数字と気分

お得感と割高感について真剣に考察することがある。たとえば、せこい話だが、モーニングセット360円と単品コーヒー300円の価値をめぐる損得勘定がそれ。

コーヒー1300円に60円プラスするだけでトーストとゆで卵がついてくる。朝飯が済んでいるのでコーヒーだけのつもりだったのに、「60円差ならモーニングにするか……」と安易な路線変更。変えたのは300円のコーヒーが割高に思えたからか、360円セットがお得に見えたからか。しかし、たとえ60円でも、要らないものを注文するのはお得ではない。今なら2本の高枝バサミなどその最たるもの。

n u m b e r s

天気予報で「来週の気温は平年並みか平年を下回るでしょう」と言っている。聞き流しているのだが、少しほっとしていることがある。なぜ?

いったい何にほっとしているのか。来週の過ごしやすさか。ほっとしたりするほど、わかったようでわからない「平年」への感度は良好か。平年の最低気温が20℃だと聞いて、いったいそれは何を意味するのか。差異の実感など一年前や過去十数年の平均値と比較できるものではない。せいぜい昨日に比べての今日、今日に比べての明日くらいしかわからないのだ。

n u m b e r s

行政の窓口やHPに混雑時間表が掲出されていることがある。さっき郵便局に行ってきた。その種のポスターが貼ってあり、「窓口が混雑する時間帯は10時~11時と15時~17時です」と告げている。午前11時過ぎなのに、いつもより混んでいた。

「この時間帯はいつも混むから、他の時間帯にどうぞ」とすすめられても、こっちにも都合がある。けれども、そんなおすすめに(万が一)みながみな真面目に応じれば、定番混み合い時間帯が別の時間帯になるだけの話ではないか。

いつぞや美術館の混雑情報を事前にチェックして、比較的空いている時間帯を目指して行ったら長蛇の列だった。大勢が情報をチェックしていたのである。車の渋滞回避アプリなども、普及すればするほど役立たずになるだろう。

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「あの会社とうちが同じ金額とは納得がいかん」と、ある中小企業の社長。持続化給付金の話だ。ジョークを思い出した。

ある日、ある男の家に神が降り立って、男に言った。「汝の望みを何でも叶えてあげよう。遠慮はいらないぞ」
「ほんとですか、シンジラレナ~イ!」
「ほんとうだ。しかも、汝の望むことの倍が隣人にも施されるのだよ」
「ちょっとお待ちを、神様。あっしが100キロの金銀財宝を望めば、隣のあいつが200キロ分を手にするってことですかい?」
「その通りじゃ」
(……)

とにかく男は悔しがった。自分が損するわけでもないし、他人が何を得ようとも、そんなこと我関せずで100キロでも好きなだけ恵んでもらえばよかったのに……。このジョークのオチは想像にお任せするが、人間の業が行き着く悲惨な結末になった。

入るを量りて出ずるを制す

二十数年前のこと。年配の飲食店経営者がつぶやいた。「この歳になるまで経営やマーケティングのいろんなセミナーを受講して小難しい勉強をしてきましたがね、あまり役に立たなかった。さほど儲からないけど易々と潰れないしぶとさ――経営はここに尽きると思っているんです」。そして、ぽつんとあの金言を持ち出した。「るをはかりてずるを制す」。

素人でもみんな知っていること。子どもが小遣いを貯めておもちゃを買った後に残金をチェックするのも、主婦が家計簿をつけながら大きくため息をつくのも、小さな会社を創業したビギナー経営者が収入と支出に目配りするのも、すべて「入ってくるお金と出ていくお金」への関心ゆえである。みんなわかっている、「出ずる・・・入る・・を上回らないようにしよう」と。創業してから30余年、未だ経営オンチのぼくでも、このことは――このことだけは――わきまえている。

現在の自分の収入や自社の売上はわかっている。現在から寸法を測ればある程度将来の伸び率も予測できる。しかし、お金は出ていくし、収入や売上が予測通りに順調に推移するとはかぎらない。ただ、入ってくるお金に比べると、毎月出ていく固定費を含む支出は大きく変化しない。だから「るをはかりてずるを制す」、つまり、支出は収入に釣り合うか収入の範囲内にとどめておくのが安定の基本になる。


