抜き書き録〈テーマ:色彩〉

📖 『クレー ART BOX ――線と色彩――(日本パウル・クレー協会 編)

「ぼくは手を休める。ぼくのなかで奥深く、優しくわきおこる思いがある。ぼくはそれを感じる。苦労もなく自信に満ちあふれた何かを。色彩がぼくをとらえたのだ。ぼくの方から追いかける必要もない。色彩がいつでもぼくをとらえるだろう。これが幸福と言うものだ。色彩とぼくはひとつになった。ぼくは絵描きなのだ。」

ある日のパウル・クレーの日記の一部である。クレーの名が付く展覧会には数回足を運び、美術評論家が評する線と色彩に見惚れたものだ。クレーは「色彩と線の魔術師」と称される。色彩を理論的に学ぶことは可能だが、センスの有無は決定的である。センスとは何かを語ることはできないが、「色彩と自分がひとつになる」という感覚なのだろう。

📖 『色彩――色材の文化史』(フランソワ・ドラマール/ベルナール・ギノー 著)

「古くから使われている色材は、しばしば時とともに名前を変えている。」

色彩の名はややこしい。色材由来のものもあれば風土文化にちなんで命名されることもある。色材を見たままに名付けた「アズルム」(青)という名が、近世以降は「ウルトラマリンブルー」とか「ラピスラズリ」と呼ばれるようになった。ウルトラマリンは和名で「群青ぐんじょう」、ラピスラズリの和名は「瑠璃るり」。両者はまったく同じではないし、それぞれの色も印刷やディスプレイによって微妙に異なって見える。「イエローオーカー」という色の和名は「黄土色」であるが、ことばでは表現しづらい色味の違いが感じられる。

📖 『色彩のアルケオロジー』(小町谷朝生 著)

「上代のことばからもっとも色彩の性質を表していることばを選べと言われたならば、私はためらいなく“にほひ”を採るだろう。にほひが、色彩作用の本質をもっともよく表していることばと考えるからである。」

著者は『万葉集』から大伴家持の次の一首を紹介する。

春のその くれなゐにほふ桃の花 下照したてる道にで立つをとめ

においと色が重なり、花が香って光景が絵のように見えてくる。赤ワインを香りと色で味わう様子を思い出す。赤ワインは熟成が進むにつれ、紫→オレンジ、ルビー→ガーネット→レンガ色に変化する。これら色彩とアロマは別物ではなく一体である。

抜き書き録〈テーマ:本の話〉

📖 『書物の喜劇』(ラート=ヴェーグ・イシュトヴァーン)

本が読者の前にお目見えするにあたっては、上流階級のご婦人方が舞踏会に出かけるときのようにお化粧というものが必要である。身繕いは前書きに始まるが、これは、執筆の動機を読者に知らしめんとする著者の洗顔に他ならない。装丁は衣装(……) そして挿絵はアクセサリーである。とうてい手の届かぬ一流品から安っぽいまがい物まで、玉と石とが混淆している。

前書きから始まる身繕みづくろいが「洗顔」とは……ちょっとピンと来ないが、前書きにはお出掛け時の化粧や衣装や気取りを感じることがある。本文がとっつきやすい文章なのに、前書きだけが肩肘張っている本もある。出版のことをよく知るようになって、本一冊を演出することの手間暇を痛感する。執筆し発行する人たちは大真面目なのだが、作るプロセスで数々の喜劇を演じざるをえないシーンが浮かぶ。

📖 『書物の敵』(ウイリアム・ブレイズ)

働き者の虫がいて、
極上の本も駄目にする。
隅から隅まで穴だらけ。
どんなページも喰いすすみ、
本の価値などお構いなし。
(J・ドラストンからの一節)

働き者の虫とは「紙魚しみ」のこと。本の中や近くではなく、枕元で2度、トイレで1度目撃したことがある。銀色で動きは素早い。ティッシュを覆いかぶせて摑もうとしてもスルリと逃げる。この本では書物の敵として他に火、水、ガス・熱気、埃、無知……が挙がっている。水に濡らしてしまったことはあるが、これまでのところ本が紙魚にやられた経験はない。

📖 『読書の首都パリ』(宮下志朗)

