メモと衣食住

大阪で3度目の緊急事態宣言が発出される前日の土曜日。もう少し先まで開催されるはずの小さなコレクション展は急遽その日が最終日になった。若い女性画家の展覧会である。入場料が無料の上に、小冊子と呼ぶには立派過ぎる、画家がセレクトした60ページの作品評集、それに画家自身のポートフォリオまでいただいた。

小冊子をめくる。図録から引用されたある画家の一文に目が止まる。

「美術がなくても、衣食住にはさほど影響はないと錯覚してしまったところに盲点があった」

世の中、アヴァンギャルドな青少年ばかりではない。普通の少年なら衣食住優先の生き方がたいせつだと知らず知らずのうちに刷り込まれる。「美術がなくても、衣食住にはさほど影響はないと錯覚……」という一文の「美術」の箇所には、衣食住に直接関わらないモノやコトなら何でも入る。思い当たることがいろいろある。

もう40年以上、何かにつけてメモを取ってきた。忘れないためだけでなく、メモにはペンを手にしてノートに向き合えば知恵を絞りだす効能があるからだ。長く習慣にしてきた者にとって、メモを取るのは苦痛でも何でもない。それは、ヘッドホンでいつも音楽を聴いている人と同じで、楽しい、なくては困る、生活の一部……と言うべき存在になっている。


このところよく言われる不要不急論と衣食住優先論はよく似ている。衣食住以外のたいていのことは、極論的に言えば不要不急なのかもしれない。いや、衣食住のうちにも不要不急扱いできるモノやコトが少なくない。しかし、生活は――つまるところ人生は――要か不要か、急ぎか不急かで線引きできるほど単純でないことは誰もが百も承知している。

ぼくが中高生の頃、「芸術なんぞでは食っていけない」という大人たちのことばをよく耳にした。衣食住では食が最優先されていた証だ。食っていくことを抜きにして、文化だの芸術だのとほざくわけにはいかんぞということだったのだろう。

文化芸術にしてそうなら、散歩も雑談も読書も当然衣食住に優先することはなく、ましてやメモを取るような行為がその上にあるはずがない。メモを熱心に取りながらも、まあ、なければないで困ることはないだろうと最初の頃は思っていた。ところが、そういう物分かりの良さ、大人の常識になびく事なかれ主義が、大変な錯誤だということにまもなく気づいたのである。

衣食住満たされてこそのメモと言えるなら、メモ取りができてこその衣食住とも言え、それで何の不思議もないではないか。「メモが取れなければ、生活も人生もなく、衣食住を考えるどころではない」という思いを、何を大げさななどと自ら言ってはいけないのである。

文化や芸術がなく、散歩も雑談もせず、その他諸々の不要不急を抜きにして、現代人はギリギリの必要条件を満たそうとするだけの衣食住生活を送ることができるのだろうか。

インバウンド―狂騒後の競争?

大阪ミナミの台所だいどことして庶民と繁華街の飲食店に食材を供給してきた黒門市場。年末になると正月準備の客で溢れる。テレビ中継も恒例。しかし、戦前から続く食文化の担い手は凋落傾向を示し始めた。十数年前のことである。商人が玄人客や通を相手にするような伝統的商売の雰囲気が残り、現代の客層には合わなくなっていたのかもしれない。

ところが、凋落に歯止めをかける幸運に恵まれる。観光ブームである。大阪のインバウンドは2011年頃から増え始めていた。何とかせねばと、外国人観光客に目をつけた黒門が仕掛けた。店頭売りの食材をその場で客の好みに応じて調理し、イートインできる仕組みを売り出したところ、外国人――主にアジア系、特に中国人の――観光客が大挙押し寄せるようになったのである。

