当世ランチ事情――値段と値打ち

ここに書く話は個人的体験と仲間内での見解に基づくもの。全国津々浦々事情が同じでないことを承知している。懐具合の差異によっても認識は大いに変わってくる。

官公庁、オフィス、商業、住宅が立地する仕事場近辺。およそ10年前までは、一部高級店のメニューを除くと、ほとんどの定番ランチは600円から800円のゾーンに収まっていた。しかし、ここ10年のうちにじわじわと50円単位で値段が上がってきた。それでも、ランチ代の相場は1,000円未満にとどまっていた。

洋食レストランや中華飯店では1,500円や2,000円の特別定食を出していたが、それは例外。1,000円を超すランチにはスペシャル感があった。サラリーマン相手の店は1,000円という一線だけは超えないように努力していたと思う。だが、もはや限界。ここ一、二年のうちに、いわゆる大衆的な昼めし処の半数以上が一気にレッドラインを超えた。


京御膳ランチ

モールのレストラン階にある和食店。一昨年くらいまで同じフロア―の全店舗が歩調を合わせてイチオシのメニューを1,000円で提供していた。現在、歩調は合わなくなっている。と言うか、どの店も自慢のメニューを1,000円では出せなくなったのだろう。こちらの京御膳は200円アップした。それでもリーズナブルである。お連れした客人は手厚くもてなされたと感じてくれている。

インドカレーランチ

前は900円、今は1,100円。カレー2種にすると200円アップ、ナンをチーズナンにすると300円アップ、シシカバブをタンドリーチキンに変更したりすると2,000円では済まなくなる。インドカレーは1,000円未満という昔からのイメージを引きずっているので、カレー1種のセットの1,100円は少々高いという印象を受ける。お替り無料のナンを追加して帳尻を合わせる。

牡蠣フライ定食

他店が800円、900円で頑張っていた頃に、早々と1,000円に値上げした海鮮系の店。メインの皿に、刺身のミニ皿と小鉢がつく。この日は牡蠣フライがメイン。まったく割高感を覚えない。遅れて値上げをした他店はこの店よりも高い値付けをしている。一番乗りで値上げをしたが、その後はずっとそのまま。健闘しているので応援したくなる。

トンカツのカツとじ(カツ煮)

日替わり限定30食の店。3年前に初入店した時からずっと850円。具だくさんの丼サイズの味噌汁と小鉢2品がつく。しかも、1145分までに入ると50円割引の800円になる。唯一の難は、メインの皿が豚肉と鶏肉のローテーションなので飽きること。

にぎり10カン/赤だし

オープンしてから78年経つと思うが、それ以来ずっとにぎりセットを650円で提供している。コスパ大賞を授けたいと思う。昼はたまに来るが、夜は来たことがない。昼のお得価格は夜の集客の呼び水だが、はたして成果のほどはどうだろう。なお、節分の丸かぶりの海鮮巻は毎年この店のを買う習わしだが、昨年の1,200円が今年は1,500円になっていた。

フェイクニュースは駆け巡る

いきなりだが、以前書き記していた真実と虚偽にまつわる諺や格言を引用する(どこの国の諺か、誰が言った格言かわかっているが、ここでは省略する)。

🖋 嘘が嘘を生む。
🖋 上手に話すコツは嘘のつき方を知ることだ。
🖋 嘘は花を咲かせるが、実はつかない。
🖋 真実と薔薇の花には棘がある。
🖋 真実は真実らしく見えない時がある。
🖋 人間は真実に対しては氷、虚偽に対しては火である。

最後の諺の氷は「冷たい態度」の比喩であり、火は「心を躍らせて熱狂する様子」をイメージさせる。この諺を思い出したのは、『サピエンス全史』の著者、ユヴァル・ノア・ハラリの「なぜフェイクは広がるか?」というテーマの話をNHK/Web版で読んだ時だ。

「真実はしばしば苦痛を伴います。自分自身、あるいは自国について、知りたくないこともたくさんあります。それに対してフィクションは、好きなように心地よいものに作ることができます。つまり、コストがかかり、複雑で苦痛を伴う真実と、安上がりで単純で心地よいフィクションとの競争では、フィクションが勝つ傾向にあるのです」