パリのセーヌ右岸には、今でもかなりアーケード商店街が残っている。フランス語ではパサージュと呼ばれる(……) 全盛期のパサージュには、どこでも必ずといっていいほど「読書クラブ」が店を構えていた(……) 読書クラブ(キャビネ・ド・レクチュール)などと気取っているが、要するにていのいい貸本屋(ルウール・ド・リーヴル)のことだ。

貸本屋どころか、ちょっとした図書館のような、数万冊の蔵書を誇る読書クラブもあったようだ。贅を尽くしたサロンや講堂も備えていたクラブなどは社交場だったに違いない。この規模には到底及ばないが、わが読書室“Spin_off”にも数千冊の蔵書があるが、残念ながら、来年4月末に閉じることになった。蔵書と読書の場を維持する苦労を痛感する。

抜き書き録〈テーマ:象徴・表象〉

前回(20251016日)の抜き書き録のテーマは「辞書を読む」。その続編として今回は「辞書を見る」のつもりで、何冊か手に取って読んだが、どれもしっくりこない。興味深く読めた1冊が『シンボル・イメージ小事典』(ジェイナ・ガライ著/中村凪子訳)。3つの「象徴・表象」を取り上げる。

📖 バラ

「バラはヴィーナスの花であり、歓喜、勝利、完全を象徴する(……)花言葉ではバラの花冠かかんは美と報われた美徳を表わす。」

熱っぽく情熱をささやくのが赤いバラ。鳥にたとえるなら鷹とされた。一方、白いバラは鳩のようにそっと愛をささやく。先日訪れた中之島バラ園のバラはしおれていたが、それは美のうつろいやすさの象徴らしい。

古代ギリシアやローマでは、招かれた先のテーブルにバラの花が吊り下げてあれば、そこで話されたことは他言無用を意味した。つまり、他所で他人に話すな、秘密を漏らすなというサインだった。

📖 熊

「太古の時代から、熊は粗暴で残忍なものすべてを象徴していたようである。七万年ほど昔、ほかに捕えやすい獲物は多かったはずだし、非常な危険をともなったにもかかわらず、ネアンデルタール人はすでに熊狩りをしていた。」

『アイヌモシリ』というドキュメンタリー映画の中で、神聖な動物である熊が生贄の儀式に供されていた。北米インディアンやシベリアのオロチョン族でも儀式のための熊狩りがおこなわれていた。

最近、熊のニュースがない日はない。函わなに閉じ込められた熊は獰猛で暴れ狂う。実際の熊はかわいいぬいぐるみの対極の存在である。

📖 卵

「雌鶏は、卵がつぎの卵を産むための道筋にすぎない」(サミュエル・バトラー)

「生命の根源を秘めた生命の種のように見える卵は、事実、生命の種のようなものであり、それゆえに、動物界のみならず、宇宙全体の再生の象徴とされる。」

世界は、創造主が生んだ卵から生まれ、世界の形も卵の形をしていると信じられていた時代があった。卵は、目玉焼きやゆで卵、卵かけご飯として食べる単なる食材以上の存在として、神や神話世界と結びつけられていたのである。

抜き書き録〈テーマ:辞書を読む〉

辞書は調べるものだが、若い頃、読みたい本が手元にない時に辞書を読むことがあった。「あ」から読むのではなく、適当にページを繰って拾い読みした。最近も仕事の合間の手持ちぶさたの時間に辞書を時々読む。

📖 『用例でわかる 四字熟語辞典』(学習研究社)

【大器小用(たいきしょうよう)
才能ある人物につまらない仕事をさせること。人材を使いこなせないことのたとえ。

開けたページで一番最初に目についたのが上記の熟語。あまり見慣れないし聞き慣れないが、組織の人事の常である。この熟語の次に控えるのがおなじみの【大器晩成】。偉大な人物は往々にして遅れて頭角を現すとされているが、晩成組の大器はむしろ稀で、実際は早熟組に大器が多いような気がする。

📖  『岩波 いろはカルタ辞典』(時田昌瑞

【落書名筆なし(らくがきにめいひつなし)
いたずらに書いたものに、達筆なものはないということ。

字のかなり下手くそな落書の例

これがカルタ遊びに出てくるとは、昔に興じた者らの教養のレベルの高さがうかがえる。カルタにしては真面目で本気が過ぎるとも言えるが、「早起きは三文の得」や「犬も歩けば棒にあたる」などのわかりやすいものが例外で、カルタには難解な諺や格言がかなり多い。この諺、人気がなくなったせいか、戦後に作られたカルタには一例しかないそうである。

