その値段とその欲望

今から約40年前のポーランド。食肉事情が激変した。肉の供給は難しくなり、食料品店の前では肉を求めて何時間も長蛇の列ができる日々。実際に食肉は大幅に値上がりした。しかし、ジョーク的にはそうではなかった。

ある婦人が店から出てきた。取材班がインタビューした。「奥さん、肉の値段はどうでしたか? かなり値上がりしていましたか?」 婦人が答えた。「値上がりなんかしてないわ。だってもの・・がないんだから」。

以上のような話が『食と文化の謎』(マーヴィン・ハリス著)で紹介されていた。なるほど、「もの」があるから値段がつく。それでこその物価だ。ものがないのなら、たしかに値段はつかない。つけようがない。

需要に供給が追いつかないと物価は上昇する。欲しい欲しいと言う人が増えているのに、品薄なのだ。逆に、いつでも手に入るようになると欲望が抑えられ、ものが過剰になり売れにくくなる。すると、物価は下落する。一般論ではこういうことになる。価格が上がると買う気も萎えるものだが、肉食文化にとって肉は必需品であるから、品薄であろうが高かろうが買いに行って並ばねばならない。


6月に鹿児島か宮崎かの国産鰻を買って冷凍しておいた。721日の丑の日はその鰻を家で食べた。ちなみに、丑の日に鰻の売り買いの現場をチェックするべくスーパーを覗いてみた。昨年から稚魚の養殖がうまくいったので、今年は昨年比で12割値下がりして買い求めやすいという。供給が増えれば値段は下がる。少々値が張っても丑の日には食べたい人が多いから、下がればなおさらのこと。売れる。

しかし、ちょっと待てよ。それならば、たまに行く近所の鰻屋も今年は値下げするべきではないか。ところが、値下げどころか、あの鰻屋は上うな丼2,800円を3,200円に「値上げ」したのだ。需要と供給の一般的なセオリーでは説明がつかない荒技をかけたのである。

鰻という市場をスーパーマーケット的なマクロでとらえれば、需給の法則はある程度成り立つ。けれども、件の鰻屋の主人と客であるぼくの一対一の関係においては、そんな法則は当てはまらない。値上がりしても通いたい消費者がおり、値上げしなければやっていけない商売人がいる。それぞれに事情がある。コロナで席数削減の折り、400円の値上げはある種のテーブルチャージなのだろう。

自重と自制の日々

「自粛」。この文字をこれほど頻繁に目にしたのはおそらく初めて。これで書けなかったら「チコちゃんに叱られる!」

遠出したり外食したりするのを慎もうとの要請を機に、生活や仕事のこと、ものの考え方や見方、他人との付き合い方――ついでに、他人にとっての自分の不要不急度も――見直してみた。自粛が一段落した後に続いたのが「自省」の日々だった。

自粛じしゅく】自分の言動に対する反省に基づき、自分から進んで慎むこと。
自省じせい】自分の言動を静かに反省し、自ら責めるようにあれこれと検討を加えること。

『新明解』にあたってみたら、上記のようなニュアンスの違いがあった。しかし、語釈文の前段がほぼ同じ。後段の相違も明快ではないが、自省が反省の類語であることはわかる。

自粛し自省していると、他人と会わなくなり、会わなければことばを交わす機会もない。昨年新聞の月極購読をやめたので、世間の動向はテレビのニュースか時折り覗くネットで知る程度。あまり刺激を受けないので、本ブログでも極言しなくなったし、必死に持論をこね回すこともなくなった。自粛と自省から「自重と自制」へシフトしているような気がする。同じく『新明解』から自重と自制について。

自重じちょう】(品位を保つように)自分の言動を慎むこと。
自制じせい】むき出しにしたくなる自分の感情や欲望を抑えること。


大半は人畜無害だが、SNSという「自由メディア」らしき場では自重と自制がなりをひそめる投稿も少なくない。デリカシーに脇目もふらず、とにかく度を越して威勢よく吠える。吠えた自分の声に鼓舞されていっそうテンションが上がる。やがて持論が正論顔をして仮想敵への批判に向けられる。

言ったもん勝ちの様相を呈するのだが、おおむね言ったもん負けか言ったもんが消えて終わる。気が作動すると品位を保てなくなる。品位は無視できない。ショート・・・・メッセージの発信だからといって、絡的であったり気であったりしてはいけないのである。

