表現品性とユーモア

以前紹介したが、『増補版 誤植読本』(高橋輝次編著)という本がある。錚々たる書き手による誤植のエピソードをまとめたもの。竹内寛子の「誤字」という一文が印象に残っている。誤植は作者の非ではなく、製版や印刷過程で生じるミスプリント。対して、誤字は原稿時点での作者の間違い。竹内は言う、「間違い方にも人は出る。よきにつけ、あしきにつけ、人と離れようのないのが文字遣いであり、言葉遣いである」と。

ことばのミスを完全に避けることはできない。絶対にしてはいけないと気を引き締めていてもミスの罠はあちこちに仕掛けられている。しかし、「間違い方にも人は出る」と指摘されると心中穏やかではない。悪気はなく、舌が軽く滑っただけなのに、失言に人柄や品性が出てしまう。下品が失言すると下品になり、上品は失言しても何とか品を保つ。

ネット上で注目された56年前の投稿を思い出す。文中に散りばめられた強烈なことば遣いの数々。「保育園落ちた 日本死ね」「一億総活躍社会じゃねーのかよ」「何が少子化だよクソ」「子供産むやつなんかいねーよ」「そんなムシのいい話あるかよボケ」……。

違和感のある表現が、このようにほざくしかなかった事情の前に立ちはだかる。事情がどうであれ、「死ね」「じゃねーのかよ」「クソ」「ボケ」などのことばを多用する者をぼくは原則信用しないことにしている。こうした表現をギャグとして使うお笑い芸人もいるが、芸もたかが知れている。上品がつねにいいとは言わないが、下品はつねによくない。ほどよい品性を下地にしてこその批評であり喜劇なのである。


周囲に目配りも気配りもせず、車内の優先座席で座って知らん顔している高校生にいきなり罵言を吐き怒号を浴びせた高齢の男性がいた。正義感に火が付いての言動だったが、下品に過ぎた。高校生のマナー違反の現象が小さく見えてしまい、高齢者の正義感を誰も支持しなかった。「じいちゃんの言う通りだ」と共感した乗客はほとんどいなかった。

「保育園落ちた」にも「座席ポリス」にも共感者はいる。自分勝手にテンションを上げていると感じるから、ぼくにはどちらも後味が悪く、苦笑いすらできない。読んだり居合わせたりするこっちの顔が引きつるばかりである。英語スピーチ術の定番の教え、It’s not what you say, but how you say it.”は「何を言うかではなく、どのように言うかである」という意味だ。表現の質は意見の妥当性よりも重要である。

うまそうな肉を焼いたのに、乗せた皿が悪かった。主張に引き込もうとしたのに、そんな言い方はないだろうといさめられる。とは言え、表現品性を高めるのも容易ではない。しかし、ミスにしても批評にしてもほんの少しユーモアの色味を足せば、何とかなるのではないか。

神がいないばかりではない。もっとひどいことに、週末にブリキ職人に来てもらうこともできない。

「神がいないこと」を下品に言うと大変なことになるが、ブリキ職人を登場させるだけで愉快な批評になる。これはウッディ・アレンのことば。怒鳴っていないし、いきり立っていない。

楽 (らく) と楽しみ

背伸びして生活したり仕事したりしていれば肩肘も気も張る。誰にもそんな時期があるだろう。しかし、気は――張るだけでなく――時々緩めないと疲れ果てる。己の分と能力をよくわきめておくのが肝要である。

堀口大學に『座右の銘』という短詩がある。

暮らしはぶんが大事です
気楽が何より薬です
そねむ心は自分より
以外のものは傷つけぬ

分相応に生きろなどと他人に言うと生意気だが、自分自身に言い聞かせるなら支障はない。分や能力の程度で生きていれば、周囲の事情や他人の存在につねに気を遣うこともなくなる。つまり、気楽になれる、力が抜ける。


気楽は「いい加減」とは一線を画す。無理することなく、どこかで「なるようにしかならない」と諦観してのんびり構えている様子だ。「気楽が何より薬です」と言われてあらためて「薬」の中の「楽」を確かめる。漢字で薬と書けば、その薬は元々漢方。漢方薬の原料は草の葉や根や皮がほとんど。だから「くさかんむり」。

この楽は「らく」であり、落ち着いてゆったりした気持ちのさまだ。気楽、安楽、極楽の楽である。病を治すばかりが薬ではない。うまく処方すれば、未病に働いて心身は楽になる。

楽はやがて余裕を生み、歓楽や快楽にも変化して感覚をたのしませてくれる。それは、身近なところでは音楽が与えてくれるような安らぎ、歓び、快さ。

先日のこと、知人から電話が入っていたのに気づかなかった。折り返した。
「すみません、間違ってかけました。元気にされてますか?」
「まあ、耐えているというところかな」
「暖かくなったら歌いに行きましょう」

なんで歌? とその時は思ったが、なるほど、音楽にはらくたのしみの薬効がある。歌うどころか、最近はあまり聴きもしていないことに気づかされた。

2020年の年賀状レビュー


「ぼくはずっと思っているんだ。きのうになればよくなるだろうって」

よく言ってくれた、チャーリー・ブラウン。その通り!