📖 『あいまい語辞典』(芳賀綏・佐々木瑞枝・門倉正美

【ちゃんと】
「入学式くらい、ちゃんとした服装で行きなさい」
「あなたの付き合っている人、ちゃんとした人なの? 何だか心配だわ」
「ちゃんとした生活をしていれば、こんなことにはならなかったのに」
これらの文章でいわれている「ちゃんと」とはどういうことだろうか。

この後に「ちゃんと」を説明する文章が続くが、その正体ははっきりしない。まあ、そこのところは読者がそれなりになんとなくわかってあげるしかない。論理明解であることにこだわらないからこそあいまい語が存在する。

社長「ちゃんと連絡はしただろうな?」
社員「はい、しておきました」
社長「オーケー、ありがとう」

連絡の有無とちゃんとの程度が期待通りでないことは、たいてい翌日になってからわかる。

読書――あらすじ、感想、抜き書き

世界文学全集を読破するのはハードルが高い。そう感じる読者のためにあらすじだけを紹介する本が編まれることがある。一冊に数十冊の本のあらすじを詰め込んである。正直なところ、作品のあらすじだけを読むことの意味がわからない。

たとえば『源氏物語』のあらすじを読むとする。はたしてそれは『源氏物語』を読んだことになるのか? 源氏物語の原作を読んだ人とあらすじだけを読んだ人が同じ読書会で書評を交わし合えるのか? 原作あってこそのあらすじである。誰かが書いたあらすじは、作品から切り離された別の作品ではないか。

では、解説書や読書指南書はどうか? ウィトゲンシュタインの難解な哲学書『論理哲学論考』の解説書『「論理哲学論考」を読む』を読めば原作が理解しやすくなるか? 原作を翻訳したのも解説本を書いたのも論理学者であり哲学者でもある野矢茂樹。『「論理哲学論考」を読む』の冒頭、著者は次のように言う。

『「論理哲学論考」を読む』という本を読んでも、『論理哲学論考』を読んだことにはならない。当然のことである。

そう言いながらも、本書を読むことが原作を読むという体験になることを著者は期待している。ぼくはと言えば、先にウィトゲンシュタインの本を野矢とは別の翻訳で読み、その後に野矢の翻訳を読み、最後に『「論理哲学論考」を読む』を読んだ。あらすじや解説書を読むなら、原作の後でなければならないと思う。

読書感想文であらすじだけを書く人がいるが、小中学校の宿題ならともかく、一般の読書家がSNSに投稿する読書感想文はあまり参考にならない。あらすじにも感想にも「ふーん」と反応するしかない。そもそもあらすじとは「粗筋」。原作のストーリーをうまくまとめたとしても、粗っぽい筋しかわからないのだ。読書感想文は本人のためにはなるが、他人には刺激的ではない。

もうずいぶん前から読後感想をまとめるのではなく、さわりやハイライトを抜き書きするようにしてきた(このブログでの投稿も書評会でもそうしてきた)。そもそも本全体の感想を述べても具体的な何かが残ることはない。抜き書きと自分の経験や別のエピソードを関連付けて、その当該箇所について評したり論じたりするほうが読書価値が高まる。

読書の専門家に抜き書きなど役に立たないと主張する人も少なくない。若い頃は抜き書きしなかったが、抜き書きするようになって後日の思い起こしがしやすくなった。本のどのくだりの記述に感心したか――あるいは異論を唱えたか。あらすじや感想に加工する前に、まずは原文を抜き書きして一言書き添える。それが読書の証であり体験である。

抜き書き録〈テーマ:魚と米〉

📖 『さかな異名抄』(内田恵太郎 著)

ウナギの養殖は海から来る幼魚を池で育てるのだ。日本ウナギの産卵場所はまだ不明。日本ウナギの分布南限は台湾は海南島辺で、それ以南にはいない。

最近では産卵場所はマリアナ諸島ではないかという説もある。ところで、中国産のウナギは日本ウナギの幼魚を育てたものだと知って以来、懐にやさしい中国産を買い、専門家のレシピをあれこれと試行錯誤して調理している。これで十分なので、ここ数年、鰻は年に一度程度しか外食しない。

昨日の昼も、冷凍していたウナギの蒲焼でうな重を作った。中国産の蒲焼に少し手間をかけ、う巻きを焼いて添えれば、そこそこおいしく出来上がる。しかし、ウナギだけのポテンシャルでは不十分。ウナギにはほどよい硬さのご飯を合わせる必要がある。

📖 『魚味礼讃』(関谷文吉 著)

うな重とうな丼に硬めのご飯なら、寿司のシャリもやわらかいよりも硬めがいい。手や箸でつかんでシャリ玉が崩れたり割れたりすると台無しである。では、どんな米がいいか?

