切り取りと切り捨て

人は日々「もの/こと」を切り取って生きている。もの/ことという対象を五感を通じてとらえている(これを切り取りとか抽象という)。その時、知ってか知らずか、他の何か、別の何かを排除している(これを切り捨てとか捨象という)。

たとえば、景色を写真に撮る。構図内のある部分を強調してテーマにしたり、気に入っている箇所を切り取って残す。その時、不要な部分が捨てられる。トリミングとは切り取りと切り捨て――または抽象と捨象――を同時におこなうことだ。

ニュースのハイライト、コーヒーの抽出、広告のキャッチコピー、雑誌の特集、合格発表……これらすべてが、何かを切り取ったり抜き出したり選んだりしている。同時に、それ以外のものは切り捨てられたり、来るべきいつかのために保留されたりしている。


パリに北駅がある。パリ市内の北部に位置するので、当初はロケーションに由来する駅名だと思った。しかし、そうではなかった。駅名を付けるにあたってロケーションは本質的ではなかった。重視して抜き出されたのは、そこから向かう方面という要素だった。つまり、列車がパリの北、ベルギー方面に向かうから北駅なのである。特急タリスに乗車してブリュッセルへ向かった時、パリ北駅の意味が「パリの北方面に向かう出発駅」だとわかった

パリから南東へ470キロメートルの位置にフランス第2の都市リヨンがある。しかし、リヨン駅があるのはパリだ。リヨンという地名がパリ市内にあるのではない。北駅と同じで、リヨン駅からはリヨン方面の列車が出るのである。リヨン駅とは「リヨン行きの駅」という意味なのだ。パリを出てリヨン市内に入るとリヨン・ペラーシュ駅という主要駅に着く。リヨンにリヨン駅はない。

土地の名称にちなむ駅名を付けるのが当たり前ではないか。しかし、「どこどこの駅」を捨てて、「どこどこ行きの駅」のほうを切り取っているのである。これは、新大阪に「東京駅」と名付け、今の東京駅とダブると都合が悪いので、本家のほうを「東京終着駅」に呼び替えるようなものである。

写真にしても文章にしても、あるいは考えやその他諸々の都合も、意識的または無意識的に何かを切り取り、そして同時に意識的または無意識的に他の何かを切り捨てる。発想の違いはこうして生まれるのだろう。そして自分の都合が、時として誰かの不都合になるということに、ぼくたちはほとんど気づいていない。

季節も考えも移ろう

よく観察もせずに「季節が移ろう」などと感覚だけでつぶやく。季節が変わろうとしてなかなか変わり切らず、寒さが戻ったと思うと再び温かくなる。これを数回繰り返すこの時期は、毎日毎日が微妙に移ろう。対象を接写的に見ればそのことに気づく。日々流されて生活していると気づかないが、しばし立ち止まることがなかなかできない。

日曜日に園芸店で旭山桜(別名、一才桜)の小さな鉢植えを買い、昨日オフィスに持ってきた。今朝つぼみが赤らんでいた。4月中旬から5月中旬が咲き頃と聞いたが、園芸店では早く咲かないようにたぶん温度調整している。オフィスは園芸店よりも陽射しがよくて暖かいから、早めに開花モードに入ったのかもしれない。


移ろうのは季節ばかりではない。この2年、コロナとウクライナという、人生史上の大きな環境変化に飲み込まれて、これまで確固としていたはずの考えが変わっていたり思いが容易に揺らいだりしていることに気づく。

たとえば「やればできる!」 この励ましは、人を励ますどころか失望させる、けしけらん言い方だと思ってきた。結果としてできなかったら、「きみ、やっていなかったからだよ」と助言者は逃げることができる……欺瞞だ、幻想だ、無責任なひどいことばなどとこきおろしてきた。ところが、この考えが変わったのである。「やってもできないかもしれないが、やっている間は少なくとも怠け者にならずに済むのではないか」と今は思っている。意識的に凡事のルーチンを毎朝しているうちに、ぼくも少しは勤勉になった気がする。そして今、「やればできる!」と言いそうになっている。