何の根拠もないのに、明日が今日よりもよくなると信じている人がいる。「今日はダメだった、でも明日があるさ」とつぶやいてリセットした気になれるとは、ノーテンキにも程がある。

チャーリーは覚めた目で昨日、今日、明日を見ている。今日の次にもう一度昨日が来たら、少しはましにやり直せるはず。但し、後悔と反省を織り込んだ上手な学びができればの話。


問題がうまく解決できない。問題がそもそも何であるのかを簡潔に言い表せないのが原因の一つである。課題と言い換えてもいいが、課題の表現が拙いと解決すべきことが明快にあぶり出されない。発明家としてよく知られたチャールズ・ケタリングのことばに耳を傾けたい。

「問題をそつなく表現できれば、問題は半ば解決されたも同然」


専門スキルやノウハウは生活習慣と無関係ではない。仕事と生活はほぼ写像関係にあって、この二つは決して切り離せない。それゆえ、プロフェッショナルとしての能力は、生活スタイル、癖、繰り返しによって培養される。

「習慣は第二の天性なり」(ギリシアのことば)

「成果をあげることは一つの習慣である。習慣的な能力の集積である。習慣的な能力は修得に努めることが必要である」   (ピーター・ドラッカー)

いずれも「習い性と成る」ことを教えている。身についた習慣は無意識のうちに身体に浸み込む。まるで生まれつきの性質のような暗黙知の才能になる。


「人間のあらゆる過ちは、すべて焦りから来ている。周到さを早々に放棄し、もっともらしい事柄をもっともらしく仕立ててみせる性急な焦り」

フランツ・カフカのこの指摘は、様々な場面に当てはまる。焦りから結論を急いで判断すると早とちりする。早とちりは先入観として刷り込まれる。いったん刷り込まれてしまうと判断を見直すチャンスを失うのである。


近世イタリアの哲学者ジャンバッティスタ・ヴィーコは言う。

「才能(インゲニウム)は言語によって形成されるのであって、言語が才能によって形成されるわけではない」

言語が才能に先立つと考えるのが自然である。何がしかの思考と人それぞれの才能、その他ありとあらゆる資質は言語を源泉とする。才能がなくても何とかなる場面はあるだろうが、言語を放棄しては人間関係も生きることも立ち行かなくなる。


あの柿の木が庵らしくする実のたわわ    (壱)

この柿の木が庵らしくするあるじとして   (弐)

最初壱の句が作られ、その後に弐の句に書き換えられた。この変化に心境の一端が読み取れそうな気がする。壱の句では種田山頭火はまだあるじだったのだろう。しかし、脇役のはずの柿の木が弐の句では主役になる。あるじの座は柿の木に取って代わられた。「あの柿の木」が「この柿の木」に変わっているのも見逃せない。主客は転倒する、望むと望まざるとにかかわらず、やがて変わる。


「始めなんてものはない。到着した所からやりたまえ。最初君の心を惹いた所に立ち止まりたまえ。そして勉強したまえ! 少しずつ統一がとれて来るであろう。方法は興味の増すにつれて生まれて来るであろう。最初見た時は、諸君の眼は諸々の要素を解剖しようとして分離させてしまうが、それらの要素はやがて統合し、全体を構成するであろう」(ロダン)

経験の程度に応じて、分析から統合、部分要素から全体へとシフトするのは、ほぼすべての学習において真である。企画という仕事は一言で表現しようと試みてもしっくりこない。あれこれ考えた挙句、〈ことばとアイデアで画を企む過程〉に落ち着く。成否には言及しない定義だが、これで仕事の過程は実感できる。


ジュエリー工房のベテラン彫金師が言った。

「こんなものが欲しいのだけれど、作ってもらえますか? こう言われる時が一番幸せな時だ。自分にしかできない仕事を頼まれているのだからね」

固有名詞で指名される職人にはめったにお目にかかれないし、「あなたでなければいけない」と言われる存在に誰もがなれるわけではない。しかし、かけがえのない存在を目指すのはすべての仕事人にとって最大のテーマである。もちろん、そうだとしても、不特定多数に指名されようと欲を出しては幸せが逃げていく。


