「旧何々」という言い回し

旧は新の対義語で、「新旧しんきゅう」は新しいものと以前の古いものを指す。「旧い」は「ふるい」と読む。同じものであっても、今と昔で呼称が変われば、以前の呼称を「旧何々なになに」という。ちなみに、旧は「舊」に同じである。

(もと)」の姿や形に「す(かえす)」ことを復旧・・という。しかし、無理やり復旧するまでもなく、「旧何々」の多くは何食わぬ顔をして今に残る。たとえば、旧家は、家が消えて後継者がいなくなっても、名前だけは長く使われ続ける。旧華族もしかり。旧暦もしかり。ほとんど常用しないのに、今と昔の季節感を比較するためだけに古い暦が引用される。

上記とは違って、旧約聖書の場合の旧は「以前の」ではなく、「古い」という意味である。旧約聖書とは「い契の書」であり、新約聖書は「しい契の書」である。言うまでもなく、旧約聖書が新約聖書に改まったのではない。


さて、旧何々が使いやすくてわかりやすいせいか、新しい名称があるにもかかわらず、「旧統一教会」や「旧ジャニーズ事務所」などと旧名で言及するケースが目立つ。最近では「旧ツイッター」をよく見聞きする。前の名前も挙げるなら「X(旧ツイッター)」とするのが筋だと思うが、「旧ツイッター」と先に言ってから、ついでに新しい名称のXが付け加えられる印象だ。

マスコミがこの調子で旧名を使い続けると、新しい名称を誰も覚えないから、もしかするとこの先何年も何十年も「旧何々」が一般呼称であり続けるのではないか。旧の後になじみの名称が続くのだから、名称を変更した意味がない。

わが社の社名変更を何度か検討したことがあるが、それまでに培ってきたささやかな知名度のことを考えると決断できなかった。しかし、「旧」が使えるなら改名もまんざらではない。イロハ株式会社がABC株式会社に社名を変えても、ずっと「旧イロハ株式会社(現ABC株式会社)」と名乗り続ければいいのだから。いっそのこと、厚かましく「旧イロハ株式会社」に改名してしまう手もありえる。

原稿の「旧中山道きゅうなかせんどう」を「いち日中にちじゅう山道やまみち」と読み上げたアナウンサーのエピソードはよく知られているが、「旧」は「1日」どころか10年も100年も続く、なだらかな道なのかもしれない。

クローズドな街歩き

午前11:30~午後2:30Open、午後2:30~午後5:30Closed、午後5:30~午後10:00がOpen、そして午後10:00~翌朝午前11:30Closed。これを平均的な食事処は営業/非営業時間帯としている。

居酒屋や焼肉店のほとんどはだいたい午後5:30~深夜がOpen、深夜~午後5:30Closed。バーになるとおおむね午後8:00~深夜2:00Open、他の時間帯すべてがClosed。繁華街や商店街をそぞろ歩きすると、ドアに掛けられた〈Open/Closed〉のサインプレートと時間帯で「街の顔」がある程度わかることがある。

ところで、closedは動詞closeの過去分詞で、形容詞として単独で使われると「閉まっている」という意味になる。発音は[klóuzdクローズド]。なお、closeは動詞以外に「近い」や「似ている」という形容詞でもあり、その時は[klóusクロース]と発音する。

営業中や開店というopenの明快さに比べると、closedのサインは休み、閉店、休憩、営業時間外、準備中のどれを意味しているのかわかりづらい。多義なので一語で何とか伝えようとすることに無理がある。わざわざ行ってみたがclosedのサインが掛かっていたのであきらめて帰る客もいる。実は「只今準備中、まもなく営業開始」のつもりだったのに。


いつぞやの土曜日。早めのランチを終えてから、賑やかな商店街から枝分かれする飲食街に入り込み、どのくらい街が変わり店が変わったのかチェックしながら歩いてみた。。狭い商店街ではあるが、外部に「開かれているオープン」。ところが、開いている店と閉まっている店は半々だった。

