オリジナルと修復


「お客さん、この年代物の斧を買ってくださいよ」

「なんだい、それは?」
「これは、かのジョージ・ワシントンが桜の木を切った斧です」
「ほう、よくも今まで残っていたもんだな。ほんとうに正真正銘なのかい?」
「そりゃ、もちろん! ただ、270年も経ってますんで、斧を2回、3回ばかり交換したそうです。だから、丈夫なことは請け合いますよ」

哲学の本質論に通じるエピソードである。アンティーク価値云々はさておき、この斧はワシントンの斧なのか、それとも別の斧なのか? もはやオリジナルの部材は残っていない。だから、ワシントンの斧と呼ぶには躊躇するむきもあるだろうが、もし話が真実なら、偽物やコピーとは一線を画しているし、ワシントンの斧というブランドが差異化されている。ブッシュやトランプの斧ではないのだ。

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伊勢神宮では遷宮せんぐうがおこなわれる。正殿や社殿が20年毎に造り替えられる。1300年にわたって数十回やり替えて今に到っている。見た目の原形は同じだが、当初の建築資材は微塵も残っていない。あれは伊勢神宮なのか? 物的にはそうではない。しかし、偽物ではない。鎮座するのは伊勢神宮というブランドではないか。

継ぎ足して使っている鰻のたれやおでんの出汁。何十年か知らないが、創業時のたれの一匙も出汁の一滴も残っていない。にもかかわらず、「代々継ぎ足して、創業時と変わらぬ味を守っています。店主敬白」。

フィレンツェのサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会の壁画と言えば、あの有名な『最後の晩餐』。レオナルド・ダ・ヴィンチが描いて1498年に完成した。ところが、壁画の定番技法であるフレスコではなく、テンペラ画だったため、想定外の劣化が進んでしまった。完成後わずか十数年でひどい状態になったという。何度も小さな修復を重ねてきたが、いかんともしがたく、ついに20年以上の歳月をかけて大修復をおこなう。現在の最後の晩餐は20世紀の終わりに仕上がった。

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生まれた時のオリジナルな細胞は人体のどこにも残っていない。しかし、人はずっと昨日の自分と今日の自分は同じだと信じて生きている。では、自分を自分たらしめている不変の本質とは何かと問うてみよう。その瞬間戸惑い、自分の考えている本質がいかに漠然としたものかを思い知る。本質とは、体ではなく、名であるという主張もあながち誤りではない。

食べること

仕事を大いに楽しめる時がある一方で、捗らない、やり直しが多い、締切に追われるなど、仕事で消耗することもある。逃げ出したい気分になることも少なくない。しかし、長い目で見れば、仕事の特徴はほどよい喜怒哀楽であることがわかる。つらいことがあって楽しいこともあるのが仕事なのだ。もう何十年も山あり谷ありを経験して今に到っているから、よく承知しているつもり。

つらい仕事から逃避して仕事以外の慰みで相殺しようとしても、結局仕事のつらさは緩和しない……仕事のストレスは仕事の中で解消すべきなのだ……という硬派な意見がある。一理以上の理があると肯定するが、凡人が仕事のつらさを仕事の楽しさによって克服するのは容易ではない。仕事の外にくつろぐ場面や楽しみの拠り所を求めるのもやむをえない。

食事の場面がまさしくそれで、食べることが楽しみの拠り所になるのである。食べることは、仕事を内蔵した生きることと不可分の行為なのだ。しかも、わずかな例外を除いて、一日に三度、決まったようにその機会がやってくる。食事は仕事の前、途中、後にやってきて、その時間割は仕事を包み込んでいる。

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池波正太郎の『男のリズム』に「食べる」という小文があり、天婦羅や鮨の食べ方について独特の薀蓄が書かれているが、その冒頭は次のように神妙な切り口で始まる。

人間は、生まれると同時に、確実に〔死〕へ向って歩みはじめる(……)その〔死〕への道程をつつがなく歩みきるために、動物は食べねばならぬ。これほどの矛盾があるだろうか。

いずれ死ぬことはわかっている。死を前提として生きており、生きるために他の命を積極的にあやめて食べている。生きるために食べていると同時に、死を前提として食べているのである。

いかにも、食べることは生死に密に関わっている。そして、死生観について語ろうとすれば、形而上学的な屁理屈だけではなく、必然的に日に三度の現実的な食べることによって大部分かたどられるはずである。食べることに恵まれ積極的に楽しめるのは、限られた生の、刻一刻の至福にほかならない。

