日常の魅力

『日常の魅力』と題した直後に、「日常」を含むタイトルのブログをこれまでに何度か書いたのを思い出した。調べてみた。

『日常、あらたなり』(201610月)、『芸術家の日常』(20171月)、『日常の周辺』(20173月)、『日常について』(20182月)

日常ということばも現実も気に入っていて、読み返してみると、いずれの文章も日常礼賛の趣が強い。数年経った今も、大げさに言えば、二度と同じ日常はないと覚悟して愛おしんでいる。もしどこかでプロフィールを書くことになって、そこに趣味の欄があれば、読書や音楽鑑賞や散歩ではなく、迷わず「日常」と記してみようと思う。

ところで、先日、日常の本質を「日常論」として書いた本があれば読んでみようと思い、書店で検索したり背表紙を眺めたりしてみた。見当たらない。少なくともぼくには見つけられなかった。と言うわけで、論としての日常を自前で少し考えてみる。


日常は「普通」と関わる。日常的なこと・・もの・・は、普通によくあること・・やよく手にしたり見たりするもの・・である。また、日常は「行為」ともかかわる。習慣的に毎日繰り返され、勝手をよく知っているおこないである。

「非日常」に比べると派手さを欠くので、日常を哲学の対象にするとねた切れを起こしそうだし、深掘りも広がりも望みづらい。では、哲学用語集に日常という術語は収録されているか。手元にある数冊の用語集にあたってみたが、日常が見出しとして立てられている本は一冊もなかった。

日常の本質を概念的に捉えるのは容易でない。日常について考察していくと、日常生活を解体して要素に分けることにならざるをえない。たとえば日常的で普通の一日を朝、昼、夜に分け、食べる、働く、遊ぶなどの行動に分類するのが精一杯だ。そして、日常的に感じることを私小説風にとことん描写するにしても、日常の本質――日常とは何か?――に迫れそうな確信は持てない。

日常が少しでもあぶり出されたり浮き彫りにされるのは、非日常と対比される時に限られる。日常という「ケ」には非日常という「ハレ」が必要なのだ。こんなことはすでにわかっている。いろいろと思い巡らしたものの、またいつもと同じところにやって来たようだ。そうか、この道はいつか来た道と思うこの感覚がまさに日常的なのではないか。

散歩に出掛ける。カフェに入る。いつものようにコーヒーを注文し、本を読んだりノートを書いたりする。毎週繰り返されるぼくの日常の典型である。しかし、これが旅先のホテルを出てからの一連の行動になるとワクワクして非日常になる。ワクワクとは心が浮くことで、「いつもの」という感じがしない状態だ。この対極にある安心感、それが日常の魅力のようである。

そうであり、必ずしもそうではない

どんな意見に対しても、社会にはイエスがありノーがありうる。また、ある意見に対して一個の人間の内でも「そうだ」と「必ずしもそうではない」が拮抗し、イエスともノーとも結論できないことがある。「そうである」と「必ずしもそうではない」を往ったり来たりしているあいだは、たぶん少しは考えているのだろう。

「(……)人がその偉大さを示すのは、一つの極端にいることによってではなく、両極端に同時に届き、その中間を満たすことによってである」(パスカル『パンセ』三五三)


「考えろ、考えろ、たとえ一秒の何分の一ぐらいの時間しか残されていないとしても。考えることだけが唯一の希望だ」(ジョージ・オーウェル『1984』)

外食に出掛けたら、何を食べるかよく考えた時ほどおいしくいただける。食べることは人生の重要案件であるから、よく考えるにこしたことはない。しかし、何も考えずに行き当たりばったりでもうまいものに出合えることがある。食に関しては考えることだけが唯一の希望ではなさそうだ。考えに考えて絶望することだってあるのだから。

「上手に勝ち、上手に負ける。上手に勝つとは、相手を傷つけず相手に恨みを持たせず、相手が潔く負けを受容して納得すること。上手に負けるとは、わざと負けたり早々に投げたり諦めたりするのではなく、精一杯戦って負けることである」(拙文、20111月)

十年前に書いた文章だが、今も勝ち負けに下手であったり下品であったりしてはいけないと思う。とは言うものの、「精一杯戦って負ける」ことを上手と呼んでいいものか。だいいち、「精一杯」かどうかを判断するのは自分を除いて他にない。「精一杯戦って負けたのだから仕方がない」は自己正当化のための言い訳になる。

