足下を見つめてみた

この時世、協働パートナー以外の人たちとここ一カ月ほとんど会っていない。目を向けるのは見えざる情報世界ばかりで、現実の生活周辺への視界は決して良好ではない。かろうじて足下だけが見える。そこから思いつくまま思い出すまま断章を綴る。


🖋 「今日の忍耐、明日の希望」「今日の焦り、明日の絶望」。今日とは今日のことだが、明日はずっと先までの未来の比喩。

🖋 巨大な建物は、意識せずとも、正面からそこに近づけば必然見える。しかし、巨大な建物を背にした格好で、たとえばメトロから地上に出ると、どれだけ大きくても見落としてしまう。背を向ければ、対象が巨大であろうと微小であろうと同じ。
まあ、建物に気づかないことくらい大した問題ではない。大切だが見えづらいものを見損じるほうが恐いのだ。

🖋 周りを過剰に気にして、何に対しても様子を窺っていると「左顧右眄さこうべん」に陥って決心がつかない。何を見て何を見ずに済ませるかは、自分の立ち位置、社会や他者へのまなざしが決める。

🖋 Give and takeギブアンドテイクであってはならない。ギブは主体的であってもいいが、テイクはそうではない。取るのではなく、授かるのである。ゆえにGive and givenギブアンドギブンでなければならない。価値を提供したら、その価値に見合ったほどよい対価を授かるのである。取りに行ってはいけないし、取れると思ってもいけない。

🖋 数年前に『欲望の資本主義』をテーマにしたドキュメンタリー番組を見た。「現代は成長を得るために安定を売り払ってしまった」という一言が印象に残る。これに倣えば、「現代は今日の欲望を得るために明日の活力を前借りする」とも言えるだろう。

🖋 その番組中に語られた比喩的エピソードをふと思い出した。アレンジしてみると、次のような話だった。
金曜日の夜に酒を飲む。もう一軒行こう、カラオケに行こうとテンションを上げてエネルギーを消費する。しかし、このエネルギーは飲めや歌えやの勢いで生まれたわけではない。土曜日に使うべきエネルギーを金曜日の夜に前借りしたのである。

🖋 足下あしもとを見つめてみたら、生活の大半は不要不急であることがわかる。経済は、不要不急の大いなる欲望によって成長してきたにすぎない。

票数と点数

ある種のコンペティションでは、審査員の採点の合計点数で最優秀を決める場合が多い。入札や評価型スポーツ(スキーのジャンプ、フィギュアスケート、体操など)は点数方式だ。スポーツの場合は個々の技術に関して細かな基準があるが、イベントや作品などのコンペでは審査員の主観的な評定に依存する。

審査員によって見方や点数の付け方は様々なので、1位と2位の採点が大差になる場合も僅差になる場合もある。全審査員の採点を単純に合計する方法では、たった一人の審査員が大差を付けてしまうと残りの審査員の採点がまったく反映されないことがある。このやり方を是正するために、採点結果から最高点と最低点を除外して合計点を算出する方法が採られる。

しかし、審査員が誰に投票するかという票数方式でもなく、また最高点・最低点除外という方式でもなく、単純に採点を合計して最高得点者を最優秀とするコンペが慣習的におこなわれている。5人の審査員によるABという二者コンペの採点結果をシミュレーションしてみよう。

審査員① A=90点 B=60
審査員② A=82点 B=85
審査員③ A=71点 B=80
審査員④ A=81点 B=83
審査員⑤ A=88点 B=89

単純合計すると、A=412点、B=397点となり、ABを上回る。審査員①の大差採点がかなりのウェイトを占めた結果だ。ちなみにABの最高点(それぞれ90点と89点)とABの最低点(それぞれ71点と60点)を除外した後の合計点は、A251点、B248点となり、これもABを上回る。ここでは除外のメリットが出ていない。いずれにせよ、票数では上記の赤色で示す通り、A1票に対し、B4票を獲得している。大差であろうと僅差であろうと、Bの方が審査員団に支持されていることになる。

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上記のような単純合計方式でおこなわれる審査を数十回依頼されてきたが、最高点・最低点除外方式に変えたとしても同じ結果になることが多い。したがって、上記のシミュレーションは例外的ではない。ただ、点数を合計してしまうと、個々の審査員の一票に託した意思は弱められる。自分の意思が合計点の中で掻き消され、極端な採点をした審査員一人の採点が結果に反映されてしまう。