世相批評の基本は、怒ったり吠えたりすることではなく、呆れたり苦笑したりすることだろう。呆れたり苦笑したりしている時のほうが世相がよく見えるものだし、それぞれが正しいと考えている彼我の立場も認識しやすい。

憎き権威や体制に火炎瓶を放り投げるような弁舌ではどうにもならないのだ。そもそも何でもアンチとか体制という概念がとうの昔に陳腐化している。そんなものにいつまでも食らいついて批判するのを常としていたら、それこそ己でない何か別の存在に知らず知らずのうちに変えられていくのではないか。と言うわけで、自重と自制の日々。

梅雨の時期のネタ切れ

毎日毎日雨が降る。雨が降るという穏やかな表現がまったくふさわしくない時間帯もある。

目が覚める。軽く身体を動かしてから朝食を済ませ、「さあ、何をしようか」と思い巡らす休日の朝。雨が降っている朝は特に所在なさげにそう思う。日記をやめてからもう何十年にもなる。なぜやめたのかと言えば、ネタ切れを起こしたからだ。仕事もライフスタイルもだいたい似たような日々が繰り返され、おまけに今のような梅雨が毎日続いて書くことがなくなったある年の6月か7月。

日記を「今朝も雨が降っている」から始めるか、「梅雨の合間らしく少々蒸し暑い」で始めるか、あるいは「梅雨にもかかわらず、今朝は過ごしやすい」と書くか……定型は一つではなく、三つ四つとあるが、梅雨にまつわる所感以外になかなか思いつかない。日記と言えば天気と相性がいいのだが、それこそがマンネリズムの原因になっているのではないか。


30年程前に発行された『直観術』(フィリップ・ゴールドバーグ)という本がある。総じていいことが書いてあるが、「正しい直観をとらえよう」という章の〈直観日記〉はいただけない。1.日時、2.直観した内容、3.対象分野から始まって、14項目が並ぶ。これらを直観した時点ですぐに記入する。

これだけではない。時間が経ってからでもいいので、「習慣や権威に反することか」「分析してみたか」「他人の見解を求めたか」など、さらに20の問いに答えよという。「徒然なるままに(……)心にうつりゆくよしなし事をそこはかとなく書きつくれば」の正反対の、おぞましき助言である。

梅雨の時期にそこはかとなく書こうとしてもネタがなくなる。いや、四季のいつであれ何をしていようと、日記というものはネタ切れになるのが常なのだ。ネタがなくとも根気よくマンネリズムを恐れずにルーチンとして何とかやりくりする一種の修行である。

徒然に書くのも大変で、ましてや直観日記のようにルール化すればなおさら大変だ。それでも日記を日々綴り続けている知人がいる。いつの季節もさぞかし書くことに困っているに違いない。しかし、困りながらも無神経に書き続けようとする惰性を日記習慣を支えるエネルギーに変えている。これは敬意を払うに値する苦行である。

数字と気分

お得感と割高感について真剣に考察することがある。たとえば、せこい話だが、モーニングセット360円と単品コーヒー300円の価値をめぐる損得勘定がそれ。

コーヒー1300円に60円プラスするだけでトーストとゆで卵がついてくる。朝飯が済んでいるのでコーヒーだけのつもりだったのに、「60円差ならモーニングにするか……」と安易な路線変更。変えたのは300円のコーヒーが割高に思えたからか、360円セットがお得に見えたからか。しかし、たとえ60円でも、要らないものを注文するのはお得ではない。今なら2本の高枝バサミなどその最たるもの。

n u m b e r s

天気予報で「来週の気温は平年並みか平年を下回るでしょう」と言っている。聞き流しているのだが、少しほっとしていることがある。なぜ?