あれこれが嫌いなどというのは、食べることの――ひいては生きることの――冒瀆であり傲慢な態度である。食べることは人生と同じ重さであり、食べることには精神の横溢がある。仕事観も人生観もポジティブにならざるをえない。「生きるために食べるのか、食べるために生きるのか」という古典的な問いがあるが、答は明白、その両方だ。言うまでもなく、仕事は生きることに含まれているから、「人は食べるために仕事をし、仕事をするために食べる」も真である。

本と読書の雑感

本と読書はイコールではない。読書は本のしもべ的行為にすぎない。読書は文字を相手にするが、本は文字だけを扱っているのではなく、読む対象として存在しているだけではない。見て選び、装幀やデザインを楽しみ、紙の手触りを感じ、かつ所蔵して背表紙を眺める多様な対象なのである。
本という存在は読書行為以上のものなのだ。したがって、買いっ放しの積んどく状態や書棚に並べっ放し状態を恥じるには及ばない。

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書くには表現語彙が、読むには認識語彙が必要。表現語彙が乏しくても、認識語彙はその数倍あるから本が読めるのである。
どんなビールの味かと聞かれて「うまい」としか言えない者でも、辛口、キレ味、サラミソーセージに合う、のどに沁みるという表現を認識することができる。書けないが読めばわかる能力が読書を可能にしている。

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読書の季節と言えば、秋ということになっている。いつの頃からか、1027日から119日の2週間が読書週間とされるようになった。ちゃんと文化の日が挟まれている。本など読む気がまったく起こらなかった夏場が過ぎてほぼ一ヵ月、脳もようやくクールダウンしてリフレッシュする季節だ。
しかし、読書週間・・に触発されても読書習慣・・は易々と身に付かない。暇人か書評家を除いて、普段読書に勤しまない者は2週間で23冊読めれば御の字だろう。読書週間だからと張り切るよりも、全天候型で少しずつ読むのがいい。

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どんな本も多かれ少なかれ偽書である。『偽書百選』は、かつて存在しなかった本をでっち上げ、一冊一冊の偽書に丁寧な書評を創作した作品。読んでいるうちに、偽書であるか「真書」であるかは本質ではなくなってくる。フィクションという作品もまさにそういう類。
『ジョークに笑えない戸惑い』という本を実在の著者が実名で書いたとする。それを「テレ・カクシー著、井伊嘉元訳」という偽名で発表したとしても、何が大きな違いなのかはよくわからない。

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読まねばならないという強迫観念から脱した時にはじめて読書の意味がわかってくる。三島由紀夫の『仮面の告白』、太宰治の『人間失格』、夏目漱石の『こころ』、コナン・ドイルの『シャーロック・ホームズの冒険』を読むべし、読み返すべしと誰かに言われても、言われるがままに読めるわけがない。
気まぐれに本を手に取り、時にはゆっくり、時には飛ばしながら読む。著者が一気に書き上げていない本を一気に読まなければならない理由などない。

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誰かに薦められるまま本を素直に読んでいては、読書の妙味を失うことになる。何を読むかと迷いながら自ら選ぶ時に幸せになり、決断して買う時にさらに幸せになり、本に囲まれて背表紙を見てもっと幸せになる。やがて、幸せが極まって読み始める。ところが、読み終わったら幸福感が消えることがある。バカになっていたりすることもある。読む前の本は裏切らないが、読書は裏切ることがあるので要注意だ。

危うい一般化

笑みを湛えて、おやつとおにぎりをもぐもぐ食べる。そして、かつてソフトボールにも併行して打ち込んでいた女子ゴルファーなら全英女子オープンで優勝できる……。早速自分の娘にもそうさせようという親が出てくる。きわめて滑稽な一般法則の一丁上がり。

英語で“hasty generalization”と言う。こなれた日本語になりにくく、〈早まった一般化〉と訳されるが、論理用語としてぎこちない。思慮不足の一般化、軽はずみな一般化、慌て者の一般化、性急な一般化と訳しても間違いではない。

小さな個別事例をほんの少し――極端な場合はわずか一つ――だけ挙げて、そこから大きな結論を導く誤謬のこと。導かれた結論が妥当なことも稀にあるが、ほとんどまぐれ当たり。「雲が出てきた。雨が降るだろう」という類推が仮に当たりだとしても、調子に乗ってはいけない。一例を以て一般化するのは危うい。

