。

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エンピツけず筆箱ふでばこ  筆箱の蓋を開けると端に削り器が付いている。よくエンピツ書きした夜に数本まとめて筆箱に入れておくと、翌朝ピンピンに尖らせてくれる。

しいピン  押しピンの一種。安全性を考慮してピンを短くしたため、壁に貼った紙がすぐに落ちてしまう短所がある。ピンも同時に落ちるが、ピンが短いので靴さえ履いていれば踏んづけても足裏まで届かない。なるほど安全である。

めるクリップ  いわゆるリマインダー。忘れないようにと手帳に書いても、手帳を開けなければ意味がない。手のひらを備忘録に使うのは格好悪い。と言うわけで、マーカーで書き込めるホワイトボード仕様のクリップが生まれた。さて、このクリップ、どこに着ければ気づきやすいか? それが一つの課題になっている。

十数年筆じゅうすうねんひつ  万年筆は万年使えない。詐称ではないのかという声もちらほら聞かれる。数年筆なら誠実であるが、「数年は短すぎる」という批判があり、十数年筆と言い換えようということになった。しかし、人によっては数十年使うから、数十年筆という代案も出ている。

罪消つみけしゴム  小さい消しゴムなので、大罪を消してなかったことにはできない。「飲み会の約束を破った」とか「仮病で仕事を休んだ」とか「グラスを洗わずに客に出してしまった」などの、ちょっとした罪悪感もしくは気まずさ向き。罪の名を書いて消すだけで懺悔効果があるらしい。

ゴム  「わごむ」と読んでもいいが、輪ゴムとの違いが出ないので「なごむ」と読ませる。対象を単に束ねるだけではなく、しっかりとなごませ、必要に応じてえてくれる。

のりのり  糊はうすく平らに伸ばせば貼り合わせやすいが、テクニック不足の子どもにとっては扱いにくい。そんなことを気にせずに「盛れる」のがこれ。好きなだけ楽しくノリノリに使えば、勝手にうすく平らにまんべんなく広がってくれる。

ハイバインダー  ファイルとバインダーの複合機能を持つ「ホウルダー」。どんどん放り込めばいくらで入り、通常の倍以上綴じることができる。

風船紙ふうせんし  本に貼り付けたポストイットや付箋紙ふせんしが増えてくると、何のために貼ったのかが分かりづらくなり、また気になって貼ったにもかかわらず、情報が探しづらくなる。付箋紙の数は少なければ少ないほど参照しやすい。そこで、ここぞと言う時だけに使う付箋紙の登場。名付けて「ふうせんし」。貼るとページとページの間で小さく膨らむ。重要箇所が見つけやすく、ページがめくりやすい。但し、本を強く閉じると割れるので取り扱い注意。

ペンヒツ  筆ペンではなく、エンピツの一種である。筆ペンは使いやすいなどと言うが、実際の毛筆書きが下手なら筆ペンも下手と相場が決まっている。ペン筆はエンピツと同じように使うだけで、万年筆で書いたような筆跡を再現してくれる。

嘘か真か、真か嘘か

『夢中問答』第五十七に次のくだりがある。

「山水をこのむは定めて悪事ともいふべからず、定めて善事とも申しがたし。山水には得失なし、得失は人の心にあり」

悪事も善事もこちら側の感じ方次第。幸も不幸も対象の内にはなく、ただ己の幸不幸感があるのみ。ならば、嘘とまこともこちら側の判断に委ねられるのではないか。

『吾輩ハ猫デアル』は、元々『いいえ。実は吾輩は猫です』だったという説がある。吾輩、、とはずいぶん古風だが、時代が明治という理由だけではなかった。最初に「貴殿、、は犬ですか」と聞かれたのだから、初等英語のやりとりに従えば、そう応答するのもやむをえなかった。しかも、聞かれた方に犬という意識がまったくなかったので、正直に「いいえ」と答えた。初等英語の規則などどうでもいいではないかというのは素人考えだ。漱石が英語の教師だったことを思い起こさねばならない。

さて、「いいえ」と答えたものの、すぐにぶっきらぼうな返事だと気づき、身を明かすことにした。ゆえに、「いいえ」の後に「実は吾輩は猫です」と付け加えたのである。あの名作は最初の原稿の段階では、問いに対する素直な返事、『いいえ。実は吾輩は猫です』が題名だったらしい。

奇妙な題名であるが、それにもまして不親切ではないかと不安になった。前段の問いを含めないと読者には何のことかさっぱりわからないではないか。と言うわけで、『貴殿は犬ですか。いいえ、吾輩は猫です』と書き直した。「じっくりコトコト煮込んだスープ」よりも字数が多い。