と言うわけで、票数で決めたこともあるが、審査員数を偶数にしたため問題が起こった。4者コンペで2者に2票ずつというケースが生じたのである。協議しても誰も自分の1位氏名を譲らなかった。結局、全員が2位指名していた参入者で妥協せざるをえなかった。後味が悪かった。

議論を2者対抗でおこなうディベートの試合の勝敗判定は合理的である。審査員は3人、5人、7人などの奇数。審査用紙は様々な項目を点数評価するが、全員の採点を合計しない。各審査員の採点が大差であろうと僅差であろうと、各審査員は自分の採点で点数が上回ったサイドに1票を投じる。引き分け判定はなし。だから、必ず3票対0票、4票対1票、5票対2票という具合に勝敗が決着する。負けたサイドに投票しても、それは決して死に票にならない。点数と違って、票の痕跡が残るからである。自分が票を入れた側が勝とうが負けようが、潔く結果を受け入れることができるのである。合計点方式では、審査員①の存在によって「自分がいてもいなくても同じではないか」という空しさだけが残る。

恒例を変えてみた

儀式や行事をいつも決まって同じようにおこなうこと。それを恒例という。だから、変えるともはや恒例ではなくなる。「変わりゆく恒例」など本来ありえない。

今の居住地に引っ越してから14年。元日には毎年高津宮こうづぐうに詣でて神籤みくじを引いてきた。今年も同じく詣でる〈儀〉を執り行ったが、神籤は引かなかった。過去13回引いて、吉が出たのが一度、あとは凶や小凶や大凶の類ばかり。吉の出た年を除いて、過去13年はまずまずの好日の日々だった。神籤? もういいだろうという気分で引かなかったのである。つまり、枝葉末節的に恒例を変えてみた。

二日後にたまたま天満宮近くを通りかかったので、ついでなので境内を横切ることにした。元日ほどではないが、大いに賑わっている。人混みを避けて歩いていたら「おみくじ所」の前に出た。高津宮で引かなかったから今年はここにするかとふと思ってしまい、美人の巫女の列が空いていたので引いた。変えた恒例がまた変わった。 

番号札は第十五番。いつもの通り「凶」だった。よほど凶との相性がいいようだ。けれども、凶に特別な嫌悪感はない。くにがまえならメ(×のつもり)が格納されているみたいだが、幸いにしてメが入っているのはうけばこである。上部が開いているからいつでもメを取り出せばいい。

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引いた手前、凶の文字だけ見て終わらない。律儀に全文に目を通す。願事、学業、恋愛、探物、健康、旅行、商業、家庭……どれも良くないことが書いてある。とりわけ、健康は身体ではなく心の養生をせよと。精神に問題を抱えているのか。縁談は時期尚早、良縁を待てとのお達し。もうとうに手遅れだ。

吉方のみ、良いも悪いもなく、「北の方」が良いと告げる。遠方の出張では西方面多く、北にはほとんど縁がない。但し、近場なら、自宅から事務所は北の方向、月に一、二度行く梅田も北。吉方が北だからと言って、北ばかりに行くわけにはいかない。行った手前、帰ってこなければならないから、同じ数だけ南へ戻ってくることになる。

総評または概要として【ただ祈るべし】という見出し。神社仏閣に詣でても祈ることはないし、神仏の信仰心も浅いことが見抜かれたようである。祈るべしと命じられたら祈ることはやぶさかではないが、そもそも「何をどう祈るのか」を知らない無粋者である。

当たり外れ――ご飯編

「ご飯」は丁寧語で、二つの意味がある。一つは「めし・食事」の意。別に和食とはかぎらない。「ご飯を食べてから帰る」と言っても、食べるのはステーキかもしれないしラーメンと餃子かもしれない。もう一つは「米の飯」そのものを意味する。

家庭料理にはうまいもまずいもある。長年食べ親しんできたから、たとえ少々まずくても、家庭の味ゆえに受け入れる。家では「まずうま・・・・」が成り立っている。コストはかかっているが、そのつどお代を払うわけではない。「ちょっと塩気が強い」とか「味が薄い」とか「煮えすぎた」とかの軽いコメントが出て、その場はそれでおしまい。

