様々な記憶と想像

以前、老舗のおはぎをひいきにしていた。そのことはよく覚えているのだが、どんな味だったのか、なかなか思い出せない。
数十年ぶりに口にする機会があった。おはぎはノスタルジックで美味しすぎて、勢い余って空白の時間もいっしょに頬張ってしまった。

秋が終わる前に早めに名残を惜しんでおこうと思っているうちに、冬支度が始まった。ついこの間出合ったばかりなのに、早々と別れの段取りをしてしまう。クールな秋。

人は大胆だなあ。自然の風景や都会の景色を思いのままトリミングして自分好みのフレームに収めてしまうのだから。

林間学校と臨海学校。行き先も漢字も違うのに、音だけを拾うと兄弟のように思えた子どもの頃。「リンカ・・・ン」と「リンカ・・・イ」。

イタリアのとある街の大聖堂。薄暗い中で溢れるような涙を流している信者を何人も目撃した。その体験は知らない歴史との接点になり、ぼくの考え方を少し変えた。

あの日、特に急いでいたわけではないのに、大通りで流しのタクシーに反射的に手を上げるようにエレベーターのボタンを押した(苦笑)。

時計は壊れる。壊れたら修理できる。修理できなければ棄てる。
時間は壊れないし、修理できないし、棄てることもできない。時間は生かすか無為にやり過ごすかのどちらか。

空と雲に紛れる月がある。色も形も同化して気づきにくい。月だってひっそりと目立ちたくない時があるのだろう。カメレオンな月のかくれんぼ。見つけたらきみの勝ち、見つからなかったら月の勝ち。負けのない楽しい遊び。

独断的な料理の話

イタリアの米、カルナローリが手に入ったら……
超みじん切りの玉ねぎをオリーブオイルで炒める。イカの切り身を加えて塩少々、完熟トマトでほどよくなじませる。そこにカルナローリを生米のまま投入。すかさず、あらかじめ用意していたイカ墨たっぷりの魚貝スープを米と同じ分量加える。弱火で煮ること15分。焦がさぬように火の用心。火を消して蓋をして蒸すこと5分。バスク風イカ墨めしの出来上がり。うまい。自画自賛すると、さらにうまくなる。

鶏の親と子が丼で再会する諸行無常
親子丼はシンプルで食材も少ないが、出来上がりのうまさには天と地ほどの差が出る。
ところで、親子だからと言って、親と実の子が丼の中で出合うことはない。親子丼における親子は実は他人どうしだ。ゆえに、親子丼こそを他人丼と呼ぶべきなのである。では、現在他人丼と呼ばれているあの一品をどう改名するか。一案として「別人丼」を推奨したい。


食べる茄子、見る茄子、描く茄子

夏が終わって、必然のことわりとして秋になった。茄子がうまい。色も形も扱いにくそうだが、料理人の思惑とレシピの指示に変幻自在に従う。つまり、好きな調理法で好きに食べることができる。
いつぞやテレビ番組で茄子を鰻に見立てて「茄子丼」なるものを作っていた。もどきで偽るのは茄子に失礼だ。茄子は茄子でいい。鰻が食いたければ鰻を食えばいい。
カリフォルニアのメキシカンマーケットには想像力に満ちた形の茄子が並ぶ。しばらく見惚れていた。茄子をモチーフにした日本てぬぐいのポストカードにも飽きない味があった。
いわゆる典型的な形の茄子を描いたことがある。地味にも派手にもなる。あなた好みの茄子になる。

パスタに五目パスタや八宝菜パスタはない!
そもそもご馳走感が出た時点でパスタはパスタでなくなる。パスタはソースをベースにした「かけ」が基本である。しかし、毎日「かけパスタ」ではさびしい。と言うわけで、具を加える。しかし、具は一菜か二菜まで。五目風や八宝菜風にすると主役の麺がかすむ。
ローマ名物のカーチョ・エ・ペペはベーコンのみ。胡椒とチーズで味つけする。野菜不足などという野暮は言わない。パスタの理想形だ。
ソースと調味料以外に具を貪ってはいけない。もし具を増やしたいなら、別皿にしてワインのつまみにすればいい。
パスタの心得
1.パスタは大盛り(但し、麺のみ)
2.具は一種類か二種類(麺がしっかり見えること)
3.つゆだくソースや冷製は亜流