しかし、いくら支出を制していても、予測できない危機に見舞われて収入のほうがどうにもならなくなることがある。今の新型コロナ禍はおそらく今世紀に入って最大の危機だ。このリスク状況がいつまで続くのか、資金注入でどの程度急場をしのげるのか、誰にもわからない。1兆円超の赤字を出しても潰れない企業がある一方で、わずか100万円の資金繰りがどうにもならず、社員を解雇したり廃業したりし、最悪、命を絶つ零細企業経営者がいる。これが社会の現実。

事業者への給付金は、一定条件を満たせば一律に支払われる制度である。この制度の公平性や不公平性については黙して語らないのがいい。どんな泣き言や不満を吐き捨ててもどうにもならないからである。立地の良くない場所で細々と一軒の店を営んできたオーナーと、好立地に数店舗を経営してきたオーナーが受けるダメージは違う。前者は100万円で持ち堪えられるが、後者にとっては100万円は焼け石に水である。

何もかもウィルスのせいではないし、給付金申請の手続きの煩わしさや対応遅延のせいではない。経営者はいろいろな選択肢から今に到る道を選んだのであり、自分なりの経営哲学によって戦略を立ててきたのである。テレビのインタビューに対して、複数店舗を経営する美容院経営者とラーメン店経営者が絶望的に語るシーンを見た。その二人は危機に対して自らが脆弱な体質だった点については触れなかった。有事と平時とにかかわらず、経営の根底には自己責任があることを忘れてはいけない。

足下を見つめてみた

この時世、協働パートナー以外の人たちとここ一カ月ほとんど会っていない。目を向けるのは見えざる情報世界ばかりで、現実の生活周辺への視界は決して良好ではない。かろうじて足下だけが見える。そこから思いつくまま思い出すまま断章を綴る。


🖋 「今日の忍耐、明日の希望」「今日の焦り、明日の絶望」。今日とは今日のことだが、明日はずっと先までの未来の比喩。

🖋 巨大な建物は、意識せずとも、正面からそこに近づけば必然見える。しかし、巨大な建物を背にした格好で、たとえばメトロから地上に出ると、どれだけ大きくても見落としてしまう。背を向ければ、対象が巨大であろうと微小であろうと同じ。
まあ、建物に気づかないことくらい大した問題ではない。大切だが見えづらいものを見損じるほうが恐いのだ。

🖋 周りを過剰に気にして、何に対しても様子を窺っていると「左顧右眄さこうべん」に陥って決心がつかない。何を見て何を見ずに済ませるかは、自分の立ち位置、社会や他者へのまなざしが決める。

🖋 Give and takeギブアンドテイクであってはならない。ギブは主体的であってもいいが、テイクはそうではない。取るのではなく、授かるのである。ゆえにGive and givenギブアンドギブンでなければならない。価値を提供したら、その価値に見合ったほどよい対価を授かるのである。取りに行ってはいけないし、取れると思ってもいけない。

🖋 数年前に『欲望の資本主義』をテーマにしたドキュメンタリー番組を見た。「現代は成長を得るために安定を売り払ってしまった」という一言が印象に残る。これに倣えば、「現代は今日の欲望を得るために明日の活力を前借りする」とも言えるだろう。

🖋 その番組中に語られた比喩的エピソードをふと思い出した。アレンジしてみると、次のような話だった。
金曜日の夜に酒を飲む。もう一軒行こう、カラオケに行こうとテンションを上げてエネルギーを消費する。しかし、このエネルギーは飲めや歌えやの勢いで生まれたわけではない。土曜日に使うべきエネルギーを金曜日の夜に前借りしたのである。

