抜き書き録〈テーマ:つもり〉

📖 『悪の引用句辞典』(鹿島 茂)

……「できると思っていたこと」と「実際にできたこと」の巨大な落差に絶望的にならざるを得なかった……

人は安易に「できると目論み、できると広言する」。言うこととできることの埋まらない距離を何度も経験しながら、また同じことを繰り返す。面倒なことをするものだ。「わかっていることや語ること」と「おこなうこと」を同じにしてしまえばいいだけの話。有言実行や知合合一のほうがうんと楽なのに。

📖 『サピエンス全史 (下)』(ユヴァル・ノア・ハラリ)

近代科学は「私たちは知らない」という意味の“ignoramus”というラテン語の戒めに基づいている。近代科学は、私たちがすべてを知っているわけではないという前提に立つ。

では、「私たちは知っている」と確信・・している場合はどうか。それは今知っているということであるから、将来、新しい事実が確信を覆すことがありうる。近代科学は基本的には異議申し立てによって成り立っており、知識の誤りを指摘し指摘されることを前提としている。今知っていることは、やがては「知っているつもりだった」と振り返ることになる。

📖 『知っているつもり  無知の科学』(スティーブン・スローマン/フィリップ・ファーンバック)

……私たちは自分の知識を過大評価する。つまり自分で思っているより無知なのだ。

「ファスナーはどのような仕組みで動くのか、できるだけ詳細に説明せよ」と言われて、説明しようとしているうちに、思っているほどわかっていなことを知る。日常的によく接しているものについてほとんど知らないのである。自転車もそんな一つ。本書の表紙の帯には次の図と文がある。


絵の巧拙は別として、正答率50%とは、みんな想像以上に「知っている」と感心。しかし、苦し紛れに適当な絵を描くと、「ボーっと生きてんじゃねーよ!」とチコちゃんに叱られることになる。「あまり自転車に乗らない」とか「自転車を持っていない」とか言い訳するのは見苦しい。実際に何度も見て記憶してきたはずのイメージは、チェーンやペダルということばに比べて曖昧だということがわかる。

抜き書き録〈テーマ:芸術の元気〉

ある一冊の本を昨日オフィスで探したが、書棚のどこにもない。以前にもこんなことがあった。誰かが持ち帰ったのかもしれないと性悪説的に推理し、しかし、いつか返しにくるだろうと性善説的に考えようとした。かれこれ45年になるが、その本はまだ見当たらない。昨日探そうとした本も見つからなかったが、しっかり探す前に棟方志功の本に再会してしまった。これは10年以上前に読んで読書会で取り上げた一冊だ。

📖  『わだばゴッホになる』(棟方志功)

わたくしは、五十年も板画をやっていますが、摺るのが大切です。黒々に摺ればいいというものではない。印刷ではないのだから。人間の魂が紙に乗り移らなければ、摺るとはいえないのです。板画は呼吸しているのだから、墨の密度の中に息づかいがないとだめなのです。妙(白)と黛(黒)の呼吸なのです。わたくしはそれを板画の命伏いのちぶせと言っています。

棟方志功は、一般的な「版画」とは書かずに、敢えて「板画・・」と書く。野性的な手触りと彫りの強さが文字から伝わってくる。もう四半世紀になると思うが、たまたま出張先で開催中の棟方志功展に足を運んだ。体調はかんばしくなかったが、会場を後にしてから心身の調子が変わった。とても不思議な感覚だった。

棟方の代表作の一つが『釈迦十大弟子』。1955年にサンパウロ国際美術展で最高賞、ベニス・ビエンナーレで世界版画最優秀賞を受賞した作品。十人弟子が題材だが、文殊と普賢を配して十二の像を「六曲一双ろっきょくいっそう」*の屏風に仕立てている。

*屏風が六つの画面でできているので「六曲」(屏風は六曲が多い)。「そう」は二作の絵図がペアで作品になる。六曲一双とは、六曲の屏風が二点で一組を構成しているという意味。

この釈迦十大弟子には、偶然と言って済ませられない奇跡的なエピソードがある。構図などの作意は一切なく、棟方はただ一心不乱に彫った。そして、出来上がってから気がつけば、六人が右を向き、残りの六人が左を向いている。衣の具合も彫った顔立ちや姿勢も想像の賜物だったが、後日辞典にあたってみると、そこに紹介されている仏像に恐ろしいほどまでにそっくりなのであった。

抜き書き録〈テーマ:ありよう〉

📖 『禅語録』抄録版

握ればこぶし、開けばてのひら

握ると怒りになり、開くと心が通じる。指と掌の形によって意味が反対になる。グー、チョキ、パーと役割が変化するのも同じ。同じ指と掌なのに勝ったり負けたり引き分けたりの結果が生まれる。