土曜日だから終日休みの店が多いのだろうか。それとも、夕方から営業を始めるのだろうか。サインプレートの情報だけではわからない。大文字だけのCLOSEDには容赦のない「閉まっている感」が強い。同じ大文字だけのサインでも鉢植えのグリーンがあれば少しは救われる。救われてどうにかなるものでもないが……。ドアに斜めに掛けられたサインはメッセージ性があって謎っぽい。

営業中の店と閉まっている店。前者よりも無言の後者のほうに視線が向く。そうしてClosedづたいに商店街を通り抜けた時、このあたりは一見向きではなく、店の営業日や営業時間を知る常連が通う飲食街だと悟ったのである。

人気を「ひとけ」と読む時

人気と書いて「にんき」または「ひとけ」と読む(稀に「じんき」と読むこともある)。「にんき」は、あったり出たりすると好ましいとされる。しかし、それに溺れてしまうと、いずれ痛い目に合う。一時的にそれを博した者や物は早晩それを失うことが多い。

同じ漢字を「ひとけ」と読むと、場で感じる人の気配や様子をあらわす。「にんきがない」と「ひとけがない」には人が寄りつかないという共通の意味がある。しかし、「にんきがない」のは本人も諦めがつくが、「ひとけがない」と周囲の者たちが気持ち悪がる。「ひとけのない部屋」で物音がすると不気味ではないか。

平日の昼に二度しか入っていないので、結論めいたことや断定的な意見は慎みたいが、こんな街中なのに信じられないほど「ひとけのない店」がオフィスの近くにある。最初に入店した昨年はぼくが一人だけ、二度目の先日は先客一人とぼくだけ。ざっと見渡せば50席は下らない、広い店にもかかわらず。

撮り収めた写真に時計が写っていた。ランチタイムとしてはピークのはずの1225分頃である。この時刻に客が二人。とんでもなくまずい料理を出す店と思われそうだが、そんな店ならぼくの二度目はない。ミートソースやトマトや魚介のスパゲッティを出す店で、ベーカリーも併設している(いや、ベーカリ―がパスタランチを提供しているのかもしれない)。ともあれ、味は普通である。

最初にサラダとスープが運ばれる。次にパン。通常はパンを乗せたトレイを客席で見せて、好きなパンを23個選ばせるものだが、これでもかとばかりに7種の小ぶりなパンを盛った皿をテーブルに置く。そして、「あちらで(と小さなテーブルを指差し)バターとジャムはご自由にどうぞ」と言う。厨房に初老の夫、ホールにその妻(たぶん)。夜になると繫盛しているかもしれないので、敢えて「にんきがない」とは言わないが、正午前後になぜひとけがないのか、その原因はわずか二度では突き止められそうにない。

現象面的には他のイタリアンとの違いが見える。他店は女性客が多い。ムダにシャレている。店の前のメニューに高級感がある。翻って、この店はパン屋かスパゲッティ屋か喫茶店かわかりづらい。繰り返すが、パスタは普通である。当世、パスタをまずく下手くそに作るほうが難しい。普通のパスタを普通のソースで普通に作れば、普通の一品が出来上がる。

パンも普通である。「配給」された気分だったので頑張ってパンを食べたが、不覚にも2個残した。お勘定の時に「残して申し訳ない」と詫びたら、「お持ち帰りもできますのでお申し付けください」と言われた。いい店ではないか。敬遠する理由が見当たらない。しかし、ひとけがない理由を探るためにもう一度来ようとは思わない。この店に来た客はみな二度来て、ぼくと同じことを感じ、そして三度目を見送っているのに違いない。

その「必要」を問う

ボウルに盛られた野菜を見せて、「1日に必要・・な野菜は、なんとこれだけの量」と告げるコマーシャルがある。「これだけ食べるのは無理です!」と反応する女性アシスタント。続いて「それなら、青汁を飲みましょう」という展開になる。はい、左様でございますかと素直になれないのは、へそ曲がりのせいではない。