二〇一九年八月、プチ随想

「予約の取れない人気店」と噂され、自らもそう名乗る店がある。しかし、ほんとうにどこの誰も予約が取れないのなら、客は存在しないことになり、人気店どころか、店じまいに追い込まれる。予約が取れない人気店は、人気店なのだから予約ができている客で賑わっているわけだ。つまり、予約が取れない人気店とは、「予約の取れる店」と言い換えることができる。

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「人は知っていることしかわからない」とまことしやかに呟かれる。たしかに、知っていることはわかる。しかし、その「知っていること」はいったいいつどのように仕入れたのか? わからない状態で、ある時知ったのに違いない。「人はわからなかったことを知ることができる」と言うほうが本筋である。

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年配から無知な人間がすべて姿を消したら、「無知は若さの証明である」という主張に与してもいい。

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気候風土の影響をもっとも強く受けるのは「食」である。人は環境適応するために環境から様々な情報を得る。かつては食材に関する情報が人の最大関心事であった。われわれの祖先は食を中心に生活環境を整えていった。肉が好きだから肉を食べたのではないし、米が好きだから米を食べたのではない。肉が手に入りやすい環境、米が育つ環境に適応したにすぎない。

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手抜きとは「素材→○→○→完成」のこと。〇の数を増やさないのがポイント。手数をかけないという意味だ。以前パテを作ったことがあるが、うまくいかなかった。下手に作るよりもフランス産の缶詰を使うほうが手っ取り早い。もっともパテをパンに乗せるだけでは芸がないから、一つだけ独自に工夫してみる。そこが手料理のよいところである。

二〇一九年七月、プチ随想

防災ニュースで天気予報をチェックする。今日の熱中症情報欄には〔危険〕とある。午後2時現在、35℃。オフィスのベランダに出ると、微風が外気の熱とエアコンの室外機の熱をミックスして運び、酸欠の罠を仕掛けている。

午後3時のコーヒーのつもりが、フライングして午後2時に淹れた。豆はインドプランテーション。雑味なくさっぱりとしている分、眠気払いの効果はどうだろう。最近復活したぶどう糖のタブレットを口に含み、コーヒーを啜る。

今日はゆったりペースだが、先週は仕事の後にもう一仕事が控えていて、午後3時からも闘っていた。闘いの武器はコーヒーとぶどう糖。時折り、オフィスの外に出てワンブロックほど歩いて戻ってくる。暑さの逆療法という息抜きだが、今日これをすると危険である。

ところで、いま「闘い」と書いたが、仕事と闘っているわけではない。仕事は生業なりわいであり食い扶持であるから、闘うべき敵どころか、心強い味方のはずだ。存在しないゴドーを待てないように、存在しない敵に立ち向かうことはできない。そもそもはっきりと勝ち負けの決着がつくような仕事をしているつもりもない。

☆     ☆     ☆

今月、訃報が二件届いた。享年65歳と63歳。二人を含めると、この一年半で60代の友人知人が7人も逝ってしまった。これはちょっと尋常ではない。平均寿命が延びて、周囲には80代後半から90代が少なからずいる。その一方で、ここ数年、50代、60代の訃報も届く。

ホモサピエンス的な遠大なスケールで眺望すれば、歴史は始まり、そしていつか終わる。しかし、個人の歴史の終焉は同時代人として確認できてしまう。どなたも遣り残したこと多々あるに違いない。遣り残しはやむをえない。一人の人生で何もかもできないからだ。しかし、可能なら、考え残しはなるべく少なくしておきたい。元気なうちに、他人の死を通じて、人間を、人生をもうちょっと考えておくべきだと思う。

感傷的に七月を終えるつもりはない。読もうと思って放置していた本を引っ張り出して傍らに置き、それでもページを繰ることもなく、インドプランテーションを味わう。味わえるという、ただそれだけのことで、熱気で間延びしかけていた時間と空間がほんのちょっぴり引き締まった。

具のないサンドイッチ

メモがエッセイに昇華することもあるし、レアなまま在庫になることもある。在庫は処分しなければならない。恒例の月一か月二の小さなメモ展。

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雑談中に誰かが「EUの委員長ね……」といきなり言い出したら、もうオチは見え見え。
EUの委員長ね、見た目はかなりのシニアだけど、元気そうだなあと思っていた。それもそのはず、名前見たらユンケルだもんね」
最近知ったのだろう、ユンケルの名前。ぼくはこのギャグは使わない。欧州委員会委員長、ジャン=クロード・ユンケルのこと、前から知ってるから。