あっという間に観光客が日常の買物客を上回り、ここ23年で、外国人観光客と日本人の比率は91になった。何度か「視察」に行ったが、人混みで思うように歩けなかった。これまでは店頭で品定めして魚介類を買ったりしていたが、店員が相手にするのは観光客ばかり。魚屋が彼らに大トロの寿司やカニを売り、店内に誘導して食べさせる。魚貝もそうだが、神戸牛の串焼きステーキなど、日本人が手を出しづらい値段のご馳走が飛ぶように売れた。「ぼったくり」と言ってもいい価格設定だった。


2019年の黒門への観光客は毎日3万人ペースだったらしい。全国的、いや、世界的にもインバウンドでもっとも成功した事例の一つだったのは間違いない。この勢いが新型コロナで急転直下、今年の2月、観光客が消えた。7月に現場検証に行った。全長600メートル弱のアーケードを歩くのはわずかに十数名。こっちの端から一番向こうの端が筒抜けに見えた。観光客がいなくなってもかつての常連客は戻って来ない。常連客を捨てて観光客のほうを選んだツケは大きい。

先週の日曜日、数か月ぶりに再び足を運んでみた。半分以上の店でシャッターが下りている。何年か前までおせち料理とまぐろの刺身を買っていた店がひっそりと営業していた。観光客がたむろしていた人気店だ。大間のまぐろのカマが300円、寿司が一貫200円。激安である。しかし、客がいない。観光客を避けていた日本人は、今はコロナを避けてやって来ない。帰宅して日本酒のつまみにカマをつつき、にぎりに舌鼓を打ちながら考えた。

商売は時代とともに変化する。自力では生み出せそうにない変化――別の言い方をすれば、乗っかってみるほうが楽そうな外的変化――に適応することも正しい選択になることがある。しかし、インバウンド頼みの黒門市場は、商売の原点とすべき精神性をもかなぐり捨てた。次の手となる作戦を練っているとの話を聞いたが、元に戻るのは容易ではないだろう。元に戻れないのなら新たな変化を生み出すしかないが、数年間ずっと無思考に近かったはずだろうから、これもまた難しい。

市場には歴史に育まれてきたルールが必ずある。「見えざる手」などは抽象概念で、そんなものは誰の目にも見えなかった。しかし、なぜあの時、なりふり構わずインバウンド相手の商売に走ったのか。そんなことはこれまで微塵も考えたことがなかったはずのに……。目先の実利を追いかけさせようと、やっぱり見えざる手が動いていたのだろうか。

テレワーク考

今から35年か40年程前に、通勤せずに自宅で仕事をするという発想が生まれた。コンパクトなパーソナルコンピュータが普及し始めた時期と重なった。わが国で現在「テレワーク(teleworking」と呼ぶ仕事形態のコンセプトはアメリカで最初に生まれたが、当時は「テレコミュート(telecommuting)」と呼ばれることが多かったように記憶している。

テレワークでは「仕事」に焦点を当てられ、テレコミュートでは「通勤」を重視する。つまり、会社から離れた場所で仕事をするのが前者、通勤しないで自宅で仕事をするのが後者である。「(tele)」には「離れた」とか「遠くの」という意味があり、テレビもテレフォンもそういう機能を持つ。「リモート」も同じような意味だ。

当時のテレコミュートはほぼ在宅での仕事を指していたが、昨今のテレワークの場所は必ずしも自宅とは限らない。出張先のホテルの部屋で仕事をすれば、それもテレワーク。家の近所のカフェで仕事をしてもテレワーク。どこにいても仕事ができる人、わざわざ出社しなくてもいい人がおこなうのがテレワーク。

さて、テレワークいいのか、テレワークいいのか、テレワークいいのか、テレワークいいのか……。人それぞれの思いがあるはず。


長い歴史の中で、人は孤立しては何事もできず、人と人は共に働き生活し、直接出合っていろんなことをこなしてきた。このことを持ち出してテレワークに異議を唱えると、速攻で「感覚が古い」と言い放たれる。しかし、テレワークだけで仕事の任務をすべてこなせるのは、10人に一人もいないというデータがある。テレワークではいかんともしがたい仕事・職種が世の中の大半を動かしているのだ。