「もうちょっとの辛抱だから」という慰めも無責任だと思っていた。「もうちょっと」がいつまでのどの程度の辛抱かよくわからないじゃないか、全然慰めになっていないぞと文句を言った。そうは言うものの、それ以外に選択肢が見当たらない時があることに最近気づくようになった。小さなことをマメに続けることが「もうちょっとの辛抱」なのかもしれない。明日になったらどうする? 「ほんの少しもうちょっとの辛抱」をすればいい。毎日そう自分に言い聞かせることが、あながち空しいことだと思わなくなった。

自分の考えや思いが移ろいつつあることに気づき、そのことを受け入れるようになる時、発想のこわばりとこだわりがほぐされて、ほんの少しだけものがよく見えるような気がする。

日常と非日常の力学

公園

「おい、どけよ。そこはぼくがいつも座るベンチだ」

パスカルの『パンセ』に「これはぼくが日向ぼっこする場所だ」というくだりがある。先に座っている子に向かって後から来た子が一方的に縄張り宣言をする。パスカルは「この一言に地上のすべての簒奪さんだつの始まりと縮図がある」と言った。

簒奪とは「臣下が帝王の位を奪い取ること」。下剋上っぽい。転じて、後からのこのこやって来た者が既得権者に対して「そこはオレの場所だ!」と言って横取りすることを意味する。ヨーロッパの列国はこんなふうにして植民地を増やした。既得権のある者が領域侵犯者に告げているのではなく、侵犯者が誰の了解も得ずに堂々と所有を宣言するのである。

日常のたわいもないベンチの取り合いが、ベンチの周辺へ、公園全体へ、やがて都市や国にまで拡張していく。子どもがベンチを独り占めする日常と国家が覇権をねらう非日常はつながっている。


学校の教室

「昨日貸してあげた消しゴム、返してよ」
「嫌だ。あの消しゴムはもうぼくのだから」
「あげるなんて言ってないのに」
「貸すだけとも言わなかったぞ」

ぼくのものはぼくのもの。きみのものもぼくのもの。あげたか貸したか(もらったか借りたか)はどうでもいい。一度ぼくが手にしたものは、もうきみのものではなく、ぼくのものなのだ……理不尽だが、弱いほうの子はこの力関係に異議申し立てできなくなってしまう。


街中

半世紀前の話。
「おい、お前ら、金はあるか?」
小学生の男子三人が中学生男子にカツアゲされた。ポケットに手を突っ込まれた一人が数百円を奪われ、その間に二人が別々の方向に逃げた。逃げた一人が追われたが、何とか振り切った。

普段から仲良しの三人は半時間後に「いつもの場所」で落ち合った。いつもの場所とは、同級生の母親がやっているお好み焼き店だ。困った時、とりあえずこの「おばちゃん」の店に行く。着いた時はまだ息が上がっていた。

お好み焼き店
店に入って三人はびっくりした。カツアゲの不良中学生が奥のテーブルでお好み焼きを食べていたのだ。一瞬目が合ったが気づかれなかった。カツアゲされたほうは不良を覚えているが、カツアゲしたほうは一日に数をこなすので相手を覚えない。

三人は「おばちゃん」に目くばせして外に誘い、カツアゲの件を話した。おばちゃんの助言で、一人が店の三軒隣りに住む知り合いの「にいちゃん」の家へ。にいちゃんは中学2年生で、学年一の高身長、体育会系正義の味方。

にいちゃんが来てくれた。店に入りカツアゲ中学生に近づき、相手を立たせた。カツアゲも大きいがにいちゃんはさらに大きい。「さっきのカツアゲの金を返せ」とにいちゃんが睨む。カツアゲはおとなしく奪った金を差し出す。「それ食ったらさっさと出て行け。このあたりをうろうろするな!」とにいちゃんがカツアゲを恫喝した。

こういうケースでは、腕力の有無や身体の大小が少なからず力関係に影響を及ぼす。あるアメリカ人女性は、店や道でよその男に声を掛けられたりからまれたりしたら、とりあえず「うちの主人はあんたより大きいのよ!」と言ってみるそうだ。モンスターペアレンツ撃退策として校長室の前にボブ・サップ級のガードマンを立たせるという案もアメリカ発だ。賢さや美しさよりも動物的な力強さがものを言う。

日常生活レベルの人と人との力関係と非日常レベルの国と国との力関係に特別な差異はない。どんな状況であれ、独りで抗えない理不尽に対して「おばちゃん」や「にいちゃん」や「ボブ・サップ」以外に頼れるものはないのだろうか。