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長らくイタリア語を使っていない。先日、ワインショップでイタリア人に会った。初対面。特に喋ることもないので、“Ciao!”と挨拶だけして適当にワインの品定めをしていた。会計を終えた後、再び目と目が合ったが、特に喋ることもなく、別れ際にもう一度“Ciao!”と言った。「こんにちは」にも「さようなら」にも使える便利な“Ciao!”
CiaoCiaoの間は無言。挟む具のないサンドイッチみたいで可笑しかった。

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一重の勝負は紙のみにあらず。ひんにもあり。品の上下は隣り合わせ、すなわち品一重なり。その境界にありて下ることなかれ。僅かに上にあろうとするのが人のあるべき姿なり。

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多芸だと褒め倒されてただ仕事  粋眼
まあ、平均よりは少し芸が多いかもしれないが、「多」が無数であるはずはなく、せいぜい三つか四つ。専門の仕事以外に何かを小器用にこなすと、すぐに多芸と呼ばれる。そうそう、多芸は無芸の類義語である。

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〽 任せ任され うまくは行かぬ ドジを踏んだらぼくのせい

今月の短文メモ

月末間近になって今月を振り返ろうとノートを繰ったら、長文がほとんどない。読み返して記憶を辿るには長文が適している。短文には文脈がなく、行間と言うほどの行数がない。ハイコンテクストな点メモをいくつか並べて一ヵ月を振り返ってみる。

☆     ☆     ☆

✒ 東洋陶磁美術館で『文房四宝ぶんぼうしほう』を鑑賞してきた。筆、硯、墨、紙。これらの凝りように比べたら、PCやスマホはつまらない。

✒ やむをえず、チェーン店のカフェに入った。つまり、巨大な飲料自販装置の一つの部品になった。

✒ 本と新聞を読む。下手くそなりに社会情勢や天気を読む。ほとんど当たらないが、他人の心理や手の内を読む。サバを読む連中もいるが、ぼくは酢で〆る。

✒ 雨の日の会合。「やっぱり雨。わたし、雨女」と誰かが言う。うぬぼれてはいけない。雨の日は、みんな雨男、雨女。

✒ わが街のウォーターフロントに垢抜けた店がずいぶん増えてきた。しかし、ドアや窓越しに受ける印象は手招きに到らない。垢抜けて逆に魅力は遠ざかる。

✒ グーテンベルグまで遡ることはない。活版印刷ということばと仕事の、なんとノスタルジックで重厚で生命力豊かなことか。

✒ 「三日月」を「三ヵ月」と書き間違えても、ワードは決して校正してくれない。

呼吸と息抜きと本

今さら確認するまでもないが、呼吸とは「息を吐き吸うこと」である。吐くという「呼」が「吸」よりも先にある点が本質を表わしている。吸ってから吐くのではなく、吐いてから吸うのである。

どんな怠け者でも呼吸はしている。さあ吐くぞ、さあ吸うぞなどと一念発起するまでもなく、たいてい何の苦労もなくそうしている。酒も飲まず、タバコも吸わず、仕事にも熱心でない男を知っているが、呼吸だけは欠かさずしている。

無意識にできる呼吸だが、「息抜き」ということばが示す通り、呼吸がうまく機能せず「息が詰まる」ような経験をする。就寝中の無呼吸ばかりではない。仕事中にも生じる。多忙だったり過度に集中したりしているとそうなるので、息抜きをする。呼吸が楽になり、緊張がほどける。この状態を長く続けることを休暇と呼ぶ。


多忙だと休暇が取れない。仕事の合間に小さな息抜きをするしかない。ほぼコーヒーを淹れて飲むか近くの公園のベンチでぼんやりするかである。仕事に戻りにくくなるので、音楽はあまり聴かない。仕事中にも稀にしか聴かない。仕事と音楽の主客が逆転するから。

もし半時間取れるなら本屋に行く。忙しい時は本も読んでいないので、わざわざ本屋で新刊書を品定めするまでもないが、読書が息抜きにならないのに対して、本屋でぼんやり背表紙を眺めれば緊張がほぐれることがある。本屋で一番目につくのは食の本。体調が悪かろうと仕事が忙しかろうと、食のことはつねに気に留めている。

久しぶりに覗いた本屋でこの一冊を手に取った。簡単レシピ本で、1ページに35ステップの手順でコンパクトにレシピが紹介されている。合計100レシピが手軽に料理できる内容だ。全料理を代表して煮卵が書名になった。この本は食事の代わりにはならないが、食欲を刺激する。煮卵を作る時間はない。煮卵を買おうと思う。

