〈なつ〉と〈しごと〉

🌤 6月になったばかりなのに、ギラギラと太陽が照りつける炎天のイメージが先行する。〈なつ〉に長期休暇があるのは〈なつ〉が〈しごと〉や勉学に向かない証。年に3ヵ月も続く暑さは苦難である。しかし、苦難を試練と見なせば何とか我慢してみようという気になる

🌤 「さんさん」という擬態語は英語の“sun”とは関係ない。「さんさん」は漢字で「燦燦」。おもしろいことに「火へん」である。「ギラギラ」という擬態語も英語とは関係ない。と言いたいところだが、英語の“gl”(グㇽ)という音は紛れもなくギラギラを現している。glareグレアはまぶしい光であり、glassグラースは反射して光るし、glowグロゥは白熱や赤熱の光を輝かせる。複数の言語で“gl”を調べたことがあるが、その音のギラギラ感は人類共通のように思える。

🌤 梅雨入りが早い年は、挨拶も「梅雨入りしたらしいね」になる。

「梅雨入りが半月早くなり、おまけに梅雨明けも半月遅くなったりするとどうなると思う?」
「さあ……。鬱陶しくなる?」
「雨の日が多くなるんだ」

🌤 〈なつ〉になると〈しごと〉のスタミナが続かなくなる。勢い、直線的に取り掛かって効率的に済ませようとする。しかし、経験上これは間違っている。暑い季節の〈しごと〉は、ダメもとの精神で、だらだらと寄り道したり本題から離れて脱線したりするのがいい。

🌤 今年の〈なつ〉もどこか遠くへ出掛ける予定はない。〈しごと〉の後の一杯をささやかに楽しむつもり。
ビールはチェコやベルギーの小瓶。つまみはフィッシュアンドチップスか豚のスペアリブの炙り。ワインは主に白の泡。春先からカバをいろいろ試してきた。つまみには惣菜パン。一口サイズにカットしてタパスに見立てる。ウイスキーはキーンと冷えたバーボンのハイボール。小エビかイカのフリットにレモン汁をたらしてつまむ。

「夏の終わりの……」

夏の終わりはこの時季ならではの旬のテーマ。夏の終わりについて――そして秋の兆しについて――何か書こうとするなら今しかない。「夏の終わりの」まで言いかけて一呼吸置いてから「ハーモニー」と続ければ、玉置浩二と井上陽水が響かせるあの歌だ。

あの歌、「夏の夜を飾るハーモニー」と「真夏の夢」の二カ所しか夏が出てこない。夏を春や秋に替えても違和感はなさそう。ただ、真夏はあっても(また、真冬もあるが)「真春」や「真秋」とは言わない。

一昨日の最高気温は22℃、昨日が30℃。ここ最近は夏の終わり感と秋の始まり感が往ったり来たりしている。夏のバトンの渡し方がまずいのか、秋のバトンの受け方がぎこちないのか。ところで、まもなく終わろうとしている今年の夏も平年並みの暑さだった。但し、ここ数年の平年並みは半世紀前とは比較にならないほどの激暑である。


今年も扇子に出番がなかった。暑かったのに使わなかったのはなぜか。焼け石に水、いや灼熱に弱風だからである。暑さをやわらげるには扇風機クラスのあおぎ方が必要。そんなに煽げば余計暑くなる。涼をとるには手っ取り早くクーラーかよく冷えた飲み物ということになる。しかし、よく冷房の効いた甘味処のかき氷の後、灼熱の外気の中に出て行かねばならない。極楽から地獄へ。

昭和の、たとえば30年代には、まだまだ涼にまつわる風物詩が生きていた。打ち水、団扇うちわ、風鈴、金魚すくい、蚊取り線香、浴衣などはそれなりに功を奏していたような気がする。今となっては、騒音に紛れる風鈴の音色もアスファルトの上の打ち水も情趣不足である。

「夏の終わり」と「秋の始まり」はついになる。『上田敏訳詩集』をめくっていたら、オイゲン・クロアサンの「秋」という作品を見つけた。

     秋

けふつくづくと眺むれば、
かなしみいろ口にあり
たれもつらくはあたらぬを、
なぜに心の悲しめる。

秋風わたる青木立あおこだち
葉なみふるひて地にしきぬ。
きみが心のわかき夢
秋の葉となり落ちにけむ。

ヴェルレーヌの「落葉」の訳詩もうら悲しいが、こちらの詩もかなり暗い。秋を紡ぐ詩は、どれもみな生きるのがつらそうで、ただただ哀愁を漂わせる。心身ともに元気にしてくれる秋の詩に出合った記憶がない。