水は方円の器に随う。水は器という対象に応じて形を変える。ものの本質は一定した不変のものではない。視座によってものは違って見える。実は、違って見えるのはものの本質ではなく、見る者の心の、精神の、ことばのありようを反映する。

📖 『ゲーテ格言集』

当為とういと意欲があるが、能力がない。
当為と能力があるが、意欲がない。
意欲と能力があるが、当為がない。

㊟ 当為はドイツ語のSollenゾルレンの訳。「なすべきこと」(時に「あるべきこと」)という意味に近い。自分が持つテーマ/生きがいと考えればいい。

なすべきことを成す気は満々だが、残念ながらそんな能力がない。なすべきことを成す能力があるが、一丁やってやろうという気分ではない。やる気も能力も十分にあるが、成すべきことが何かを知らない。人が何事かを成すには、当為と意欲と能力の3点セットが欠かせないわけだが、3つに分けているあいだはうまくいかないような気がする。

📖 『ここにないもの 新哲学対話』(野矢茂樹著)

「何かをことばで言い表わすと、そこには何か言い表わしきれないもどかしさみたいなものがつきまとうことがある」
「そのもどかしさっていうのは、そこまでことばで言い表わしたからこそ、姿を現したものなわけだ」

特別な工夫も努力もしていないのに、何かを思いついたり、その思いつきをことばで言い表わせたりすることがある。「ラッキー!」などと言って喜ぶが、実は、そんな単純なものではない。何もしていなかったら、何も現れてきたりしないのだ。自覚はないのかもしれないが、どこかで苦心していたはずである。今のありようが別のありように転じたことを偶然などと思ってはいけない。「わからないこと」が「わかる」ようになるのは、考えることとことばにすることのもどかしさを越えたからである。

古本よもやま話

古道具や古着や古本には、かつて売られた定価よりも高値がついているものがある。手に入りにくくて希少であり、それを欲しがる人が多ければ高額になる。古物市場では〈需要>供給〉なら値段が上がり、〈供給>需要〉なら値段が下がる。後者の、値段が下がる場合にいいものが稀にあり、それを「掘出し物」と呼ぶ。

古本屋で手に入れたい本が見つかれば――見つからなくても同じジャンルでよさそうなものがあれば――たいてい買うようにしている。あまり迷わない。基本500円以下の安いものをいろいろ漁っているうちに掘出し物に出合う。稀覯本きこうぼん蒐集マニアではないので、高値のついているものはよほど欲しくてもめったに買わない。

夏目漱石の『心』『道草』『明暗』の3冊セットの復刻版(函入り)を岩波書店が創業70周年事業として41年前に発行した。これを見つけて買ったのがたぶん20年位前で、定価のない非売品である。文字通りpricelessプライスレスだが、古本屋がつけた値段プライス500円。この数字が高いか安いかは判断不能。価値のほどは読者が実感すればいい。


十代半ばから本は自分の小遣いで買うようになった。図書館で本を借りたのは小学生の頃までだ。十代の頃は古本を買わなかったし、古本を遠ざけていた。古書店で売られている本はどれも瑕疵や汚れがあって不潔そうだった。赤インクか血液かわからないような滲みのあるページを触った後に、その手で菓子はつまみづらかった。

比較的新品に近いと思って買ったものの、ページを繰ると意味不明な書き込みや傍線を見つけることがある。この本の前の読者が目を付けた「重点箇所」が刷り込まれるようで嫌だった。今では普通に古本を買うが、なるべくそういうシルシのないものを選ぶようにしている。新品同様の古本でも誰かが売り誰かが読んだはずだから、古本を読めば誰か知らない他人の指紋をなぞっていることになる。以前ほど神経質にはならない。


ずいぶん前に『芭蕉全句集』の単行本を300円で手に入れた。昭和51年(1976年)3月発行の初版本で、発売当時の値段は1,200円。作句年代順に配列され、一句ずつ丁寧な注釈が付いている。今は角川ソフィア文庫から現代語訳付きで出ているが、初版の単行本サイズの雰囲気には及ばない。よく精査して偽作や誤伝を除くと、芭蕉の生涯の句は976だそうである。固有名詞や季語さえわかればスイスイと読める。

ところで、先月頂戴した大島幸男氏の第一句集『雪解』に収められた作品は384。芭蕉の作品の約4割だが、芭蕉全句集の数倍以上の時間を費やして一巡目の味読(分析?)を終えた。秀句も多いが、風流な語彙と異文化に攻められて苦戦した。この半月は記録的によく辞書を引いたと思う。今日から二巡目に入ったが、慣れのせいか心持ち軽く感じている。