「(本を選ぶにあたって)自分の身に付いた関心から選ぶのがいい(……)自分の内側からの欲求=好みを強烈にもつことがどうしても必要であり、そうすることなくしては、現在のこの書物の洪水、情報の氾濫から身をまもること、いやそれに積極的に立ち向かうことは難しい」(中村雄二郎『読書のドラマトゥルギー』)

読みたい本も読まざるをえない本も含めていろんな本を読んできた。ぼくのような歳になったら読まねばならない本や無理に読まされる本などはもうほとんどない。好奇心の赴くまま、書店や古書店で縁を感じて手に入れて読むばかりである。しかし、好みや欲求に応じて限られたジャンルの本ばかり読んでいると飽きがくる。時々、まったく知識のない本に立ち向かっておかないと知がなまぬるくなる。

「頑張ってください」

他人が使っているとほとんど何も意図せずに抜け抜けと言うものだと思うが、他に何も言うことがない時、「頑張ってください」はとても便利である。使わないように気をつけているが、つい使っている自分がいる。しかし、励ましのつもりが、残酷でひどいことばと化すことがある。そして、ぼくの経験上、「頑張ってください」と伝えた相手が頑張ったためしはほとんどないのだ。

説教や訓示の中身

オフィスの近くのあの寺が、月替わりの標語を掲示。今月は「心配するな あわてるな」という微妙なメッセージ。はたして不特定多数の通行人にはどんなふうに響くのだろうか。

ぼくはと言えば、心配したりあわてたりする時もあるが、この前を通り掛かった時の精神状態はすこぶる健やかで落ち着いていたので、「はいはい、さようでございますか」と見流すだけだった。先のことを心配ばかりして拙速気味に動いている時だったなら重く受け止めたかもしれない。

いろいろと気遣いし、早めに行動する人たちは良識のある少数派だと思われる。「心配するな あわてるな」とお説教したところで、彼らには当てはまらない。心配を気遣いと言い換え、あわてるを早めの行動と言い換えれば、「気遣いするな 早めに動くな」と言っているわけだ。こんな戒めが書かれていたら少々違和感を覚えるだろう。


「きみ、少しは気を遣ったらどうなんだ、自分事のように心配してくれよ……よくもそんなにのんびり構えられるもんだな……やみくもに慌てろなどとは言わないが、のんびりしすぎじゃないか……」 ぼくの知るかぎり、こんなふうに言ってやりたい者のほうが多数だ。「心配しろ あわてろ」と強くは言わないが、「もうちょっと心配しよう ほんの少し急ごう」のほうが当てはまるケースが多いのだ。

いやいや、説教や訓示は必ずしもよくあることを取り上げたり多数派に向けられたりするとはかぎらない。痴漢をする者は少数派だが、大阪では「痴漢はアカン」という標語が掲示されている。「手を触れるべからず」や「撮影禁止」なども百や千に一つの不届き者に向けられた注意書きである。

当然ながら、自分には当てはまらない、自分には関係のない説教や訓示の中身がある。それが大書されて頻繁に貼り出されていると快く思わない。標語には、「ゴミを捨てるな」と「ゴミを拾おう」のような、禁止系と推奨系の二つがある。きれいな場所なのに「ゴミを捨てるな」とか「芝生に入るな」という禁止文句ばかり見せられるとがっかりする。「ゴミを拾おう」とか「街をきれいに」もわざわざ有言化してもらうには及ばない。

ふれあい広場やふれあいカフェは標語の形を取っていないが、「広場でふれあおう」「カフェでふれあおう」という説教・訓示の流れを汲んでいる。正直言って、ネーミングが安易で陳腐だし、余計なお世話だと思う。

始まりと終わり

桜は「咲く」と「散る」がつながっている。咲いたら散るし、散るのは咲いたからである。咲かなければ散りようがない。咲いてやがて散って一つの経過が完結。では、どんな物事でも始まりあっての終わり、終わりあっての始まりと言えるか。必ずしもそうではなさそうである。

終わりは始まりに知らん顔できないが、始まりは終わりを無視することがある。「始めるのが当方の仕事でして、いつ終わるかは終わりに聞いてください」という趣がある。『新版 モノここに始まる』という本が、「モノここに始まりここに終わる」ではないことに注目しておきたい。

この本では、洗濯石鹸、フォーク、拡声器、チューリップ、人造真珠、金融業などの始まりについて書かれているが、終わりには言及していない。なぜなら、紹介されているすべての物事が今も現役で存続しているからである。原初についてはわからないことだらけなので、「始まる」と言い切っていても断定しているわけではない。