🖋 足下あしもとを見つめてみたら、生活の大半は不要不急であることがわかる。経済は、不要不急の大いなる欲望によって成長してきたにすぎない。

様々な些細な事実

🖋 雨が降っている時の雨音はまったく気にならない。雨が止んだ後に軒から物置の上に落ちてくる滴の音はかなり気になる。

🖋 コメントが付いていないシェアは体裁のいい盗作。

🖋 「立派な趣味ですねぇ」「いやあ、ほんのままごとですよ」……本人はままごとなどと絶対に思っていない。

🖋 「考えることだけが唯一の希望だ」とジョージ・オーウェルは言ったが、希望のない人はそもそも考えようとしない。

🖋 エイジングが進んでいるのか、アンチエイジングできているのか……医者よりも歯と筋肉に直接聞いてみるのがよい。

🖋 嘘をつかないK氏のつぶやき。
「寒いなあ」と思ったら窓が開いていたんですよ。翌日、「昨日よりさらに寒いなあ」と思ったら、窓が開いていたうえに素っ裸だったんですよ。

🖋 手をまったく汚さずに万年筆のインクを充填できたことは一度もない。

🖋 「また飲みに行きましょう」とシニアが言う時、指先をお猪口の形にして口に近づける。ビールかハイボールしか飲まない人でもそうする。

🖋 以前豪ドルを買ったが、豪ドル紙幣は見たことがない。今日、銀行でキンの積立預金を始めたが、金貨も金の延べ棒も契約期間中に見ることはないだろう。

🖋 その銀行で各種粗品セットをもらった。ティッシュも入っていたが、商談デスクの上に置いてあった印鑑拭きが欲しかった。

🖋 お笑い芸人の「いつもここから」の山田一成の『やまだがん』を古本屋の店先で見つけた。金百円也。「電車の弱冷房車に不良が乗っていた」という観察が微妙に可笑しい。

日々の笑い

いつの頃からか知らないが、「笑い」が「爆笑」の同義語になった気がしている。腹を抱えて大笑いする、コメディ的なものだけが笑いの定番。ユーモアやエスプリや微笑みは笑いとは別物になってしまった。ところが、日々見聞きする笑いのほとんどは「ガハハハ!」とは無縁の、小さな笑いなのである。

ユーモア作家の阿刀田高が「ユーモアはギリシア語由来で、元の意味は体液だった」という話を書いていた。体液は身体を巡っている。ユーモアを感じると巡りがよくなる。大笑いでなくてもよい。ほんの少し口角を上げて微笑むだけでも十分。安上がりなサプリメントだ。やずやでもDHCでも売っていない。

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知人が引っ越した。葉書に「近くにお越しの際にはお立ち寄りください」と書いてある。これは「ついでの折りにどうぞ」という意味で、積極的な招きではない。こう書かれているうちは二流である。「ぜひともお越しください」と言われてはじめて一流。「車でお迎えに上がります」と書いてあれば、VIP級の一流扱いだと思ってよい。

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「脱食べ放題、脱飲み放題」を宣言した。「すごい決意ですね」と褒められた。いやいや、食べ放題・飲み放題こそが異端的で大胆な決断だったのだ。普通に食べて普通に飲むのは特に禁欲的でもなく、難しい自制心を必要としない。それを一大決心と言われても困惑するばかり。

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自宅から12キロメートル圏内のいつもの散歩コース。二日連続で歩いた。観光客の人出は尋常ではなかった。「中華人民心斎橋」や「中華人民大阪城」が建国されつつある。店頭で中国語で呼び掛けるドラッグストアは「中華人民ダイコク」。

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諺辞典を読んでいてしりとりがしてみたくなった。「目は口ほどにものを言う」→「口はわざわいの門」→「禍転じて福となす」「目→口→禍→福」の完成。と言うわけで、ハッピーエンド。

メモに関するメモ

📝 『新明解』は〈メモ〉を「(後の必要に備えて)手帳・ノート・カードなどに大事なことの要点などを書き記すこと(書き記したもの)」と定義している。若干異論がある。メモは後の必要に備えるばかりではないし、必ずしも大事なことの要点とも限らない。実は、忘れてもいいように書き留めることもあるのだ。すなわち、安心な忘却のための記録行為。