本などめったに読めなかった時代、情報はのろまだった。しかし、15世紀の活版印刷の技術が情報を拡散させるようになる。とりわけ偽情報の足は速かった。このメディアと情報拡散の関係が、現在のSNSとフェイクニュースにぴったり当てはまる。事実を調べ上げて原稿を書き、本として発行して販売するにはコストと労力を要する。一方、ほとんどのSNSは無料で利用でき、真偽を曖昧にしたままでとりあえず発信できる。真実が真実らしく見えない時があるのと同程度に、フェイクがフェイクらしく見えない時があっても不思議ではない。

本ブログ記事では極力、固有名詞を書くようにしているし、抜き書きや引用に際しては出典を記すようにしている。冒頭で諺と名言の出典を敢えて書かなかったが、SNS時代では出典が記されていると面倒臭く感じる向きもあるようだ。ちなみに、冒頭の「上手に話すコツは嘘のつき方を知ることだ」というのは『痴愚神礼讃』のエラスムスのことば。論文であるまいし、誰が書いたかなどはどうでもいい、仮に知らせてもらってもエラスムスを知らなかったら、匿名と同じことだ……などと言う人もいるかもしれない。

しかし、いつの時代のどこの国の誰という情報を明示しなかったら、真実と照合する意味はなくなる。付帯情報のない引用文は、適当に脚色したりまったく一から創作したりするのと同じことになる。創作にはフィクションの要素があり、仮に悪意がなかったとしても、フェイクと批判されてもやむをえない。

SNSでは、公園の実名や鳥の固有名詞を書くよりも、匿名的に「とある公園で七色の怪鳥を目撃した」という真偽不明の一文が、真実にはないインパクトをもたらす。昨秋の米大統領選当時、「移民が猫を食べている」という動画はあっと言う間に2,700万回再生された。「移民がペットを飼っている」という平凡な情報に大衆は関心を示さないだろう。

街路樹の取扱い

つい先日のニュース。東京都日野市の緑道でイチョウの木の枝が折れて、その下を歩いていた男性(36)を直撃。男性は死亡した。最近、街路樹の倒木や枝の落下が目立つようになってきた。イチョウの木はこの時期ギンナンの実をつける。専門家によれば一本の枝に数10キロの実がたわわにることも稀ではなく、その重みで枝が折れて落下する。

経年した街路樹の老朽化が人の通行の安全に支障をきたすことなど、計画時には想定していなかっただろう。それが死亡事故に至ったとなれば、老木から順番に街路樹の撤去または植え替えを急がねばならない。やむをえないが、理解を示したい。


たまたまわが家のそばを通る熊野街道の始点に近い街路でも、樹木の撤去が予定されている。対象となる街路樹は約15本。「お知らせ」と書いた紙が養生テープで幹に貼られている。

このは、水道工事すいどうこうじにおいて、掘削くっさく支障ししょうとなるため、撤去てっきょ予定よていしています。
理解りかい・ご協力きょうりょくくださいますよう、よろしくおねがいいたします。
撤去作業てっきょさぎょうは、10月上旬以降がつじょうじゅんいこう予定よていです。

表現がしっくりこないが、それ以上に違和感を覚えるのはすべての漢字にルビを振っている点。誰のためのルビ? 掘削と撤去の漢字を読めない人が、掘削と撤去の意味を理解できるはずがない。行政ならではの「やれることはやっています」という形式的な配慮だ。徹底するのなら「お知らせ」にもとルビを振るべきだった。

さて、「この木は(……)掘削の支障となるため」が引っ掛かる。街路樹と水道工事の局は違うが、同じ自治体。ずっと以前に木は当該自治体が植えた。自ら植えた木をぬけぬけと・・・・・「支障となる」と言えるものだ。街路と木々の経緯や水道工事の内容を語らずに、支障とは非情である。

街路とは街の中を通る道である。適当に作るのではなく、長い目で計画的に・・・・作っている。したがって、街路の街路樹も計画的に構想されて植栽されている。植えた時は、市街の美観、環境の整備と保全が目的と説明したくせに、水道工事の邪魔だと判断したら「掘削の支障」の一言で済ませる。撤去を予定と言うが、これは「決定」の意である。隣の自治会のエリアだから出しゃばらないが、役員が知り合いなので、今度会ったら話題にしてみたいと思う。

店主の決断、言い訳を少々添えて

ランチに何を食べるか、午前11時過ぎ頃から迷い悩み始める。ほぼ毎日のことだ。オフィスに備蓄してあるカレーや丼のレトルトにするか、弁当を買ってくるか、外食するか……。外食が一番悩み多いが、いったん店が決まればメニューもほぼ決まるので、それ以上は迷わないし悩まない。