いったい何にほっとしているのか。来週の過ごしやすさか。ほっとしたりするほど、わかったようでわからない「平年」への感度は良好か。平年の最低気温が20℃だと聞いて、いったいそれは何を意味するのか。差異の実感など一年前や過去十数年の平均値と比較できるものではない。せいぜい昨日に比べての今日、今日に比べての明日くらいしかわからないのだ。

n u m b e r s

行政の窓口やHPに混雑時間表が掲出されていることがある。さっき郵便局に行ってきた。その種のポスターが貼ってあり、「窓口が混雑する時間帯は10時~11時と15時~17時です」と告げている。午前11時過ぎなのに、いつもより混んでいた。

「この時間帯はいつも混むから、他の時間帯にどうぞ」とすすめられても、こっちにも都合がある。けれども、そんなおすすめに(万が一)みながみな真面目に応じれば、定番混み合い時間帯が別の時間帯になるだけの話ではないか。

いつぞや美術館の混雑情報を事前にチェックして、比較的空いている時間帯を目指して行ったら長蛇の列だった。大勢が情報をチェックしていたのである。車の渋滞回避アプリなども、普及すればするほど役立たずになるだろう。

n u m b e r s

「あの会社とうちが同じ金額とは納得がいかん」と、ある中小企業の社長。持続化給付金の話だ。ジョークを思い出した。

ある日、ある男の家に神が降り立って、男に言った。「汝の望みを何でも叶えてあげよう。遠慮はいらないぞ」
「ほんとですか、シンジラレナ~イ!」
「ほんとうだ。しかも、汝の望むことの倍が隣人にも施されるのだよ」
「ちょっとお待ちを、神様。あっしが100キロの金銀財宝を望めば、隣のあいつが200キロ分を手にするってことですかい?」
「その通りじゃ」
(……)

とにかく男は悔しがった。自分が損するわけでもないし、他人が何を得ようとも、そんなこと我関せずで100キロでも好きなだけ恵んでもらえばよかったのに……。このジョークのオチは想像にお任せするが、人間の業が行き着く悲惨な結末になった。

笛吹けども踊らず

商店街の某商店主に聞いた。
「なぜ午後7時に店を閉めるのですか?」
店主は言った。 
「開けていても、その時間になると客が来ないからねぇ」

客にも尋ねてみた。
「午後7時を過ぎると客が来ない。だから店を閉めていると言う商店主がいますが……」
苦笑いしながら客が言った。
「いやいや、その逆。店が閉まっているから行かないのですよ」

売り手と買い手それぞれに思惑があり、取る行動がある。売れるなら店を開けるし、売れそうになければ店を閉める。ぜひとも欲しい商品があるなら行くし、そうでなければ行かない。買い手の〈要不要〉と売り手の〈強み・弱み〉の古典的な関係図式を示している。

別に急ぎではないし、慌てなくてもその商品はどこででも手に入る……行っても閉まっていることが多い商店街だ……デフレ時代、消費者はある程度充足している。欲しくもない多機能なんかいらない。これが「供給>需要」の図である。モノがオーバーフローしたり質がオーバースペックになる。買い手にとっては必要以上に選択肢が増え、逆に面倒になる。急がない客が相手なら、店は午後7時に閉めざるをえない。

急ぎの必要があるか、またはどうしても欲しい……かつその店にしか商品がないのなら、客は午後7時までに行く。必要かつ欲しいと思う消費者が多ければ競うように店に駆けつける。売れれば商品が足りなくなる。かつての高度成長時代とよく似た「需要>供給」の図になる。今時のマスクやアルコール消毒液がそうである。質に疑問符が付いても欲しがる。作れば売れる。


感染対策を取りながら、徐々に経済活動を元に戻していく。とは言うものの、自粛癖がついて外出しない、買い控え癖がついて買わない。需要のテンションが低い状態で、売り手側が笛を吹いても買い手側がすぐに踊り始めるような気分にはなっていない。ここ数年インバウンド市場向け仕様の商売をしてきた供給者ほど状況が厳しい。

市場全体から観光市場――多分にご祝儀市場――を差し引けば、バブル崩壊後のわが国の正体はデフレなのだ。供給したくてうずうずしても、需要のほうがうずうずしてくれない。いつの時代も需要と供給の理想像は経済学的には見えない。需要と供給のバランスが取れればいいという単純な話でもない。

しかし、冒頭の商店街の件のように、客が来ないからと言って店を閉めてはいけない。「供給>需要」なら、客が来なくても店を開けるしかない。そして、笛を吹き続けるしかない。その体力がどこまで持つかが勝負になる。あるいは、いっそのこと供給の内容を変えて「需要>供給」ビジネスにシフトする。これもエネルギーがいる。観光市場も含めて、経済は間違いなく縮減する。元の姿を夢見るよりも縮減経済を覚悟するほうが現実的である。