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「みたらし団子が売られている」というたった一例から「和菓子店である」と導くのも慌てすぎ。今ではコンビニや百円ショップでもみたらし団子が売られている。では、みたらし団子、最中、羊羹、饅頭、大福餅と列挙したら和菓子店と言い得るか。そうかもしれないが、デパートの和菓子コーナーの可能性も否定できない。ならばとばかりに、桜餅、三色団子を加え、ついでに老舗の暖簾、店頭での今川焼の実演まで列挙してみる。何が何でも和菓子店にしてしまいたいのか。

しかし、こんなふうにデータをとことん積み重ねたら、事実に語らせることと同じ。早まって虚偽の結論を導いてはいけないが、ここまで慎重に構えて事例を増やして結論したら、現場調査みたいなもので、机上での推論の技がまったく活用されないことになる。情報不足にも問題はあるが、かと言って、情報過剰でものを考えるのはつまらない。

全英女子オープン優勝の条件の選び方にそもそも問題がある。プレイ中のもぐもぐよりも練習の度合や技術のほうが重要だ。商品ばかり並べたてるのではなく、和菓子屋の最たる特徴を他に探すべきである。かつて松下幸之助の成功要件として「貧乏な家に生まれ、病弱で、学歴がなかった」を挙げた人がいた。才覚や人付き合いを差し置いたのは、逆境から這い上がる人生の劇画的美化を求めたからだろう。成功美談は早まった一般化の産物と相場が決まっている。

人間の文化的抵抗

技術は何もかもお見通しではない。欠点を孕んでいるし弊害ももたらす。利便性と問題を抱えているから、これまた何もかもうまくいく保証のない〈弁証法〉的な手段によって改善を図ろうとする。

技術はどこに向かうのか? 〈どこ〉を確定することはできないが、陳腐化と刷新を繰り返しながら、これまでに通ったことのない道を突き進む。他方、人はどこに向かうのか? これまた〈どこ〉かわからないが、この道はいつか来た道に何度も戻ってきた過去がある。不可逆の技術と可逆の人間が対比される。

止揚しながら高度化する技術。ブレーキをかけて時々止まり、時々いつかの道に戻ってくる人間。人は戻って来て反省しようとするのだが、技術のことが気になってしかたがないから、戻ってきても技術の影を気にせずに反省するのは容易ではない。

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技術を〈文明〉として、人間を〈文化〉として眺めてみる。

文化は特定のコミュニティに固有の「生活の耕し」である。これに対して、文明は文化の構成員を包括的に束ねて集団を巨大化し、画一化しようとする。文化(culture)はコミュニティの農(agriculture)と不可分だった(だから「耕し」なのである)。文明(civilization)はコミュニティを超越する技(engineering)によって基盤を作ってきた。その基盤上に空間と時代を構築してきた。何もかもお見通しではないにもかかわらず。

文明は文化的な営みや地域社会を包括する。文明はつねに支配的である。文化的人間は市民として文明に組み込まれる。文明に包括されると、市民は“citizen”ではなく“civil”と化す。この“civil”はちゃんと文明の“civilization”に取り込まれている。

文化は時折り文明の対抗概念として、文明に支配されぬよう抵抗しなければならない。あるいは、文明に文化の価値を認めさせなければならない。文化にそれができた時代はあったが、巨大化した文明のもと、今日どんな方法があるのだろうか。

本――読書媒体以上のもの

電子書籍の是非について大学生にディベートをしてもらったことがある。当然、紙の書籍と比較する論点が出てくる。実生活では「紙の書籍vs電子書籍」の論議にほとんど意味はない。二者択一ではなく、上手に使い分ければ済むからである。

先日、大手書店の元店員さんが独立してオープンした小さな本屋に立ち寄った。新刊と古本のセレクトショップ。正直言って、ぼくの蔵書の3分の1にも満たない品揃えである。だが、読者層を絞って十分に吟味して並べているので、一冊の密度がかなり高い。パリの街角で覗いた書店も負けず劣らず狭かった。売られている冊数は少ないが、貴重なスペースを使って凝ったディスプレイを演出していたのが印象的だった。

棚から棚へと移動し、気になる本を手に取る。小さな本屋だからすべての本の背表紙に目配りできる。こうした小さな本屋が大手書店と趣を変え、若い店主らがそれぞれの書物観を具現化している。十分な利益が出そうもないことは明らかだが、本には経営者を儲け主義に走らせない何かがある。夢破れないようにと、応援のつもりでささやかな貢献をしている。