時計的な暮らし

紛失したり壊れたり、欲しいと言った人にあげたりしてだいぶ減ったが、机の引き出しにはまだ腕時計が10個くらいある。常時使うのは2本のみ。着けもしないし動くかどうかもわからないのに捨てずに置いてある。時計の数が増えても計測精度が上がるわけでもないのに。正確な時刻を云々するなら、スマートフォン一台あれば事足りる。

20211111日の今日、いま書いている時点で時刻は午後315分。途中何回か中断するはずなので、書き終わりは午後4時を回るだろう。午後1時頃からずっと雨が降っていた。窓には大きな雨粒が当たり続け、おびただしい水滴がガラス面を這った。午後3時前にやっと止んだ。

2時間の経過は壁掛け時計で確認している。数字で知らせてくれる利器がなければ時の経過を正確に感知することはできない。なぜなら、さっき「そろそろ3時かな」と思って時計を見たら、まだ1時半だったからだ。ぼくたちの生物時計はその程度のものである。


16世紀、ガリレオ・ガリレイはピサの斜塔で物体の落下実験をおこなった。二つの質量の異なる物体を落として地面に同着するかどうかを確認したのだ。あの時、もちろんストップウォッチはなかった。時間はどのように測られたのか。手首に指をあてがって脈拍で計測していたのである。一脈拍の10分の1の精度で時間を計測したというから驚くしかない。

「あ、いま3時か……」などとつぶやいて日々を過ごしているが、あのつぶやきは何を意味しているのだろうか。いったい3時とは何なのか。1日が24時間で刻まれているという観念はもはや拭いきれないし、暮らしはこの時間軸を一番の頼りにして成り立っている。時計もなく、分も秒も測れなかった時代に目に見えない節目が確かに感じ取られていた。今は、適当に「時の流れ」などと言いながら、時にはそんな歌もうたいながら、目盛りだらけの毎日を送っている。

この時点で予想よりも早く草稿が書けた。今から読み直して推敲して午後4時頃までには公開できそうだ。と、こんなふうに時計ばかり見て、時間の推移とシンクロさせながら本稿を書いたが、普段書くのと何がどう違うのかはよくわからない。

日常の魅力

『日常の魅力』と題した直後に、「日常」を含むタイトルのブログをこれまでに何度か書いたのを思い出した。調べてみた。

『日常、あらたなり』(201610月)、『芸術家の日常』(20171月)、『日常の周辺』(20173月)、『日常について』(20182月)

日常ということばも現実も気に入っていて、読み返してみると、いずれの文章も日常礼賛の趣が強い。数年経った今も、大げさに言えば、二度と同じ日常はないと覚悟して愛おしんでいる。もしどこかでプロフィールを書くことになって、そこに趣味の欄があれば、読書や音楽鑑賞や散歩ではなく、迷わず「日常」と記してみようと思う。

ところで、先日、日常の本質を「日常論」として書いた本があれば読んでみようと思い、書店で検索したり背表紙を眺めたりしてみた。見当たらない。少なくともぼくには見つけられなかった。と言うわけで、論としての日常を自前で少し考えてみる。


日常は「普通」と関わる。日常的なこと・・もの・・は、普通によくあること・・やよく手にしたり見たりするもの・・である。また、日常は「行為」ともかかわる。習慣的に毎日繰り返され、勝手をよく知っているおこないである。

「非日常」に比べると派手さを欠くので、日常を哲学の対象にするとねた切れを起こしそうだし、深掘りも広がりも望みづらい。では、哲学用語集に日常という術語は収録されているか。手元にある数冊の用語集にあたってみたが、日常が見出しとして立てられている本は一冊もなかった。

日常の本質を概念的に捉えるのは容易でない。日常について考察していくと、日常生活を解体して要素に分けることにならざるをえない。たとえば日常的で普通の一日を朝、昼、夜に分け、食べる、働く、遊ぶなどの行動に分類するのが精一杯だ。そして、日常的に感じることを私小説風にとことん描写するにしても、日常の本質――日常とは何か?――に迫れそうな確信は持てない。

日常が少しでもあぶり出されたり浮き彫りにされるのは、非日常と対比される時に限られる。日常という「ケ」には非日常という「ハレ」が必要なのだ。こんなことはすでにわかっている。いろいろと思い巡らしたものの、またいつもと同じところにやって来たようだ。そうか、この道はいつか来た道と思うこの感覚がまさに日常的なのではないか。