最近耳にしたこと、思ったこと

苦労や災難を喋り慣れた芸のようにワンパターンで嘆く。時には理路整然とぼやく。嘆きやぼやきが自慢話ように聞こえる。こういうのを「不幸自慢」と言うが、新型コロナ以降、そんな飲食店のオーナーや店長が次から次へとテレビに写る。インタビューに対してマスコミもそういう反応を欲しがっているのだろう。

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物事のありようでものがわかるのではなく、物事の言いようでものがわかる(ような気がする)。たとえば、SARS-CoV-2の姿かたちはわからないが、新型コロナウイルスと言われると何となくわかったような気になる。

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「好きでなければ、また、世のためと考えなければ、小さな本屋などやってられませんよ。だから応援しているんです。」 ぼくもそう思う。このことは、本が他の文化に対して劣勢にならないようにと微力を注ぐことにつながる。

しかし、一昨日は、探している本が小さな書店Aになく、わざわざ赴いた別の小さな書店Bにもなく、やむなく帰り道の紀伊國屋書店で手に入れたという次第。こんなふうに、何回かに一回は在庫がありそうという理由で大型書店に足を運ばざるをえない。

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「先生にお願いしておいたのですが、今朝の検査は麻酔の段取りになっていますよね?」 看護師さんにこう確認する、一目後期高齢者とわかる男性。胃カメラの検査だ。「ちょっと聞いていないのですけど……」という返事に、まるでバーゲンでお目当てのものが売り切れた時のような落胆ぶりを見せた。

「麻酔は眠っているあいだに終わりますからね」「そうそう、鼻からカメラを入れるほうが楽ですよ」……そんな話を聞いたことがあるが、ぼくの場合、検査にあたってはこれまで一切注文をつけず、主治医の言われるままだ。麻酔の経験はない。鼻? イメージとしては経口のほうがノーマルに思える。

趣味は胃カメラと言いそうな高齢者がいるが、趣味は風景写真でお願いしたい。ぼくは、胃カメラの他に、CTのモデルも依頼される。昨今経営が大変な病院であるから、祝儀のつもりで主治医の依頼を快く引き受けることにしている。

九月の述懐

「紙一重の差」などと言うが、対戦して仮に10連敗したら、僅差ではなく大差なのではないか。いや、一つの対戦に限れば紙一重の差で、それが10回続いただけと苦しい弁。いったい紙一重とはどのくらいの差なのか……誰も知らない。

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先日、ビストロで食事をした。食後にコーヒーの香りのする熱い白湯が出た。いかに料理がよくても、最後の一杯のコーヒーがお粗末ならリピートしない。店を出てコンビニの100円コーヒーで口直しをされたら屈辱的である。

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九種二貫ずつの刺身の盛り合わせ、850円。「うまい!」の前に「安い!」と迂闊にもつぶやいてしまった。〆に注文したうちわエビの味噌汁が200円。また「安い!」と言いかけて思いとどまる。自ら料理の値打ちを下げてはいけない。「真心のこもりし味覚秋近し」と詠んでお勘定してもらった。

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焙煎のアロマを微風が運ぶ。この季節、窓を少し開けておけばカフェに看板はいらない。
焙煎のアロマを微風に乗せてぼくを誘ったはずなのに、カフェのプレートはまだ“closed”

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自分が使う喋りの技と同じ技でころりと丸め込まれてしまうのが人の常。

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縁があるか縁がないか。あるギョーカイでは「あの人を知っている」と「あの人を知らない」の差は決定的である。だからこそ自ら縁を求める者が後を絶たない。しかし、縁は成り行きに任せるのがいい。縁があればありがたく思い、縁がなければ「縁がなかった」と思えばすむ。縁とはそういう類のものだ。

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ほとんどの民族は文字を発明した。記憶に自信がなかったから。
同じ理由から、人類は付箋紙を発明した。できることなら脳に直接貼り付けたいのだけれど、さすがに無理なので、やむをえず本やノートに貼っている。付箋紙ごときで格段に仕事がはかどったり記憶がよくなったりするはずはないが、付箋紙を貼ろうと意気込めば、見過ごしがちだったものが稀に見えることがある。

