人間の文化的抵抗

技術は何もかもお見通しではない。欠点を孕んでいるし弊害ももたらす。利便性と問題を抱えているから、これまた何もかもうまくいく保証のない〈弁証法〉的な手段によって改善を図ろうとする。

技術はどこに向かうのか? 〈どこ〉を確定することはできないが、陳腐化と刷新を繰り返しながら、これまでに通ったことのない道を突き進む。他方、人はどこに向かうのか? これまた〈どこ〉かわからないが、この道はいつか来た道に何度も戻ってきた過去がある。不可逆の技術と可逆の人間が対比される。

止揚しながら高度化する技術。ブレーキをかけて時々止まり、時々いつかの道に戻ってくる人間。人は戻って来て反省しようとするのだが、技術のことが気になってしかたがないから、戻ってきても技術の影を気にせずに反省するのは容易ではない。

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技術を〈文明〉として、人間を〈文化〉として眺めてみる。

文化は特定のコミュニティに固有の「生活の耕し」である。これに対して、文明は文化の構成員を包括的に束ねて集団を巨大化し、画一化しようとする。文化(culture)はコミュニティの農(agriculture)と不可分だった(だから「耕し」なのである)。文明(civilization)はコミュニティを超越する技(engineering)によって基盤を作ってきた。その基盤上に空間と時代を構築してきた。何もかもお見通しではないにもかかわらず。

文明は文化的な営みや地域社会を包括する。文明はつねに支配的である。文化的人間は市民として文明に組み込まれる。文明に包括されると、市民は“citizen”ではなく“civil”と化す。この“civil”はちゃんと文明の“civilization”に取り込まれている。

文化は時折り文明の対抗概念として、文明に支配されぬよう抵抗しなければならない。あるいは、文明に文化の価値を認めさせなければならない。文化にそれができた時代はあったが、巨大化した文明のもと、今日どんな方法があるのだろうか。

本――読書媒体以上のもの

電子書籍の是非について大学生にディベートをしてもらったことがある。当然、紙の書籍と比較する論点が出てくる。実生活では「紙の書籍vs電子書籍」の論議にほとんど意味はない。二者択一ではなく、上手に使い分ければ済むからである。

先日、大手書店の元店員さんが独立してオープンした小さな本屋に立ち寄った。新刊と古本のセレクトショップ。正直言って、ぼくの蔵書の3分の1にも満たない品揃えである。だが、読者層を絞って十分に吟味して並べているので、一冊の密度がかなり高い。パリの街角で覗いた書店も負けず劣らず狭かった。売られている冊数は少ないが、貴重なスペースを使って凝ったディスプレイを演出していたのが印象的だった。

棚から棚へと移動し、気になる本を手に取る。小さな本屋だからすべての本の背表紙に目配りできる。こうした小さな本屋が大手書店と趣を変え、若い店主らがそれぞれの書物観を具現化している。十分な利益が出そうもないことは明らかだが、本には経営者を儲け主義に走らせない何かがある。夢破れないようにと、応援のつもりでささやかな貢献をしている。

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本は売るだけのものではなく、また、買って読むだけのものでもない。装幀され、印刷され、製本された本。店主に選ばれて書棚に並べられ、読者を待ち受ける本。本は読書媒体以上の価値を内包する存在である。

書かれたコンテンツは言うまでもないが、コンテンツの魅力を支えるのは文章だけではない。書体とそのサイズ、挿絵や写真や飾り罫、紙の手触り、そして、何よりも、第一に目を引く題名が印された表紙と背表紙が、いや、それ以上のありとあらゆる要素が、一冊の本を設えている。

新本にインクの香りを感じ、古本にほのかにかびっぽい匂いを嗅ぐ。自宅に所蔵している本とは違う、古本特有のあの匂いに、前の所有者か愛読者の生活世界を垣間見ることもある。どんな人か知るすべもないが、ページをめくるたびにその人の見えない指紋をぼくの指がなぞっている。