できるとかできないとかの結果にこだわることをやめた瞬間、「やれば」が意味を持ち始める。

「星に手を差し伸べても、一つだって首尾よく手に入れることなどできそうもない。だが、一握りの泥にまみれることもないだろう」

レオ・バーネットのこの至言を励みとしたい。

諺のお勉強㊦

キリスト教とともに日本に伝わり定着した諺。大浦天主堂で拾った聖書由来のなじみのことば、その続き。


狭き門
聖書の前にアンドレ・ジイドの小説で知った。狭き門ならさぞかし通りにくそうだとおおよそ見当がつく。「狭き門より入れ。滅びに至る門は大きくその路は広く、これより入る者多し」。救いへの道、天国への道は困難を覚悟しなければならない。
ある局面で難易二つの選択肢がある時、易しい方法を選びたくなるのが人情だが、それではいつまで経っても成長しない。長い目で見れば、分かりやすそうでも理解できたとは言えず、分かりにくいけれどいずれ理解への道が開かれる。読書などその最たるもの。

求めよ、さらば与えられん
この後に「探せよ、さらば見つからん。叩けよ、さらば開かれん」が続く。求めても小遣いが増えなかった、何日かかっても探し物は出てこなかった、叩いてもトイレのドアは開かれなかった……等々の経験、数知れず。結果はともかく、
解決の可能性としては、何もしないよりは求めて探して叩くほうに賭けてみたいと思う。
あんぐりと口を開けて餌が与えられるのを待つのを許されるのは雛だけ。成人なら自ら取りに行かねばならない。引きこもっているよりは散歩しているほうが少なくとも気分はいい。

目から鱗
十数年程前まで、てっきりわが国で生まれた諺だと思っていて、調べもしなかった。「鱗」という一字のせいである。「地に倒れ目が見えなくなっていたサウロに、使いのアナニヤが目が見えるようになるという主イエスのメッセージを伝えると、目から鱗のようなものが落ちた」というエピソードに由来する。
そこに正解や発見やヒントがあるのに気づかないのは、遮っている何かがあるから。その何かとは、実は己の目に張り付いた鱗。別名、「固定観念」。ところで、「目から鱗が落ちた」と目をパチクリさせるわりには、翌日に大きく変わる人はそんなにいない。

働かざる者食うべからず
働きたいけれど、職がなかったり病気していたりして働けないことと、働けるのに働かないことを分けておかねばならない。ただ、働かざる者であっても、目の前で腹を空かして泣きついてきたら知らん顔はしづらい。一般的な善人の、見て見ぬ振りできぬ弱みにつけ込んでくるしたたかなズルが後を絶たない。無為徒食や放蕩三昧を戒めるいい方法がことば以外にあるのだろうか。

豚に真珠
「神聖なものを犬に与えてはならず、また真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたに噛みついてくるだろう」という話が〈山上さんじょう垂訓すいくん〉の一つとして出てくる。いま、ペットとしての犬、ありがたい食材としての豚を思えば、時代は変わったと言わざるをえない。
価値は人が決めるものなので、ある人にとって値打ちがあっても別の人にとっては無価値ということはよくある。いろんなケースがあるので、「豚に真珠」という諺一つに一般化できそうもない。したがって、スパゲッティは食べるがピザに見向きもしないA子には「A子にピザ」、旅行嫌いのB男に対しては「B男にGo To 割引」などとカスタマイズするのがよい。

砂上の楼閣
「砂の上に家を建てても、雨が降ったり川が溢れたりすると形を成さなくなる」に由来。国宝として残っている楼閣は何度か見ているが、たしかにどの楼閣も砂の上には建っていなかった。見た目が立派でも基礎がいい加減ならダメという戒めだ。有名料亭や旅館に「○○楼()」や「□□閣」が多いが、いかにも立派そうな雰囲気が漂っている。基礎がどうなっているのかチェックしたいのは山々だが、散財するので行くことはない。

(了)

諺のお勉強㊤

長崎の大浦天主堂を訪れてからまもなく2年になる。佐賀で仕事があった。翌日に長崎在住の友人に会う予定のつもりが、友人のお母様が亡くなり急遽キャンセルに。切符とホテルの変更が面倒なので一人旅することにした。高校二年の3月以来の長崎。

天主堂の一室、キリスト教布教とともに日本に定着した11の諺が紹介されている。新約聖書マタイによる福音書由来のことばが多い。ノートにメモしていたので読み返し、ちょっと断想してみた。


新しい酒は新しい革袋に盛れ
ぼくの定番企画研修では「コンセプトとコピー」の章でこれを引用している。新しいぶどう酒を古い革袋に入れてはいけない……そんなことをすると袋が張り裂けて酒がほとばしってしまい、袋は使いものにならなくなる。と言うわけで、新しいぶどう酒は新しい革袋に入れるのが正しい。まあ、古風なラベルを貼った年代物のボトルにボジョレーヌーボーを入れたら値打ちがなくなるようなものだ。「新しいコンセプトは新しい表現で包め」というルールを導くエピソードとして気に入っている一言いちげん