アシスタントが一目見て食べられそうにない量の野菜。それを毎日必要・・だとすることにそもそも無理がありはしないか。人間は毎日それだけの野菜の栄養分を摂取しなければならないという栄養学説。各種野菜に含まれる栄養素が青汁一杯だけで摂れてしまうのなら、他の野菜は一切要らなくなる。これだけの野菜が必要・・だと提起したのに、要らないという結論が導かれてしまう。

ところで、必要・・とは何か。「あることを満たしたり叶えたりする上で無視できない要素や条件があって、それを怠らずにしっかりと用いること」と定義してみた。〈Aを実現するためにB必要・・〉という図式である。海外旅行するにはパスポートが必要・・、血液検査をするには注射器が必要・・、という具合。野菜の例で言えば、次のようになる。

1日に必要・・な野菜の栄養分(A)を摂るにはこれだけの量の野菜(B)が必要・・

図式に当てはめて文意を通そうと思ったら、必要・・2回使うことになる。パスポートや注射器のようにすんなりと納得できないのは、「これだけ必要・・」という野菜の量に全幅の信頼が置けないからだ。したがって、「これだけの野菜の量の栄養分を摂るには青汁が必要・・」という結論にも「待った!」をかけざるをえない。

意味が明快なようだが、必要・・という用語は「不要」に比べれば曖昧である。不要に程度はない。要らないものは要らないという同語反復が可能である。対して、必要・・にまつわる条件は何一つ決まっていない。条件を規定するのは誰かであって、どの程度必要・・なのかはつねに一定ではない。「る」と言いながら、質や量はそのつど変わる。

「印鑑は必要・・ですか?」「はい」「忘れたんですけど」「じゃあ、サインで結構です」……というやりとりの経験がないだろうか。あるほうがいいが、なければないでオーケーという場合でも、とりあえず言っておく。必要・・とはそんなものなのだ。

シェアは功罪相半ばする

「シェア」について考えてみた。

SNSを使えば、自分や他人が別のメディアで投稿した記事や写真をそのまま・・・・シェアすることができる。ぼくは、自分が書いているこのブログの記事をFacebookでシェアしている。ここにアクセスしなくても、読みたい人は自分が慣れた「場」に居ながらにして記事が読める。発信者にも受信者にもメリットがある。

シェアするに値する情報とそうでない情報がある。誰が見ても常識的で共感しやすい記事がよくシェアされる。逆に、批判したり反論したりするために記事を自分の場に転載する場合もある。シェアする人がシェアに値すると考えた意味や何がしかのコメントを入れるのが望ましいが、ほとんどの場合、転載だけして知らん顔、何かあっても責任を負わない人だらけだ。

おそらく価値ある情報だと判断するからシェアするのだろう。他人にも知らせたいという動機、お節介、親切心によってシェアが成り立っている。しかし、共感したので適当にシェアしただけという説明で済む話ではない。出所を示さず、自分の所見も明かさずにコピペだけしていては「剽窃ひょうせつ」と寸分変わらない。

「料理(やケーキ)をシェアして食べる」などの用例では、シェアは「分配」という意味になる。厳密に言えば、食べ物を不公平がないように均等に分配するのは難しい。小うるさいのがいれば「そっちの方が大きいぞ」と言い出しかねない。そうならないように、ケーキなどは、たとえば3切れにカットした者があとの二人に選ばせて平等を期すやり方が生まれた。みんなが「どうぞどうぞ」と相手に勧めていれば良好なシェア関係が保てる。

空間もシェアできるからシェアハウスが生まれたし、ルームをシェアするという言い方をするようになった。この場合は「共有」という意味になる。しかし、食べ物と違って、施設や道具が絡んでくると、単純に面積を等分するだけでは済まなくなる。さらに、金額、時間、役割などの基準が入ってくると、相互理解や協調が求められるようになる。共有は一筋縄ではいかないので、いちいち面倒な取り決めを余儀なくされる。

なお、シェアにはもう一つ別の意味がある。マーケットシェアという時のシェアがそれ。すなわち、市場占有・・率である。共有と占有はまったく別物なのだが、一つ間違うと共有のつもりが占有になってしまう。みんなで仲良く公園で遊ぼうね、と言い合ったはずなのに、ブランコをなかなか替わってくれない子が出てくるのだ。

サインプレートの”NO!”

