呼吸と息抜きと本

今さら確認するまでもないが、呼吸とは「息を吐き吸うこと」である。吐くという「呼」が「吸」よりも先にある点が本質を表わしている。吸ってから吐くのではなく、吐いてから吸うのである。

どんな怠け者でも呼吸はしている。さあ吐くぞ、さあ吸うぞなどと一念発起するまでもなく、たいてい何の苦労もなくそうしている。酒も飲まず、タバコも吸わず、仕事にも熱心でない男を知っているが、呼吸だけは欠かさずしている。

無意識にできる呼吸だが、「息抜き」ということばが示す通り、呼吸がうまく機能せず「息が詰まる」ような経験をする。就寝中の無呼吸ばかりではない。仕事中にも生じる。多忙だったり過度に集中したりしているとそうなるので、息抜きをする。呼吸が楽になり、緊張がほどける。この状態を長く続けることを休暇と呼ぶ。

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多忙だと休暇が取れない。仕事の合間に小さな息抜きをするしかない。ほぼコーヒーを淹れて飲むか近くの公園のベンチでぼんやりするかである。仕事に戻りにくくなるので、音楽は聴かない。仕事中に音楽も聴かない。仕事と音楽の主客が逆転するから。

もし半時間取れるなら本屋に行く。忙しい時は本も読んでいないので、わざわざ本屋で新刊書を品定めするまでもないが、読書が息抜きにならないのに対して、本屋でぼんやり背表紙を眺めれば緊張がほぐれることがある。本屋で一番目につくのは食の本。体調が悪かろうと仕事が忙しかろうと、食のことはつねに気に留めている。

久しぶりに覗いた本屋でこの一冊を手に取った。簡単レシピ本で、1ページに35ステップの手順でコンパクトにレシピが紹介されている。合計100レシピが手軽に料理できる内容だ。全料理を代表して煮卵が書名になった。この本は食事の代わりにはならないが、食欲を刺激する。煮卵を作る時間はない。煮卵を買おうと思う。

時間のこと

ある日突然やってくる。時間のことを考える時間が……。たとえば、時計の針で表わされる時間を過剰に意識した一週間の後の休日に、時計の文字盤で刻まれる時間とは別の抽象的な時間のことを考えることがある。秒針の音が聞こえない、概念的な時間。

「時間が過ぎた」という表現は半時間や一時間にも使えるし、長い歳月を暗示することもできる。先のことを考えるなどと言って、一ヵ月や一年先の話を持ち出すが、そんな時間スパンで物事を考えることはめったにない。したいと願っても、自分の身の丈の先見性では所詮無理である。

一日はあっと言う間に過ぎる。一ヵ月は長すぎる。と言うわけで、一週間が時間の分節としてポピュラーになる。週単位の時間サイクル思考をしている自分に気づく。一度水曜日始まりのカレンダーを自作したことがある。若干発想の転換を図ることができたが、不便このうえなく、すぐにやめた。

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カレンダーは日曜日始まりか月曜日始まりと相場が決まっている。始まりが必ずしも重要な曜日とは限らない。

長年親しんできた休息の日曜日。ぼくにとってそれは始まりではなく、週という時間の中心概念。そのイメージを図案化して印を彫ったことがある。太陽系と時計の文字盤の合体。名付けて「週時計」。

よく「時間待ち」などと言う。実際に待っているのは時間ではなく、別の何か。何かのためにやり過ごさねばならない時間。時計を乱暴に扱えば潰せるが、時間を潰すのは難しい。時間は無為に過ごすか、うまく生かすかのどちらかであり、反省したり満足したりの繰り返し。

時間は不思議である。時間のことを考えると余計に不思議になる。やがて面倒臭くなって考えるのをやめる。しかし、時間のことを考える時間は、忘れた頃にふいにやってくる。

長い名前に関する短いメモ

「文章は簡潔かつ短めに書け」などと言うが、何でもそういうわけにはいかない。理解のためにはある程度の長さもやむをえない。もちろん、意味なく冗漫なのは困る。ずるい言い方になるが、文の長短はケースバイケース、なるべく読みやすいのがいい。