ぬけぬけと棒読み

今に始まったていたらくではない。国会や委員会の棒読み答弁、報道解説委員の棒読み説明、スライドの棒読み講義……。一昨年だったか、スライドがタイトルだけの一枚で、講演者が手元の原稿を棒読みするだけの講演に居合わせた。義理で聞かされたのだが、名の通った先生が一切聴衆の反応をうかがわず、アドリブもなく小一時間を消化した。

いくらか期待もしていたが、がっかりだった。いや、怒りに近い感情すら覚えた。よくぞ小一時間もぬけぬけと原稿を棒読みしたものである。原稿を作った時点では考えもしただろう。しかし、人前に出てからあの先生、まったく考えてなどいなかった。考えないで喋るという厚かましい態度の恥さらし。

目を見開いて聴衆や相手に語りかけず、ひたすら演台に置いた原稿に視線を落として読むなら、ライブの必要はない。それこそ自宅でリモートで読み上げれば済む。映像もいらない。講義や講演でスライドを使うのが標準仕様になった現在、なければないで喋れる講師でも、掲示資料を棒読みする傾向が強くなった。


その場で何もかもアドリブで喋るのがベストだとは言わない。しかし、よく考えてきたのなら、一言一句を原稿にして棒読みせずとも、話の順番や用語をチラ見する程度の小さなメモさえあれば、人前でも「自分のことば」で喋ることができる。少々流暢さを欠いてもいいではないか。パスカルも言う通り、「立てつづけの雄弁は、退屈させる」のだから。

棒読みでいいのなら、もはや講演者の個性などいらない。声がよくてもっとスムーズに語れる代弁者を起用すればいい。優秀な人がなぜ棒読みに甘んじるのか、まったく考えずに文字だけを追えるのか、不思議でならない。棒読みするために大臣や解説委員になったわけではあるまい。

上記でパスカルを引いたので『パンセ』の当該箇所の前後を再読してみた。第六章の哲学者について綴る断章である。

三三九  (……)私は、考えない人間を思ってみることができない。そんなものは、石か、獣であろう。

ちなみに、この八つ後の断章が、あのあまりにも有名な「人間は考える葦」である。なお、パスカルは「思考万歳!」とばかり言っているわけではない。三六五では、考えることの偉大と尊厳性と同時に、考えの愚かしさと卑しさについても指摘する。つまり、考えに潜む二律背反性を踏まえている。

ともあれ、考えた末に書いたのが手元原稿だと言うのなら、人前で読み上げるその手元原稿はすでに「死に体しにたい」であり、原稿以上の上積みはない。そうそう、その丸読みの原稿を事前に配付する場合もある。話者も聴衆も資料の文字を追うばかり。誰も顔を見ない。棒読みは厚かましいが、何よりもけしからんのは他人に対して開かれていないことだ。

入るを量りて出ずるを制す

二十数年前のこと。年配の飲食店経営者がつぶやいた。「この歳になるまで経営やマーケティングのいろんなセミナーを受講して小難しい勉強をしてきましたがね、あまり役に立たなかった。さほど儲からないけど易々と潰れないしぶとさ――経営はここに尽きると思っているんです」。そして、ぽつんとあの金言を持ち出した。「るをはかりてずるを制す」。

素人でもみんな知っていること。子どもが小遣いを貯めておもちゃを買った後に残金をチェックするのも、主婦が家計簿をつけながら大きくため息をつくのも、小さな会社を創業したビギナー経営者が収入と支出に目配りするのも、すべて「入ってくるお金と出ていくお金」への関心ゆえである。みんなわかっている、「出ずる・・・入る・・を上回らないようにしよう」と。創業してから30余年、未だ経営オンチのぼくでも、このことは――このことだけは――わきまえている。

現在の自分の収入や自社の売上はわかっている。現在から寸法を測ればある程度将来の伸び率も予測できる。しかし、お金は出ていくし、収入や売上が予測通りに順調に推移するとはかぎらない。ただ、入ってくるお金に比べると、毎月出ていく固定費を含む支出は大きく変化しない。だから「るをはかりてずるを制す」、つまり、支出は収入に釣り合うか収入の範囲内にとどめておくのが安定の基本になる。