📝 メモ(memo)は覚書メモランダムmemorandum)が省略されたものだが、今ではニュアンスとしては別物になった。二国間交渉の覚書が「メモ」では頼りないし、子どもへの「テーブルの上のおやつ、食べてね」という走り書きを「メモランダム」と呼ぶのは場違いである。

📝 後で読み返すつもりでメモする。後で読み返すつもりがなくてもメモする。何も考えずに、習慣的にかつ癖のようにメモする。しないよりはしたほうが何となく安心なのでメモする。メモという意識すらなくひたすらメモする。

📝 本には知らない単語が出てくるが、自分で書き記したメモに知らない単語はない。しかし、後日判読できない自分の手書きに出合う。書いたのに、再生できないメモがある。

📝 明確にわかっていないことをひとまずアバウトに書き記す。書いた文字が文章になり、少しずつ思いの輪郭が見えてくる。メモには、書いて考える、書いてわかる、書いて自覚するなどの効用がある。つまり、結果としてではなく、過程としてのメモの効用。

📝 日々の隙間の時間にメモしながらノートと戯れる。終日ひねもすメモなどできないが、木漏れ日射す午後のひと時、コーヒーを啜りながらノートを開く瞬間にちょっとワクワクすることがある。

📝 言いたいけれど大きな声では言いにくい時、小さな字でメモしておく。

二〇一九年八月、プチ随想

「予約の取れない人気店」と噂され、自らもそう名乗る店がある。しかし、ほんとうにどこの誰も予約が取れないのなら、客は存在しないことになり、人気店どころか、店じまいに追い込まれる。予約が取れない人気店は、人気店なのだから予約ができている客で賑わっているわけだ。つまり、予約が取れない人気店とは、「予約の取れる店」と言い換えることができる。

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「人は知っていることしかわからない」とまことしやかに呟かれる。たしかに、知っていることはわかる。しかし、その「知っていること」はいったいいつどのように仕入れたのか? わからない状態で、ある時知ったのに違いない。「人はわからなかったことを知ることができる」と言うほうが本筋である。

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年配から無知な人間がすべて姿を消したら、「無知は若さの証明である」という主張に与してもいい。

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気候風土の影響をもっとも強く受けるのは「食」である。人は環境適応するために環境から様々な情報を得る。かつては食材に関する情報が人の最大関心事であった。われわれの祖先は食を中心に生活環境を整えていった。肉が好きだから肉を食べたのではないし、米が好きだから米を食べたのではない。肉が手に入りやすい環境、米が育つ環境に適応したにすぎない。

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手抜きとは「素材→○→○→完成」のこと。〇の数を増やさないのがポイント。手数をかけないという意味だ。以前パテを作ったことがあるが、うまくいかなかった。下手に作るよりもフランス産の缶詰を使うほうが手っ取り早い。もっともパテをパンに乗せるだけでは芸がないから、一つだけ独自に工夫してみる。そこが手料理のよいところである。

〈暑〉を生きる

暑中お見舞い申し上げます

今年の夏も義理堅いあの人から一葉が届いた。団扇のイラストから「暑ぅ~」という吹き出しのルーティーン。余計なことしなくてもいいのに。

いつも長蛇の列が並ぶラーメン店。さすがに炎天下では列にならないが、それでも数人が待つ。命がけのラーメンランチ、もしものことがあっても保険適用外。

オフィスのエントランス。ほぼ毎朝、掃除のおばさんと顔を合わす。「おはようございます。お疲れさまです」と声を掛けると、先月から返事は決まって「暑いですねぇ」。よく通るこの声で体感温度が2℃上がる。おそらく九月中旬まで繰り返されるはずである。

極暑、炎暑、大暑、酷暑、猛暑、激暑、厳暑……。爆暑や乱暑や倒暑が辞書の見出し語に加わるのは時間の問題だと思われる。

これだけ暑を並べてみると、「日+者」という文字の組み合わせが異形に見えてくる。以前調べたことがある。冠の「日」が太陽の光であることはわかる。そこになぜ者がつくのか。ある本には「煮の原字は者だった」と書かれていた。別の本には「者とは一ヵ所に集めること」とあった。併せると「太陽の光を一ヵ所に集めて煮る」。おぞましい。