風にそよぐあし
「人間は一本の葦であり、自然のうちでもっとも弱いもの。しかし、それは考える葦である」というパスカルの『パンセ』の名言も聖書のこのことばに由来する。葦が群生している場面をじっくり観察したことがないので、そよぐ様子があまりイメージできないが、葦は風の吹くままにそよぐらしい。その姿は他人の言いなりになりがちな人間のようにか弱い。そう言って突き放すのではなく、だからこそ「罪の救いがもたらされる」と結ばれてほっとする。

笛吹けど踊らず
「ノリが悪いなあ」とか「テンション低いなあ」というガッカリ感無きにしもあらず。あれこれと考えて段取りし(うまく演出もしたつもりだが)、居合わせる人たちは誘いに乗ってくれない。打てど響かず、のれんに腕押しに近い心理模様が読み取れる。ところで、ぼくは河内音頭の歌詞も節まわしも好きだが、ライブ演奏に合わせて盆踊りに参加したことがない。みんなが踊り、自分だけが踊らなくても、必ずしも乗り気がないとか誘われ下手とは限らないので、主催者はがっかりしなくてもいいと思う。

人はパンのみにて生くるにあらず
こういうやさしい表現の諺ほど曲解されたり意味が揺れたりする。言うまでもなく、「朝食はパンだけじゃなくてコーヒーも」という意味ではない。ここでのパンは食用としてのパンではなく、モノの象徴である。つまり、物質的満足に生きるのではなく、精神的な拠り所も必要だということ。では、その精神的な拠り所とは? 神のことばである。ぼくはクリスチャンではないので、「神のことば」についてはよくわからない。しかし、ことばに生きるということは常々実感している。

汝の敵を愛せよ
自ら発したり書いたりしたことはない。この諺を見聞きするたびに、言うだけなら容易だとつくづく思う。「悪意をもって自分を迫害する者に対してこそ、慈愛をもって接しなければならない」というのが本意。かなり人間ができていても難しい。米国大統領選を取り巻く状況で敬虔なキリスト教信者らがそうしているようには見えない。ところで、「自分を愛してくれる人を愛することは誰にでもできる」というのがこの前段にあったと思うが、自分を愛してくれる人を愛さなくなったから諸々の問題が生じ、週刊誌がスクープを流すのである。

(㊦に続く)

本日は本の日なり(後編)

10年近く前の会読会で『読書のすすめ』(岩波文庫編集部編)を書評した。著名人らの読書にまつわるエッセイをまとめた本。前編に続いて、後編の9人の読書観を紹介する。


📖 若き日にバラを摘め(瀬戸内寂聴)

「生きている人生の愉しみは、食べることと、セックスすることと、読書することに尽きるのではないでしょうか。」

ものをズバリ言う人だ。得度前の瀬戸内寂聴(旧名、晴美)をよく知っているので、うなずける。もっとも、いくら愉しいからと言って、三つの行為を同時におこなうことは容易ではなさそう。

📖 夏の読書(坪内祐三)

読書には教養主義的な――あるいは情報主義的な――読書と面白主義的読書があり、これら二つを合わせてなお越えていく読書があると著者は言う。

「どこかに連れ攫われてしまう読書。日常の中を流れている物理的な時空間とは異なる、もう一つの時空間を知るための読書。自分の内側に潜在的にしまいこまれている別の自分と出会うための読書。」

📖 隠れ読みの悦楽から(中野孝次)

人はそれぞれの置かれている立場によって、読んでいる一文に独自の感覚的反応を示す。著者は次の文章によって、どれだけ勇気づけられ、自分自身を取り戻せたかと述懐する。

「音楽であれ、恋愛であれ、人間の探求であれ、彼はつねに彼自身感じることを、自分の眼で正確に知るという点に帰ってくる。他人は考慮されない。他人は審判者ではない。」
(アラン『スタンダール』)

📖 読書による理解(中村元)

「読書から得られる楽しみも大きいが、読書によって得られた知識が自分の知識体系の中のいずれかの場所に位置を得たことを知る喜びは、非常に大きなもの。」

一つの単語が自分の語彙体系に入ってきて、体系そのものの磁場を変えることがある。一冊の本ならなおさらだ。人生観まで大きく転回させられた経験はないが、新しい知識が知識体系の中で核になったことは何度かある。

📖 〈面白い〉と〈わかる〉(中村雄二郎)

「〈わかる〉ことを中心にして書物を読むことには大きな落とし穴がある。」

すなわち、わかろうと思い、わかるだろうと目論んでいるから、〈わからない〉や〈わかりにくい〉に遭遇すると書物とのコミュニケーション断絶を感じてしまうのだ。わからない場面でめげずに読み続けるためには、愉快が絶対条件になる。