散歩に出掛ける。カフェに入る。いつものようにコーヒーを注文し、本を読んだりノートを書いたりする。毎週繰り返されるぼくの日常の典型である。しかし、これが旅先のホテルを出てからの一連の行動になるとワクワクして非日常になる。ワクワクとは心が浮くことで、「いつもの」という感じがしない状態だ。この対極にある安心感、それが日常の魅力のようである。

そうであり、必ずしもそうではない

どんな意見に対しても、社会にはイエスがありノーがありうる。また、ある意見に対して一個の人間の内でも「そうだ」と「必ずしもそうではない」が拮抗し、イエスともノーとも結論できないことがある。「そうである」と「必ずしもそうではない」を往ったり来たりしているあいだは、たぶん少しは考えているのだろう。

「(……)人がその偉大さを示すのは、一つの極端にいることによってではなく、両極端に同時に届き、その中間を満たすことによってである」(パスカル『パンセ』三五三)


「考えろ、考えろ、たとえ一秒の何分の一ぐらいの時間しか残されていないとしても。考えることだけが唯一の希望だ」(ジョージ・オーウェル『1984』)

外食に出掛けたら、何を食べるかよく考えた時ほどおいしくいただける。食べることは人生の重要案件であるから、よく考えるにこしたことはない。しかし、何も考えずに行き当たりばったりでもうまいものに出合えることがある。食に関しては考えることだけが唯一の希望ではなさそうだ。考えに考えて絶望することだってあるのだから。

「上手に勝ち、上手に負ける。上手に勝つとは、相手を傷つけず相手に恨みを持たせず、相手が潔く負けを受容して納得すること。上手に負けるとは、わざと負けたり早々に投げたり諦めたりするのではなく、精一杯戦って負けることである」(拙文、20111月)

十年前に書いた文章だが、今も勝ち負けに下手であったり下品であったりしてはいけないと思う。とは言うものの、「精一杯戦って負ける」ことを上手と呼んでいいものか。だいいち、「精一杯」かどうかを判断するのは自分を除いて他にない。「精一杯戦って負けたのだから仕方がない」は自己正当化のための言い訳になる。

「(本を選ぶにあたって)自分の身に付いた関心から選ぶのがいい(……)自分の内側からの欲求=好みを強烈にもつことがどうしても必要であり、そうすることなくしては、現在のこの書物の洪水、情報の氾濫から身をまもること、いやそれに積極的に立ち向かうことは難しい」(中村雄二郎『読書のドラマトゥルギー』)

読みたい本も読まざるをえない本も含めていろんな本を読んできた。ぼくのような歳になったら読まねばならない本や無理に読まされる本などはもうほとんどない。好奇心の赴くまま、書店や古書店で縁を感じて手に入れて読むばかりである。しかし、好みや欲求に応じて限られたジャンルの本ばかり読んでいると飽きがくる。時々、まったく知識のない本に立ち向かっておかないと知がなまぬるくなる。

「頑張ってください」

他人が使っているとほとんど何も意図せずに抜け抜けと言うものだと思うが、他に何も言うことがない時、「頑張ってください」はとても便利である。使わないように気をつけているが、つい使っている自分がいる。しかし、励ましのつもりが、残酷でひどいことばと化すことがある。そして、ぼくの経験上、「頑張ってください」と伝えた相手が頑張ったためしはほとんどないのだ。

説教や訓示の中身

オフィスの近くのあの寺が、月替わりの標語を掲示。今月は「心配するな あわてるな」という微妙なメッセージ。はたして不特定多数の通行人にはどんなふうに響くのだろうか。

ぼくはと言えば、心配したりあわてたりする時もあるが、この前を通り掛かった時の精神状態はすこぶる健やかで落ち着いていたので、「はいはい、さようでございますか」と見流すだけだった。先のことを心配ばかりして拙速気味に動いている時だったなら重く受け止めたかもしれない。

いろいろと気遣いし、早めに行動する人たちは良識のある少数派だと思われる。「心配するな あわてるな」とお説教したところで、彼らには当てはまらない。心配を気遣いと言い換え、あわてるを早めの行動と言い換えれば、「気遣いするな 早めに動くな」と言っているわけだ。こんな戒めが書かれていたら少々違和感を覚えるだろう。