ぼく自身あまり縁がないが、世間には長い名前が存在する。先日世界地図を見ていて、通称イギリスや英国と呼ばれるあの国が一番長いことに気づいた。「グレートブリテン及び北アイルランド連合王国」が正式な国名。いちいちフルネームを使うわけにはいかないから通称を使う。有名だから略しても何の問題もない。


この地図は下段に国旗が並び、旗の下に国名が書いてある。知名度が低い国名に長いのがいくつかある。「セントビンセント及びグレナディーン諸島」「サントメ・プリンシペ民主共和国」「セントクリストファー・ネイビス連邦」等々。どこに位置しているのかまったく知らないが、中南米やアフリカの地理がよくわからないので、そのあたりだと見当をつけて地図に戻ってチェックしたら当たらずとも遠からずだった。

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フランス料理は和食に比べると長めにネーミングされている。「鴨のオレンジソース、グラタン・ド・フィノワ添え」という具合。もっと長いのもある。料理の要素や使う素材をことごとく言い表わせば、当然こうならざるをえない。醤油ラーメンをフランス流に命名すれば「焦がしにんにく醤油を香らせた澄んだスープと中太麺、厚切りチャーシューとネギをのせて」という具合になる。

ヘビは長いのに、名前は短い。英語ではsnakeとアルファベット5文字だが、発音すれば「スネーク」は一音扱い。世界で一番長い川、ナイル(Nile)の名前は短い。長いのはミシシッピ川。カタカナ表記では長くないが、英語ではMississippiで、綴りが覚えにくい。ラジオ講座で英語の先生が「エムアイエス⤴エスアイエス⤴エスアイピーピーアイ⤵」と覚えろ言ったのが印象に残っている。

長いものに巻かれるのと、長い名前や文章を覚えるのは苦手だ。

ここはどこ?

「ここはどこ?」と言えば、「わたしは誰?」が続く。どうやら判断も判別もできないらしい。

これまで「わたしは誰?」と自問したことはないし、他人に尋ねた記憶もない。プチ哲学っぽく「人間とは何か?」と問い、ちょっと考えてみたことはあるが、「わたしは誰?」はない。自問していないから、当然自答もしていない。

人は5W1Hを問う。いつ、誰が、どこで、何を、なぜ、どのように。こういう事実情報を問い、知ることはベーシックなのだが、ついさぼってしまう。手抜きして調べない。知っておくべき5W1H。実は、よく忘れる事柄でもある。

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別に知らなくてもいいこと、瑣末なことを〈トリビア〉という。雑学や豆知識を威張れるのがメリットだ。稀にトリビアを知ってイメージが広がることもある。胡散臭いように思われるが、一応トリビアは事実を扱う。たとえば、ローマのトレビの泉の「トレビ」は「三つの+通り」が由来。つまり三叉路を意味する。これは事実なのだが、事実だからと言ってすごいというわけではない。
他のトリビア同様に、「へぇ」と「ふーん」という反応に分かれること間違いなし。

〈ガセビア〉というのもある。決定的な違いは、トリビアが発見されるのに対して、ガセビアは創作されるという点。つまり、事実のトリビア、嘘のガセビア。しかし、トリビアとガセビアはいずれも特に有用性のある知識ではなく、また怪しさの点でもよく似ている。事実と嘘は見分けにくい。「ここはどこ?」と尋ねる者に、教えられる情報の真偽が分かるはずがないのである。

次は何?

草木の新陳代謝が目立つ季節になった。すっかり枯れていた鉢植えのツタが、待ってましたとばかりにこの一ヵ月の間に芽を吹き枝を伸ばした。いいことである。人も店もこうありたいものだ。

ところがである。人や店が複数になると、新陳代謝は古きものが新しきものに淘汰される競争状況をもたらす。企業の管理職やスポーツチームの選手の例を見ればわかる。新陳代謝を図れば、誰かが消え別の誰かが加わるのだ。