オフィス近くのシーン。公道とマンションの境界をマンション側の敷地内に少し入ったところにサインプレートがある。言うまでもなく、散歩する犬に向けたものではなく、犬を散歩させる飼主に「ここで犬にトイレをさせるな」と注意を促している図である。

手作りだと思っていたが、ネットで売られていた。「ステーク付きの庭のサイン」という商品。ステークだから、地面に杭か支柱を打ち込んであるタイプ。キャッチコピーは「犬があなたの芝生の上でウンチやオシッコをするのを止めます」。犬が自発的に「止める」わけがないから、正しくは犬に「止めさせる」。

犬が今まさにウンチかオシッコをしようとしている瞬間がリアルだ。そこにNOの文字。しかも犬の背中にである。ところで、Noは質問や依頼に対しての否定の返事で、一般的には「いいえ」を意味する。しかし、NOと感嘆符を付けると強い主張が込められる。「絶対ダメ!」と言っているのである。

単発で発するNOには、場面に応じて「まさか!」とか「なんてこった!」などのニュアンスが出る。「まさか、こんな所でもよおすとは……ああ、なんてこった!」と、NOを背負った犬自身の思い? ダメだとわかっていても、つい習性が出てしまった? と読めなくはないが、考えすぎだろう。反対側にはNOの文字はない。つまり、公道側からやってくるよそ者の飼主へのメッセージなのだ。

ところで、ネットの商品説明の続きを読んでみた。「庭や庭で・・・・広く使用されています」(傍点ママ)とか「頑丈な・・・鋳鉄製で、頑丈・・です」(傍点ママ)と念には念を入れて繰り返しているのは、かなり商品に自信があるからか。ぎこちない日本語なので、どうやら日本製ではなさそうだ。「それは、犬と隣人がそのエリアが糞が禁止されているエリアであることを知るための微妙な方法を提供します」という一文で、中国製か近隣のアジアの国で作られたと確信した。

地面に立てられた小さなサインの類にはほとんど気づかずに通り過ぎる日々。NOという一言の小ネタで文章が書けた。サインプレートの効果のほどを知りたいが、誰に聞けばいいのか。

10日間の習慣見直し実験

去る85日にブログを書いて以来、今日までの10日間PCに触れなかった。盆休みを挟むこともあって急ぎの仕事がなく、PC作業が不要不急だったからだ。そうだ、ついでにスマホとも距離を置いてみよう、と思った。1990年代前半まで当たり前だった日常のスタイルが復活した。

現代人はスマホに触れないと手持ちぶさたになる。それが証拠にメトロの車内では乗客の8割がスマホを操っている。「要」にして「急」な様子も雰囲気もうかがえない。暇を持て余すのは、何かすべきことが決まっていないからである。暇とは「しなければならないことがない状態」にほかならない。

3日に一度iPadでメールだけチェックしたが、すべて不要不急。このように脱デジタルすると、必然SNS上の親しい人たちの投稿もチェックしない。ほとんどの情報は不要不急の類ということになるが、不要不急が悪いわけではない。触れなくても困らないというだけのことだ。ともあれ、メールもSNSも一切受発信せずに今日に至り、いま11日ぶりにブログを書いている。


数年前に比べてSNS上では発信機会に比べて受信機会が減っているような気がする。つまり、投稿はするが他人のはあまり読まない。マメにコメントしていたが、今は義理の「いいね」で済ます向きが増えている。外部と情報が隔絶されても困ることがほとんどなく、要にして急なことはテレビで間に合う。テレビはスマホの小さな画面よりはよほど見やすい。

暇にあかしてスマホをいじるよりも、かけがえのない時間の過ごし方があるのではないか。見ようと思わないのについ見てしまうスマホの電源をしばしオフにして、読もうと思いながら読めていない本を読むことにした。何冊も読んでいると、いま考えていることと呼応する一節に出合うものである。たとえば次の一冊。