都会はコロナで危険だ、ローカルのプチ別荘でリモートすればいい……トレンドに敏感な連中はこのように考える。考えるだけでなく、すぐに行動する。少なからぬ人たちがそうしようとするから、地方の空き家や古い別荘が値上がりし始めたらしい。慌て者が束の間のバブリーな流れを作ってしまう。

緊急に対応すべきはリスクであって、ライフスタイルやワークスタイルではない。歴史上に生活や仕事の大転換期は何度もあったが、変革は可逆的であり、反省や改良を通じてある程度元に戻る。二、三カ月自宅で仕事をした人も、やがては会社に呼び出されて以前と同じワークスタイルを再開する。

テレワークに期待しない立場は保守的かもしれない。しかし、ファックスやメールが普及しても顧客先への訪問機会は減らなかった。メールで送ればいい文章なのに、打ち合わせをしたいと呼ばれてスタッフは先月上京した。会うことには儀式性があり信頼と安心がある。どんな仕事であれ、人と人はある程度会わねばならないのだ。人と人が居合わせてわざわざ執り行う仕事を――その機微やニュアンスまで――ITが感じ取って画面とメールでこなしてくれるなら、もちろん、それはそれで歓迎しないわけではない。

じれったいジレンマ

二つの事柄が葛藤する様子をジレンマと呼ぶが、実際に葛藤しているのは人の心だ。ある人にとって二つの事柄が相反しているように見えても、別の人には両立する事柄であったりする。たとえば、生活と仕事のジレンマに苦しむ人がいれば、その二つは本来調和するのであって決してジレンマではないと平気な顔して言い放つ人もいる。

誰にでも同じジレンマがあるわけではない。二つの事柄が両立しないのみならず、片方だけでもうまくいかないこともある。思うようにならずイライラする。もどかしい。そう、事柄の問題ではない。ジレンマとはじれったい心理状態にほかならない。

理想と現実は二項対立としてよく語られる。たいてい一致しない。では、理想と現実が葛藤する状態はジレンマなのだろうか。現実を放棄するわけにはいかないから、頭の中のある種の「絵空事」を諦めるか描き直すしかない。理想に現実を近づけるのが難しいと判断すれば、いとも簡単に理想を捨てるのが人の常。では、懐疑と決断はどうか。この二つはジレンマの関係にあると思われる。同時に成り立ちがたく、また、迷ったり疑ったりしていると決心はつかない。他方、決断してしまうとあれでよかったのだろうかと後になって疑心が追いかけてくる。〈?〉と〈!〉の間を行きつ戻りつするのはジレンマだ。


昨今もっとも顕著なジレンマと言えば、”Go to トラベル”だろう。国民に旅してもらって観光を活性化させたい……しかし、新型コロナ感染が恐いのでほどほどに……密は困る、東京の人も困る、東京へ旅するのも困る……いや、ちょっと落ち着いたから、東京も、ま、いいか……。まるで駄々をこねる子どものような政策ではないか。したいとしたくないが葛藤している。

経済と安全、経済と秩序など、そもそも経済は「何か」と折り合わないのが相場である。経済には他の要因を抑え込んで強引に事をすすめていくところがある。経済はわがままな上司に似て、ペアを組んだら言うことを聞くしかない。したがって、コロナ対策と経済のジレンマ関係においては、有無を言わずに経済重視になる。コロナに一喜一憂しないという覚悟だ。いや、安全対策を講じると言うが、マスクと消毒液と人数調整以外に目を見張るような対策はまだない。

経済よりも観光や芸術や文化を優先して持続可能な安定を築いてきた時代や街もある。しかし、観光や芸術や文化もウィルスや病気には勝てない。しばらくはじっと我慢するしかない。我慢を続けられるかどうかは、ポリシーといくばくかの貯金次第。つまり、経済的メリットが出ている時にこそどう振る舞うかが問われるのだ。それはある種の危機管理でもある。