電子書籍については、以上のように語ることはできない。経験と知識を持ち合わせていないからだが、それにもまして、エピソードになるような手触りや読み方がありそうな気がしないのである。

「お忙しそうですね」

この4月から今に至るまで、ここ数年で最も忙しい日々を送っている。灼熱の真夏まで続くはず。同齢の友人知人の大半が仕事を離れて暇を持て余しているのとは対照的だ。どっちがいいかは自分が決めるしかない。

嬉々として取り組める仕事と退屈きわまりない仕事があるが、総じて仕事というものは、難易度に関係なく、面倒を引き受けることではないか。他人の面倒を軽減する面倒見の良さが仕事の本質にほかならない。

スコットランドに「ハードワークで人は死なない。退屈が死を招く」という諺がある。近年、ハードワークが長時間労働と同義になってしまった感があるが、本来は密度と集中度のことだろう。したい仕事をやりきる能力があり、それが他人や社会へのミッションだと自覚するかぎり、ハードワークを拒む理由はない。面倒ではあるが、仕事を委託されているのであるから、ありがたいことである。

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世間には、働きたくないのに、縁故のおかげで働いている者がいる。能力もあり人一倍働きたいと思っているのに、職に就けない人もいる。働き方改革? その前に働くことの意味や仕事観について自ら考えてみてはどうか。さほど働いていない連中が真っ先に改革の対象になっているのは滑稽である。

「お忙しそうですね」と挨拶されても、「ええ、お陰さまで」などと無意味なことは言わない。イタリア人のように「ええ、不幸にして」とも言わない。「貧乏暇なしですから」と心にもない社交辞令など論外。「ええ、ハードワークしています。退屈よりはよほどましですから」と返す。忙という漢字は「心を亡くす」という構成になっているが、決してそんなことはない。むしろ、仕事をしていたら心は日々新たになる。心を亡くした人間に仕事が舞い込むはずがない。

仕事と生活は写像関係にあると思っている。時間観念、段取り、計画性、マメさ、好奇心、コミュニケーション、約束、電話のしかた……公私をまたいでよく似た考え方ややり方をしているものだ。今さら「ワークライフバランス」と教えられるには及ばない。クオリティ・オブ・ライフへの想いもクオリティ・オブ・ワークへの意識も本質的には同じなのである。

コーヒーの時間価値

「喫茶店でタバコを喫う。あれは煙をふかしているのではなく、実は時間を吸っているのだ」。誰がつぶやいたか忘れたが、妙に記憶に残っている。

タバコがそうなら、コーヒーを飲むのも時間的行為ではないか。眠気覚ましに、他人との談笑時に飲むコーヒーは、コーヒーを飲むと同時に、時間もたしなんでいると言えそうだ。

オフィスを改造してブックカフェ風の勉強部屋を設えてから一年になる。日々の仕事の絵模様を変えるためにいろいろと新しいことを始めたが、コーヒーについての考え方、コーヒーの飲み方を変化させたのが意味深かったと思っている。コーヒーに関する本棚にはおよそ20冊の本が並ぶ。

時間に余裕があれば、来客をコーヒーと雑談でもてなす。コーヒー、それとも紅茶? などとは聞かない。黙ってコーヒーしか出さない。砂糖もミルクも出さない。コーヒーのダメな人は紅茶とかウーロン茶と言ってくれればいい(どちらも常備している)。

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常時数種類のコーヒーを買い置きしてあり、気分によって飲み分ける。朝一番にキリマンジャロを飲み、午後に来客があれば、たとえば「インドモンスーンを淹れましょう」と言う。

数年前に“A Film about Coffee”というドキュメンタリー映画を観てから、おいしく飲むために素人ながら一工夫するようになったし、生産から輸入、カフェに携わる人たちをリスペクトするようになった。映画の中で「17ドルがリーズナブル」とプロが語る場面がある。同意する。チェーン店のスイッチ一押しのコーヒー4杯を飲むなら、上等のコスタリカ1杯がいい。プロにはかなわなくても、自分で淹れれば、スペシャリティコーヒーでも原価100円未満で味わえる。