しかし、いくら支出を制していても、予測できない危機に見舞われて収入のほうがどうにもならなくなることがある。今の新型コロナ禍はおそらく今世紀に入って最大の危機だ。このリスク状況がいつまで続くのか、資金注入でどの程度急場をしのげるのか、誰にもわからない。1兆円超の赤字を出しても潰れない企業がある一方で、わずか100万円の資金繰りがどうにもならず、社員を解雇したり廃業したりし、最悪、命を絶つ零細企業経営者がいる。これが社会の現実。

事業者への給付金は、一定条件を満たせば一律に支払われる制度である。この制度の公平性や不公平性については黙して語らないのがいい。どんな泣き言や不満を吐き捨ててもどうにもならないからである。立地の良くない場所で細々と一軒の店を営んできたオーナーと、好立地に数店舗を経営してきたオーナーが受けるダメージは違う。前者は100万円で持ち堪えられるが、後者にとっては100万円は焼け石に水である。

何もかもウィルスのせいではないし、給付金申請の手続きの煩わしさや対応遅延のせいではない。経営者はいろいろな選択肢から今に到る道を選んだのであり、自分なりの経営哲学によって戦略を立ててきたのである。テレビのインタビューに対して、複数店舗を経営する美容院経営者とラーメン店経営者が絶望的に語るシーンを見た。その二人は危機に対して自らが脆弱な体質だった点については触れなかった。有事と平時とにかかわらず、経営の根底には自己責任があることを忘れてはいけない。

テレワーク雑感

創業してから数年のうちに本を3冊著した。仕事場で本業をこなしながら、合間に原稿を書いた。締切直前にはオフィスに顔を出さずに自宅でワープロを打った。今風に言えばテレワーク。能率は落ちなかったが、誰にも気遣いがいらないから集中力に乏しくなるし、疲れたら横になるという甘さも出た。当時は郊外に住んでいたので、往復の通勤1時間半が節約できたが、節約できたその時間が作業時間にプラスされたとは思わない。

今は自宅とオフィスは徒歩で10分少々、自転車なら5分。のろまなパソコンとプリンターと程度の自宅インフラでは仕事がはかどらないので、自粛ムードの今も毎日会社に出ている。ワンフロアでたった一人という日が週に何度かある。小さな会社なりにITインフラを完備しているし、蔵書のほとんどをオフィスに収蔵しているので、出てくるほうが何かと便利がいい。

この一週間、「非通知」の電話が何度か鳴った。受話器を耳にあてると、いきなりの音声ガイダンス。どんな悪だくみなのか興味があるのでしばらく聞き流してみた。給付金を振り込むので情報をインプットせよという内容で、おそらく最後には銀行口座番号とパスワード入力へと誘導するメッセージが続くのだろう。人間にこんなテレワーク営業をさせていたら人件費が高くつく。コンピュータに自動音声で営業させれば能率はアップする。思えば、「オレオレ詐欺」などはある種のテレワーク営業ではなかったか。


オフィスの道路向かいにマンションがある。一方通行の狭い道路なので、目と鼻の先という感じだ。当社は5階、マンションのその一室も5階。毎朝ぼくは8時台に出社して、ロールブラインドを上げて窓を開放する。午前9時、正面に見える一室の窓際の椅子に男性が座る。おそらくテレワーク組だと思われる。さっきベランダに出てきたが、初めて顔を見た。見た目30代前半。

今日は半袖の赤いポロシャツ姿で、おそらくパソコンに向かって、おそらく仕事をしていたと思われる。かれこれ一ヵ月。別に裏窓から覗いているわけではない。窓外に目を向ければ勝手に見えるのだ。長袖の白のカッターシャツの日もある。上司か得意先とのテレビ会議だろうか。在宅勤務時間もランチタイムも休憩にもルーチンを決めているに違いない。ぼくは何度も席を外したり隣の部屋へ行ったりして頭を切り替えるが、彼はずっと座っている。まじめな働きぶりが窺える。

あの彼がハードワークしていると仮定しよう。しかし、今まで出社してしていた仕事をこんなふうに毎日テレワークでできてしまうなら、もうオフィスはいらなくなる。二ヵ月か三ヵ月続けられそうなら、半年や一年でもできてしまうだろう。オフィスと在宅の仕事に効率や質の差がなければ、企業はインフラだけ整備して正社員を契約社員にすればいい。オフィスは縮小できる。