お代をもらって食事を出すのが食事処。それを生業としているのだから一応プロである。半世紀などという長いスパンで捉えなくても、この10年前だけで判断すると店で出される食事はおおむねレベルアップしてきた。合格と不合格の微妙なライン上のものもあるが、それとて値段相応である。注文する客も価格に応じた味でいいと割り切っている。

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問題はプロの店で出される「米の飯」である。ランチにしては少々値の張る1,500円の酢豚定食。酢豚は合格だが、ご飯とおかずの相性が悪い。米の質と炊き方、ご飯のよそい方がお粗末なのである。ご飯へのこだわりがなく、ただ大盛サービス、お替わり自由で片づけてしまっている。一品料理はうまいのに、ご飯でがっかりさせられるこんな店は案外多い。

数年前、親しくしている老舗米問屋の若い社長から「食事処向けに米の性質、米の選び方やおいしいご飯の炊き方など、啓発スライドを作りたい」という相談があった。こっちは米の素人だが、スライド構成とコンテンツのアイデアを貸してほしいという要望である。何度か打ち合わせとメールでやりとりしながら完成させた。続編も作った。この編集の過程で実に多くのことを知った。米と水との微妙な関係、深くて複雑なご飯の食味の話、等々。米のソムリエでもある彼は言った、「正直言って、家庭の炊飯器でできてしまうことを料理のプロたちが怠っている」と。

かつ丼、オムライス、パエリア、和定食……うるさく言うと、それぞれに合う米があり、仕上がりとしてのご飯がある。何度も試行錯誤してこそ、この料理にはこのご飯と胸を張れるようになる。焼肉を堪能した後、最後の二、三切れをご飯で仕上げる。べたついたご飯が食事を台無しにしてしまう。どんなに焼肉がうまかったとしても、店の格付けは落とさざるをえない。

当たり外れ――コーヒー編

喫茶店でもカフェでもいい。コーヒーを飲みに入る。入れば少なくとも半時間、時には1時間ほど長居する。手持ちぶさたにならないよう、本とノートは必ず小さなバッグに入れてある。店の看板や店内の雰囲気・インテリア、応対する店員の立ち居振る舞いは客の気分に影響するが、コーヒーそのものの香りと味がやっぱり絶対条件。

初秋の、まだ暑さが残る午後、たまに入るカフェDCに久しぶりに入った。この店では決まってエスプレッソだが、喉が異様に乾いていたので初めてアイスコーヒーを注文した。エスプレッソのうまさには及ばなかった。これならホットのブレンドにしておけばよかったと少々後悔。

とは言え、感じのいいマスターだし、少し長居できる雰囲気もあり、文章を思いつくまま綴るには落ち着く場所だ。しかも、250円なら文句は言うまい。一応合格。


その翌週、老舗の昭和感たっぷりの喫茶B屋へ。数年ぶりになるので、この店の味はうろ覚えである。店の定番の420円のブレンドを注文する。香りも立たず、一口啜れば味が薄く、お粗末だった。以前はこんな味ではなかったはず……。懐かしさが漂う希少な喫茶店ではあるが、偶然通りがかったとしても、もう二度と入らない。

ここはマスターが一人でやっている店。注文したブレンドをカウンター越しに出し終えたら、端っこの空いているカウンター席に座ってスポーツ新聞を読み始めた。競馬欄に食いついている。

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オフィスに近いカフェLの売りは自家焙煎のエスプレッソ。ある日は焙煎7日、別の日には焙煎15日とかの表示があり、同じ豆だが焙煎の違うエスプレッソを飲み比べできる。本場イタリアと互角の上等の味である。以前は週に二度通っていたこともある。いつぞやアイスエスプレッソを注文した。新顔のバリスタがぼくに尋ねる。「アメリカーノですか? 水で薄めますが、よろしいですか?」 こんなことを聞かれたことはない。質問を無視して「エスプレッソのアイス」と念を押した。

出てきた注文の一品は、エスプレッソ用の焙煎の香りはするものの、想像以上の薄味だった。メニューにアイスエスプレッソがなく、アイスの注文が入ると水で薄めるのがこの店の流儀なのに違いない。水増ししたらエスプレッソの強さと濃さは半減する。

アイスエスプレッソはあらかじめグラスに氷を一杯入れておき、そこに熱々のエスプレッソのダブルを注ぐのが正解。オフィスのマシンを使って作る時はそのように淹れる。そうしないと、ホットで飲むうまさがアイスで生きてこない。ぼくの淹れるアイスエスプレッソのほうが格段に上である。