少ない日でも3杯飲み、多い日には5杯飲むコーヒー習慣。朝の1杯目に理由はない。もはやしきたりのようになっているからだ。しかし、2杯目以降の飲み方はいい加減だった。何となくの1杯、癖のような1杯、手持ちぶさたの1杯、しかたのない1杯……。すべて見直した。

「コーヒーでも・・飲むか……」の「でも」を追放した。それぞれのカップに意味づけできなければ、コーヒーは飲まない。どの豆のコーヒーを飲むか、もし一人でなければ誰と飲むかと少考するのも時間価値だとつくづく思う。

学ぶだけでいいのか?

「今日は大きな学びをいただきました」と受講生が言う。「学びをいただきました、以上」。それでいいのか、それだけでいいのか?

研修を受ける社会人は大いに学んでいる。学びはたいせつと言う。その通りである。しかし、社会人なら学びの前に何がしかの知見を意識的にスタンバイさせておくべきだ。実際はそうではなく、大半が手ぶらで研修に臨む。学んだ知識模様で白紙を染めるだけ。知識は熟成することなく、結局ハウツーを手っ取り早く職場で試すのが精一杯。

ハウツーは陳腐化するから、うまくいかなくなると次なる学びに赴く。研修マニアには凝り性の飽き性が多い。どんなに学んでも元の木阿弥。本を読むのも同じこと。はじめに構想や知見があってこその上手な読み方なのである。

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誰かの書いた文章、誰かが話した事柄を記録し反芻することに異議はない。しかし、土台となる自分の能力や経験のことを忘れてはいけない。自分なりに「料理」しなければ何事も起こらない。本も他人の話も材料にすぎない。料理してこその素材である。

料理というのは構想であり、着眼である。素材を見つけて選ぶことであり、組み合わせ、手順を決めて仕上げることである。学びは料理を以て初めて自分のものになる。

学びから料理へと話を突然変えたのではない。料理とは「ことわりはかる」こと。いかにも論理的で化学的ではないか。なるほど、かつて料理は考えるという意味で使われたことに頷ける。自ら考えるという料理をしなければ、学びという食材を生かすことはできないのである。

愉快がる生き方

ジョージ・クルックシャンク(1792-1878)は英国の諷刺画家であり挿絵画家。絵画展に行ってきた。彼の作品は時代を反映した諷刺画なので、時代考証を踏まえないと読み解くのが難しい。けれども、小難しい意味を棚上げしてひとまず鑑賞してみる。精細なエッチング技法が描き出す雰囲気は理屈抜きに微笑ましい。大いに愉快な気分にさせられた。

愛想笑いで場をやり過ごす人を見受けるが、実に情けないと思う。笑うに値しなければにこりともしなければいいではないか。社交辞令と妥協は愉快の敵だ。愉快がるのは条件反射的におもしろいと感じ、あるいは本心からおもしろいと思うからである。

趣味も仕事もおもしろいから続けられるのであり、続けているうちに愉快がる技術が身についてくる。ちなみに、難しさとおもしろさは相反しない。むしろ、容易にうまくいかないとかなかなか上達しないことは愉快の条件でさえある。

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どんな些事であれ、小さな雑学であれ、知に貪欲であろうとする他者を小馬鹿にしない。目くじらを立てて饒舌に語る青二才を嘲笑しない。そういう姿勢を保っていると、愉快領域が広がってくる。愉快だと思わないのは、己の鈍感かもしれないとたまには自省してみる必要がある。

人が何かに凝るのは、理屈ではなく、愉快だからである。どこがおもしろいのかと他人に思われようと、ぼくは愉快だから散歩し、愉快だから珍しいものを食べ、愉快だから談論風発する。大仰な志に動かされているのではない。