「ある種の辛抱づよさも読書には必要である。その辛抱づよさを支えるものは、ある本の内容を〈面白い〉と思うことによる関心の高さでなければならないはずである。」

📖 我儘な読書(松平千秋)

「好きな本、読みたい本を読む。」

強いられる読書よりも欲求のおもむくままの読書。好きで読めば身につく。好きでなければ身につきにくい。敢えて「読むぞ!」などと宣言しなくても、自然流に読める本がいいに決まっている。

📖 宝石探し(北村薫)

「本を読むというのは、そこにあるものをこちらに運ぶような、機械的な作業ではない。場合によっては作者の意図をも越えて、我々の内に何かを作り上げて行くことなのだと思います。」

「そこにあるものをこちらに運ぶような、機械的な作業」のような読み方は、学生時代の教科書によって身についてしまったのだろう。社会に出てその悪しき読み方から脱却するのに何年、いや何十年かかったことか。

📖 わが読書(中村真一郎)

「頭脳を、三年たったら無用のゴミの山に化するような本の読み方は愚の骨頂である。」

仕事に関係する読書ばかりしていた知人は、還暦になってはじめて空しさに気づいた。そして、腹立たしさを抑えることができず、それまでに読んできたビジネス本をすべて処分した。その後の20年間は主に古典に没頭したという。

📖 本の読み方(養老孟司)

「『くだらない本』というのは、わかりきったことを確認する意味しか持たない本のことであろう。」

講演の後に、「とても共感しました。私の思っていたことと同じです」と言ってくる人がいるが、「確認しただけだから、時間の無駄でしたね」と冗談ぽく返すことがある。うなずくばかりの本では楽しみ半減である。


ぼくの場合、読書してきたものが知らず知らずのうちにおおむね仕事のヒントなったように思う。つまり、関心が向いて深読みしたテーマが、幸いなことに仕事になったのである。仕事のために無理に知識を得ようとした読書はごくわずかである。今も、愉快な本を中心に、著者と対話するように読む。どうせ何冊読んでも記憶に残る知識などごくわずかなのだから、プロセスを重視する。

同じ趣味でも、読書とゴルフには決定的な違いがある。ゴルフの場合、運動や健康や付き合いなどの目的を掲げたとしても、取るべき行動は18ホールを仲間と競い最少打数を目指すことに変わりはない。打法や戦略は人それぞれだが、指向している内容は同じである。

では、読書の場合はどうか。これも目的や方法はいろいろあるが、18ホールや最少打数などの道標があるわけではない。ジャンルも読み方も千変万化する。要するに、読書はゴルフなどの趣味に近いのではなく、食べ物と同様に嗜好性の強い趣味なのである。偏食があるように偏読というものもある。ゴルフのアマチュアはプロの技術をお手本にすることが多いだろうが、読書ではプロの読書家の嗜好する珍味がアマチュアの口に合うとはかぎらない。

〈完〉

本日は本の日なり(前編)

二年前、オフィスの図書室兼勉強部屋を“Spin_off”と命名したが、実は別案があった。「本にちカフェ」というのがそれ。「本の日」と「本日ほんじつ」を重ねたもので、“It’s a book day today.”という英語のキャッチフレーズを作り、ドアの表示のデザインまで考えた。「本日は晴天なり」を捩って「本日は本の日なり」と訳せるかもしれない。

まとまった時間が作れたので、本を拾い読みしたり、主宰していた会読会のためにしたためた書評を読んだりしている。「本日は本の日なり」にふさわしそうな『読書のすすめ』(岩波文庫編集部編)の書評に新たに手を加えてみた。この本では37人の著名人がそれぞれ独自の読書論を寄稿している。そのうち18人を選び、今回と次回で9人ずつ紹介したいと思う。

ところで、最上の読書は、好きな本を好きな時に好きな姿勢で好きなページ数だけ愉しむのがいいということに尽きる。この歳になって、「いかに本を読むか」で悩むことはない。けれども、「読書家らはどんなふうに読んだのか」には少々興味があるので、時々覗いてみる。誰もが生活環境やキャリアによっていろいろな読み方をしていることがわかるが、少なからぬ共通項があることにも気づく。


📖 『ガリア戦記』からの出発(阿部謹也)

著者は現在をどのように生きるかと真剣に問い、生きるために不可欠なテーマを見つけようとするが、容易に見つからない。

「長い間考えたあげく、ついに何も考えず、何も読まずに生きてゆけるかどうかを考えてみた」。

そしてそれが不可能だとわかった。出合った一冊の本はカエサルの『ガリア戦記』だった。ぼくに「それを読まなければ生きてゆけない本」という選び方ができるだろうか。ちなみに、カエサルの『ガリア戦記』は本棚にあるが、なまくら読みしかしていない。

📖 読むことと想像すること(池内了)