すしがうまいかまずいかという基準は、本能的にシャリの良否に結びつくようです。(……)米は当然名の通った米どころのものがよく、純白で透明な光沢があり、小粒でまるみのある乾燥のきいたもの、粒のそろった重みのあるものを選びます。しかも、シャリは新米ではなく、古米でないといけません。

「新米ではなく古米」に驚く向きもあるに違いない。シャリは硬めに炊き上げる。それを握るから、つまんで口に放り込むまではしっかりしている。しかし、噛むとシャリの粒が崩れて食感が心地よい。新米だと粘るのでネタと調和しない。古米しか手に入らないと嘆く前に、古米をすし飯にしてちらしや手巻きを食べるのはどうだろう。

📖 『魚料理のサイエンス』(成瀬宇平 著)

今日の昼は赤魚の塩焼き定食だった。米に合うかどうかと言えば、微妙。隣りの客が注文したのは鯖の味噌煮定食。身をほぐしてご飯をかき込んでいた。鯖は米と相性がいい。

鯖の棒ずしやバッテラは若狭湾やその近海で獲れた鯖を原料としたのが最初である。(……)棒ずしは塩鯖を塩抜きしてから酢じめする。バッテラは生の鯖を酢じめする。両方に共通しているのは、しめ鯖の上に白板昆布をのせることだ。昆布をのせることにより、昆布の旨味のグルタミン酸がしめ鯖のほうに移行する。

グルタミン酸の旨味を含んだ鯖が酢めしとよく合う。臭みもあり鮮度維持が難しい鯖が昆布と酢と一体となって絶品に変化する。棒ずしとバッテラの話には化学成分の名がいろいろ出てくる。魚料理はサイエンスだと納得する。

函入り上製本を手に取る

昨日、「いつもの古書店」に寄った。以前は頻繁に、そして大量に買い込んでいたが、本棚が飽和状態になっているため最近は買い控えをしている。ひいきにして大枚をはたいてきた古本屋はついに冷やかす場所になった。

店頭にぎっしりと並べられた中に『旅人』という、文庫サイズの詩集を見つけた。初耳の詩人/歌人の有本芳水ほうすい。拾い読みした。表現の奇をてらわず、場面に素直に感応して素直にすっと入って来るうたを綴っている。薄っぺらな文庫本だから、まあいいか。買うことにした。50円。申し訳なく思う値付けである。

古本屋では150円や100円の文庫本が売られ、新品時は高価だったはずの単行本ですら10500円で平積みされるセールもある。単行本は場所を取るし携行して読むのも不便だが、持ってけ泥棒のような値が付けられた掘出し物をよく買ったものだ。

上記の6冊などはどれもはこ入りの上製本。読了した本もあれば、拾い読みしたまま放置している本もある。まったく開きもせずに本棚に置いたままの本もある。ただし、買ったままで読んでいない本でも、何度か手に取ることがある。装丁を楽しむためだ。

古本屋で売られている函入りの本には、函がかなり劣化したものと新品同様のものがある。前者はよく読まれた本であり、後者は贅を尽くして装丁したもののあまり売れず、新古本として並んでいる本である(さもなければ、売りさばいた人がとても丁寧に扱っていた)。

函入りの本を頻繁に手に取って函から本を引っ張り出していると、本も函の角も傷む。本の蒐集マニアは何度も何度も本を函から出したりしない。ぼくは蒐集マニアではないので、古本屋で買った函入り上製本をさほど丁寧に扱わないが、大半の図書館のように購入時に函を捨てたりはしない。

本は立ち読みするもの、買うか買わないか逡巡するもの、買って読むもの、買って本棚に入れるもの、途中で読むのをやめるもの、まったく読まずに放置するもの。忘れていけないのは、本はデザイン商品だということ。装丁もカバーも函も本を構成する要素なのである。