抜き書き録〈テーマ:文房具〉

回りに文房具嫌いはいない。それどころか、必要もないのに過剰に買う人ばかりである。ぼくもそんな一人。人生を数回繰り返せるほどの筆記具やノートを所有して今に至る。それを反省して、最近は高価な道具に目をくれず、100円ショップで手に入るブロックメモやクリップケースや付箋紙を買う程度。文房具について書かれた本は時々引っ張り出して読む。

銀行や生保の職員と会う機会が減りメモ用紙が手に入らなくなった。クラフト紙を300枚とか400枚束ねたブロックメモを使う。これが100円とはありがたい。

📖 『文房具の研究――万年筆と鉛筆』(中公文庫編集部編)

「入学祝いにもらった一本の万年筆は、大人になった証しだった。金色の華奢なペン先が、深遠な知的世界への扉を開ける小さな鍵のように見えた。万年筆とのこんな出合をした人は多かったと思う。あれからずいぶんたって何本もの万年筆を手にしてきたけれど、気に入りのこの一本を探しあてた人はどれほどいるだろうか。」

ぼくの所有する万年筆は今手元にあるだけで10本は下らない。まずまず気に入って時々使うのが3本ある。すでに廃業した加藤製作所の1本は書きやすく手になじむが、少しペン先が太い。高価なモンブランは握りやすいがペン先がやや硬い。決して短所ではないが、ちょっと気になる。こんなふうに、万年筆は持ち主を超理想主義者にしてしまう。

📖 『文房具を買いに』(片岡義男)

「リーガル・パッドの白と黄色をそれぞれ数冊ずつ直射光のなかに置き、重ねたりずらしてみたりして、表情を引き出そうとした。リーガル・パッドをめぐるさまざまな思いが頭のなかに少しでも渦巻いたなら、それこそがリーガル・パッドの表情だ、と言うような言いかたは成立するだろうか。」

リーガル・パッドによく似た日本製のカバー付きのパッドをそのメーカーの営業マンにもらった。何年も使わずにいたが、今年に入ってから買ったり飲んだりしたワインの記録用に使っている。特に理由はないが、左へページをめくるノートと違って、レポート用紙のようにタテに上方へめくっていると、評価者気分になる。

📖 『紳士の文房具』(板坂元)

著者はアンティークはもとより、高級な小道具や紳士の作法の造詣が深い。ちょっと庶民感覚とかけ離れた貴族趣味的なところもあるが、正真正銘のホンモノの本格派だ。

「(……)ふと現代のビジネス・エグゼクティブはハサミを使わなくなったのではないかという疑問が生まれてきた。」

豪勢な社長室のデスクにはありとあらゆる高価なステーショナリーがあるのに、ハサミが見当たらない、と著者は言う。最近のビジネスマンはどうなのか。ハサミをあまり使わなくなったのか。ぼくはハサミをよく使うので自宅には大小様々7丁か8丁、オフィスでも2丁ある。万年筆にはアンティーク価値があるが、ハサミの真骨頂は実用的使いやすさにある。そのくせ、切れ味の悪いハサミを使っている人が多い。包丁を研ぐのだから、ハサミも研げばいい。研げばいいと言うのは簡単だが、扱いにくく研ぎにくい。

抜き書き録〈テーマ:プチ哲学〉

言語と表現のテーマ探しの依頼があり、いろいろ自前でネタを出している。一息ついて、ヒントのヒントくらいになりそうな本を何冊か引っ張り出して再読中。


📖 意味

意味は存在するものではなく、生成するもの(……) 意味は、客観的に存在していたものとして捕まえられるのではなく、不意を突いてわたしの世界に到来する。わたしが意味を見出すまでは、意味はどこにもなかったのに、見出したあとでは、それによってわたしの過去までも変えられてしまうほどである。
(船木亨『メルロ=ポンティ入門」)

「意味」は難しい用語である。「意味の意味」はさらに難解を極める。「意味がある・・」とよく言うけれど、意味は事態や術語や行為などに元々内在していない。内在していないから、事態や術語や行為などに意味を見出す(正確に言えば、「意味を付与する」)。ゆえに、意味は生成するものなのである。

買ったまま昨日まで積まれていた数冊の本のうち、一冊の本を手に取って適当なページの数行を読んでみて、「ちょっとおもしろそうだ」と自分を促そうとしたその時その場で意味が付与される。意味が生まれるかどうかは自分次第なのだから、意味を見出さない誰かさんにとってはその本は無用なのである。

📖 言語

「机」という言葉は、この世界にある、数えきれないたくさんの机を意味している。けれども、「机」の意味を理解するのに、そんなにたくさんの「机」を見る必要はない。私たちは有限個の、それも、ごくわずかの机を見るだけで十分なのだ。
(橋爪大三郎『はじめての言語ゲーム」)