人生の究極は幸福であると喝破したアリストテレスにあやかれば、日々生きていけるのは愉快だからであり、愉快が幸福に近いからである。愉快がっていれば、早晩、辛さや難しさが軽くなる。軽くなるかもしれない辛さや難しさを回避していては、幸福の権利を放棄したも同然だ。

食事の更新、意味の熟成

あっという間に半日、一日が過ぎる。今日のように休日に仕事をしていても、仕事そのものを愉しみとしながら、ああすればよかった、えらく遠回りしてしまったなどと、自責と後悔の念に駆られる。

休みの日に映画を観て、文具店と書店に立ち寄り、カフェに入って本を読みノートに駄文をしたためる。コーヒーを味わい小さなパンをつまむ。夕方にはマルゲリータでワインを飲む。見方によっては、無為徒食と一線を引くのが難しい一日の過ごし方だ。

それでもなお、無為に日々が過ぎていたとしても、決して徒食してはいないという自覚がある。とびきりの充実感に満たされているわけでもないが、そんな一日でも小さな意味の断片が織り成されていることに気づく。

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生きているかぎり――生きようとしているかぎり――毎日何度か口に食べものを運ぶ。「最愛の夫を亡くした未亡人もお通夜を終えておむすびを口に入れる」と誰かが言った。人は食べる。そして、そのことに無関心であってはいけないし、何をどう食べるかになまくらであってはいけない。衣食住のうち、衣と住の更新に比べれば、食の更新ほど頻繁なものはない。食の更新が一見慢性的な日々の意味を少しずつ熟成させていると思われる。

朝から考え抜いて書き上げた仕事を振り返り、やり切った感には程遠い。考えて書くことに意味なしとは思わないが、昼につまんだ質素なひじきのおにぎりの意味の熟成ぶりには及ばない。

グルメを貪るという食ではなく、日々の生き方における食。食がつまらなくなる時、たぶん日常はすでにつまらなくなっている。大した仕事はできなかったが、今夜も夕ご飯が更新される。

可能的なこと

勘違いしてはいけない。不可能が可能になるのではない。もともと可能的なものが現実に可能になるのである。

〈不可能〉に挑戦すると言えば、聞こえはいい。しかし、いきなり〈不可能〉に? 性懲りもなく〈不可能〉に? そんな時間があるのなら、今はできていないが、何となくできそうな予感が湧くことから始めるのが筋ではないか。

不可能だと思っていたことが可能にならないわけではない。先入観で勝手に不可能のラベルを貼っていたことが、何かのきっかけでラベルが剥がれる。あるいは、実際に何度かチャレンジしてできなかったが、その後技能が向上してある日できるようになることもある。

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しかし、再びよく考えてみよう。できないことにはいろいろなレベルがある。不可能としか思えないこともあれば、不可能と断定できないこともある。他にいろいろやらねばならないことを抱えている時に敢えて前者に挑む理由はなく、可能的なことにひとまず着手してみるのが妥当だろう。

どちらの食材も食したことはないが、食べられないと思うものと、食べられるかもしれないものを比較して、ぼくたちは食べられそうなものから口に入れる。食べ物は目に見えたり触れたりできる現実だからわかりやすい。しかし、不可能や可能というラベルで現れてくるのは「もの」ではなく「こと」。見えづらく摑みづらい。よくわからない。そして、よくわからないことに対して、人は何となく不可能なほうを選んでしまうものだ。

もし類まれな眼力が授けられるなら、不可能なことと可能的なこと――できそうもないこととできそうに思えること――を見分けることに役立てたいと思う。「人生は短い」とセネカは言った。これまでの経験と持ち合わせている才能をよく見極めて、可能的なこと――何の根拠もないが、不可能よりもよほどましだと予感すること――に力を注ぎたい。