買い置きしてあるカレーや缶詰類に値上がり感はない。弁当を買う店は限られていて、直近の数年間は500円から600円の範囲で収まっている。問題はランチ処である。ここ12年でどれだけ値上がりしたか近似値でチェックしてみた。

担々麺 800円→950
冷やし担々麺 900円⇢1,050
ビフカツ/トンカツ 1,000円⇢1,300
京御膳 1,100円⇢1,300
中華定食 900円⇢1,200

もちろん値段据え置きの店もある。鯛めし屋の定食は開店以来ずっと1,100円、寿司屋の盛り合わせは相変わらず良心的な650円、鉄板焼きのソース焼きそば定食も目玉焼きをトッピングして850円で奉仕している。据え置き組は5店に1店くらいだと思われる。


大きな薪窯を設えた、ピザが売りのイタリア料理店。先日店の前を通りかかった。しばらくぶりである。「ランチの価格・営業日変更のお知らせ」の貼紙が出ている。この店のランチは長らくお得な800円だったが、2年前に1,000円に値上げされた。それでも十分にリーズナブルな値付けだ。メインのピザの他にハムの入ったサラダ、窯焼きのパン、ドリンクがセットになっているのだから。しかし……

ついに我慢の限界が近づいたようだ。セットをやめ、値段そのままで単品の提供にするか、それともセットを付けたままで1,300円に値上げするか……この二択を夫婦で話し合い、セットを維持して価格をアップすることにした……そんな事情と経緯が詳しく書かれている。客としてはもっと利用して売上に貢献したいが、物価高で苦戦している行きつけの店はここだけではない。困っている店にまんべんなく足繁く通うには限界がある。

昨日は、数ヵ月ぶりに和定食の店に入った。すべての定食にご飯、味噌汁、小鉢2品、漬物がつく。メニュー表の値段に変わりはないが、新しく作り替えられたらしいメニュー表の最上段に食材高騰の影響について注釈があった。この店は、値段を上げずに、値段そのままで小鉢を一つ減らす決断をした。この程度なら大勢に影響はない。

ここまで書いてランチに出掛けた。冒頭のほうで紹介した担々麺の店である。そろそろシーズン最後の冷やし担々麺を注文した。値段は3ヵ月前と変わっていなかった。


常連が会計時にスタッフとことばを交わすのが聞こえた。

「来月から値上げって、ほんと?」
「ええ、そうなんです。でも担々麺はそのまま。醤油ラーメンとチャーシュー麺は上げさせてもらいます」
「いくら? 100円くらい?」
「いえいえ、50円です」

この程度なら深刻な値上げ事象ではない。企業努力と呼んであげたい。

「店主体調不良につき……」

お好み焼き・焼きそばの店のシャッターに紙が貼ってあった。数年前に一度来たことがあるが、昨日はたまたま通りかかっただけ。仮にわざわざ来たとしても、残念がることはないし、顔も覚えていない店主の体調を気遣うこともない。

臨時休業という突然のお知らせに、個人的な理由が付記されるのが目立つこの頃である。昔は「臨時休業」と要点だけ掲げるか「本日〇月○日」と書き加える程度だった。日付を書かずに「本日、臨時休業」はあまりよろしくない。次の日の開店前に見たら、その日が休みだと思うからだ。

ご丁寧に体調がどう悪いのかまで書いているのがある。「腰痛のため」とか「発熱のため」ならまだいいが、わざわざ「持病の・・・腰痛」とか「38℃・・・の熱」とか「利き手の・・・・ケガ」などと書くと、特定の常連を意識している。これは、もしかすると、SNSの影響かもしれない。体調の悪さや身内の病気のことなどを頻繁に伝える人がいる。めったにいい話を書かない。こういうのを「不幸自慢」と言うが、そんな話を読んで同情するには及ばない。

店主やスタッフの体調不良以外でよくあるのが、「運転免許の更新」「身内の不幸」「子どもの入学式」「バイトの休み」。人物以外では「ガス器具の故障」「食材の入荷遅延」などがある。マジックインクでささっと書いたのであればまだしも、ワープロで打って印字してあったりすると、臨時休業用のテンプレートで気合を入れて作っている感じがする。