「開花宣言」という表現があるように、開花したかどうかは桜が決めているのではなく、人が観察して決めているのである。始まりと終わりは「告げられる」ものであり、観察による解釈にほかならない。それまでとは違う状態が新たに認知されたら「始まり」、ずっと続いていた状態がこの先続かないと判断したら「終わり」。

ある現象や状態を「始まり」と呼ぶか「終わり」と呼ぶかで感じ方が一変する。ルネサンスは「近世のはじまり」なのか、それとも「中世のおわり」なのか。青葉の見映えが鮮やかで、汗ばむほど陽気のいい昼下がり。これは春の終章か、それとも夏の序章なのか。散歩の途中で寄ったカフェでアイスコーヒーを飲みたくなったらひとまず後者。

始まりも終わりもデジタル的なスイッチが入るのではなく、アナログ現象のどこかに人が分節点を見出しているにすぎない。おおよその始まりに「初」を、おおよその終わりに「晩」をつければ、いちいち厳密に始まりや終わりを告げなくてもすむ。初夏や晩夏とは巧みな言い表し方だ。半月に一回移ろう二十四節気という分節点の多い風土ならではの創意工夫である。

失われた環を探す

企画したり文章を書いたりする仕事では無から有は生まれない。仕事の起点に題材と情報は欠かせない。題材はふつう依頼者が提示するが、時々お任せもある。情報はたいてい依頼者から出てくる。過剰な場合もあれば不足の場合もある。

実は、情報は多いほうが困る。どんなメディアを使うにしても紙数が限られるから、情報を欲張られると取捨選択に時間がかかるのだ。しかも、あれも入れたいこれも入れたいという情報提供者の要望にいちいち寄り添っていくと、どの段落もよく似た内容になりかねない。

他方、情報不足も大変なように見えるだろうが、案外そうではない。企画も執筆も情報は不足気味のほうが、自ら考え類推するのでオリジナリティを発揮しやすくなる。考えたり類推したりするには何か材料がいるから、少しは自分で調べもする。ともあれ、自分のペースで仕事を進められるので、情報過多よりもうんと楽なのである。


企画や仕事では、事柄や概念どうしがつながらず、両者の間に不足や喪失を感じることがよくある。その空白を埋めようとしてある種の「ときめき」が生まれ好奇心が旺盛になる。情報過剰だと仕事は作業に堕しかねないが、情報不足ゆえに創意工夫に出番がある。推理が働くのだ。別に推理小説を創作するわけではないが、「失われた環」を探そうとするプロセスに遭遇する。

失われた環はmissing linkミッシングリンクの訳である。進化論や人類学の概念で、ABがつながりにくいとか何かがスキップされていると感じる時に、両者の間に未発見または不明の中継的存在があるはずと考えるのだ(「A →(?)→ B」)。たとえば、「サル→人類」はジャンプし過ぎる……何かがその間をつないでいたはずだ……そう推理していたら、猿人アウストラロピテクスの骨という失われた環が見つかった……という具合。

いったい「一つの事実」がそれ自体、他の事実から切り離されて成り立つことはあるのだろうか。ある対象が「在れば」、それはすでに「そこ・・に在る」ことだから、場所と「在りよう」が付随する。リンゴという対象またはリンゴという事実は、認識された時点でもはや一つの対象、一つのリンゴではありえず、「赤い」「テーブルの上」「齧られた」などの他の事実との関係上で成り立つ。存在とは他の事実との関係性において「そこに在る」ことだ。

対象や事実を認識する能力や習慣は人によって異なる。関係性や他の事実に目を向ける経験的認識の差は、その後の思考力や想像力の差になってくる。ともあれ、かぎりなく数学的・物理的意味での「一つのリンゴ」などは現実の生活ではめったに存在せず、したがって認識する機会もない。あることが解せなくて首を傾げる時、人は失われた環を探して自分なりの辻褄を合わせようとするのである。

この世界、別の世界

「この世界とは別の世界があることは確かだ」(サルバトール・ダリ)

現世と前世または現世と後世のことか、もしかしてこの世とあの世のことだろうかと類推した。しかし、それなら「確かだ」などと言い切らないはず。ここで言う世界とは、たぶん、見える世界のことで、ひいては世界観に近いのではないか。こんな見当を付けて、今さらながらだが、「世界」ということばについて少し考えてみた。