編集者が助言した。「ですます、、、、ではぬるいので、である、、、にしてはどうか。しかも、問いと答えの形式にこだわる必要もなさそう。ついでに、思い切って短くし、ひらがなをカタカナにしてみたい」。と言うわけで、『吾輩ハ猫デアル』になった。あまりよく知られていないエピソードだ。

この作品には未完で未発表の続編があったとも言われている。『イカニモ貴殿ハ犬デハナイ』がそれだ。これもあまり巷間で取りざたされなかったエピソードである。

エピソードというものは嘘であれ真であれ、名立たる名作に付加され増幅される。どうやら嘘っぽいというのが直感だが、しかし、もしかして真ではないかと思うほうが愉快である。そんな嘘の話が世の中では蔓延はびこりやすい。

時間のこと

ある日突然やってくる。時間のことを考える時間が……。たとえば、時計の針で表わされる時間を過剰に意識した一週間の後の休日に、時計の文字盤で刻まれる時間とは別の抽象的な時間のことを考えることがある。秒針の音が聞こえない、概念的な時間。

「時間が過ぎた」という表現は半時間や一時間にも使えるし、長い歳月を暗示することもできる。先のことを考えるなどと言って、一ヵ月や一年先の話を持ち出すが、そんな時間スパンで物事を考えることはめったにない。したいと願っても、自分の身の丈の先見性では所詮無理である。

一日はあっと言う間に過ぎる。一ヵ月は長すぎる。と言うわけで、一週間が時間の分節としてポピュラーになる。週単位の時間サイクル思考をしている自分に気づく。一度水曜日始まりのカレンダーを自作したことがある。若干発想の転換を図ることができたが、不便このうえなく、すぐにやめた。


カレンダーは日曜日始まりか月曜日始まりと相場が決まっている。始まりが必ずしも重要な曜日とは限らない。

長年親しんできた休息の日曜日。ぼくにとってそれは始まりではなく、週という時間の中心概念。そのイメージを図案化して印を彫ったことがある。太陽系と時計の文字盤の合体。名付けて「週時計」。

よく「時間待ち」などと言う。実際に待っているのは時間ではなく、別の何か。何かのためにやり過ごさねばならない時間。時計を乱暴に扱えば潰せるが、時間を潰すのは難しい。時間は無為に過ごすか、うまく生かすかのどちらかであり、反省したり満足したりの繰り返し。

時間は不思議である。時間のことを考えると余計に不思議になる。やがて面倒臭くなって考えるのをやめる。しかし、時間のことを考える時間は、忘れた頃にふいにやってくる。

冬陽獨言

冬陽獨言ふゆびどくげん」。こんな四字熟語はないが、今日の昼下がりにはぴったりだ。南から射す光が窓越しに熱に変わる。今にも陽炎がゆらゆらと立ち上がりそうな気配。暖房を切る。脳裏をよぎっては消える内言語ないげんごを搦め取って獨言にしてみた。

あの日の古めかしい喫茶店。珈琲が出てくるのがやや遅く、時間は間延びしていた。自分で淹れた今日の珈琲はすぐに出来上がった。やや早過ぎた。時間の加減は珈琲の香りと味覚に作用する。

時間の流れに身を委ねてぼんやりするくらいではアンニュイには浸れない。けだるいとか退屈だと言うのはたやすいが、極上の倦怠感に包まれるには相応の努力が必要なのだ。

今日の最高気温は一月下旬並みらしいが、ガラス越しに冬陽を受けていると、まだ晩秋が粘っているような錯覚に陥る。いや、錯覚などと言うのはおかしい。晩秋だの初冬だのと人が勝手に分節して表現しているだけの話ではないか。

空澄みわたり
季節は深まる。
色づいた葉は
微風になびき、
枯れ尽きては
やがて落ちる。
落ちたところが
遊歩道プロムナードになる。
冬空は誰かの
移ろう心のよう。
窓外の冷気は
冬陽に溶ける。

(岡野勝志作)

うなずきマンの話

 「とにかく彼は首をヨコに振らず、タテに振る。つまり、いつもうなずくのだよ」

 「それは聞き上手の人の特徴だね」

 「ところが、聞いているかどうかはわからない。『聞かない上手』かもしれない。見ざると言わざるとをセットにした聞かざるみたいな……」

■ 「見もしない、言いもしない、聞きもしない?」

 「見る・言う・聞くが3点セットだから、見ない・言わない・聞かないも3点セット」

■ 「聞き上手ではなく、うなずき上手というわけか……」

■ 「うなずくからと言って、イエスとは限らないんだな。英語に“Yes-disagreement”という表現がある。異存はあるけれど、口先ではイエスと言っておくこと。まあ、ある種のうなずく振りだね」