その値段とその欲望

今から約40年前のポーランド。食肉事情が激変した。肉の供給は難しくなり、食料品店の前では肉を求めて何時間も長蛇の列ができる日々。実際に食肉は大幅に値上がりした。しかし、ジョーク的にはそうではなかった。

ある婦人が店から出てきた。取材班がインタビューした。「奥さん、肉の値段はどうでしたか? かなり値上がりしていましたか?」 婦人が答えた。「値上がりなんかしてないわ。だってもの・・がないんだから」。

以上のような話が『食と文化の謎』(マーヴィン・ハリス著)で紹介されていた。なるほど、「もの」があるから値段がつく。それでこその物価だ。ものがないのなら、たしかに値段はつかない。つけようがない。

需要に供給が追いつかないと物価は上昇する。欲しい欲しいと言う人が増えているのに、品薄なのだ。逆に、いつでも手に入るようになると欲望が抑えられ、ものが過剰になり売れにくくなる。すると、物価は下落する。一般論ではこういうことになる。価格が上がると買う気も萎えるものだが、肉食文化にとって肉は必需品であるから、品薄であろうが高かろうが買いに行って並ばねばならない。


6月に鹿児島か宮崎かの国産鰻を買って冷凍しておいた。721日の丑の日はその鰻を家で食べた。ちなみに、丑の日に鰻の売り買いの現場をチェックするべくスーパーを覗いてみた。昨年から稚魚の養殖がうまくいったので、今年は昨年比で12割値下がりして買い求めやすいという。供給が増えれば値段は下がる。少々値が張っても丑の日には食べたい人が多いから、下がればなおさらのこと。売れる。

しかし、ちょっと待てよ。それならば、たまに行く近所の鰻屋も今年は値下げするべきではないか。ところが、値下げどころか、あの鰻屋は上うな丼2,800円を3,200円に「値上げ」したのだ。需要と供給の一般的なセオリーでは説明がつかない荒技をかけたのである。

鰻という市場をスーパーマーケット的なマクロでとらえれば、需給の法則はある程度成り立つ。けれども、件の鰻屋の主人と客であるぼくの一対一の関係においては、そんな法則は当てはまらない。値上がりしても通いたい消費者がおり、値上げしなければやっていけない商売人がいる。それぞれに事情がある。コロナで席数削減の折り、400円の値上げはある種のテーブルチャージなのだろう。

自重と自制の日々

「自粛」。この文字をこれほど頻繁に目にしたのはおそらく初めて。これで書けなかったら「チコちゃんに叱られる!」

遠出したり外食したりするのを慎もうとの要請を機に、生活や仕事のこと、ものの考え方や見方、他人との付き合い方――ついでに、他人にとっての自分の不要不急度も――見直してみた。自粛が一段落した後に続いたのが「自省」の日々だった。

自粛じしゅく】自分の言動に対する反省に基づき、自分から進んで慎むこと。
自省じせい】自分の言動を静かに反省し、自ら責めるようにあれこれと検討を加えること。

『新明解』にあたってみたら、上記のようなニュアンスの違いがあった。しかし、語釈文の前段がほぼ同じ。後段の相違も明快ではないが、自省が反省の類語であることはわかる。

自粛し自省していると、他人と会わなくなり、会わなければことばを交わす機会もない。昨年新聞の月極購読をやめたので、世間の動向はテレビのニュースか時折り覗くネットで知る程度。あまり刺激を受けないので、本ブログでも極言しなくなったし、必死に持論をこね回すこともなくなった。自粛と自省から「自重と自制」へシフトしているような気がする。同じく『新明解』から自重と自制について。

自重じちょう】(品位を保つように)自分の言動を慎むこと。
自制じせい】むき出しにしたくなる自分の感情や欲望を抑えること。


大半は人畜無害だが、SNSという「自由メディア」らしき場では自重と自制がなりをひそめる投稿も少なくない。デリカシーに脇目もふらず、とにかく度を越して威勢よく吠える。吠えた自分の声に鼓舞されていっそうテンションが上がる。やがて持論が正論顔をして仮想敵への批判に向けられる。