「きみ、少しは気を遣ったらどうなんだ、自分事のように心配してくれよ……よくもそんなにのんびり構えられるもんだな……やみくもに慌てろなどとは言わないが、のんびりしすぎじゃないか……」 ぼくの知るかぎり、こんなふうに言ってやりたい者のほうが多数だ。「心配しろ あわてろ」と強くは言わないが、「もうちょっと心配しよう ほんの少し急ごう」のほうが当てはまるケースが多いのだ。

いやいや、説教や訓示は必ずしもよくあることを取り上げたり多数派に向けられたりするとはかぎらない。痴漢をする者は少数派だが、大阪では「痴漢はアカン」という標語が掲示されている。「手を触れるべからず」や「撮影禁止」なども百や千に一つの不届き者に向けられた注意書きである。

当然ながら、自分には当てはまらない、自分には関係のない説教や訓示の中身がある。それが大書されて頻繁に貼り出されていると快く思わない。標語には、「ゴミを捨てるな」と「ゴミを拾おう」のような、禁止系と推奨系の二つがある。きれいな場所なのに「ゴミを捨てるな」とか「芝生に入るな」という禁止文句ばかり見せられるとがっかりする。「ゴミを拾おう」とか「街をきれいに」もわざわざ有言化してもらうには及ばない。

ふれあい広場やふれあいカフェは標語の形を取っていないが、「広場でふれあおう」「カフェでふれあおう」という説教・訓示の流れを汲んでいる。正直言って、ネーミングが安易で陳腐だし、余計なお世話だと思う。

始まりと終わり

桜は「咲く」と「散る」がつながっている。咲いたら散るし、散るのは咲いたからである。咲かなければ散りようがない。咲いてやがて散って一つの経過が完結。では、どんな物事でも始まりあっての終わり、終わりあっての始まりと言えるか。必ずしもそうではなさそうである。

終わりは始まりに知らん顔できないが、始まりは終わりを無視することがある。「始めるのが当方の仕事でして、いつ終わるかは終わりに聞いてください」という趣がある。『新版 モノここに始まる』という本が、「モノここに始まりここに終わる」ではないことに注目しておきたい。

この本では、洗濯石鹸、フォーク、拡声器、チューリップ、人造真珠、金融業などの始まりについて書かれているが、終わりには言及していない。なぜなら、紹介されているすべての物事が今も現役で存続しているからである。原初についてはわからないことだらけなので、「始まる」と言い切っていても断定しているわけではない。


「開花宣言」という表現があるように、開花したかどうかは桜が決めているのではなく、人が観察して決めているのである。始まりと終わりは「告げられる」ものであり、観察による解釈にほかならない。それまでとは違う状態が新たに認知されたら「始まり」、ずっと続いていた状態がこの先続かないと判断したら「終わり」。

ある現象や状態を「始まり」と呼ぶか「終わり」と呼ぶかで感じ方が一変する。ルネサンスは「近世のはじまり」なのか、それとも「中世のおわり」なのか。青葉の見映えが鮮やかで、汗ばむほど陽気のいい昼下がり。これは春の終章か、それとも夏の序章なのか。散歩の途中で寄ったカフェでアイスコーヒーを飲みたくなったらひとまず後者。

始まりも終わりもデジタル的なスイッチが入るのではなく、アナログ現象のどこかに人が分節点を見出しているにすぎない。おおよその始まりに「初」を、おおよその終わりに「晩」をつければ、いちいち厳密に始まりや終わりを告げなくてもすむ。初夏や晩夏とは巧みな言い表し方だ。半月に一回移ろう二十四節気という分節点の多い風土ならではの創意工夫である。

失われた環を探す

企画したり文章を書いたりする仕事では無から有は生まれない。仕事の起点に題材と情報は欠かせない。題材はふつう依頼者が提示するが、時々お任せもある。情報はたいてい依頼者から出てくる。過剰な場合もあれば不足の場合もある。

実は、情報は多いほうが困る。どんなメディアを使うにしても紙数が限られるから、情報を欲張られると取捨選択に時間がかかるのだ。しかも、あれも入れたいこれも入れたいという情報提供者の要望にいちいち寄り添っていくと、どの段落もよく似た内容になりかねない。