地球上のありとあらゆるものが一つになった総体を一般的に世界と呼んでいる。英語の“world”を訳して世界を造語したのではなく、前々からあった仏教のことばである世界を借用した。それによると、世界の世は前世と現世と後世の「三世さんぜ」から成り、世界の界は「すべてにまたがる様子」を表わしている。すなわち、世界はあらゆる時、あらゆる場を包括する概念である。

それでは大きすぎるので、世界は分化して多義語になった。とは言え、ダリのことばを「此岸とは別の彼岸があることは確かだ」というようにスピリチュアルに読み替えることはなさそうだ。世界とは住んでいる所、行く所、想像する所。また、世界とは同種や類似のものが集まっている所。そして、世界とは見える範囲のこと、つまり視野や視界。漠然としているが、何となくわかるので、何となくよく使う。


この世界とは、自分がいる所であり、ゆえに何となく知っている所。別の世界とは、自分がいない所であり、ゆえにあまりよく知らない所。いまこの時、この世界とは違う別の世界を別の誰かが見ている。根拠はないが、「見ていない」よりも「見ている」と考えるほうが自然に思える。ダリも確かさの根拠は示していない。

人それぞれの知覚の枠で世界が認識され、人それぞれが自分流の世界観を構築している。いまあなたが「この世界」と呼ぶ世界を誰かが「別の世界」と呼ぶことは不思議ではなく、他方、誰かが「この世界」と呼んでいる世界をあなたが「別の世界」と呼んでも何ら不思議ではない。呼び方と見え方が違うだけで、それらは同じ世界なのだ。

複数の世界があるのではなく、たった一つの世界が複数の人々によって複数の解釈によって認識されているのである。「この世界とは別の世界があることは確かだ」とは、公園の同じベンチに腰掛けるあなたと隣りに座る親しい人が違う世界を見ているということにほかならない。

批評における主語選び

私はこの街に住んでいる」
「私は元気な人間だ」
だから、「この街に住んでいる人は元気である」

書かれた文章を読むと、二つの前提から導かれた結論の危うさがわかる。前提となる文章はどちらも「私」に限った話なのに、結論ではいきなり「みんな」に膨らんでしまっている。この論理の誤りには〈小概念不当周延の虚偽〉という難しい名前がついている。

〈私〉という小さな概念を〈みんな〉という概念に不当に置き換えてはいけない。全体について言えることは部分についても同じことが言えるが、部分について言えるからといって全体にも同じことが言えるとはかぎらないのである。

命題には主語と述語が含まれる。主述関係は論理の基本なので、主語の集合概念の大小をきちんと捉えておく必要がある。書いたらわかるのに、不注意に話したりすると、後になってとんでもないことを喋っていたことに気づく。「つい口が滑ったのではない、常々思っているからそう言ったのだ!」と指摘されてもしかたがない。


女性っていうのは、優れているところですが、競争意識が強い。誰か一人が手を挙げると、自分も言わなきゃと思うんでしょうね。それでみんな発言されるんです。結局、女性っていうのは(……)」(森喜朗東京五輪・パラリンピック組織委員会会長、2月3日、臨時評議員会。傍線は岡野)

「女性は」「男性は」「高齢者は」「今どきの若者は」など、大きな概念の一般主語でデリケートな内容を語ろうとすると誤謬の可能性が高くなる(虚偽を免れるのは、ごくわずかに「人間はみな死ぬ」のような自明の命題に限られる)。

大きな概念の主語でデリケートな問題について断言的に主張すると、「すべてがそうではないぞ!」と反論される。それだけでは収まらず、問題によっては差別・偏見と批判され、この時代ならではのネット炎上を招くことになる。では、「一部の……」と概念を小さくしたり具体的に名前を挙げたりして批評をすれば、極論や虚偽を避けられるだろうか。公開の場なら、一部の人たちや名指しされた人物から当然反論が出てくる。

では、公開の場で「誰々」と言うかわりに、密室で直接会って言ってみるのはどうか。これで世論からは隠れることができるかもしれないが、今度は当の相手から「パワハラを受けた」と訴えられ、公になるかもしれない。覚悟の足りない御仁はあまり慣れない批評などしないほうがいい。