無関係なメモ

バイブルサイズのシステム手帳、スマホのメモアプリ、A5判のシステム手帳、スタイラスペンで綴るiPadのノートアプリ……。一応これだけの「メディア」をいつもスタンバイさせているが、常用はバイブル判のシステム手帳と脳内記憶。これでたいていのメモやノートは間に合う。

とは言え、手書きが出発点でない場合もある。つまり、直接PCやスマホで打ち込む雑文が多々ある。紙のメモには手が届きやすく、情報はとりあえず一元化できている。電子デバイスのメモはあちこちに散在して、どこに何があるかわからない。メモやノートに関してはまだまだ紙優勢である。

ノート術のことをこのブログで何度も書き、講演でも何度も喋ってきた。「いったい何を書いているのか?」と興味を示す人は少なくない。何を書いているか? まだよく理解していないことを書く。書きながら内容が明らかになってくるのを期待している。同時に、未成熟なメモを、ただ気になるという理由だけで、走り書きすることもある。


25℃の朝の涼と23℃の朝の涼の違い。2℃の差を表わす語彙が「涼しい」と「昨日より涼しい」では情けない。

楽屋言語で分かり合えることは共通言語になりにくい。共通言語で分かり合えることは楽屋言語派からすれば面白味に欠ける。

一つの大きな愉しみに期待するよりも、日々複数の小さな愉しみを体験するのがよい。大きなものはめったに来ないのだから。

「みんな」と言う時、自分は除かれ、たいてい他者のみを示す。たった一人の他者をみんなと言う場合もある。そう、みんなとは“all”ではなく、都合のよい“someone else”なのである。

人は強い動機や願望によって変身するばかりではない。たとえば樹木や花壇のある川岸に佇んで、偶然にして人は、作曲家に、絵描きに、詩人に変身するきっかけを与えられる。稀にホームレスに変身する人もいる。
数年前、サンマルタン運河沿いでぼくは駄文を綴る徒然の遊歩人に変えられてしまった。その時のメモは紙のトラベラーズノートに残っている。

気まぐれ雑記

週に3日も出掛けると、出先でまとまった文章を書けない。文章は書けないが、頭はいくらかでも働いているので、いろいろなことに気づき考えもする。ほとんどはメモするにも値しない、どうでもいいことばかり。それでも長年の習性ゆえ、走り書きをする。そんな気まぐれ雑記が溜まる。吐き出しておかないと、何だか仕事をサボったような気になる。


記憶 自転車を漕いでいる時にあることがひらめいた。ひらめいた瞬間、自画自賛するほどのアイデアだと思った。そこまでの記憶はあるのだが、そのアイデアが何だったのかは思い出せない(自転車を止めてでもメモしておくべきだった)。

季節 風が爽やかな夕方だった。「秋の宵」が頭に浮かび、「風爽やかに」と続けたら句ができそうな気がした。だが、あることに気づいたので断念した。断念して、こう書いた。「秋の宵風爽やかにダブル季語」。秋の宵も爽やかも秋の季語なのである。

駅弁 駅でない所で買ったのに、その弁当を駅弁と呼び、いつまでも駅弁を食べたという事実を引きずっている。

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速乾 「すぐ乾く超速乾性」というふれこみの水性ボールペンを買った。使わずにしばらく置いていた。先週、たまたまチャンネルを合わせたテレビの番組でこのペンを取り上げていた。速乾性に自信満々である。買っていたペンでペンの名前を書き、指でこすってみた。こんな具合である。そもそも、ほどほどの速乾性があればいいと思うのは縦書きの場合だ。横書きでは書いた文字の上を小指球でこすることはない。

説明 仕事柄何事にも説明を加える癖がある。一種暗黙知化したこの癖ゆえに仕事を委託してもらっている。しかし、この癖は曲者だ。美的感覚を損なうからである。もともと美的感覚には不条理の要素がある。説明は不条理を許さない。ゆえに、過度になると人間も文章も粋でなくなり、つまらなくなる。気をつけたい。