 「振りができるのはなかなかの業師わざしだな」

 「ある意味でしたたかだね。人の話を聞かずにうなずくなんてかなり大胆さ。ぼくにはそんなマネはできない」

 「うなずく振りをしながら、何も言わないわけ?」

■ 「ぼくが『あのね』と話しかけた瞬間、首がちぎれるほどうなずき始める。ずっと黙っているわけではなく、時々合いの手を入れるんだ」

 「どんな合いの手?」

■ 「『うんうん、そうそう』が多い。とどめは『はいはい』。はいじゃなくて、はいはい。はいを重ねるから化けの皮が剥がれる。そこまで面倒くさいこと言わなくてもわかってますよ、という意味だからね」

 「ホンネは他人と交わりたくないのだけれど、処世術的にはやむをえない。その種の人たちならではの知恵だな。実際、使ってみると便利だもの」

 「おいおい」

都会から「まち」へ

(……………………)

都会の断片のほとんどが意味を失ってしまったかのようだ。
都会は意味を示さないまま生き長らえていくつもりのようだ。

断片を必死に繋いでも全貌を現わす気配はない。ぼくは苛立つ。
苛立ちに呼応して、都会も焦燥感を募らせながら鈍い輝きを放つ。

今住むこの都会とどのように折り合えばいいのか、ずっと考えてきた。
折り合えばその正体がうまく暴けるのだろうか、ずっと自問してきた。

いったいどうすれば都会を知ることができるのか。
アスファルトを引き剥がせばその姿は見えるのか。

人工的な覆いの下に眠る土はもはやかつての土ではない。
空気に触れても土が懐かしい匂いを放つことは決してない。

ブラタモリのように地形を現場で検証しながら歩いてみるべきか。
ピースを組み合わせたら都会のジグゾーバズルは完成するのか。

歩くだけならいつも数千歩や一万歩は歩いている。
そぞろ歩きしながら見えざるものを見ようとしている。

(……………………)

ある日、雑居地帯のように扱ってきた都会を「まち」と呼び変えることにした。
その日から、都会は手招きするように親しげな表情を浮かべるようになった。

「ふわっ」

昨日からいろいろ考えていたが、初硯はつすずりにこれという漢字が見つからなかった。朝から奈良に出掛けて、興福寺、春日大社、東大寺を廻ってきたので何かありそうなものだが、まったく思い浮かばない。小学生のように「春日大社」と書き初めする手もあるが、大社に筆をふるうほどの思い入れがない。今日もあまりの人の多さに途中で引き返したほどだから。

書き初めに代えて彫り初めすることにした。消しゴムに「ふわっ」を彫った。「ふわっと」ではなく「ふわっ」。「ふわっと」だと「何が?」と問われそう。いったい何が浮かんだのだ、何がやわらかく膨らんできたのだと聞かれても困る。具体的な何かをイメージしたのではなく、ただ「ふわっ」。何となくの「ふわっ」なのである。

しかし、そんな「ふわっ」がありえるのか? たぶんありえない。敢えて言えば、気分や場面や人の性格のことになるのだろうか。なごませるような雰囲気、気持のよさ、温かいさま。それなら「ほんわか」でもよさそうだ。いや、辞書に載っていない「ふわっ」のほうが面白味がある、と判断した次第。

「ふわっ」が苦手な性分である。意識すると、力が入って「ふわっ!!」になる。無理している感が漂う。「ふわっ」な感じの生き方をしている人が羨ましい。いい感じに生きているなあと思う。「ふう」と息を吐いて、少しでも「ふわっ」に近づけるようになりたいものだ。

カフェにて

賑わっているカフェ。カウンターで注文の際に「店内は大変混み合っておりますので、先にお席の確保をお願いします」と言われることがある。促されるまま、注文を後回しにして席を探す。予約札があるわけではないから、自分の席のしるしになるものを置くしかない。たいていはハンカチ。ハンカチがなければノート。「命と同じくらい大切なノート」と広く宣言しているにしては、不用意に置くものである。

カフェ賑わい空席わずか 片隅のテーブルのノートは自分のしるし /  岡野勝志

確保したテーブルに注文したコーヒーを自分で運ぶ。隣りの男性はテーブルに所狭しと書類や本を広げ、パソコンに向かっている。彼はトイレに立つ。すべて置きっ放し。おまけに、上着も椅子にかけたまま。なかなか戻ってこない。こっちがドキドキしてしまう。彼の陣取った場所はしるしだらけ。しかし、それは席外しの証でもある。この国の人々の安全安心ボケ、ここに極まる。