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本は売るだけのものではなく、また、買って読むだけのものでもない。装幀され、印刷され、製本された本。店主に選ばれて書棚に並べられ、読者を待ち受ける本。本は読書媒体以上の価値を内包する存在である。

書かれたコンテンツは言うまでもないが、コンテンツの魅力を支えるのは文章だけではない。書体とそのサイズ、挿絵や写真や飾り罫、紙の手触り、そして、何よりも、第一に目を引く題名が印された表紙と背表紙が、いや、それ以上のありとあらゆる要素が、一冊の本を設えている。

新本にインクの香りを感じ、古本にほのかにかびっぽい匂いを嗅ぐ。自宅に所蔵している本とは違う、古本特有のあの匂いに、前の所有者か愛読者の生活世界を垣間見ることもある。どんな人か知るすべもないが、ページをめくるたびにその人の見えない指紋をぼくの指がなぞっている。

電子書籍については、以上のように語ることはできない。経験と知識を持ち合わせていないからだが、それにもまして、エピソードになるような手触りや読み方がありそうな気がしないのである。

「お忙しそうですね」

この4月から今に至るまで、ここ数年で最も忙しい日々を送っている。灼熱の真夏まで続くはず。同齢の友人知人の大半が仕事を離れて暇を持て余しているのとは対照的だ。どっちがいいかは自分が決めるしかない。

嬉々として取り組める仕事と退屈きわまりない仕事があるが、総じて仕事というものは、難易度に関係なく、面倒を引き受けることではないか。他人の面倒を軽減する面倒見の良さが仕事の本質にほかならない。

スコットランドに「ハードワークで人は死なない。退屈が死を招く」という諺がある。近年、ハードワークが長時間労働と同義になってしまった感があるが、本来は密度と集中度のことだろう。したい仕事をやりきる能力があり、それが他人や社会へのミッションだと自覚するかぎり、ハードワークを拒む理由はない。面倒ではあるが、仕事を委託されているのであるから、ありがたいことである。

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世間には、働きたくないのに、縁故のおかげで働いている者がいる。能力もあり人一倍働きたいと思っているのに、職に就けない人もいる。働き方改革? その前に働くことの意味や仕事観について自ら考えてみてはどうか。さほど働いていない連中が真っ先に改革の対象になっているのは滑稽である。

「お忙しそうですね」と挨拶されても、「ええ、お陰さまで」などと無意味なことは言わない。イタリア人のように「ええ、不幸にして」とも言わない。「貧乏暇なしですから」と心にもない社交辞令など論外。「ええ、ハードワークしています。退屈よりはよほどましですから」と返す。忙という漢字は「心を亡くす」という構成になっているが、決してそんなことはない。むしろ、仕事をしていたら心は日々新たになる。心を亡くした人間に仕事が舞い込むはずがない。

仕事と生活は写像関係にあると思っている。時間観念、段取り、計画性、マメさ、好奇心、コミュニケーション、約束、電話のしかた……公私をまたいでよく似た考え方ややり方をしているものだ。今さら「ワークライフバランス」と教えられるには及ばない。クオリティ・オブ・ライフへの想いもクオリティ・オブ・ワークへの意識も本質的には同じなのである。

コーヒーの時間価値

「喫茶店でタバコを喫う。あれは煙をふかしているのではなく、実は時間を吸っているのだ」。誰がつぶやいたか忘れたが、妙に記憶に残っている。

タバコがそうなら、コーヒーを飲むのも時間的行為ではないか。眠気覚ましに、他人との談笑時に飲むコーヒーは、コーヒーを飲むと同時に、時間もたしなんでいると言えそうだ。

オフィスを改造してブックカフェ風の勉強部屋を設えてから一年になる。日々の仕事の絵模様を変えるためにいろいろと新しいことを始めたが、コーヒーについての考え方、コーヒーの飲み方を変化させたのが意味深かったと思っている。コーヒーに関する本棚にはおよそ20冊の本が並ぶ。

時間に余裕があれば、来客をコーヒーと雑談でもてなす。コーヒー、それとも紅茶? などとは聞かない。黙ってコーヒーしか出さない。砂糖もミルクも出さない。コーヒーのダメな人は紅茶とかウーロン茶と言ってくれればいい(どちらも常備している)。

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常時数種類のコーヒーを買い置きしてあり、気分によって飲み分ける。朝一番にキリマンジャロを飲み、午後に来客があれば、たとえば「インドモンスーンを淹れましょう」と言う。