「バイトが体調不良になり、店主が一人でやりくりできないため、本日は臨時休業とさせていただきます」などという、どう反応してあげればいいのかわからないお知らせもある。都合により臨時で休業することは珍しいことではない。いさぎよく「本日(〇月〇日) 臨時休業します」と書けば済む。お知らせ以上のものを望む人がいるとは思えない。敢えて付け加えるなら、「わざわざお越しいただいたお客様」という一言でいい。

バイトの責任にするのはみっともない。そもそも臨時休業に理由なんかいらないのだ。特に不幸な理由は絶対にいらない。幸せな理由ならあっても目障りではない。イタリア料理店の「〇月〇日から〇月△日まで休業します。店主、カタールへ行って日本を応援してきます」は爽やかなメッセージだった。

一人で切り盛りしている店にも臨時休業のお知らせが貼ってある。店主は体調不良なのに、紙を貼り出しにわざわざ店に出て来たのだろうか。店主が紙を貼り出しているシーンに出くわしたことは一度もないが、見てもたぶん別に何とも思わないのだろう。

パスワード人生

♫ 人生いろいろ ユーザー名もいろいろ パスワードだっていろいろ 咲き乱れるの

サービスを利用するたびにユーザー名とパスワードでログインする。認証されればサービスが受けられる。とても面倒くさく思えるが、自分の家に入る際にも「鍵で解錠ログイン」し、出掛ける時は「鍵で施錠ログアウト」する。あれと同じことだ。問題は鍵に相当するパスワードがどんどん増えて忘れてしまうこと。忘れないように手帳に書き留めたりすると、パスワードの漏洩リスクが高まる。覚えるのがいいが、忘れにくい単純なパスワードを使い回すことになる。

パスワードとは合言葉。自分とサービスの提供先との間であらかじめ取り決めた文字・数字の組み合わせだ。サービスの提供先に行くために、まずスマホやPCなどの情報機器を操らねばならない。情報機器へのログイン時に入力する合言葉が、事前に登録したものと一致すればサービスを受けることができる。ぼくは大丈夫だが、四苦八苦している知り合いのシニアユーザーは少なくない。

英語の“password”も秘密の単語やフレーズだが、機密情報にアクセスするのが本来の目的である。さらに語源を遡れば、味方と敵を識別するためにあらかじめ定めた暗号に行き着く。一方の忍者が「山」と問い、他方が「川」と答えれば味方だとわかり、近づけたり門を開けてくれたりする、あれがまさに昔のパスワード認証だった。パスワードにもパスポートにも入っている“pass”は通行許可の意味。

ホテルのチェックイン時に「ご宿泊のお客様限定の割引券」をもらった。券面には「パスワード・・・・・でお食事されたお客様にお飲み物をサービス致します」と書いてある。入店時か支払時にパスワードを入力すればサービスが受けられるのか。割引券をよく見、電話や電源のそば、部屋のあちこちを探したが、パスワードらしきものは見当たらなかった。「ま、いいか」と諦めて1階の食事処へ行けば、店の名が『パスワード』だった。実話である。

パスワードは、自分で作ったものであれ自動的に生成されたものであれ、完璧に記憶したつもりが、しばらくすると忘れてしまい、紙に書いても紙を紛失してしまう。リスクを低くするためにサービスごとにパスワードを変えるから、日に日に増えていく。パスワード人生はストレスが溜まる。

「旧何々」という言い回し

旧は新の対義語で、「新旧しんきゅう」は新しいものと以前の古いものを指す。「旧い」は「ふるい」と読む。同じものであっても、今と昔で呼称が変われば、以前の呼称を「旧何々なになに」という。ちなみに、旧は「舊」に同じである。

(もと)」の姿や形に「す(かえす)」ことを復旧・・という。しかし、無理やり復旧するまでもなく、「旧何々」の多くは何食わぬ顔をして今に残る。たとえば、旧家は、家が消えて後継者がいなくなっても、名前だけは長く使われ続ける。旧華族もしかり。旧暦もしかり。ほとんど常用しないのに、今と昔の季節感を比較するためだけに古い暦が引用される。

上記とは違って、旧約聖書の場合の旧は「以前の」ではなく、「古い」という意味である。旧約聖書とは「い契の書」であり、新約聖書は「しい契の書」である。言うまでもなく、旧約聖書が新約聖書に改まったのではない。