言ったもん勝ちの様相を呈するのだが、おおむね言ったもん負けか言ったもんが消えて終わる。気が作動すると品位を保てなくなる。品位は無視できない。ショート・・・・メッセージの発信だからといって、絡的であったり気であったりしてはいけないのである。

世相批評の基本は、怒ったり吠えたりすることではなく、呆れたり苦笑したりすることだろう。呆れたり苦笑したりしている時のほうが世相がよく見えるものだし、それぞれが正しいと考えている彼我の立場も認識しやすい。

憎き権威や体制に火炎瓶を放り投げるような弁舌ではどうにもならないのだ。そもそも何でもアンチとか体制という概念がとうの昔に陳腐化している。そんなものにいつまでも食らいついて批判するのを常としていたら、それこそ己でない何か別の存在に知らず知らずのうちに変えられていくのではないか。と言うわけで、自重と自制の日々。

梅雨の時期のネタ切れ

毎日毎日雨が降る。雨が降るという穏やかな表現がまったくふさわしくない時間帯もある。

目が覚める。軽く身体を動かしてから朝食を済ませ、「さあ、何をしようか」と思い巡らす休日の朝。雨が降っている朝は特に所在なさげにそう思う。日記をやめてからもう何十年にもなる。なぜやめたのかと言えば、ネタ切れを起こしたからだ。仕事もライフスタイルもだいたい似たような日々が繰り返され、おまけに今のような梅雨が毎日続いて書くことがなくなったある年の6月か7月。

日記を「今朝も雨が降っている」から始めるか、「梅雨の合間らしく少々蒸し暑い」で始めるか、あるいは「梅雨にもかかわらず、今朝は過ごしやすい」と書くか……定型は一つではなく、三つ四つとあるが、梅雨にまつわる所感以外になかなか思いつかない。日記と言えば天気と相性がいいのだが、それこそがマンネリズムの原因になっているのではないか。


30年程前に発行された『直観術』(フィリップ・ゴールドバーグ)という本がある。総じていいことが書いてあるが、「正しい直観をとらえよう」という章の〈直観日記〉はいただけない。1.日時、2.直観した内容、3.対象分野から始まって、14項目が並ぶ。これらを直観した時点ですぐに記入する。

これだけではない。時間が経ってからでもいいので、「習慣や権威に反することか」「分析してみたか」「他人の見解を求めたか」など、さらに20の問いに答えよという。「徒然なるままに(……)心にうつりゆくよしなし事をそこはかとなく書きつくれば」の正反対の、おぞましき助言である。

梅雨の時期にそこはかとなく書こうとしてもネタがなくなる。いや、四季のいつであれ何をしていようと、日記というものはネタ切れになるのが常なのだ。ネタがなくとも根気よくマンネリズムを恐れずにルーチンとして何とかやりくりする一種の修行である。

徒然に書くのも大変で、ましてや直観日記のようにルール化すればなおさら大変だ。それでも日記を日々綴り続けている知人がいる。いつの季節もさぞかし書くことに困っているに違いない。しかし、困りながらも無神経に書き続けようとする惰性を日記習慣を支えるエネルギーに変えている。これは敬意を払うに値する苦行である。

数字と気分

お得感と割高感について真剣に考察することがある。たとえば、せこい話だが、モーニングセット360円と単品コーヒー300円の価値をめぐる損得勘定がそれ。

コーヒー1300円に60円プラスするだけでトーストとゆで卵がついてくる。朝飯が済んでいるのでコーヒーだけのつもりだったのに、「60円差ならモーニングにするか……」と安易な路線変更。変えたのは300円のコーヒーが割高に思えたからか、360円セットがお得に見えたからか。しかし、たとえ60円でも、要らないものを注文するのはお得ではない。今なら2本の高枝バサミなどその最たるもの。

n u m b e r s

天気予報で「来週の気温は平年並みか平年を下回るでしょう」と言っている。聞き流しているのだが、少しほっとしていることがある。なぜ?