読み書きは断章で㊦

『読み書きは断章』の続き。㊤で「暑中お見舞い」と書いたので、㊦の今回は「夏でもマスク、残暑お見舞い申し上げます」。

休日は「窮日きゅうじつ  ハッピーマンデー、海の日、山の日などと、休日歓迎ムードが盛り上がっていた数年前。翻って、休み多くして困窮している知り合いが増えてきた今日この頃。とりわけ今年の夏は休日の過ごし方が難しい。昼は自宅で素麺か町内で蕎麦、夜も近場でビールと予算相応のつまみがよろしいようで。

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ボケないようにと無理してまで脳トレに励むのはネガティブな生き方。ボケて何が悪いんだと居直るのがポジティブな生き方。ネガティブに対してポジティブはつねに優勢である。

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2019年秋のギャグ予言  「食材相場はね、相対的に肉安にくやす魚高うおだかで動きますよ。だから、秋刀魚は今が買いだよ、お客さん」。

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繰り返し  繰り返しはマンネリズムと油断を生む。同時に、繰り返しは熟練をもたらす。マンネリズムと油断につながらないように、繰り返しながらも少しずつ何かを変えるのがいい。それが緊張感と新鮮味を担保してくれる。つまり、繰り返しは、同じことを繰り返さないことによって成り立つ「ジレンマ的修行」である。

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ないないづくし  なじみの店がない(消えた)。財布の中に現金がない(キャッシュレス時代に突入)。他人に会わない(ソーシャルディスタンス)。喋らない(マスクで雄弁・駄弁を封印)。祭りがない(屋台が出ない)。無料の団扇が手に入らない。厚化粧の着物びととすれ違わない。そうそう、わがオフィスでは工事でエレベーターが動かない。なお、まったく心当たりがないが、オフィスに着いたらフェイスタオルがない。

読み書きは断章で㊤

暑中お見舞い申し上げます。読んでくださる方々のために軽い断章。粘りを欠く自分のためにも短い断章。

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大阪発――最低気温が最高  最低なのに最高? すぐには呑み込めなかった。811日(火曜日)の最低気温はほぼ30℃。これは137年前に観測が始まって以来最高気温の記録らしい。一日の最高気温と最低気温が同じではなく、かろうじて数℃差があることにほっとしている自分。

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ガラス一枚  あっちは灼熱、こっちは涼感。ガラス一枚で隔てられる二つの世界。今こっちにいる幸せは、後にあっちにいる不幸を倍増させる。

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『越境する線画』@国立国際美術館  入口に掲示されたイントロ文――

紙のうえに線を引く(……)絵画や彫刻のようなジャンルにはなりえません。構想のため、備忘のため、練習のため、確認のため、等々と、線描は伝統的に「完成」以前の準備段階とみなされてきたからです。

これと同じことが「メモ」にも言えそう。絵画や彫刻の前段階が線画なら、文になる前の未成熟の文字は点メモだ。後世の人たちがメモを集めて『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』を編集した。本人が作品になることを想定していたはずがない。
メモには、決して完成形ではない、中途半端なイメージがまつわりつくが、いつかどこかでメモそのものが完結した文芸のジャンルになるかもしれない。

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餅は餅屋  これが口癖の先輩がいた。ずっと餅。「馬は馬方」とか「蛇の道は蛇」とかに言い換えない。ところで、同じ漢字が二度出てくる慣用句、当たり前のことを言っているにすぎない。いくらでもできる。米は米屋、魚は魚屋、蟻の道は蟻……。「悪人は悪い人」のような同語反復に近い。
同じ漢字を二回使うならもう少し工夫して遊びたい。作ってみた。「人の麺じゃなく、人の米が食いたい」。

数字と気分

お得感と割高感について真剣に考察することがある。たとえば、せこい話だが、モーニングセット360円と単品コーヒー300円の価値をめぐる損得勘定がそれ。

コーヒー1300円に60円プラスするだけでトーストとゆで卵がついてくる。朝飯が済んでいるのでコーヒーだけのつもりだったのに、「60円差ならモーニングにするか……」と安易な路線変更。変えたのは300円のコーヒーが割高に思えたからか、360円セットがお得に見えたからか。しかし、たとえ60円でも、要らないものを注文するのはお得ではない。今なら2本の高枝バサミなどその最たるもの。

n u m b e r s

天気予報で「来週の気温は平年並みか平年を下回るでしょう」と言っている。聞き流しているのだが、少しほっとしていることがある。なぜ?