「私にとって読書とは、それまでに未知であった世界を、想像しあるいは空想し、時には一体となって考えあるいは反発し、やがて既知の世界として私の中に沈めてゆく行為である。従って、たとえ実際に経験しない事柄でも、読むことと想像することによって限りなく近づき、私の中の世界の一事象とすることができると考えている。」

未知の世界のことを読むには辛抱がいる。知っていることを手掛かりにして知らないことに想像を馳せるわけだから。わからないという度々の状態に陥るのが嫌なら、読書を続けることはできないだろう。

📖 古典の習慣(大江健三郎)

「本を読むこと、とくに古典を読むことには、無意識的なものもふくめて全人格が参加している。それはひとりの人間の生きる上での習慣ともいえるものだ。」

全人格などと大それたことを言える自信はないが、読書が国語力だけで何とかなるなどとは思わない。歯を磨くことにしても、歯ブラシと歯磨剤だけで済むものではないのと同じことである。

📖 読書家・読書人になれない者の読書論(大岡信)

「本を読むという行為は、いついかなる場合においても、作者対読者の一対一の関係に還元されてしまう。」

「私たちは本を読む場合、必ずしも一冊全部を初めから終りまで読み通すとは限らない。ある場合には、ある本の一、二ページしか読まないこともある。そしてその一、二ページが、決定的に重要なことさえ多いのである。」

作者と読者の一対一の関係なのに、一冊を読み通さなくてもよく、一部齧るだけでもいいと言われれば安心する。ここが読書のいいところだ。もっとも、小説は別にして、たいていの本のテーマはもとより1ページか2ページで書けることが多いから、運よく開けたページが「さわり」であることなきにしもあらず。

📖 研究と読書(大野晋)

「読書とは眼鏡をかけて物を見るようなものである。多読家とは要するに次々と眼鏡をかけかえて行く人。眼は疲れて実は何もよく見えなくなるだろう。」

読まないよりは読むほうがいい。しかし、読まずに済ませる選択肢もある。いろいろと本を読んでも開眼するとはかぎらない。読書に親しむのはいいが、適度な距離を保つことも重要である。

📖 翻訳古典文学始末(加藤周一)

「私は日本語の美しさを、専ら本を読むことで覚えた。読みながらの、意味よりも言葉の響き。」

何が書かれているかばかりに気を取られると、語感や表現の豊かさを見逃すことがある。意自ずから通じなくても、何度も読み返してリズムの良さを楽しみたくなる古典がある。

📖 「読書をなさい」(京極純一)

「勉強のために本を読むことは、ふつう、読書とはいわない。」

「本を読むことは、想像力と感受性の世界のなかで、人間の可能性の広がり、善の能力から悪の能力までの幅の広さを経験することである。人間が自分を捨てて他者を愛すること、また、人間が愛する者と別れてひとり死ぬこと、こうしたことを経験する、これが読書である。」

何かを学んでやろうと思うと、必然ハウツーばかりを読むことになる。ぼくはハウツー本を読むことを読書などとは思わない。著者が言うように、読書は一つの経験的行為である。

📖 読書と友だち(坂本義和)

著者は終戦直後にカントの『純粋理性批判』を読み、「考えることを考える」ことの重要さを思い知ったという。

「国中が思考の短絡におちいっている時に、カントはその逆を私に示したのである。そこには、石造りの壮大なゴシック建築のような、驚くほど強固な思考力があった。」

📖 塩一トンの読書(須賀敦子)

このエッセイのタイトルは著者の姑(イタリア人)の「ひとりの人を理解するまでには、すくなくとも、一トンの塩をいっしょに舐めなければだめなのよ」にちなんでいる。ゆえに、

「本、とくに古典とのつきあいは、人間どうしの関係に似ている。」

〈続く〉

ヒューマンスキル再考

2020年の年賀状を転載します。


二〇〇八年六月から綴ってきた当社のブログ《オカノノート》は、まもなく一、五〇〇回。歳月を経て風化した駄文も少なくない一方で、「名言インスピレーション」と題したカテゴリーに、いつの時代も心に留めておきたい引用文を再発見できました。
テクニックとしては役立ちそうもないですが、ヒューマンスキル再考の一助になればと考え、ここに再掲することにしました。


「ぼくはずっと思っているんだ。きのうになればよくなるだろうって」
よく言ってくれた、チャーリー・ブラウン。その通り!
何の根拠もないのに、明日が今日よりもよくなると信じている人がいる。「今日はダメだった、でも明日があるさ」とつぶやいてリセットした気になれるとは、ノーテンキにも程がある。
チャーリーは覚めた目で昨日、今日、明日を見ている。今日の次にもう一度昨日が来たら、少しはましにやり直せるはず。但し、後悔と反省を織り込んだ上手な学びができればの話。