いったい何にほっとしているのか。来週の過ごしやすさか。ほっとしたりするほど、わかったようでわからない「平年」への感度は良好か。平年の最低気温が20℃だと聞いて、いったいそれは何を意味するのか。差異の実感など一年前や過去十数年の平均値と比較できるものではない。せいぜい昨日に比べての今日、今日に比べての明日くらいしかわからないのだ。

n u m b e r s

行政の窓口やHPに混雑時間表が掲出されていることがある。さっき郵便局に行ってきた。その種のポスターが貼ってあり、「窓口が混雑する時間帯は10時~11時と15時~17時です」と告げている。午前11時過ぎなのに、いつもより混んでいた。

「この時間帯はいつも混むから、他の時間帯にどうぞ」とすすめられても、こっちにも都合がある。けれども、そんなおすすめに(万が一)みながみな真面目に応じれば、定番混み合い時間帯が別の時間帯になるだけの話ではないか。

いつぞや美術館の混雑情報を事前にチェックして、比較的空いている時間帯を目指して行ったら長蛇の列だった。大勢が情報をチェックしていたのである。車の渋滞回避アプリなども、普及すればするほど役立たずになるだろう。

n u m b e r s

「あの会社とうちが同じ金額とは納得がいかん」と、ある中小企業の社長。持続化給付金の話だ。ジョークを思い出した。

ある日、ある男の家に神が降り立って、男に言った。「汝の望みを何でも叶えてあげよう。遠慮はいらないぞ」
「ほんとですか、シンジラレナ~イ!」
「ほんとうだ。しかも、汝の望むことの倍が隣人にも施されるのだよ」
「ちょっとお待ちを、神様。あっしが100キロの金銀財宝を望めば、隣のあいつが200キロ分を手にするってことですかい?」
「その通りじゃ」
(……)

とにかく男は悔しがった。自分が損するわけでもないし、他人が何を得ようとも、そんなこと我関せずで100キロでも好きなだけ恵んでもらえばよかったのに……。このジョークのオチは想像にお任せするが、人間の業が行き着く悲惨な結末になった。

笛吹けども踊らず

商店街の某商店主に聞いた。
「なぜ午後7時に店を閉めるのですか?」
店主は言った。 
「開けていても、その時間になると客が来ないからねぇ」

客にも尋ねてみた。
「午後7時を過ぎると客が来ない。だから店を閉めていると言う商店主がいますが……」
苦笑いしながら客が言った。
「いやいや、その逆。店が閉まっているから行かないのですよ」

売り手と買い手それぞれに思惑があり、取る行動がある。売れるなら店を開けるし、売れそうになければ店を閉める。ぜひとも欲しい商品があるなら行くし、そうでなければ行かない。買い手の〈要不要〉と売り手の〈強み・弱み〉の古典的な関係図式を示している。

別に急ぎではないし、慌てなくてもその商品はどこででも手に入る……行っても閉まっていることが多い商店街だ……デフレ時代、消費者はある程度充足している。欲しくもない多機能なんかいらない。これが「供給>需要」の図である。モノがオーバーフローしたり質がオーバースペックになる。買い手にとっては必要以上に選択肢が増え、逆に面倒になる。急がない客が相手なら、店は午後7時に閉めざるをえない。

急ぎの必要があるか、またはどうしても欲しい……かつその店にしか商品がないのなら、客は午後7時までに行く。必要かつ欲しいと思う消費者が多ければ競うように店に駆けつける。売れれば商品が足りなくなる。かつての高度成長時代とよく似た「需要>供給」の図になる。今時のマスクやアルコール消毒液がそうである。質に疑問符が付いても欲しがる。作れば売れる。