他方、情報不足も大変なように見えるだろうが、案外そうではない。企画も執筆も情報は不足気味のほうが、自ら考え類推するのでオリジナリティを発揮しやすくなる。考えたり類推したりするには何か材料がいるから、少しは自分で調べもする。ともあれ、自分のペースで仕事を進められるので、情報過多よりもうんと楽なのである。


企画や仕事では、事柄や概念どうしがつながらず、両者の間に不足や喪失を感じることがよくある。その空白を埋めようとしてある種の「ときめき」が生まれ好奇心が旺盛になる。情報過剰だと仕事は作業に堕しかねないが、情報不足ゆえに創意工夫に出番がある。推理が働くのだ。別に推理小説を創作するわけではないが、「失われた環」を探そうとするプロセスに遭遇する。

失われた環はmissing linkミッシングリンクの訳である。進化論や人類学の概念で、ABがつながりにくいとか何かがスキップされていると感じる時に、両者の間に未発見または不明の中継的存在があるはずと考えるのだ(「A →(?)→ B」)。たとえば、「サル→人類」はジャンプし過ぎる……何かがその間をつないでいたはずだ……そう推理していたら、猿人アウストラロピテクスの骨という失われた環が見つかった……という具合。

いったい「一つの事実」がそれ自体、他の事実から切り離されて成り立つことはあるのだろうか。ある対象が「在れば」、それはすでに「そこ・・に在る」ことだから、場所と「在りよう」が付随する。リンゴという対象またはリンゴという事実は、認識された時点でもはや一つの対象、一つのリンゴではありえず、「赤い」「テーブルの上」「齧られた」などの他の事実との関係上で成り立つ。存在とは他の事実との関係性において「そこに在る」ことだ。

対象や事実を認識する能力や習慣は人によって異なる。関係性や他の事実に目を向ける経験的認識の差は、その後の思考力や想像力の差になってくる。ともあれ、かぎりなく数学的・物理的意味での「一つのリンゴ」などは現実の生活ではめったに存在せず、したがって認識する機会もない。あることが解せなくて首を傾げる時、人は失われた環を探して自分なりの辻褄を合わせようとするのである。

この世界、別の世界

「この世界とは別の世界があることは確かだ」(サルバトール・ダリ)

現世と前世または現世と後世のことか、もしかしてこの世とあの世のことだろうかと類推した。しかし、それなら「確かだ」などと言い切らないはず。ここで言う世界とは、たぶん、見える世界のことで、ひいては世界観に近いのではないか。こんな見当を付けて、今さらながらだが、「世界」ということばについて少し考えてみた。

地球上のありとあらゆるものが一つになった総体を一般的に世界と呼んでいる。英語の“world”を訳して世界を造語したのではなく、前々からあった仏教のことばである世界を借用した。それによると、世界の世は前世と現世と後世の「三世さんぜ」から成り、世界の界は「すべてにまたがる様子」を表わしている。すなわち、世界はあらゆる時、あらゆる場を包括する概念である。

それでは大きすぎるので、世界は分化して多義語になった。とは言え、ダリのことばを「此岸とは別の彼岸があることは確かだ」というようにスピリチュアルに読み替えることはなさそうだ。世界とは住んでいる所、行く所、想像する所。また、世界とは同種や類似のものが集まっている所。そして、世界とは見える範囲のこと、つまり視野や視界。漠然としているが、何となくわかるので、何となくよく使う。


この世界とは、自分がいる所であり、ゆえに何となく知っている所。別の世界とは、自分がいない所であり、ゆえにあまりよく知らない所。いまこの時、この世界とは違う別の世界を別の誰かが見ている。根拠はないが、「見ていない」よりも「見ている」と考えるほうが自然に思える。ダリも確かさの根拠は示していない。

人それぞれの知覚の枠で世界が認識され、人それぞれが自分流の世界観を構築している。いまあなたが「この世界」と呼ぶ世界を誰かが「別の世界」と呼ぶことは不思議ではなく、他方、誰かが「この世界」と呼んでいる世界をあなたが「別の世界」と呼んでも何ら不思議ではない。呼び方と見え方が違うだけで、それらは同じ世界なのだ。

複数の世界があるのではなく、たった一つの世界が複数の人々によって複数の解釈によって認識されているのである。「この世界とは別の世界があることは確かだ」とは、公園の同じベンチに腰掛けるあなたと隣りに座る親しい人が違う世界を見ているということにほかならない。