飲食店も同じ。新陳代謝が激しい地域では新規開店と店じまいが入り混じる。自宅からオフィスへの通勤路にチェーンのうどん屋がある。二、三度のれんをくぐったことがある。「きつねうどん」というのぼりが目立つ。かけうどん、天ぷらうどん、ぶっかけうどん、肉うどんもあるが、きつねうどんを強くアピールしている。

その隣りは喫茶店だった。大通りに面している割には人通りが少なく、人が大勢入っているのを見かけたことはない。それでも、数年間営業していた。よく頑張ったほうだ。閉店して二ヵ月あまり、リフォームが始まった。通り道なので、次はどんな店になるのか? と目配りだけはしていた。

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表通りから見るかぎり、和風の構えになりそうな工事の進行。カジュアルな鮨屋か割烹か……いや串カツ屋という可能性もある……蕎麦屋だけはないだろうなどと、別に興味津々だったわけではないが、思い巡らしていた。先日、やっと看板が上がった。「肉うどん」の大きな文字。まさかの麺類の店だった。店名は小さく扱われ、かろうじて判読できる程度。うどん屋の隣りにうどん屋とは予想外だった。

繁華街の雑居ビルにはスナックやラウンジが十数店テナントで入るのは珍しくない。ここは他に飲食店が多くないエリアだ。そこにうどん屋が並んで二軒。きつねうどん対肉うどん、いずれどちらかに軍配が上がるのだろうが、ずいぶん思い切った挑戦をした新店に勝算があるようには思えない。経験に裏付けられた直感ではあるが……。

ここから徒歩10分弱のオフィス近辺の飲食店の新陳代謝は目まぐるしい。オフィスを構えて30年ちょっと。当時から営業している店は二、三を数えるのみ。ここ数年に限っても半数は入れ替わったはずである。店じまいした飲食店の後にオープンするのは、これまた飲食店である。リフォーム工事を見るたびに「次は何?」と心中つぶやく今日この頃。成熟の時代は新陳代謝激しい時代だと痛切に思う。

日々の数字

数字を見ずに一日は過ぎない。日時、お金、テレビのチャンネル……。数字は主役になって喜怒哀楽を演出する。数字は脇役にもなる。脇役ながら気になる存在として日々の暮しを取り巻く。

“1234”
出張時に宿泊したホテルの部屋番号である。察しの通り、12階の34号室。たまたま数字が順に並んだが、これは、たとえば142814階の28号室)が割り当てられる確率と同じである。フロントで“1111”の鍵を手渡されて歓喜する向きもあるが、11階の11号室というだけのこと。
ちょうどよい数字、きりのよい数字、何がしかの法則が感じられる数字につい目が止まる。数字のありふれた日常性の中に、少しでも「ハレ」を見い出したい心理が働くのか。

“¥1,000”
年末に来客を迎えることになった。ワインと焼酎はふんだんに常備してある。ビールは2缶もあればいい。飲まない人が一人いる。ノンアルコールも飲まないかもしれないが、一応1缶。わけもなく、ついでに日本酒も1缶。
レジで勘定したら消費税込みでちょうど千円。一品だけ買って税込み千円などしょっちゅうあるが、値段ばらばらの品を複数買い、しかも消費税を足しての千円は珍しい。だからどうなんだというだけの話だが……。

“50%OFF”
こちらのインドレストランはディナーセットが50%OFFである。今週限定のキャンペーンでもなければ、オープン何周年記念かの特別感謝セールでもない。例外なく、年中毎日が50%OFF。つまり、これが現実の通常価格で、定価がまぼろしなのだ。
蕎麦を注文すると、その場で100円引きになるクーポン券をすべての客にテーブルで渡す店もある。価格800円を700円と表示しない理由がわからない。クーポンを渡す手間も省ける。

“2時間120円”
JRの入場券である。ゲストを関空まで見送るつもりだったが、「わざわざ申し訳ない、天王寺駅で見送ってくれるだけで十分にありがたい」と言われ、申し出に甘えてそうすることにした。

早く着いたので入場券を先に買い、待ち合わせのモールで一緒にランチ。そして駅へ。改札機が入場券を受け付けない。入場券は改札を通る時点から2時間有効だと思っていた。券売機での発券時刻から時間が刻まれるとは……知らなかった。