コーヒーの当たり外れに喫茶店の当たり外れ。よくあることだが、ホットでもアイスでも同じ確率で外れに遭遇する。当たり外れは自己責任であるから、文句は言えないし言わない。ただ二度と行かないという選択肢があるのみ。

インタラクティブの不足

会話の場面が以前に比べて極端に減ったとは思えない。世間話はするし、時事的な話題の、さほど深掘りしないやりとりは交わされる。しかし、こうした会話が中身のある対話になっているかと言うと、そうではない。会話と対話を厳密に区分しづらいが、一つだけ大きな違いがある。

会話で交わすのは雑談である。雑談に厳密なコードはない。三人の場合、Aが話し、それにBCが頷いて何も言わず、次いで、またAがことばを継ぐのはよくあることだ。一区切りして振り返ったら、場を仕切って喋ったのはほとんどがAで、BCは寡黙。即座に響かず声を発していないので、この類のコミュニケーションは対話と呼べないのである。

先日の病院の待合室でのこと。ぼくが座るソファのすぐ隣りにシニア夫婦。妻が少々ややこしい手続きの話をしている横で夫は目を閉じ、目に見える反応もせずに聞いている。いや、聞いているかどうかもわからない。妻は時折り夫の顔を見、スマホの画面を見せながら手続きの説明をしているが、夫はスマホの画面を見ない。しばらくして、妻は語気強く言った、「ねぇ、聞いてる?」 

打てども響かない夫。響く気がないのか、響く能力がないのか。響く能力とは“response + ability”、一語にすると“responsibility”である。ふつう「責任」と訳される。誰かの問いかけや意見に対して響く能力を発揮するのは責任にほかならない。ぼくに丸聞こえの妻の切り出した話は雑談で片付く内容ではなく、対話でなければならなかったはず。

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本来なら直に対話すべき内容をメールで片付けている今日この頃である。メールに目を通すことと、目を通したことを相手に伝えることは違う。メール見ましたと伝えることと、メールの内容に反応して返信することはさらに違う。手紙でも同じことだが、手紙では発信と受信、受信と返信に時間差があるから、良識的にはなるべく返信を急いだものである。

ところが、メールになると、ほぼリアルタイムであるから、送った側は即時読んでもらえるものと思っている。半日が過ぎ、翌日になっても返信が来ない。少々苛立つ場合もあるだろう。実際に会っていたら、相手もこういう無反応であるわけにはいかない。

メールにせよSNSにせよ、発信には熱心だが、受信してもレスポンスを怠る傾向が顕著である。レスポンスしない、しても遅いのは双方向インタラクティブ対話の責任を果たしていない。直接会ってないからこそインタラクティブが重要ではないのか。一対一のインタラクティブが基本になって、それが人間関係や人間交流のネットワークを形成していくのである。

ありえない「みんな」

「パンテオン(Pantheon)」はギリシア語起源、由来は“pan+theos”。「すべての神々」のことで、転じて万神殿を意味する。建立当時の二千年前はまさに「神様のデパート」の様相を呈していたが、後世になるとキリスト教だけを崇めるようになった。あの神もこの神も祀りたいという気持ちはわかるが、必ずしも現実的ではなかったようである。

すべて、全部、みんな……。理念は結構なのだが、めったに長続きしない。まんべんなく公平は実現したためしがなく、万民のための策を講じているつもりでも、万民と呼ぶ対象がすでに「みんな」ではない。万人向けは誰にとっても喜ばれない場合も少なくない。

「ローマに行くのですが、パンテオンは一度見ておいたらいいですかね?」と聞かれて、「ええ、ぜひ一度。一度は見ておきたいですね。ツアーにも含まれていますし、みんな・・・見学していますよ」と答えた。よく考えて答えたのではない。口走ったというのが正しい。みんなが見学しているという確証あっての助言ではない。それどころか、「みんな見学しています」は適当な証言なのである。

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ぼく自身はパンテオンに二度足を運んだ。それでも、「みんな見学しています」と言った時のみんな・・・に自分が含まれていないことを自覚している。他の人たちというほどの意味である。みんなは曖昧語だ。決して「全員」ではない。もっと言えば、みんなを定義することは不可能。文脈に応じてそのつど変わるし、もしかすると、現実にはありえない空語なのかもしれない。