一週間先は立秋なのに、真夏は始まったばかり。この先、未来永劫、暦と現実が一致することはないだろう。二十四節気に感じ入る風流な精神で過酷な身体的試練を克服するしかない。金田一春彦の『ことばの歳時記』に「立秋のころ」という一文がある。

ある風流人のところに、暑さの中を訪れた客が、茶室に通され、汗をぬぐいながら、ふと床の間の掛け字に目をやると「夕有風立秋」と書いてある。「良い句ですな。夕方ごろ吹く風に秋の気配を感じる、というのは今ごろにピタリですよ」と、お世辞半分にほめると、主人は微笑して、「いやあ、これはユーアルフーリッシュと読んで、おバカさんね、ということなんです」と答えた。

誰もが立秋までにフーリッシュになりそうな暑さである。「狂暑」と呼ぶことにする。

具のないサンドイッチ

メモがエッセイに昇華することもあるし、レアなまま在庫になることもある。在庫は処分しなければならない。恒例の月一か月二の小さなメモ展。

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雑談中に誰かが「EUの委員長ね……」といきなり言い出したら、もうオチは見え見え。
EUの委員長ね、見た目はかなりのシニアだけど、元気そうだなあと思っていた。それもそのはず、名前見たらユンケルだもんね」
最近知ったのだろう、ユンケルの名前。ぼくはこのギャグは使わない。欧州委員会委員長、ジャン=クロード・ユンケルのこと、前から知ってるから。

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長らくイタリア語を使っていない。先日、ワインショップでイタリア人に会った。初対面。特に喋ることもないので、“Ciao!”と挨拶だけして適当にワインの品定めをしていた。会計を終えた後、再び目と目が合ったが、特に喋ることもなく、別れ際にもう一度“Ciao!”と言った。“Ciao!”は「こんにちは」にも「さようなら」にも使える便利な挨拶。CiaoCiaoの間は無言。挟む具のないサンドイッチみたいで可笑しかった。

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一重の勝負は紙のみにあらず。ひんにもあり。品の上下は隣り合わせ、すなわち品一重なり。その境界にありて下ることなかれ。僅かに上にあろうとするのが人のあるべき姿なり。

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多芸だと褒め倒されてただ仕事 /   岡野勝志

まあ、平均よりは少し芸が多いかもしれないが、「多」が無数であるはずはなく、せいぜい三つか四つ。専門の仕事以外に何かを小器用にこなすと、すぐに多芸と呼ばれる。そうそう、多芸は無芸の類義語である。

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〽 任せ任され うまくは行かぬ ドジを踏んだらぼくのせい /   岡野勝志

冬陽獨言

冬陽獨言ふゆびどくげん」。こんな四字熟語はないが、今日の昼下がりにはぴったりだ。南から射す光が窓越しに熱に変わる。今にも陽炎がゆらゆらと立ち上がりそうな気配。暖房を切る。脳裏をよぎっては消える内言語ないげんごを搦め取って獨言にしてみた。

あの日の古めかしい喫茶店。珈琲が出てくるのがやや遅く、時間は間延びしていた。自分で淹れた今日の珈琲はすぐに出来上がった。やや早過ぎた。時間の加減は珈琲の香りと味覚に作用する。

時間の流れに身を委ねてぼんやりするくらいではアンニュイには浸れない。けだるいとか退屈だと言うのはたやすいが、極上の倦怠感に包まれるには相応の努力が必要なのだ。

今日の最高気温は一月下旬並みらしいが、ガラス越しに冬陽を受けていると、まだ晩秋が粘っているような錯覚に陥る。いや、錯覚などと言うのはおかしい。晩秋だの初冬だのと人が勝手に分節して表現しているだけの話ではないか。

空澄みわたり
季節は深まる。
色づいた葉は
微風になびき、
枯れ尽きては
やがて落ちる。
落ちたところが
遊歩道プロムナードになる。
冬空は誰かの
移ろう心のよう。
窓外の冷気は
冬陽に溶ける。

(岡野勝志作)