いったい何にほっとしているのか。来週の過ごしやすさか。ほっとしたりするほど、わかったようでわからない「平年」への感度は良好か。平年の最低気温が20℃だと聞いて、いったいそれは何を意味するのか。差異の実感など一年前や過去十数年の平均値と比較できるものではない。せいぜい昨日に比べての今日、今日に比べての明日くらいしかわからないのだ。

n u m b e r s

行政の窓口やHPに混雑時間表が掲出されていることがある。さっき郵便局に行ってきた。その種のポスターが貼ってあり、「窓口が混雑する時間帯は10時~11時と15時~17時です」と告げている。午前11時過ぎなのに、いつもより混んでいた。

「この時間帯はいつも混むから、他の時間帯にどうぞ」とすすめられても、こっちにも都合がある。けれども、そんなおすすめに(万が一)みながみな真面目に応じれば、定番混み合い時間帯が別の時間帯になるだけの話ではないか。

いつぞや美術館の混雑情報を事前にチェックして、比較的空いている時間帯を目指して行ったら長蛇の列だった。大勢が情報をチェックしていたのである。車の渋滞回避アプリなども、普及すればするほど役立たずになるだろう。

n u m b e r s

「あの会社とうちが同じ金額とは納得がいかん」と、ある中小企業の社長。持続化給付金の話だ。ジョークを思い出した。

ある日、ある男の家に神が降り立って、男に言った。「汝の望みを何でも叶えてあげよう。遠慮はいらないぞ」
「ほんとですか、シンジラレナ~イ!」
「ほんとうだ。しかも、汝の望むことの倍が隣人にも施されるのだよ」
「ちょっとお待ちを、神様。あっしが100キロの金銀財宝を望めば、隣のあいつが200キロ分を手にするってことですかい?」
「その通りじゃ」
(……)

とにかく男は悔しがった。自分が損するわけでもないし、他人が何を得ようとも、そんなこと我関せずで100キロでも好きなだけ恵んでもらえばよかったのに……。このジョークのオチは想像にお任せするが、人間の業が行き着く悲惨な結末になった。

入るを量りて出ずるを制す

二十数年前のこと。年配の飲食店経営者がつぶやいた。「この歳になるまで経営やマーケティングのいろんなセミナーを受講して小難しい勉強をしてきましたがね、あまり役に立たなかった。さほど儲からないけど易々と潰れないしぶとさ――経営はここに尽きると思っているんです」。そして、ぽつんとあの金言を持ち出した。「るをはかりてずるを制す」。

素人でもみんな知っていること。子どもが小遣いを貯めておもちゃを買った後に残金をチェックするのも、主婦が家計簿をつけながら大きくため息をつくのも、小さな会社を創業したビギナー経営者が収入と支出に目配りするのも、すべて「入ってくるお金と出ていくお金」への関心ゆえである。みんなわかっている、「出ずる・・・入る・・を上回らないようにしよう」と。創業してから30余年、未だ経営オンチのぼくでも、このことは――このことだけは――わきまえている。

現在の自分の収入や自社の売上はわかっている。現在から寸法を測ればある程度将来の伸び率も予測できる。しかし、お金は出ていくし、収入や売上が予測通りに順調に推移するとはかぎらない。ただ、入ってくるお金に比べると、毎月出ていく固定費を含む支出は大きく変化しない。だから「るをはかりてずるを制す」、つまり、支出は収入に釣り合うか収入の範囲内にとどめておくのが安定の基本になる。


しかし、いくら支出を制していても、予測できない危機に見舞われて収入のほうがどうにもならなくなることがある。今の新型コロナ禍はおそらく今世紀に入って最大の危機だ。このリスク状況がいつまで続くのか、資金注入でどの程度急場をしのげるのか、誰にもわからない。1兆円超の赤字を出しても潰れない企業がある一方で、わずか100万円の資金繰りがどうにもならず、社員を解雇したり廃業したりし、最悪、命を絶つ零細企業経営者がいる。これが社会の現実。

事業者への給付金は、一定条件を満たせば一律に支払われる制度である。この制度の公平性や不公平性については黙して語らないのがいい。どんな泣き言や不満を吐き捨ててもどうにもならないからである。立地の良くない場所で細々と一軒の店を営んできたオーナーと、好立地に数店舗を経営してきたオーナーが受けるダメージは違う。前者は100万円で持ち堪えられるが、後者にとっては100万円は焼け石に水である。