と言う次第で、主語を何にするにしても、批評がしづらい時代になっているようだ。安全な批評は「私」を主語にした、一人反省会のような自己批評だろう。たしかに批評は昔に比べてデリケートになった。しかし、女性や男性や高齢者や若者などの大雑把な括りで、大雑把な物言いをするから問題なのだ。批評を手控えるようなことがあっては中身のある議論ができなくなる。実名による批評は――たとえそれが堅固な世論に向けられたとしても――匿名のネットでのやりたい放題よりはよほど健全なのである。

コーヒータイムの少考

「論考」というと、いかにも難しいことを考えていそうな雰囲気がある。この論考のような「~考」という二字熟語はいろいろあるが、じっくりと時間をかけて考えるさまを表すのは「熟考」と「長考」くらいのものである。これらに対して、気楽な感じがするのが「一考」であり「雑考」である。

一考の類語に「少考」がある。見出し語として収録していない辞書があり、聞いたり見たりする機会もあまりない。『新明解国語辞典』は載せていて、「ちょっと考えること」と書いてある。そのまんまだ。将棋や囲碁ではよく使う。仕事では長考しがちだが、仕事の合間や不要不急で出掛ける時には喫茶店での1分単位の少考タイムがいい


今年の秋は暖かかったので、11月でもカフェテラスに座れた。人がそこそこ入っていてもおかしくないカフェなのに、時間帯によっては誰もいないことがあった。自分以外に誰もいないとは、つまり「独り」。独りでいいのだ、独りもいいのだ、独りがいいのだ……。

「気がついたら自分は一人・・だった」というのと「気がついたら自分は独り・・だった」というのは違う。「一人・・になりたい」と「独り・・になりたい」も違う。「独り」には「一人」にないものがあり、「一」という数字以上の何かがある。

ランチタイムに喫茶店に入ると、トンカツ定食や鉄板ナポリタンの匂いにコーヒーの香りが負ける。コーヒーの存在をほとんどゼロにしてしまう最終兵器がランチメニューの中にある。ソース焼きそば定食がそれだ。自分がソース焼きそば定食側に立つこともあるので、寛容でありたいと思う。そして、なるべく昼前後にコーヒー目当てに喫茶店に入らないようにしている。

ところで、「へぇ、大阪の人はソース焼きそばとライスを食べるんだ」と驚く人少なからず。罪悪感があるのかどうか知らないが、大阪人も「炭水化物定食」などと自嘲気味に言う。炭水化物は上位概念。そんなものを知ってしまったから気になるのだろうが、目の前の麺と米を分相応に、腹相応にいただけばいいではないか。人は食に生きるのであって、栄養学的に生きてはいないのである。

カフェに立ち寄る時はたいてい本とノートを携行している。ノートにはいろいろ書いてきた。難しいことを小難しく書こうとした時があった。難しいことを、敢えてわかりやすく書こうとせずに、素直にそのまま書いたのは、「わかりやすさは人によって違うから」というのが理由。

雑多なテーマについて今も雑考して雑文を書いているけれど、自分なりに何らかの指向性はある(つもり)。これまでの短文形式の文章を集合してみると、その指向性が繰り返されてしたためやすくなる。音楽なら、過去曲を新しくカバーして振り返るような感じ。次から次へと目先を変えるだけが能ではない。かつて一考したことを反復的に少考する。自分の考えを口ずさむように“Reprise”ルプリーズしてみる、コーヒーを飲みながら、1分単位で

アドレスと場の情報

住所と立地、場所と景観、地域と歴史などについて、依頼されてコラムを書いている。一編をだいたい500600字でまとめる。ここ半月ばかり一日二編のペースだが、書くほどに〈場〉という概念が気になる。名称で示される場もそうだが、トポス的な〈ありか〉という意味についても考えさせられる。

都道府県、市区町村、丁目番地号などの名称と数字を見れば、〈ありか〉はピンポイントで判明するが、このアドレスからは場の特徴、周辺環境、さらには歴史的沿革やエピソードなどの情報はわからない。「わらび餅のうまい店がある」とか「自民党支持者が多い」などという情報は――もし知りたければ――アドレス以外の情報を調べるしかない。その気になれば、Googleだけでほぼ何でも検索でき、ほぼある程度のことがわかる。

「何を言ってる? 地名から由来がある程度わかるではないか」と言うむきもあるが、いやいや、地名からは生半可な類推しかできない。地名に「川」が含まれていても川があるとはかぎらないし、「江」が含まれていても海や湾が近くにあるとはかぎらない。「津」を含む地名は大昔が海だったというケースがほとんどで、今は海から遠く離れた高台にあって、津よりはむしろ丘と呼ぶにふさわしかったりする。