(……)彼はたまたま自分の内部に溜まった一連の決まり文句、偏見、観念の切れっ端、あるいは意味のない語彙を後生大事に神棚に祀ったあと、天真爛漫としか説明しようのない大胆さをもってそれらを相手かまわず押しつけている。(オルテガ・イ・ガセット『大衆の反逆』)

90年も前に書かれた文章である。現在のSNS上の現象を言い当てているかのよう。同一の投稿者がよく似た投稿を繰り返す。そのことの好き嫌いや是非は人それぞれだが、スマホを触ると目に入ってくる。日記もそうだが、毎日書いているとよく似たことばかり書くようになる。マンネリズムは必ずしも忌むべきものではないが、マンネリズムというものは、自分よりも他人の方が先に感知する。

SNS同様、このブログもそうだが、この先も生き残らせて日々の楽しみや慰みとするためには、あの手この手を繰り出すしかなさそうだ。ちょっとした習慣見直し実験をしたわけだが、いろいろと気づかされた10日間だった。

見極めの作法

行政の事業やイベントの審査をこの10手伝ってきた。毎年4つか5つの案件を見てきたので、かなりの数になる。コンペやプロポーザル方式で専門事業者の企画提案内容を評価し、複数の審査員で審議して最優秀事業者を選ぶ。審査員は3人~5人。数社がエントリーしてくるので、満場一致で決まることはめったにない。

審査と言えば、ディベート大会には40年以上関わってきた。練習も含めると、たぶん千に近い試合を審査してきたはず。ディベート審査では、3名、5名、7名など、奇数の審査員が一人1票を肯定側か否定側に投じる(引き分け判定はない)。拮抗しても必ずどちらかの票が他方を上回る。

行政の選定会議は投票方式ではなく、個々の事業者を採点して審査員の点数を合計する。合計点の多い事業者が最優秀になる。たとえば、事業者A社、B社、C社を4人の審査員が審査。3人の審査員の採点でA社が1位になったとしても、残る一人の審査員が大差の点数でC社をトップ評価したら、合計点でC社がA社を上回ることがある。実際、そんなことが二度あった。最高点と最低点をつけた審査員の点数を除く「上下カット方式」がフェアだが、あまり採用されない。


最初の事業者のプレゼンテーションはその内容だけを絶対評価する(フィギュアスケートやアーティスティックスイミングの最初の競技者に対する採点と同じ)。しかし、二番目以降は、たとえ絶対評価のつもりで採点しても、先に終えたプレゼンテーションと比較しながらの評価にならざるをえない。天秤にかけながら優劣判断をすることになる。

ある一つの物事だけが対象なら、その物事の本質や出来栄えなどを評価して最終的に「イエスかノー」の判定を下す。他方、二つの物事の評価となると必然的に比較をして優劣を決めることになる。こう書けば簡単そうに見えるが、優劣の判断には感覚や経験が含まれる。また、「鼎立ていりつ」という、三者対立などもあって評価は一筋縄ではいかない。

事業者選定や議論の勝敗に関わる審査は、利害関係を抜きにしたロールプレイ的ミッションである。しかし、仕事や生活上の人柄と所業の見極めや大小様々な意思決定は生身の自分事だ。得失を優先するあまり善悪を棚上げする者がいるし、「美しいと思うから美しいのだ」と短絡的な論法で決めつける者もいる。何を根底に置いて評価すればいいのか、見極めの作法は定まりにくい。しかし、少なくとも、得失の判断を真偽・善悪・幸不幸の見極めよりも優先させてはいけない。自然界に得失はない。得失は人の邪心にほかならないのである。

イズム(–ism)はほどほどに

昨年12月、コンサートに招待された。断っておくが、企画したのは怪しい主催者ではない。大阪に何らかのゆかりがある複数の歌手がそれぞれ23曲歌った。その中の一人はすでに70歳を過ぎ、30数年前に比べて露出は減ったが、ブレることなく今もわが道を歩み続けているらしい。この歌手の、観客を置いてきぼりにする自己陶酔ぶりにうんざりしてしまった。