以前、大阪限定の啓発コマーシャルがあった。「ここは駐車禁止です!」という警察官に対して、主婦が反発する。「なんで私にだけ言うの!? みんな・・・停めてるやないの!」 ここでのみんなとは自分を除く他者のこと。極端に言えば、他者は一人でもかまわない。みんなはall(すべて)ではなく、someone else(他の誰か)のことだ。

結党当時は勢いのあった〈みんなの党〉。みんなという命名に無理があった。みんなは一握りの人たちのことで、党首からすれば仲間というほどの意味だった。そして、みんなは崩壊した。良識的に考えればわかることだ。国家や企業や党がみんなのことを考えているはずがないのである。

切手の話

1963年の鳥シリーズから記念切手を買うようになった。当時、切手蒐集はブームだったように思う。中学生の頃である。この頃から発行枚数が大幅に増えたので、これ以降の記念切手にほとんど投機的価値はない。値上がりに淡い期待がなかったわけではないが、一枚10円のものが将来値上がりしてもたかが知れていると、子ども心にもわかっていた。

投機的なコレクションではないのに、その頃から大学生になるまで記念切手をもれなく買っていた。さしたる意味はなく、小遣いの範囲でずっと続けていたので、惰性的な蒐集だったと言うほかない。いったん蒐集は切れたが、十数年前に「80円の普通切手を買うくらいなら、記念切手のほうがよほどましだ」と考えて、シート単位で買い始めた。シリーズものだったので、郵便局が発行のつどオフィスに届けてくれた。

手元に各種額面の何十、何百枚もの記念切手シートがある。「日本の世界遺産」「20世紀デザイン切手」などのシリーズもの。封書や小荷物の郵送用にシートをばらして使ったこともあるが、大半が未使用のままシートホルダーに収まっている。最近は切手に出番が少なくなったものの、社用もあるし、私用でもたまに使う。原価割れでもいいから売りさばいてもいいのだが、買ったものは使えるだけ使ってみようと思う今日この頃。

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来たる10月から郵便料金が変わる。定形郵便が82円から84円に、通常はがきが62円から63円に値上がりする。消費税アップ相当分である。オフィスでは値上がりして額面が変わるたびに新しい切手を買っていた。そうか、私用ではさばけないが、手元に大量にある80円の記念切手を社用で使えばいいと、遅まきながら気づいた。ところが、80円切手に一枚足して84円にはできない。4円の普通切手が売られていないのである。

不足分の4円を作るには次のオプションがある。
1円の前島密4枚。
2円のエゾユキウサギ2枚。
2円のエゾユキウサギ1枚と1円の前島密2枚。
3円のシマリス1枚と1円の前島密1枚。

80円から82円に変わった時から、便利なはずの2円を避けていた。エゾユキウサギの絵が気持悪いのだ。あんな図柄を使うくらいなら、白地に「2円」と大きく書いてもらうほうがよほど使いやすい。と言うわけで、エゾユキウサギとの組み合わせはなし。残るは前島密4枚か、シマリスと前島密各1枚か。

想像してみよう。平等院の鳳凰堂中堂の絵柄の80円切手の横に4枚の前島密である。異様であり、切手ばかりが目立つ封書になる。陸上女子800メートルの人見絹枝の横にシマリスと前島密が並ぶ。そのこころはと聞かれても口を閉ざすしかない。どんなに宛名をきれいに書いても、貼った切手の組み合わせのセンスが問われる。

いつまで続くのか、切手84円時代。普通切手は来週から発売され、記念切手が次から次へと発行される予定。日本郵便には、過去に発行した80円と82円の記念切手の面倒を見てもらわねばならない。手持ち切手に1枚だけ足せば済むように、エゾユキウサギに代わるセンスのいい2円切手と垢抜けした4円切手の発行を切望する。

和菓子を人為淘汰した人たち

近くの小さなモールの地階にたまに行く。肉・野菜・惣菜などが売られているが、エントランス近くにはパン屋、洋菓子店、和菓子屋が並ぶ。人の賑わいもほぼこの順。

パン屋と和菓子屋を見て、二年前の道徳教科書の話を思い出した。パン屋という題材が和菓子に変えられた検定意見の一件である。「にちようびのさんぽみち」という文章の一節。