さて、旧何々が使いやすくてわかりやすいせいか、新しい名称があるにもかかわらず、「旧統一教会」や「旧ジャニーズ事務所」などと旧名で言及するケースが目立つ。最近では「旧ツイッター」をよく見聞きする。前の名前も挙げるなら「X(旧ツイッター)」とするのが筋だと思うが、「旧ツイッター」と先に言ってから、ついでに新しい名称のXが付け加えられる印象だ。

マスコミがこの調子で旧名を使い続けると、新しい名称を誰も覚えないから、もしかするとこの先何年も何十年も「旧何々」が一般呼称であり続けるのではないか。旧の後になじみの名称が続くのだから、名称を変更した意味がない。

わが社の社名変更を何度か検討したことがあるが、それまでに培ってきたささやかな知名度のことを考えると決断できなかった。しかし、「旧」が使えるなら改名もまんざらではない。イロハ株式会社がABC株式会社に社名を変えても、ずっと「旧イロハ株式会社(現ABC株式会社)」と名乗り続ければいいのだから。いっそのこと、厚かましく「旧イロハ株式会社」に改名してしまう手もありえる。

原稿の「旧中山道きゅうなかせんどう」を「いち日中にちじゅう山道やまみち」と読み上げたアナウンサーのエピソードはよく知られているが、「旧」は「1日」どころか10年も100年も続く、なだらかな道なのかもしれない。

クローズドな街歩き

午前11:30~午後2:30Open、午後2:30~午後5:30Closed、午後5:30~午後10:00がOpen、そして午後10:00~翌朝午前11:30Closed。これを平均的な食事処は営業/非営業時間帯としている。

居酒屋や焼肉店のほとんどはだいたい午後5:30~深夜がOpen、深夜~午後5:30Closed。バーになるとおおむね午後8:00~深夜2:00Open、他の時間帯すべてがClosed。繁華街や商店街をそぞろ歩きすると、ドアに掛けられた〈Open/Closed〉のサインプレートと時間帯で「街の顔」がある程度わかることがある。

ところで、closedは動詞closeの過去分詞で、形容詞として単独で使われると「閉まっている」という意味になる。発音は[klóuzdクローズド]。なお、closeは動詞以外に「近い」や「似ている」という形容詞でもあり、その時は[klóusクロース]と発音する。

営業中や開店というopenの明快さに比べると、closedのサインは休み、閉店、休憩、営業時間外、準備中のどれを意味しているのかわかりづらい。多義なので一語で何とか伝えようとすることに無理がある。わざわざ行ってみたがclosedのサインが掛かっていたのであきらめて帰る客もいる。実は「只今準備中、まもなく営業開始」のつもりだったのに。


いつぞやの土曜日。早めのランチを終えてから、賑やかな商店街から枝分かれする飲食街に入り込み、どのくらい街が変わり店が変わったのかチェックしながら歩いてみた。狭い商店街ではあるが、外部に「開かれているオープン」。ところが、開いている店と閉まっている店は半々だった。

土曜日だから終日休みの店が多いのだろうか。それとも、夕方から営業を始めるのだろうか。サインプレートの情報だけではわからない。大文字だけのCLOSEDには容赦のない「閉まっている感」が強い。同じ大文字だけのサインでも鉢植えのグリーンがあれば少しは救われる。救われてどうにかなるものでもないが……。ドアに斜めに掛けられたサインはメッセージ性があって謎っぽい。

営業中の店と閉まっている店。前者よりも無言の後者のほうに視線が向く。そうしてClosedづたいに商店街を通り抜けた時、このあたりは一見向きではなく、店の営業日や営業時間を知る常連が通う飲食街だと悟ったのである。

人気を「ひとけ」と読む時

人気と書いて「にんき」または「ひとけ」と読む(稀に「じんき」と読むこともある)。「にんき」は、あったり出たりすると好ましいとされる。しかし、それに溺れてしまうと、いずれ痛い目に合う。一時的にそれを博した者や物は早晩それを失うことが多い。

同じ漢字を「ひとけ」と読むと、場で感じる人の気配や様子をあらわす。「にんきがない」と「ひとけがない」には人が寄りつかないという共通の意味がある。しかし、「にんきがない」のは本人も諦めがつくが、「ひとけがない」と周囲の者たちが気持ち悪がる。「ひとけのない部屋」で物音がすると不気味ではないか。