町名に「湯」を含んだまちに住んだことがあるが、湯は湧き出していなかった。銭湯はあったが、銭湯があるからと言っていちいち「湯」をつけるはずがない。そんなことをすれば、日本全国、「湯」のみならず、「酒」「米」「魚」のつく地名が溢れる。酒屋も米屋も魚屋もどこにでもあるのだから。今住む町には「泉」がつくが、あたりに泉は湧いておらず、泉の広場も見当たらない。但し、文献をひも解けば、一千年前までは泉が湧いていたなどという事実に突き当たる可能性はある。しかし、それはアドレスからわかる事実ではない。

家やマンションを買ったり借りたりする、あるいはどこかに旅してホテルやアパートに泊まる。住まいや行き先のアドレスは、だいたいではなく〈ありか〉がわかるように表記されていなければならない。しかし、実際のところ、ぼくたちの関心は、築何年とか間取りとかエクステリアの様子とかに始まり、大まかな〈場〉のステータスや評判、周辺環境やアクセスに至るまでの、アドレスにはない情報に向けられる。中心点としてのアドレスよりも周縁のほうが意味を持つ。歴史やエピソードは周縁的情報の類だ。

ところで、アドレスには、日本のように「県、市、区、町、丁目番地」と大概念から小概念へと降順的に並べる型と、アメリカのように「番地、町、市や群、州」と小概念から大概念へと昇順的に並べる型がある。前者には〈ありか〉の的を絞っていくプロセスが窺え、後者には〈ありか〉から始まってそれを定義していくプロセスが感じられる。今日のところはこれ以上深入りしないが、アイデンティティや帰属に対する考え方の違いだと思っている。

考えたことは少し残る

考えたことは少し残る。正確に言えば、「その時々に粘り強く考えたことだけが少し残る」。

かつて知識を得るには、本を読むかものをよく知っている他人の話を聞くかした。本を読んだり他人の話を聞いたりする人とそうしない人との間には、当然手持ちの知識に大きな差ができた。差はエネルギーの差でもあった。つまり、本を読むのも他人の話を聞くのも手間がかかる。

今は、さほど手間をかけずに、誰もが情報にアクセスできる。すべて読まずに、ラベルだけに目を通せば済む場合もあるし、コンテンツも自分の好みでボリュームを調節できるようになった。ストックされた知識に差はあっても、賞味期限の短い揮発性の情報に関してはさほど大きな差はない。雑談程度やSNSでバーチャルに付き合う程度の関係に限れば、みんな似たり寄ったりなのである。

「こんなことができるようになった。すごいねぇ。これからの時代はこうなるぞ!」 知識人でもこの程度のことしか言わないし書かない。自分なりに考えているような気配を感じない。「情報多くして人は考えない」というのはどうやら本当らしい。


考えなかったこと、考え足りなかったこと、世界をいろんな視点で見なかったこと……人生の後悔は考え方や見方に関することに集中している。読んだ本や他人の話の内容はあまり覚えていないが、その時々に考えたことは――考えたことだけ・・――いくばくか残っている。読んだ本は忘れてもいい。本のタイトルさえ覚えていれば、もう一度読めばいいのだから。しかし、考えなかったことを再現するすべはない。

哲学書を読むよりも、考える日々の生活に意味がある。考えるとは特別なことではなく、身近であり愉快であること、衒学的な知を格納するのではなく、生活の知として楽しむこと……。アリストテレスの『哲学のすすめ』を読んでほとんど何も記憶に残っていないが、読後の自分の着地点だけはよく覚えている。

考えることの深浅はあまり気にしなくてもいい。仮に稚拙で浅はかであっても考えるプロセスそのものが尊い。考えることで厄介なのは、考えたことを言い表わすことだ。いろんな思いが織りなされたにもかかわらず、たとえば「悲劇」と言ってみる。その一言で済まない思考を経たはずなのに、やむなく四捨五入してしまう。

あやのあることを細やかにことばで言い尽くせない。にもかかわらず、強引に一言で言い表わそうとすると、省察してきたことがあやふやになる。しかし、ことばにしがたい思考ニュアンスの諸々は、たとえそれがジレンマであっても、ことばにするしかないではないか。一言で仕留めるなどという無謀な方法ではなく、無駄だと承知の上で粘り強くことばを尽くしていく。思考とはこういうことなのだろう。だから考えたことは少し残ってくれるのである。