問題がうまく解決できない。問題がそもそも何であるのかを簡潔に言い表せないのが原因の一つである。課題と言い換えてもいいが、課題の表現が拙いと解決すべきことが明快にあぶり出されない。発明家としてよく知られたチャールズ・ケタリングのことばに耳を傾けたい。
「問題をそつなく表現できれば、問題は半ば解決されたも同然」


専門スキルやノウハウは生活習慣と無関係ではない。仕事と生活はほぼ写像関係にあって、この二つは決して切り離せない。それゆえ、プロフェッショナルとしての能力は、生活スタイル、癖、繰り返しによって培養される。
「習慣は第二の天性なり」(ギリシアのことば)
「成果をあげることは一つの習慣である。習慣的な能力の集積である。習慣的な能力は修得に努めることが必要である」 (ピーター・ドラッカー)
いずれも「習い性と成る」ことを教えている。身についた習慣は無意識のうちに身体に浸み込む。まるで生まれつきの性質のような暗黙知の才能になる。


「人間のあらゆる過ちは、すべて焦りから来ている。周到さを早々に放棄し、もっともらしい事柄をもっともらしく仕立ててみせる性急な焦り」
フランツ・カフカのこの指摘は、様々な場面に当てはまる。焦りから結論を急いで判断すると早とちりする。早とちりは先入観として刷り込まれる。いったん刷り込まれてしまうと判断を見直すチャンスを失うのである。


近世イタリアの哲学者ジャンバッティスタ・ヴィーコは言う。
才能インゲニウムは言語によって形成されるのであって、言語が才能によって形成されるわけではない」
言語が才能に先立つと考えるのが自然である。何がしかの思考と人それぞれの才能、その他ありとあらゆる資質は言語を源泉とする。才能がなくても何とかなる場面はあるだろうが、言語を放棄しては人間関係も生きることも立ち行かなくなる。


あの柿の木が庵らしくする実のたわわ   (壱)
この柿の木が庵らしくするあるじとして  (弐)
最初壱の句が作られ、その後に弐の句に書き換えられた。この変化に心境の一端が読み取れそうな気がする。壱の句では種田山頭火はまだあるじだったのだろう。しかし、脇役のはずの柿の木が弐の句では主役になる。あるじの座は柿の木に取って代わられた。「あの柿の木」が「この柿の木」に変わっているのも見逃せない。主客は転倒する、望むと望まざるとにかかわらず、やがて変わる。


「始めなんてものはない。到着した所からやりたまえ。最初君の心を惹いた所に立ち止まりたまえ。そして勉強したまえ! 少しずつ統一がとれて来るであろう。方法は興味の増すにつれて生まれて来るであろう。最初見た時は、諸君の眼は諸々の要素を解剖しようとして分離させてしまうが、それらの要素はやがて統合し、全体を構成するであろう」(ロダン)
経験の程度に応じて、分析から統合、部分要素から全体へとシフトするのは、ほぼすべての学習において真である。企画という仕事は一言で表現しようと試みてもしっくりこない。あれこれ考えた挙句、〈ことばとアイデアで画を企む過程〉に落ち着く。成否には言及しない定義だが、これで仕事の過程は実感できる。


ジュエリー工房のベテラン彫金師が言った。
「こんなものが欲しいのだけれど、作ってもらえますか? こう言われる時が一番幸せな時だ。自分にしかできない仕事を頼まれているのだからね」
固有名詞で指名される職人にはめったにお目にかかれないし、「あなたでなければいけない」と言われる存在に誰もがなれるわけではない。しかし、かけがえのない存在を目指すのはすべての仕事人にとって最大のテーマである。もちろん、そうだとしても、不特定多数に指名されようと欲を出しては幸せが逃げていく。


できるとかできないとかの結果にこだわることをやめた瞬間、「やれば」が意味を持ち始める。
「星に手を差し伸べても、一つだって首尾よく手に入れることなどできそうもない。だが、一握りの泥にまみれることもないだろう」
レオ・バーネットのこの至言を励みとしたい。


2020年 年賀状

書体が秘めるもの

起業してから幾多の困難を克服して成功を収め、創業者が財産を遺した。二代目は首尾よく承継して守成をやり遂げた。創業にも守成にもそれぞれ別の苦労があるが、一般的に「創業は易く守成はかたし」と言われる。これが正しいなら、生業を軌道に乗せた二代目の手腕を褒めるべきである。

しかし、守成の難しさは富家ふかの三代目が証明することになる。世間によくあるのは三代目による家業の没落というシナリオだ。家を売りに出さねばもはや立ち行かない。貼り出された売り家の札を見れば唐様からようのしゃれた字で達筆。さすが祖父と父の財産で遊芸に耽っただけのことはある。こうしてあの川柳が有名になった。