平日の昼に二度しか入っていないので、結論めいたことや断定的な意見は慎みたいが、こんな街中なのに信じられないほど「ひとけのない店」がオフィスの近くにある。最初に入店した昨年はぼくが一人だけ、二度目の先日は先客一人とぼくだけ。ざっと見渡せば50席は下らない、広い店にもかかわらず。

撮り収めた写真に時計が写っていた。ランチタイムとしてはピークのはずの1225分頃である。この時刻に客が二人。とんでもなくまずい料理を出す店と思われそうだが、そんな店ならぼくの二度目はない。ミートソースやトマトや魚介のスパゲッティを出す店で、ベーカリーも併設している(いや、ベーカリ―がパスタランチを提供しているのかもしれない)。ともあれ、味は普通である。

最初にサラダとスープが運ばれる。次にパン。通常はパンを乗せたトレイを客席で見せて、好きなパンを23個選ばせるものだが、これでもかとばかりに7種の小ぶりなパンを盛った皿をテーブルに置く。そして、「あちらで(と小さなテーブルを指差し)バターとジャムはご自由にどうぞ」と言う。厨房に初老の夫、ホールにその妻(たぶん)。夜になると繫盛しているかもしれないので、敢えて「にんきがない」とは言わないが、正午前後になぜひとけがないのか、その原因はわずか二度では突き止められそうにない。

現象面的には他のイタリアンとの違いが見える。他店は女性客が多い。ムダにシャレている。店の前のメニューに高級感がある。翻って、この店はパン屋かスパゲッティ屋か喫茶店かわかりづらい。繰り返すが、パスタは普通である。当世、パスタをまずく下手くそに作るほうが難しい。普通のパスタを普通のソースで普通に作れば、普通の一品が出来上がる。

パンも普通である。「配給」された気分だったので頑張ってパンを食べたが、不覚にも2個残した。お勘定の時に「残して申し訳ない」と詫びたら、「お持ち帰りもできますのでお申し付けください」と言われた。いい店ではないか。敬遠する理由が見当たらない。しかし、ひとけがない理由を探るためにもう一度来ようとは思わない。この店に来た客はみな二度来て、ぼくと同じことを感じ、そして三度目を見送っているのに違いない。

その「必要」を問う

ボウルに盛られた野菜を見せて、「1日に必要・・な野菜は、なんとこれだけの量」と告げるコマーシャルがある。「これだけ食べるのは無理です!」と反応する女性アシスタント。続いて「それなら、青汁を飲みましょう」という展開になる。はい、左様でございますかと素直になれないのは、へそ曲がりのせいではない。

アシスタントが一目見て食べられそうにない量の野菜。それを毎日必要・・だとすることにそもそも無理がありはしないか。人間は毎日それだけの野菜の栄養分を摂取しなければならないという栄養学説。各種野菜に含まれる栄養素が青汁一杯だけで摂れてしまうのなら、他の野菜は一切要らなくなる。これだけの野菜が必要・・だと提起したのに、要らないという結論が導かれてしまう。

ところで、必要・・とは何か。「あることを満たしたり叶えたりする上で無視できない要素や条件があって、それを怠らずにしっかりと用いること」と定義してみた。〈Aを実現するためにB必要・・〉という図式である。海外旅行するにはパスポートが必要・・、血液検査をするには注射器が必要・・、という具合。野菜の例で言えば、次のようになる。

1日に必要・・な野菜の栄養分(A)を摂るにはこれだけの量の野菜(B)が必要・・

図式に当てはめて文意を通そうと思ったら、必要・・2回使うことになる。パスポートや注射器のようにすんなりと納得できないのは、「これだけ必要・・」という野菜の量に全幅の信頼が置けないからだ。したがって、「これだけの野菜の量の栄養分を摂るには青汁が必要・・」という結論にも「待った!」をかけざるをえない。

意味が明快なようだが、必要・・という用語は「不要」に比べれば曖昧である。不要に程度はない。要らないものは要らないという同語反復が可能である。対して、必要・・にまつわる条件は何一つ決まっていない。条件を規定するのは誰かであって、どの程度必要・・なのかはつねに一定ではない。「る」と言いながら、質や量はそのつど変わる。

「印鑑は必要・・ですか?」「はい」「忘れたんですけど」「じゃあ、サインで結構です」……というやりとりの経験がないだろうか。あるほうがいいが、なければないでオーケーという場合でも、とりあえず言っておく。必要・・とはそんなものなのだ。