古代の健啖家たち

恒例の古本の初買い。置き場のことを考えれば慎まねばならないのだが、7冊買ってしまった。飲み食いが活発になる年末年始にぴったりの一冊は『シーザーの晩餐 西洋古代飲食綺譚』。実に凄まじい本である。

シーザーにまつわるエピソードなどわずかだが、巧妙に題名を選んだものだ。「古代の晩餐」よりはよほど読む気がそそられる。ともあれ、この本は古代ローマ人の食習慣と古代ギリシア人の食生活をかなり深く掘り下げている。

これまでにこの種の本を何冊か読んでいるが、一般庶民の食生活よりも富裕層の健啖ぶりに紙数が割かれる。そのほうが読者は度肝を抜かれる。ローマ人が饗宴で食べていたものを一覧すると、美食とゲテモノが交錯しているのがわかる。珍奇なる食と言うべきか。

ローマ人は今の日本人と同じく、タレのかかった鰻の蒲焼やマグロを食べていた。牡蠣も養殖して生食していたこともわかっている。肉類や昆虫はほぼ何でも食べていた。クジャク、カタツムリ、ヤマネ、ガチョウのフォアグラ、イヌ、ネズミ、セミ、イナゴ、アオムシ、イノシシ、シカ、ウサギ、タヌキ、ゾウ、ライオン、ラクダ……列挙したらきりがない。

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牛肉よりは豚肉を好んだ。一度に一頭しか産まない牛よりは豚のほうが安く手に入ったからだ。醤油もちゃんとあった。しょっつるのような、「ガルム」と呼ばれる魚醤がそれ。調味料のレベルは料理のレベルに等しい。当時手に入るかぎりの食材と調味料で美味珍味を追求したのだが、食性の広さは現代の比ではなかったように思われる。

宴会と言えば、「卵に始まりリンゴに終わる」というのが常識だった。卵料理だけで20くらいあり、鶏卵のみならず、クジャクの卵も使った。卵の次にはレタス、オリーブ、ざくろ、桃を銀の皿に盛り付け、そこにヤマネの丸焼きを乗せる。蜂蜜とカラシがまぶしてあったそうだ。次いで、蟹、大海老、ザリガニの肉団子等々。以上が第1のコース、つまり饗宴の序章なのだから開いた口がふさがらない。ふさがらない口へと料理が次から次へと運ばれる。

ところで、ヤマネはリスやネズミのような小動物だ。これを人工的に繁殖させていたのだから、ローマ人の健啖には欠かせない珍味だった。素焼きの壺の中で数匹を飼う。運動不足の状態にしてクルミやドングリをしこたま与えて肥らせた。ヤマネという響きだけでも異様だが、今でもその食習慣が引き継がれている地域があるらしい。

ローマ人が食べた珍味で経験した食材が二つある。一つはザリガニ。広島産の養殖ザリガニをフランス料理で経験した。もう一つはフィレンツェのレストランで注文したコロッケ。肉には豚の乳房のミンチが使われていた。言われなければ素材が何かはわからない。おそらく、ローマ人も同じだったろう。彼らは食材の「名前」を食べていたのである。そして、たぶん、現代のぼくらも名前によって味覚を確かめている。

冬陽獨言

冬陽獨言(ふゆびどくげん」)。こんな四字熟語はないが、今日の昼下がりにはぴったりだ。南から射す光が窓越しに熱に変わる。今にも陽炎がゆらゆらと立ち上がりそうな気配。暖房を切る。脳裏をよぎっては消える内言語ないげんごを搦め取って獨言にしてみた。

あの日の古めかしい喫茶店。珈琲が出てくるのがやや遅く、時間は間延びしていた。自分で淹れた今日の珈琲はすぐに出来上がった。やや早過ぎた。時間の加減は珈琲の香りと味覚に作用する。