これを機にテレワークができる体制を取るべしという意見が目立つ。しかし、部屋に閉じこもって電話かビデオで時々やりとりして済むような仕事は、やがてAIに取って代わられる。一部職種で仕事がかなりデジタル化されたのは間違いないが、仕事から人と人の関係が消えることはない。いや、消えることがないように、自分の固有のアナログ価値を保持しなければならないはずである。

ともあれ、ほとんどの会社にとってテレワークは非常措置である。すべてとは言わないが、いずれ年初の頃の状況に戻る。数ヵ月在宅したテレワーカーたちが首尾よくオフィスや現場に戻れるか。出社拒否症候群という禍も想定しておかねばならない。

「騙し」の構造

どんな意見でもひとまず受容することにしているが、こと現象となると、信じるか懐疑するかの二者択一しかなければ、懐疑から入るのを常としている。いったん盲目的に信じてしまうと、相当怪しく感じるようになっても、信じた己の正当性を否定しにくくなるからである。逆に、対象が何重もの懐疑のフィルターを潜り抜けたなら、それに共感して納得に転じることにやぶさかではない。

スピリチュアルが入っている人には申し訳ないが、超能力や超常現象は信じる者による独断的な定義だと思っている。別の者にとっては「トリックによる創作」という定義が成り立つ。科学絶対とはゆめゆめ思わないが、すべての現象は現代科学ですでに説明がついているか、現代科学で解明できていないかのいずれかである。後者の、解明できてはいないが、現実に起こりうるものは能力であり現象であって、わざわざ「超」や「超常」を被せる必要はない。

超能力の仕業とされていることのすべてをミスターマリックやナポレオンズやマギー司郎ならやって見せるだろう。自分がこの宇宙で棲息している事実以上に不思議な現象に未だかつて出合ったことはない。

「騙し」の構造について書評会で『人はなぜ騙されるのか』(安斎 育郎著)を取り上げたことがある。もう一度拾い読みしてみた。

本書では109の話が、第Ⅰ章 不思議現象を考える、第Ⅱ章 科学する眼・科学するこころ、第Ⅲ章 人はなぜ騙されるのか、第Ⅳ章 社会と、どう付き合うか、第Ⅴ章 宗教と科学の5章に割り振られている。サブタイトルに 「非科学を科学する」 とあるように、不思議や超常の仕掛けが次から次へと科学的に暴かれていく。なお、本書の示唆をぼくは教育的啓発としてとらえるようにしている。


スレイド事件
スレイドは交霊できる職業的霊媒であった。何も書いていない一枚の石板とチョークをテーブルの下に置いて、居合わせた人の先祖と交信して霊にメッセージを自動書記させた。錚々たる物理学者もみんな信じてしまった。
ある交霊会でロンドン大学の教授が、スレイドが交霊する前にテーブルの下から石板をひったくるという荒手を使ったら、そこにはすでにメッセージが書かれていたのである。

ノーベル生理学賞のリシェー教授と幽霊
心霊現象に否定的だった教授は、ある将軍の家で幽霊を出現させるのを目撃してから、一気に幽霊説に傾いていった。しかし、人間が幽霊に扮したかもしれないという疑問をまったく検証することはなかった。人は信じたいほうを信じ、信じたくないほうを疑わないという習性を持つ。

幽霊の写真
撮影霊媒で有名だったデーン夫人は、現像段階で早業のすり替えを暴かれた。誰もが騙されてきたのは、すり替えの小道具に 「讃美歌の本」 を用いていたからである。「神を讃える聖なる書物を、まさかインチキの小道具に使うはずがない」 というキリスト教徒の常識的道徳観が、詐欺師を見破る目を曇らせたのである。「奇術とは、常識の虚をつく錯覚美化の芸術である」。

こっくりさん
降神術の一種であるこっくりさんは、英語で 「テーブルターニング(机転術)」 とか 「テーブルトーキング(談話術)」 などと呼ばれている。大学生の頃、合宿などでよく興じたものだ。
十九世紀の科学者にとっては こっくりさんの解釈の足場を 「霊界」 に据えるのか、それとも 「理性」 の側にしっかりと足を踏まえるのかは、いわば思想の根本にかかわる問題だったのである。
こっくりさんは、答えはこうなるはず、こうあってほしいという 〈予期意向〉 と筋肉運動である 〈不覚筋動〉によるものであると解明された。