数年前に“A Film about Coffee”というドキュメンタリー映画を観てから、おいしく飲むために素人ながら一工夫するようになったし、生産から輸入、カフェに携わる人たちをリスペクトするようになった。映画の中で「17ドルがリーズナブル」とプロが語る場面がある。同意する。チェーン店のスイッチ一押しのコーヒー4杯を飲むなら、上等のコスタリカ1杯がいい。プロにはかなわなくても、自分で淹れれば、スペシャリティコーヒーでも原価100円未満で味わえる。

少ない日でも3杯飲み、多い日には5杯飲むコーヒー習慣。朝の1杯目に理由はない。もはやしきたりのようになっているからだ。しかし、2杯目以降の飲み方はいい加減だった。何となくの1杯、癖のような1杯、手持ちぶさたの1杯、しかたのない1杯……。すべて見直した。

「コーヒーでも・・飲むか……」の「でも」を追放した。それぞれのカップに意味づけできなければ、コーヒーは飲まない。どの豆のコーヒーを飲むか、もし一人でなければ誰と飲むかと少考するのも時間価値だとつくづく思う。

学ぶだけでいいのか?

「今日は大きな学びをいただきました」と受講生が言う。「学びをいただきました、以上」。それでいいのか、それだけでいいのか?

研修を受ける社会人は大いに学んでいる。学びはたいせつと言う。その通りである。しかし、社会人なら学びの前に何がしかの知見を意識的にスタンバイさせておくべきだ。実際はそうではなく、大半が手ぶらで研修に臨む。学んだ知識模様で白紙を染めるだけ。知識は熟成することなく、結局ハウツーを手っ取り早く職場で試すのが精一杯。

ハウツーは陳腐化するから、うまくいかなくなると次なる学びに赴く。研修マニアには凝り性の飽き性が多い。どんなに学んでも元の木阿弥。本を読むのも同じこと。はじめに構想や知見があってこその上手な読み方なのである。

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誰かの書いた文章、誰かが話した事柄を記録し反芻することに異議はない。しかし、土台となる自分の能力や経験のことを忘れてはいけない。自分なりに「料理」しなければ何事も起こらない。本も他人の話も材料にすぎない。料理してこその素材である。

料理というのは構想であり、着眼である。素材を見つけて選ぶことであり、組み合わせ、手順を決めて仕上げることである。学びは料理を以て初めて自分のものになる。

学びから料理へと話を突然変えたのではない。料理とは「ことわりはかる」こと。いかにも論理的で化学的ではないか。なるほど、かつて料理は考えるという意味で使われたことに頷ける。自ら考えるという料理をしなければ、学びという食材を生かすことはできないのである。

愉快がる生き方

ジョージ・クルックシャンク(1792-1878)は英国の諷刺画家であり挿絵画家。絵画展に行ってきた。彼の作品は時代を反映した諷刺画なので、時代考証を踏まえないと読み解くのが難しい。けれども、小難しい意味を棚上げしてひとまず鑑賞してみる。精細なエッチング技法が描き出す雰囲気は理屈抜きに微笑ましい。大いに愉快な気分にさせられた。

愛想笑いで場をやり過ごす人を見受けるが、実に情けないと思う。笑うに値しなければにこりともしなければいいではないか。社交辞令と妥協は愉快の敵だ。愉快がるのは条件反射的におもしろいと感じ、あるいは本心からおもしろいと思うからである。

趣味も仕事もおもしろいから続けられるのであり、続けているうちに愉快がる技術が身についてくる。ちなみに、難しさとおもしろさは相反しない。むしろ、容易にうまくいかないとかなかなか上達しないことは愉快の条件でさえある。

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どんな些事であれ、小さな雑学であれ、知に貪欲であろうとする他者を小馬鹿にしない。目くじらを立てて饒舌に語る青二才を嘲笑しない。そういう姿勢を保っていると、愉快領域が広がってくる。愉快だと思わないのは、己の鈍感かもしれないとたまには自省してみる必要がある。

人が何かに凝るのは、理屈ではなく、愉快だからである。どこがおもしろいのかと他人に思われようと、ぼくは愉快だから散歩し、愉快だから珍しいものを食べ、愉快だから談論風発する。大仰な志に動かされているのではない。

人生の究極は幸福であると喝破したアリストテレスにあやかれば、日々生きていけるのは愉快だからであり、愉快が幸福に近いからである。愉快がっていれば、早晩、辛さや難しさが軽くなる。軽くなるかもしれない辛さや難しさを回避していては、幸福の権利を放棄したも同然だ。