売り家と唐様で書く三代目

三代目の書を褒めたわけではない。商いの道よりも遊芸にうつつを抜かして身上しんしょうを潰し、残したのはわずかに手習いの腕と教養だけという皮肉である。

唐様は和風の草書や行書とは違った楷書系の書体である。この川柳の頃はおそらく江戸時代で、当時は楷書に明朝の書体を取り入れたものらしかった。明治時代には公式の書体として唐様が定められた。将棋の駒の書体として人気のある菱湖りょうこ〉はその一つである。


どうせ家を売りに出さねばならないのなら、唐様で粋に書くほうが少しは高く売れるかもしれない。少なくとも何も書かないで空き家のまま放置するよりも、また札書きが下手くそであるよりもうんとましである。

書体はその名の通り「文字の体つき」を表現している。身体同様に、書の体つきも個性の一つであるから、イメージやニュアンスまでも伝える。同じ「売り家」と書くにしても、草書や行書、明朝やゴシックのどれを選ぶかによって、文字通りのメッセージとは別の隠れ潜んだ意味があぶり出されるだろう。

書における力とは、(……)毛筆に加えられる力ではない。毛筆が沈む深さでも、毛筆が疾走する速度でもない。政治や社会、人間関係の重力に抗して歩む、志とその陰にひそむさまざまな人間的なひだを含み込んだ「間接話法」的な力の姿である。
(石川九楊著『書とはどういう芸術か』)

唐様の「売り家」という文字に、三代目の心のありようとファミリーヒストリーが滲んで見える。

レオナルド・ダ・ヴィンチに寄り道

別に行き詰まっているわけではなく、ひらめかないわけでもない。構想の下書きもできているし、素材もほぼ揃っている。しかし、いま取り掛かっている仕事はここから先、道なりで進められそうな気がしない。予期せぬ紆余曲折に巻き込まれるなら、自ら早めに寄り道しておくのも一案ではないか。と言うわけで、水羊羹欲しさに和菓子屋に立ち寄るのを我慢して、視座を変えるためにレオナルド・ダ・ヴィンチに寄り道することにした。

困った時のレオナルド・ダ・ヴィンチというわけではない。ただ、何かしらうまくいかない時は、かつてよく目を通した本やノートに辿り着くことが多い。勝手をよく知っているので、寄り道しても迷うことなく戻って来れる。問題は長居をしてしまうことかもしれない。さて、本棚から引っ張り出したのは『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記(上) 』。上下巻だが、読みやすいヒントは上巻に集中している。

慣れ親しんだ箴言を飛び石づたいしていると、以前メモしたり暗記したりしたことばの箇所で立ち止まる。今日は翻訳文の古めかしさがやけに気になったので、自分なりに書き換えてみた。


鉄が使われずして錆び、水が腐り、または寒中で凍るように、才能も用いなければ損なわれる。

才能は、この天才のように決して突出したものとはかぎらない。たとえば、ふつうに仕事することも生活することも才能ではないか。それをそのままにしない。とにかく日々知恵を使い、できれば更新する。こうしているかぎり、少なくとも錆びたり腐ったりするのを遅らせることができそうだ。この才能をさらに伸ばす方法については、レオナルド・ダ・ヴィンチは言及していない。残念である。

よく過ごした一日が安らかな眠りを与えるように、よく過ごした一生は安らかな死を与える。

頑張った、結果も出た、充実した一日だった。その一日の終わりに安らかな眠りがいつも保証はされないが、少なくとも夕食時から床に就くまでの気分は何物にも換えがたい。一日と一生を同じようにさらっと扱いさらっと語る。「死」を与えると言われているのに、迂闊にもほっとしている自分がいる。

権威を引いて論じる者は才能を用いているのではなく、ただ記憶を用いているにすぎない。

独力で論じなさい、自らの力で切り拓きなさいということ。いたずらに先人の業績に頼るべからず。権威の言うことをいくら覚えても記憶の勉強にしかすぎない。簡単にコピペできるようになったIT時代の勉強や評論への五百年前の警鐘である。ところで、ぼくはいま、レオナルド・ダ・ヴィンチという「権威」を引用している。才能を用いていないことが少々気恥ずかしいので、このへんで終わることにする。


ところで、なぜわざわざフルネームでレオナルド・ダ・ヴィンチと何度も繰り返して書いたのか。若い頃、世間同様にダ・ヴィンチと呼んでいた。しかし、ある時あることを知った。ダ・ヴィンチ(Da Vinci)とは「ヴィンチ村出身の」という意味。これが姓なので、そう呼んでまったく問題はないが、イタリアではそう呼ばず、むしろレオナルド(Leonardo)を通称としている。とは言っても、面識もないので、親しげにレオナルドと呼び捨てにしづらく、以来、レオナルド・ダ・ヴィンチと言ったり書いたりしている。