多様性という逃げ道

「個々特有の性質や事情を考慮せず、何がしかの規格に従って全体やすべてを一様にそろえること」。これを画一という。画一には「主義、的、化、性」などの接尾語が付くことが多い。こんな接尾語がくっついてしまうと、ただでさえわかりづらい概念がいっそうわけがわからなくなる。

かつて画一がもてはやされた時代があった。画一的に大量生産されたテレビを買い、画一的価値観を持つ大衆が画一的な番組を見、画一的な居間で画一的な感想を述べ合い、画一的な喜怒哀楽を分かち合った。当然反作用が起こり、高度成長時代の真っただ中に生きた世代には画一という現象とことばにアレルギーを持つ者が少なくない。

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反作用は当然ながら「多様」へと向かった。多様性は今では絶対的に歓迎されているかのようである。生き方の多様性、場や役割の多様性、意見の多様性、何よりも種としての人間の多様性……。グローバルという、一見画一的に世界を眺望する捉え方も、根っこのところでは多様性を前提としている。

反面、この多様性を肯定することが、公平や平等などと同じく、その万能性によって逃げ道を用意することになる。つまり、「多様性はいいことだ」と言い終えて黙り、他に何も言わない。高度成長時代の「大きいことはいいことだ」を暗黙のうちに認めたのと同じような空気が漂う。

「多様性はいいことだ」。たしかに。しかし、多様性ゆえにどうなのだ、どうするのかという問いが続かねばならない。多様性の時代や社会でいったい何を決断し何に向かっていくのか――このことが不問に付されている。多様性は固有の価値を見つけられない者にとっては逆風になることを忘れてはいけない。

ハイコンテクスト文化考

「例の件、ひとつよろしく」「了解しました」

これで会話完了。お互いにわかっている(少なくとも、わかり合えていると思っている)。このようなコミュニケーション習慣が当たり前になっている状態を〈ハイコンテクスト文化〉と呼ぶ。

コンテクストとは文脈や行間のこと。それが「ハイ」であるとは、文化的に規定され共有されている要素が多いことを意味する。つまり、他の文化圏から見れば抽象的でよくわからないのだが、ハイコンテクスト文化の人たちなら何から何まで言わずとも、断片的情報だけでおおよそのことが伝わり、またお互いの意図を察することができる。みなまで言うのは野暮、ことば少なめな「察しの美学」こそが洗練だと見なす。

この逆が〈ローコンテクスト文化〉である。共有認識できていることが少なく、含意的な文脈や行間が現れたらそのつど読まなければならない。読むためには情報が必要である。したがって、ローコンテクスト文化の構成員はお互いに情報を増やしてコミュニケーションし、物事を以心伝心ではなく、具体的に語り尽くすのである。

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ハイコンテクスト文化だから情報やコンテンツがいらないというわけではないが、情報やコンテンツを省略する傾向が強くなる。ハイコンテクストが極まると、言わなくてもいいことはしつこく繰り返すが、言わねばならないことにはあまり触れない。写真一枚だけを見せることはあってもキャプション(説明文)で補おうとしない。

コンテクストがハイであろうとローであろうと、コミュニケーションは何がしかの共有コンテンツを前提にしておこなわれている。共有コンテンツが多ければことばは少なくて済み、共有コンテンツが少なければ、足りない分をことばで補充しなければならない。五七五で伝わることもあれば、いくらことばを蕩尽しても伝わらないことがある。しかし、たとえばビジネスシーンでは五七五ではいかんともしがたく、微に入り細に入り饒舌気味に語り合わねばならない。

ハイコンテクスト文化でも世代間には異質性が認められる。たとえば「山と言えば何?」と問う。符牒だと察して「川」と反応する高齢者に対して、若者は「緑」や「高い」と答える。ITが加わってコミュニケーション形態が多様化した現在、同じ世代にあっても、口頭では多くを語らないが膨大なメール文を交わす者もいれば、その逆もある。ともあれ、伝わるはずと信じて言を慎んでいてはリスクは増大するばかりである。