自己陶酔の英語は“narcissism”。正確な発音は「ナルシシズム」だが、慣習的にはシを一文字落として「ナルシズム」と呼ぶ。己に陶酔しすぎると、他者や景色は見えなくなる。自分が中心で、自分が好きでたまらない困った人だ。ステージに立っているのを忘れているのではないかと思うほどの傍若無人だった。

“ism”は、それ自体が単独で使われることはまずないが、接尾辞としてある用語にくっつくと用語のとんがり感が強くなる。Darwinismダーウィニズムは「ダーウィン進化論説」、feminismフェミニズムは「女性解放思想」、nationalismナショナリズムは「国家主義」という具合に、何とかイズムは主義や先鋭や排他のニュアンスを濃く漂わせることになる。


おなじみのdandyismダンディズムを例に考えてみたい。適訳がないので今も昔も「ダンディズム」が一般的。これは男性に使われることばで、主として服装や身のこなしや付き合い方がスマートで洗練されている様子を表わす。ダンディズムを極めていくと――と言うか、調子に乗り過ぎると――ディレッタンティズムになる。耽美主義だ。人生最上の価値を「美」ととらえ他のことには見向きもしない頑なな姿勢である。

服装や身のこなしだけではない。筆記具などのステーショナリー、靴や鞄や札入れなどの皮製品、時計と眼鏡の使いこなしにも言える。また、食材や料理とその食べ方、酒とその飲み方、店の選び方にも主義がある。愛用するものやスタイルには理由があり、問われれば饒舌にならない程度に蘊蓄を傾けることができる。

ダンディズムは一目で、一言で差異がわかる。品性もさることながら長年培った流儀が感じられる。それは、エステサロン帰りに細身のスーツに身をまといオーデコロンを香らせるのとは別物である。財布から札を取り出して祝儀をはずむのもダンディズムではない。誰が言ったか忘れたが、ポケットに硬貨を入れておいてそっと取り出すのがチップの心得だ。服装もことばも小道具も、これ見よがしではなく、さりげなく。ダンディズムに形だけで頓着すると野暮になる。

今時の距離感覚

〈距離〉ということばは、実は思っているほどやさしくはない。小学6年の算数の授業で時間と距離の問題が出てくる。しかし、距離ということばを学ぶのは中学になってから。だから、小学校では距離の代わりに「道のり」が使われる。距離は長さを表すが、道のりは長さとともに時間も意識される。

距離の「距」の意味は「へだたる」。X地点とY地点の隔たりを長さで表わしたもの。二つの地点間に使われる距離は、対人関係――たとえばA君とBさんの隔たりの程度――にも使われる。A君とBさんは仲が良い、さほど親しくない、面識がない、等々。親密度という距離である。

対人または対外関係における距離について、新明解国語辞典は「ある程度以上には親密な関係になるのを拒んで、意図的に設ける隔たり」と説明している。この語釈によれば、人がらみの距離には「親密になり過ぎないように配慮する」という意味があらかじめ備わっていることになる。


当世、老いも若きもすっかりソーシャルディスタンスの制約を受けることになった。場に応じたしかるべき距離を守っているうちに、日常の磁場が異様に動き、場所感覚が落ち着かなくなった。それまで複数あったはずの居場所の数が減り、行動空間がどんどん縮んできているように感じる。

ぼくの仕事部屋の隣りには読書室を設けていて、コーヒーを啜りながら好き勝手に本を読むことができた。勉強会をしたり頻繁に外部の人たちと雑談したりしていた。それが今はどうなったか。あまり使わなくなって読書室が遠ざかったのである。窓を開けて換気し、掃除して観葉植物の世話をするというルーティンは毎朝こなしているものの、その空間に入ると自分がよそ者になったような感覚に陥る。

いいことも悪いことも時間が忘れさせてくれるし、遠く離ればなれになっているとやがて疎遠にも慣れてくる。つまり、時間があいたり一定の距離を置いたりすると、よそよそしさが常態になるのである。コロナ時代の今、誰もがこれまで経験しなかったよそよそしい距離感に面食らっている。そして、いつかコロナが収まるその先では、生じてしまった隔たりをいかに埋めていくかという難問が待ち構えている。