文化勲章受章者と死後の世界
岡部金治郎博士は、「動物の霊魂→五官で完治できない神秘→不生不滅の法則→魂の素→肉体の活性から非活性状態→……→魂が受精卵に宿る」という見事な(?)説を唱えた。生真面目な一方で、すべての根底に「人智の及ばぬ神秘」 という荒唐無稽が置かれている。死後の世界論どころか宗教なのである。
霊魂の存在などまったく証明されていない。ここにあるのは 「私は霊魂を信じる」 という前提のみである。科学と信仰が混同された典型的な例であった。

経験絶対化の危険性
しばしば自分の感覚器官でとらえた 「事実認識」 を絶対化し、厳密な検証もなしに、その命題が 「真」 であることを信じ込む。
「この目で見た」 「この耳で聞いた」 という体験がもつ説得力は非常に大きい。しかし、 「感覚器官は錯誤に陥りやすい 」ことを忘れてはいけない。

科学のブラックボックス化
科学は進歩しても、なかなか人間の意識の変革は思うに任せず、孔子の春秋時代からあまり進歩していないのではないか 。
現代人はWhyへの執着心よりもHowへの指向性のほうが強い。科学技術の成果がブラックボックスになったがゆえに、「なぜ」 が消え失せてきた。科学の時代であればこそ非科学的思考に陥る危険があるのだ。

錯誤と対象認識過程の省略
人間は、部分から全体を推定し、 時間を追って順番に起こった事象については、本当はそれぞれの事象が独立のものでも、「一連の事象」 として関連づけて理解してしまう。
大きさ、形、色、肌ざわり、香り、味などの性質を刷り込んで、リンゴを認知する。しかし、今度再認識するときは、これらすべての性質を再生するのではなく、二つくらい一致するだけで対象を認識するのである。


本書によれば、「信じよ、さらば救われん」 も 「為せば成る」 も 「念じれば花開く」 もすべて、非科学的ということになる。因果関係の吟味、二者関係の明確化、主観的願望と客観的推論の峻別などをおろそかにして結論を導くのは危ういのである。

UFOよりも46億年経過してもマグマがたぎる地球のほうが不思議であり、幽霊よりも一般的なオバチャンのほうが怪奇的である。超常現象をわざわざ創作しなくても、現実の現象だけで十分に不思議であり驚きなのである。

マスクとまなざし

まなざしや顔つき――突き詰めれば〈ペルソナ〉――は、平時と有事で異なる。平時では、目を中心とした顔がふつうに見え、表情がわかりやすい。他方、最近のようにマスク装着が常の有事になると、顔全体が見えないので表情のニュアンスが感じ取れない。

「目は口ほどにものを言う」はおおむねその通りだと思うが、鼻も口も、さらに顔全体が見えて輪郭もはっきりしているからこそだ。見えるのが目だけだと眼力めぢからばかりが際立って、表情が窺いづらく不気味さを感じることがある。


先日、輸入食料品店でこんな出来事があった。

通路がいくつもあり、探している商品の棚がすぐに見つからなかった。通路を順に覗き込んで移動し、それらしい棚が並んでいる通路に足を踏み入れたところで、マスク姿のぼくの視界に熟年男性が入った。男性はマスクをしていない。

目が合ったわけではない。男性をまじまじと見たわけでもなく、男性の立つ前の棚のパスタに視線を向けただけだ。いきなり男性がぼくに向かって「何か用か?」と言った。まるで万引き寸前の男が見つかる前に先制攻撃するかのような口調。この時点で目が合った。厳しい目つきである。手に商品をいくつか持っている。

お目当てはパスタだから、男性に関わる気はない。こっちが動じる理由もないので、男性に近づき、丁寧かつ穏やかにこう言った。「あなたを見ていないし、あなたに用もありません。今夜の食材を探しているだけです」。

マスクをしている時の目、そのまなざしは、見られる側からすると自分に向けられているように感じるのだろう。そのことは自分の立場になればわかる。道で向こうから歩いてくるマスクの顔の目という目のすべてが自分を見ているように思ってしまう。明日への見通しも、人どうしのまなざしも焦点が定まりにくい今日この頃である。