(……)すべてを偽と考えようとする間も、そう考えているこのわたしは必然的に何ものかでなければならない。そして「わたしは考える、ゆえにわたしは存在する〔ワレ惟ウ、故ニワレ在リ〕」というこの真理は、懐疑論者たちのどんな途方もない想定といえども揺るがしえないほど堅固で確実なのを認め、この真理を、求めていた哲学の第一原理としてためらうことなく受け入れられる、と判断した。(ルネ・デカルト『方法序説』)
ルネ・デカルトの「われ思う、ゆえにわれ在り」は、是非や賛否で片づけるのではなく、考察の一つの材料にするのがいいと思ってきた。「何もかもが虚偽でも、そう考えている自分の存在だけは確かである」――そうであるなら、われ笑う、われ食らう、われ歩く、われ一風呂浴びるのいずれの行為の場合も、「われ在り」が自覚できているような気がする。
われ思うの前に何かがあるはず。思うことができるのは、その前に語ったり書いたりするからではないか。つまり、「われ語り書く、ゆえにわれ思う」が経験的には真理と思われる。
「われ在り」が自己満足であってはならない。われは他者によって認知される存在でなければならない。他者に自分の思いが伝わっていなければ、自分の喜怒哀楽もわかってもらえない。他者は慮ってくれはするが、実感を共有してくれているとはかぎらない。だから「われは語り書く」のである。語ったり書いたりすれば、われの思いに耳を傾け、われがそこに在るのを見て取ってくれる可能性が高まる。ただぼんやり黙ってそこにいるのとは違って、語ったり書いたりすれば少なくとも「われはよりはっきりと在る」ことができるはずだ。
われ語らずして、またわれ書かずして、思考は存在しえないだろう。
デカルトは「われ思う、ゆえにわれ在り」を哲学の第一原理とした。これが第一原理としてもっともふさわしいと証明したのではなく、とりあえず第一原理としたのである。そこで、この第一原理から、韻を踏んで第二原理を導いてみた、おもしろおかしく……。
われ思う、ゆえにわれ在り。
Ware omou, yueni ware ari.
↓
Kare omou, yubeni wake ari.
彼思う、夕べにワケあり。
この第二原理の意味が悩ましく、解釈がいろいろと分かれる。