時間の流れに身を委ねてぼんやりするくらいではアンニュイには浸れない。けだるいとか退屈だと言うのはたやすいが、極上の倦怠感に包まれるには相応の努力が必要なのだ。

今日の最高気温は一月下旬並みらしいが、ガラス越しに冬陽を受けていると、まだ晩秋が粘っているような錯覚に陥る。いや、錯覚などと言うのはおかしい。晩秋だの初冬だのと人が勝手に分節して表現しているだけの話ではないか。

空澄みわたり
季節は深まる。
色づいた葉は
微風になびき、
枯れ尽きては
やがて落ちる。
落ちたところが
遊歩道プロムナードになる。
冬空は誰かの
移ろう心のよう。
窓外の冷気は
冬陽に溶ける。

面倒くさい諸事

面倒くさがりの建築家は耐震性データをごまかす。かつて鉄骨を何本か抜いた男もいた。
調味料の加減が見た目アバウトな料理人がいるが、別に面倒くさがってはいない。一流の料理人はめったなことでは面倒くさがらない。
面倒くさがりの内科医は許容範囲だが、面倒くさがりの外科医はご免こうむる。少々頭が悪くてもいいから、手先が器用でマメできめ細かいのがありがたい。

雷が鳴って雨が降りそうな気配。そんな夕刻に急な客が遠方よりやって来た。急というのは自分の都合が奪われることを意味する。それだけでは済まない。時刻が時刻だ、食事に誘わざるをえない。
「おお、久しぶり。どう、焼鳥にでも行く?」と言ってはみるが、その言い方がかなり面倒くさそうだと自覚する。

ちょっと勉強すれば修士や博士にはなれるが、勉強だけでは紳士にはなれない。年代物のスーツ、蔵書、万年筆、ユーモア、話術、知性、教養、コモンセンス等々が必須である。もしロンドンで紳士になろうとするなら、これにどもる口調と暇とこうもり傘を足さねばならない。紳士になるのは面倒くさいのである。

「二十歳前後はどんなことをしていたのですか?」と、おそらく愛想で聞いてきた。これは困った質問であり、もし真面目に答えるならかなり面倒くさいことになる。と言うわけで、次のように返事しておいた。
「その頃はよく詩を作っていたなあ。十九歳の時に書いた詩集を読んでみるかい? 恵まれない天才が紡ぐ言葉の金糸、まるで魔法がかかったような文字列を?」 
「ええ、機会があったらぜひ!」  尋ねたくせに、幕引きが早い。

几帳面な禿とルーズな禿がいる。几帳面な禿には禿としての矜持があり、全体構想が緻密である。てっぺんからつま先まで細部に配慮して禿をケアし、メンテし、見せようとする。カツラなどもってのほかだ。頭部だけで何とかしようとする禿は面倒くさがりである。面倒くさがりだからカツラという一発勝負に出る。そして、ずれる、むれる、ばれるという三重苦を背負う。

積極的引きこもり

引きこもりは1990年代に社会問題化して現在に至る。社会問題化してからは、自宅・自室に閉じこもり、外界や他人と接点を持たずに孤立的生活を続ける意味になった。しかし、引きこもるという選択はいつも消極的とはかぎらない。

外出して歩けば何かが見える。世間や他人と交われば何かを学ぶ。しかし、そうしなければ何も見えず何も学べないわけではない。一時的であるなら、引きこもりには外出や交わりとは別の何かが見え学べるはずである。

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台風21号に続いて24号である。少なく見積もっても同程度の被害が予想されるという。21号の日はオフィスで仕事をしていた。昼過ぎにさっさと帰宅して安全を期した。数時間後だったら暴風雨に削ぎ飛ばされた枝木を見舞われていたかもしれない。

自宅であれ避難所であれ、今日は積極的引きこもりが消去法的選択肢である。晴耕雨読に倣って本を読む。駄文を書く「雨書」でも、音楽を聴く「雨聴」でもいい。その代わり、次の晴天日には倍働くことにしよう。

ところで、わが国の平均雨天日は年間約120日。三日に一度読書できれば御の字だ。但し、降雨の地域差があるため、北陸では180日の雨読日があるが、広島のそれはわずか85日である。晴耕雨読説が正しければ、読書量が2倍以上違うことになる。