抜き書き録〈テーマ:夏、暑、食〉

今年は5月から6月半ばまでが例年に比べて過ごしやすかった。その分、7月の時候が身に堪える。「暑い暑い」と言わずに、黙ってスタミナ食を補給するように努めている。

本ブログで題名に夏を含む記事をどれだけ書いたかを調べてみた。季節の夏と関係のない『ふと夏目漱石』を除いて9題あった。

『「日」と「者」の夏』  『秋が来て夏が終わる』  『なつと夏』  『夏の終わりの……』  『夏はやっぱりカレー?』  『夏は豚肉料理』  『夏のレビュー』  『夏の歳時記』  『夏の忍耐、昔の3倍』

ざっと本棚を見たところ、題名に夏が入っている本は見当たらない。空いた時間に歳時記の本と食の本をいろいろと繰ってみた。

📖 『歳時記百話 今を生きる』(高橋睦郎 著)

「暑」という見出しのページがある。夏は暑いという実感は昔から変わらない。夏と関連する季語として「暑さ」「大暑たいしょ」「極暑ごくしょ」「溽暑じょくしょ」「炎暑えんしょ」を列挙して、著者は3つの句を示す。

なんとけふの暑さはと石のちりを吹く   鬼貴
石も木もまなこに光る暑さかな   去来
青雲あおぐもに底の知れざる暑さかな   浪化

ありとあらゆる感覚が刺激される様子が伝わってくる。熱を帯びているように見えるせいか、それとも単純に刷り込みのせいか、暑という文字には疲弊させられる。暑中見舞の葉書が激減して、文字を見る機会が少なくなったのがせめてもの救い。

📖 『考える舌と情熱的胃袋』(山本益博 著)

毎年、土用のうしの日ともなると、うなぎ屋に行列が出来る。ところが、この時期の鰻は、けっしてうまいものではないのだが、「夏バテ防止に」なんて鰻屋の口グルマに乗せられて、真夏に蒲焼ということになってしまっている。

その土用の丑の日、今年は明日(719日)だそうである。土用の丑は江戸時代からPRされてきた。鰻自体が夏バテしておいしくない夏は蒲焼が売れなかったのだ。この商魂が今も続いていて、丑の日にこだわって鰻重に大枚をはたく人たちが少なくない。

巷では1尾千円程度の安い中国産の蒲焼をおいしく仕上げる方法が紹介されている。簡単に書くと、熱湯をかけて水分を拭き取り、蒸し焼きにしてからタレを塗る。以上。これで安上がりで国産並みの自家製の鰻重が完成する。明日ありつけるようにと祈るわけではないが、鰻のビフォー・アフターを描いてみた。

抜き書き録〈テーマ:辞典/絵典/事典〉

📖 『笑死小辞典』(フィリップ・エラクレス/リオネル・シュルザノスキー編;河盛好蔵訳)

この書をやがて死すべきあらゆる人びとに捧げるのを編者たちは幸福とする。

上記は本書の「序にかえて」の一文。この本を深刻に読むべきではないことを暗示している。世界の文学者たちは死について真面目に考えて名言を残し、かつ――それだけでは息が詰まるので――死を軽やかに取り扱っておもしろおかしく冗談っぽく迷言・・も書いた。

「今年死ぬ者は来年は死なずに済む」(ウィリアム・シェイクスピア)
「人は一度しか死なない。しかも永久にだ」(モリエール)
「私はできるだけ遅く、若いままで死にたい」(マルセル・プレヴォ―)
「僕は執行猶予付きの死刑に賛成だ」(ピエール・ダック)

最後の文、「執行猶予付きの死刑」とは死に帰結する人生のことを指している。

📖 『世界の椅子絵典』(光藤俊夫著)

これぞ「究極の心地よさ」と言える椅子を一度も所有したことがない。自分の体躯と気分にぴったり合う完璧な椅子ははたしてあるのだろうか。本書には目移りするほど斬新な椅子のイラストが収録されているが、サグラダファミリアでおなじみのアントニ・ガウディの手になる二人掛けの椅子が図抜けてユニークだ。

実はバルセロナのミラ邸でこの椅子に腰掛けたことがある。ガウディは「直線は人のものであり、曲線は神のもの」と言った。そのことば通りの曲線であり、座する者と葛藤しない座り心地だった。何よりも二人掛けに二人で座るのではなく、隣席を空けて一人で座るのがいい。新幹線で隣席が空いている時のあの気分の良さと同じである。

📖 『現代無用物事典』(朝日ジャーナル編)

平成元年発行の本である。時代が35年も経てば、当時の何もかもが今となっては無用だろうと思いきや、案外そうではない。

駅のアナウンス
どうする。不快97パーセントの親切過保護!