喫茶 カフェよりも長居が似合う喫茶店 /  岡野勝志

割烹 ぐるなびや食べログの上位にランクされ、自らも大々的に宣伝している、自称「隠れ家的割烹」。全然隠れていない。丸見えである。

バカバカしいけど書いてみた

不思議なもので、好奇心のおもむくまま気に入りそうなものを追いかけていると、モノであれ情報であれ光景であれ、自分の圏内にすっと入って来る。まるで砂鉄が磁石に引き寄せられるように。心身の調子がよい時に散歩すると「氣」が漲ってきて、意識を強くするまでもなく、波長の合うものがどんどん視界に飛び込んでくる。

ところが、いったん波長が狂い始めると、とんでもないものばかりが見えたり聞こえたりしてくる。「バカバカしい」と内心つぶやくものの、目に焼き付き耳にこびりつき、気がつけば、見過ごせない、聞き流せない状況に陥っている。そんなこんなをバカらしいけど書いてみる。

☆     ☆     ☆

青汁になんと乳酸菌が100億個!!
くだらない情報である。なにしろ100億個なのだ。「えっ、90億個じゃなくて、100億個!?」 まさか、そんなふうに驚くはずもない。そもそも、想像の域を超える数字に「すごい!!」などと言ってはいけないのである。「ふ~ん、だから?」というのが正しい。次に、「従来品は100億個でしたが、新商品にはなんと108億個の乳酸菌が入りました」と聞かされても、知らん顔しておけばいい。

ビジネス脱毛――昨日よりイケてるビジネスマンに
自宅のポストに入っていたチラシの見出しである。毛深い男が小ぎれいに変身して仕事ができる男というイメージを醸し出す(つもり)。それを「ビジネス脱毛」と呼ぶことにした。何という表現だ。ビジネス脱毛がありなら、プライベート脱毛、パーティー脱毛、合コン脱毛……何だっていい。ついでに、円形脱毛やミステリーサークル脱毛もメニューに加えてみればいい。まじめなつもりのコンセプトなのだろうが、結果はギャグを演出することとなった。

新聞の見出し「パナ子会社社員を逮捕……」
パナが「パナソニック」であると認知する前に、不覚にも「パナ子」と読んでしまったではないか。えっ、パナ子が会社社員を逮捕!?  パナ子は婦人警官か。

ボクシングダブルタイトルマッチの新聞記事

これも新聞記事。見出しに「ほぼ互角」とあり、「そうなんだ」と思ったのも束の間、見出しの後半には「井岡優位」と書いてある。互角なのか優位なのか決められない、優柔不断な記者。ところが、右端の縦書きを読めば「あすダブル世界戦」とあり、本文に目を通せば、何のことはない、「ほぼ互角 激戦必至」は一試合目の予想、「速さと技 井岡優位」が二試合目の予想だった。そんな勝手な「スラッシュ」の使い方はルール違反。文章だけでなく、文字の配置にもロジックというものがあるのだ。

1点リードされていますが、焦ることは――あと45分ありますから――ないですね」
NHKアナウンサーの気まぐれ挿入句。文字を読めばわかるかもしれないが、テレビの音声なのだ。「あと45分ありますから、ないですね」と聞いたのである。あるのかないのか、ありそうでないのか、なさそうであるのか。「焦ることはないですね、あと45分ありますから」と言えばいいものを。なでしこジャパンが豪州に負ける予感がした。予感通りの結果。

保育園落ちた 日本死ね!
黙殺されるだろうと思いきや、想像以上の注目を集めている。正直、驚いている。いかに正論であろうと、暴言的表現に包まれたメッセージは訴求力を失うものだ。匿名で声を荒げる証言はエビデンスにはなりえない。コワモテの萬田銀次郎が、たとえまっとうな話をしても、品性や知性を欠いて怒鳴れば、世論が共感するはずもないのである。

壊れた公衆電話

堂島で見かけた公衆電話の貼り紙
雨風にさらされた痕跡がありありの薄汚い公衆電話。受話器を触るのに少々勇気がいる。貼り紙にはこう書かれている。

大変、ご迷惑をお掛けしております。只今、この電話は調整中です。お手数ですが、他の電話をご利用下さい。 

調整中って何だろう。「故障」を体裁よく言い換えているのか。NTT西日本では「故障」は禁止用語なのかもしれない。まあ、そんなことはどうでもいい。「大変、ご迷惑……」とはなんと大仰な! 携帯・スマホの時代、公衆電話が一台故障して迷惑をこうむる者はいない。仮にこの電話が気に入っている常連さんがいるとしても、全然大変であるはずがない。実にバカバカしい。バカバカしいけど書いてしまった。