感染対策を取りながら、徐々に経済活動を元に戻していく。とは言うものの、自粛癖がついて外出しない、買い控え癖がついて買わない。需要のテンションが低い状態で、売り手側が笛を吹いても買い手側がすぐに踊り始めるような気分にはなっていない。ここ数年インバウンド市場向け仕様の商売をしてきた供給者ほど状況が厳しい。

市場全体から観光市場――多分にご祝儀市場――を差し引けば、バブル崩壊後のわが国の正体はデフレなのだ。供給したくてうずうずしても、需要のほうがうずうずしてくれない。いつの時代も需要と供給の理想像は経済学的には見えない。需要と供給のバランスが取れればいいという単純な話でもない。

しかし、冒頭の商店街の件のように、客が来ないからと言って店を閉めてはいけない。「供給>需要」なら、客が来なくても店を開けるしかない。そして、笛を吹き続けるしかない。その体力がどこまで持つかが勝負になる。あるいは、いっそのこと供給の内容を変えて「需要>供給」ビジネスにシフトする。これもエネルギーがいる。観光市場も含めて、経済は間違いなく縮減する。元の姿を夢見るよりも縮減経済を覚悟するほうが現実的である。

ぬけぬけと棒読み

今に始まったていたらくではない。国会や委員会の棒読み答弁、報道解説委員の棒読み説明、スライドの棒読み講義……。一昨年だったか、スライドがタイトルだけの一枚で、講演者が手元の原稿を棒読みするだけの講演に居合わせた。義理で聞かされたのだが、名の通った先生が一切聴衆の反応をうかがわず、アドリブもなく小一時間を消化した。

いくらか期待もしていたが、がっかりだった。いや、怒りに近い感情すら覚えた。よくぞ小一時間もぬけぬけと原稿を棒読みしたものである。原稿を作った時点では考えもしただろう。しかし、人前に出てからあの先生、まったく考えてなどいなかった。考えないで喋るという厚かましい態度の恥さらし。

目を見開いて聴衆や相手に語りかけず、ひたすら演台に置いた原稿に視線を落として読むなら、ライブの必要はない。それこそ自宅でリモートで読み上げれば済む。映像もいらない。講義や講演でスライドを使うのが標準仕様になった現在、なければないで喋れる講師でも、掲示資料を棒読みする傾向が強くなった。


その場で何もかもアドリブで喋るのがベストだとは言わない。しかし、よく考えてきたのなら、一言一句を原稿にして棒読みせずとも、話の順番や用語をチラ見する程度の小さなメモさえあれば、人前でも「自分のことば」で喋ることができる。少々流暢さを欠いてもいいではないか。パスカルも言う通り、「立てつづけの雄弁は、退屈させる」のだから。

棒読みでいいのなら、もはや講演者の個性などいらない。声がよくてもっとスムーズに語れる代弁者を起用すればいい。優秀な人がなぜ棒読みに甘んじるのか、まったく考えずに文字だけを追えるのか、不思議でならない。棒読みするために大臣や解説委員になったわけではあるまい。

上記でパスカルを引いたので『パンセ』の当該箇所の前後を再読してみた。第六章の哲学者について綴る断章である。

三三九  (……)私は、考えない人間を思ってみることができない。そんなものは、石か、獣であろう。

ちなみに、この八つ後の断章が、あのあまりにも有名な「人間は考える葦」である。なお、パスカルは「思考万歳!」とばかり言っているわけではない。三六五では、考えることの偉大と尊厳性と同時に、考えの愚かしさと卑しさについても指摘する。つまり、考えに潜む二律背反性を踏まえている。

ともあれ、考えた末に書いたのが手元原稿だと言うのなら、人前で読み上げるその手元原稿はすでに「死に体しにたい」であり、原稿以上の上積みはない。そうそう、その丸読みの原稿を事前に配付する場合もある。話者も聴衆も資料の文字を追うばかり。誰も顔を見ない。棒読みは厚かましいが、何よりもけしからんのは他人に対して開かれていないことだ。