よいにおいがしてくるパンやさん。
「あっ、けんたさん。」
「あれ、たけおさん。」
パンやさんは、おなじ一ねんせいのおともだちのいえでした。おいしそうなパンをかって、おみやげです。

これが具合が悪い、いや、不適切だと意見したのである。学習指導要領の「伝統と文化の尊重、国や郷土を愛する態度」に照らして不適切だと言うのである。不適切なのは、パンのよい匂いなのか、友達の家がパン屋を営んでいることか、それとも、パンをお土産に買ったことか。よくわからないが、伝統と文化を尊重していない、国や郷土を愛する態度が足りないと判断された。

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次のように修正された。いや、修正ではない。一から書き下ろされた。

あまいににおいのするおかしやさん。
「うわあ、いろんないろやかたちのおかしがあるね。きれいだな。」
「これは、にほんのおかしで、わがしというんだよ。あきになると、かきやくりのわがしをつくっているよ。」
おみせのおにいさんがおしえてくれました。おいしそうなくりのおまんじゅうをかって、だいまんぞく。

当時様々な批判があったが、道徳という概念のことはどうでもいい。人気や売上高もさておき、実際に店の前を通りかかれば、二つの店が並んで日常光景を描き出している。店を覗けば、和菓子はそこでは作られておらず販売員がいるだけ、パンは焼きたてが売られている。

パンとパン屋、和菓子と和菓子屋に何の非もない。二律背反的対立などさせてはいけない。和菓子がこの国の伝統と文化的存在であるのなら、パンも明治初頭から数えて150年だから堂々たる伝統と文化的存在である。国や郷土を愛しながら、朝にパンを頬張り、おやつの時間に和菓子をつまむことができる。もちろん、洋菓子であっても何の不都合もない。

日曜日のぼくの散歩道の日常的光景として、ふさわしいのはパン屋である。しかし、和菓子屋が目立つ街もあるだろうから、特にこだわらない。つまり、パン屋と和菓子屋のどちらを教科書の題材として人為淘汰するかという話ではない。日曜日の散歩道に両店を発見して匂いを嗅ぐ体験こそが現実的な道徳らしい考え方なのである。

ケースバイケースや人それぞれ

共通感覚があるかどうかも調べずに、安易にケースバイケースとか人それぞれで片付けてしまうことがある。面倒だからという理由だが、面倒臭くなるのは考えてみようとする気力欠如という問題ではないか。

ケースバイケースはれっきとした“case by case”という英語。しかし、話しことばで耳にしたことはなく、また、文章で書かれたのを見たのも二度か三度である。ネイティブはたいてい”It depends.”という言い方をする。ともあれ、英語であることに間違いはないが、用法的には和製英語化したきらいがあって、「困った時のケースバイケース」として使われる。対策抜きで、人によりけり、ものによりけりと評論しておしまいという趣が強い。

「人を見て法を説け」を都合よくケースバイケースと捉えるむきがある。あの高説は法を説くことに主眼がある。人をしっかりと個々に見て対応するという意味で、ケースバイケースと言って知らん顔するのとはわけが違うのだ。

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服の色の好みは「人それぞれ」。これで何の問題もない。なぜなら共通感覚的に人の好みが一致するはずがないからだ。趣味も嗜好もそういう類いであり、蓼食う虫も好き好きや十人十色と言って済ませておけばいい。十人一色にするのは無理があるし、理屈っぽく相違の是非を論う意味もない。

何事かについてコンセンサスを取ろうとしたり共通感覚的に一つの傾向を探ろうとしたりしてきた……にもかかわらず、土壇場になって「結局、ケースバイケースだから」と平気な顔してつぶやく……こういう場面でのケースバイケースにがっかりするのである。それまでの時間が無駄になる。

議論していて誰かが「ケースバイケース」で逃げようとしたら、次のように質問をすればいい。

「ケース、つまり、場合のこと。場合によりけりとあなたは言っている。では、場合の例を二つ三つ挙げてもらえるだろうか?」

ケースとは抽象的な場合なのだから、具体的に考えていない。だから、咄嗟に答えられる人はまずいない。たいてい黙る。黙っているわけにはいかないと焦れば、深慮もせずに答えて矛盾にまみれる。ケースバイケースも人それぞれにも、何か価値のあることが含蓄されているわけではなく、「わからない」と言っているに等しいのである。