街歩きの途中で一休みする。公園のベンチに腰掛けるのもいいが、喫茶店を探してコーヒーにありつくのが愉しみの一つ。チェーン店が一杯200円か250円でまずまずのコーヒーを提供する時代だ、年季の入ったマスターが仕切っている喫茶店の倍額のコーヒーが引けを取るはずがない。しかし、稀にハズレがある。昨日がそうだった。ハズレの後に帰宅して真っ先にすること。お祓いではない。自分でエスプレッソを淹れて飲み直し。

初めて入る店の気配は店名と店構えから判断するしかない。まあいいのではないかと直感して入った。昭和レトロだが、インテリアも照明も悪くない。とびきりうまいのを淹れてくれそうな雰囲気のマスター。待つこと56分。コーヒーを一口すすった瞬間、レトロな喫茶店は「場末の茶店さてん」へと転落した。

ああ、レトロな構えにほだされた

注文したのはブレンドなのに

出てきた一杯はアメリカン

香りのない超薄味のアメリカン

砂糖入れなきゃ飲めやしない

自分の勘の悪さが情けない

『涙――Made in tears』を思い出す

♪ メッキだらけのケバい茶店……と

中島みゆき調で口ずさんでみるか

コーヒー運は悪くないのに……

威張っているような砂糖壺を睨み

420円を放り出すように置いてきた

ジョークの作法

ジョークでウケるコツは書き尽くせない。仮に列挙できるにしても、頭で理解したコツが場に及んでのワザになるのはごく稀である。PDCAサイクルを回すようにはいかないのだ。

ジョークはユーモアを醸し出す。ユーモアの語源は「体液」である。聞いてくれる人たちの体液のめぐりをよくしてあげれば笑いが取れる。医術やリンパマッサージによるのではなく、これをことばでやらねばならないのだから、コツを指南するのも容易でない。

しかし、作法なら書き出せる。ジョークの披露のしかたや聴き方には心得ておくべきことがいくつかある。

1.最初にジョークのテーマを告げてはいけない。
「ハンバーガーショップで働くフリーターにまつわるジョークなんだけど……」。こう言う人が結構いる。ジョークの命は意外性。前置きは野暮である。

2.自分で笑ってはいけない。
起承転結の転や結に差し掛かると、他人よりも先に吹き出してしまう人がいる。これをやってしまうと、オチの効果が半減する。笑うのもよくないが、途中で解説したり注釈を入れたりするのも避けるべきだ。

3.さほどおもしろくないジョークでもウケた振りをする。
これはなかなか難しいが、「振り」は人間関係万般に通じる作法だ。テレビの「人志松本のすべらない話」も半数以上すべっているのだが、芸人仲間の聞き手は上手に振る舞う。おもしろがっておけば、立場が変わった時にお返しがある。

4.すでに知っているジョークでも初耳のように聞く。
創作でないかぎり、ジョークはジョーク集や他人から仕入れている。すでに知っているジョークがあって当然。たとえ自分の十八番ネタであっても、知らん顔して辛抱強く聞かねばならない。


とあるパーティー会場の一隅で雑談が熱を帯びている。ジョークを披露しようと誰かが喋り始めた。まだ話の入り口だと言うのに、「あ、そのジョーク、知ってるよ」と一人の若者が口を挟んだ。案の定、ジョークは不発に終わる。こんなことが何度か続いて、場がしらけかけていた。この光景を見かねて、傍らにいた初老の男性が若者に声を掛け、離れたバーカウンターに誘った。

「きみはお若いのによくジョークをご存じで感心していた。けれども、他人のジョークは黙って聞くものだ。たとえ知っているジョークでも、初耳のように装って最後のオチまできちんと聞く。それが礼儀作法だよ」。若者は素直に忠告を聞き入れ、感謝のことばを告げて仲間の輪に戻った。

ほどなく輪の中の男性が「とっておきのジョークがあるんだ」と言って話し始めた。若者は時々うなずきながら最後まで聞き届け、反応よくみんなと一緒に笑った。笑いがおさまった頃、ジョークを披露した男性に若者は言った、「いやあ、三度目の初耳だったけど、おもしろいジョークだったよ」。


不思議だが、どんなジョークも欧米っぽい匂いがする。日本での場面を想像しづらい。ジョークを披露し合うという文化がこの国ではまだ成熟していないからだろう。したがって、残念ではあるが、ぼくのジョークの作法にもあまり出番はないように思われる。