何もかもウィルスのせいではないし、給付金申請の手続きの煩わしさや対応遅延のせいではない。経営者はいろいろな選択肢から今に到る道を選んだのであり、自分なりの経営哲学によって戦略を立ててきたのである。テレビのインタビューに対して、複数店舗を経営する美容院経営者とラーメン店経営者が絶望的に語るシーンを見た。その二人は危機に対して自らが脆弱な体質だった点については触れなかった。有事と平時とにかかわらず、経営の根底には自己責任があることを忘れてはいけない。

足下を見つめてみた

この時世、協働パートナー以外の人たちとここ一カ月ほとんど会っていない。目を向けるのは見えざる情報世界ばかりで、現実の生活周辺への視界は決して良好ではない。かろうじて足下だけが見える。そこから思いつくまま思い出すまま断章を綴る。


🖋 「今日の忍耐、明日の希望」「今日の焦り、明日の絶望」。今日とは今日のことだが、明日はずっと先までの未来の比喩。

🖋 巨大な建物は、意識せずとも、正面からそこに近づけば必然見える。しかし、巨大な建物を背にした格好で、たとえばメトロから地上に出ると、どれだけ大きくても見落としてしまう。背を向ければ、対象が巨大であろうと微小であろうと同じ。
まあ、建物に気づかないことくらい大した問題ではない。大切だが見えづらいものを見損じるほうが恐いのだ。

🖋 周りを過剰に気にして、何に対しても様子を窺っていると「左顧右眄さこうべん」に陥って決心がつかない。何を見て何を見ずに済ませるかは、自分の立ち位置、社会や他者へのまなざしが決める。

🖋 Give and takeギブアンドテイクであってはならない。ギブは主体的であってもいいが、テイクはそうではない。取るのではなく、授かるのである。ゆえにGive and givenギブアンドギブンでなければならない。価値を提供したら、その価値に見合ったほどよい対価を授かるのである。取りに行ってはいけないし、取れると思ってもいけない。

🖋 数年前に『欲望の資本主義』をテーマにしたドキュメンタリー番組を見た。「現代は成長を得るために安定を売り払ってしまった」という一言が印象に残る。これに倣えば、「現代は今日の欲望を得るために明日の活力を前借りする」とも言えるだろう。

🖋 その番組中に語られた比喩的エピソードをふと思い出した。アレンジしてみると、次のような話だった。
金曜日の夜に酒を飲む。もう一軒行こう、カラオケに行こうとテンションを上げてエネルギーを消費する。しかし、このエネルギーは飲めや歌えやの勢いで生まれたわけではない。土曜日に使うべきエネルギーを金曜日の夜に前借りしたのである。

🖋 足下あしもとを見つめてみたら、生活の大半は不要不急であることがわかる。経済は、不要不急の大いなる欲望によって成長してきたにすぎない。

様々な些細な事実

🖋 雨が降っている時の雨音はまったく気にならない。雨が止んだ後に軒から物置の上に落ちてくる滴の音はかなり気になる。

🖋 コメントが付いていないシェアは体裁のいい盗作。

🖋 「立派な趣味ですねぇ」「いやあ、ほんのままごとですよ」……本人はままごとなどと絶対に思っていない。

🖋 「考えることだけが唯一の希望だ」とジョージ・オーウェルは言ったが、希望のない人はそもそも考えようとしない。

🖋 エイジングが進んでいるのか、アンチエイジングできているのか……医者よりも歯と筋肉に直接聞いてみるのがよい。

🖋 嘘をつかないK氏のつぶやき。
「寒いなあ」と思ったら窓が開いていたんですよ。翌日、「昨日よりさらに寒いなあ」と思ったら、窓が開いていたうえに素っ裸だったんですよ。

🖋 手をまったく汚さずに万年筆のインクを充填できたことは一度もない。

🖋 「また飲みに行きましょう」とシニアが言う時、指先をお猪口の形にして口に近づける。ビールかハイボールしか飲まない人でもそうする。

🖋 以前豪ドルを買ったが、豪ドル紙幣は見たことがない。今日、銀行でキンの積立預金を始めたが、金貨も金の延べ棒も契約期間中に見ることはないだろう。

🖋 その銀行で各種粗品セットをもらった。ティッシュも入っていたが、商談デスクの上に置いてあった印鑑拭きが欲しかった。

🖋 お笑い芸人の「いつもここから」の山田一成の『やまだがん』を古本屋の店先で見つけた。金百円也。「電車の弱冷房車に不良が乗っていた」という観察が微妙に可笑しい。