乗り換え情報も次の駅名も、要るか要らないかの二者択一なら要らない。外国ではアナウンスが流れない駅のほうが圧倒的に多い。それ以上に要らないのは車内アナウンスだ。始発駅を出てから3駅目までずっとアナウンスが続く電車がある。電車移動中にはアナウンスを聞くよりもしたいことがいろいろあるものだ。

書店のブックカバー
個性はあるがムダなのだ。十二単衣ひとえじゃあるまいし、本も暑くてかなわない。

えらく愉快そうに無用論を唱えるが、これは勇み足ではないか。ぼくは気にしないが、買った新品の本が汚れるのを嫌がる人もいる。電車内で読めば対面の人に書名が見える。それも気にする人がいる。ブックカバーくらいあってもいいではないか。実際、レジ袋が有料になったため、ブックカバーを所望する人が増えたようだ。ブックカバーは無料である。

抜き書き録〈テーマ:絵画〉

芸術の季節と言えば、通り相場は「芸術の秋」だが、たとえば「美術の春」があっても不思議ではない。春にどこかに出掛けて風景を眺めたり街中でたまたま展覧会の前を通り過ぎたりする時、美術の春を想う。春に目に入ってくる対象は明るい水彩画のモチーフになる。

ゴールデンウィークは近場に出掛けてよく歩いたが、どこの美術館も要予約。行き当たりばったりでは入館できない。と言うわけで、絵画に関する本で美術不足を補った。もっぱら鑑賞側の愛好家だが、久しぶりに絵筆をとってみようという気になっている。


🖌 読書画録どくしょがろく(安野光雅)

いわゆる画家が、自分を芸術家だと信ずるために、看板絵などを軽く見ることのすくなくなかったそんな時代に、場末の風俗や、安花火や、果物屋の店頭に、時代に先んじて美しさを発見し、
――つまりはの重さなんだな――
といわしめる一の檸檬を絵にしたのである。

画家である安野は梶井基次郎の小説『檸檬』を読んで、この作品を絵だと思ったと言う。小説の読後の感覚と絵画鑑賞の感覚に同等の感動を覚えたのだ。本書の表紙は安野自ら描いた京都三条と麩屋町ふやちょうの交差するところ。すぐ近くに丸善があった。当時、『檸檬』を読んでその余韻を求めてやって来た人が多かったはずと安野は思う。

🖌 『絵はだれでも描ける』(谷川晃一)

(……)上手な絵だけが絵画ではないし、上手ということがそのまま見る者を感動させるとはかぎらない。むしろ上手に描くことによって真の魂の創造的表現力が失われることもめずらしくないのである。
ここでいう「創造的」とは何か。(……)「創造美術教育」のリーダー的存在であった久保貞次郎は(……)創造的である作品の特徴を次のように分類している。
1、概念的でない。
2、確固として自信にあふれている。
3、生き生きとして躍動的。
4、新鮮、自由。
5、迫力があるか、または幸福な感情にあふれている。

上手でなくても絵の好きな児童が描く創造的な絵はおおむね上記の5つの特徴を満たしている。他人に認められるモチーフや技を過剰に意識し始めると条件からズレてくる。モチーフについては次の一冊が参考になる。

🖌 『千住博の美術の授業  絵を描く悦び』(千住博)

画家の場合、モチーフとの出合いは一生を左右します。だから私は、モチーフは自分で得たものではなくて、「与えられたもの」だと思うのです。従って、少し描いて飽きた、とか、一枚描いたらもう繰り返し描かない、などというのではなく、何枚でも何枚でも描くのです。

イタリアのボローニャに旅した折り、市庁舎内でジョルジョ・モランディの常設作品展をじっくりと見た。モランディは主に卓上静物というテーマに生涯取り組み、同じような作品を次から次へと生み出した。しかも晩年はボローニャから外には出ずアトリエに閉じこもって創作を続けた。どれも似たり寄ったりで、あまり好みの筆遣いではなかったが、記念に101セットの絵はがきを買った。買った当時よりも今のほうが気に入っている。モチーフに憑りつかれてこそ生まれる画風の個性なのだろうか。