世の中には様々なサイズとデザインと素材でできた机が存在する。机の専門家はおそらく世界のすべての机を見たり触れたりはしていない。机についてすべてを枚挙するいとまはない。しかし彼らは机を深く理解し、机を語り、机を創作することができる。有限個がいくつかは具体的に言えないけれど、いくつかの机によってすべての机に共通する特性を理解する能力が人には備わっている。

赤ん坊は語彙ゼロの状態から語彙を習得し、言語を理解し操るようになる。こうした「一を聞いて十を知る」特殊能力によって人は省エネ的に言語を習得し、言語のお陰で何もかも実際に体験しなくても理解力を身につける。

📖 論理

言葉と言葉の関係をつかむこと、それが論理的ということであるから、接続詞に代表される接続表現、すなわち言葉と言葉をつなぐ言葉は、論理によってひときわだいじなものとなる。
(野矢茂樹『哲学な日々――考えさせない時代に抗して』)

単語であれ文章であれ、一語または一文だけで成り立つ場合はそこに論理はない。たとえば、「雨」「桜」には論理はない。しかし、「雨の中、桜が咲き誇っている」と言えば、状況描写がおこなわれ、また「雨が降っても桜まつりは開催される」と言えば、情報が伝達される。この一文と別の一文をどうつなぐか。そのつなぎ方によってメッセージの中身も伝わり方も変わる。たとえば、「雨が降っても桜まつりは開催されるので、購入した前売りチケットの払い戻しはない」という具合。これは「AなのでB」という、論理のある文章である。接続詞の使い方を見れば、人の考え方や論理力の程度がわかることがある。

抜き書き録〈テーマ:料理〉

週末にシニアの食事に関するコラムの第一稿を書いた。統計データを少し参照した程度で、参考図書のない書き下ろしである。書き終えた後に、本棚に目配りして食事と料理の本を取り出して拾い読み。参考図書を読んで書くのは面倒だが、書いてから読むのは気楽だ。


📖 『イスタンブールの目』(新藤悦子)

中国料理、フランス料理、そしてトルコ料理が世界3大料理ということになっている。トルコ料理を賞味したことがない日本人なら「トルコ料理? 日本料理だろ!」と異を唱えかねない。ぼくは、トルコ料理は3度くらいしか食べていないし名前を覚えているのはシシケバブだけ。よく知らないからこそ異を唱えるのは控える。さて、そのシシケバブ。

「夫がいて子どもがいて、海があって静けさがあって、暖炉でシシケバブを焼く冬の夜がある。

情景が浮かんでくる。シシケバブが男の担当する野趣あふれる料理だと知って、この一文の意味が深くなる。「♪ おいでイスタンブール」などと口ずさむことなく、東西文明の十字路トルコを想う。

📖 食悦奇譚しょくえつきたん――東西味の五千年』(塚田孝雄)

節度ある食生活の重要性を説いた江戸期の儒学者、貝原益軒。『養生訓』では肉食を慎めと説教しているのに、本人はイノシシ、豚、鶏などの肉グルメだった。医者の不養生に通じるライフスタイルだ。

「節制しながらも老いてなお、益軒の食い意地は衰えなかったようである。晩年の『忘備録』には“うまいものリスト”が細かく書き込まれている。」

うまいものを貪るのは健康的ではないという見方は今も根強いが、肉への偏見はかなり薄れてきた。益軒が今の時代に養生訓を垂れたら、内容はかなり変わっているはずである。

📖 『パスタ万歳!」(マルコ・モリナーリ編/菅野麻子訳)

ある作家の話――。マリリン・モンローの自宅にいた時、「ね、パスタでも作りましょうよ」とマリリンが言い出した。アメリカ人の作るパスタなんてまずいに違いないと作家は直感したが、食べて驚いた。彼女の作ったパスタはアルデンテの絶品だったのである。

「私の一番最初の旦那がイタリア人だったの知ってたかしら。ジョー・ディマジオよ。イタリア人の夫が世界一だとはとても言いがたいけど、少なくともおいしいパスタの作り方ぐらいは教えてくれるわね。」

ジョー・ディマジオはシチリア出身のイタリア系移民の息子で、ヤンキースに所属した一流のメジャーリーガー。それはともかく、パスタ料理はソースづくりも含めておおむね簡単なのに、茹で方と塩加減、火加減と和え方で出来映えとうまさに差が出る。レシピで料理を作るよりもプロの調理の動画を見るほうがいいことをYouTubeに学び、ぼくの作るパスタは各段においしくなった。まずはパスタを茹でる深い大鍋が必需品である。

さて、もう1冊、ヨーロッパワインをテーマにした美食の本を読んだが、専門的すぎた。ここに軽やかに抜き書きできる内容ではない。またの機会に取り上げることにする。

抜き書き録〈テーマ:都市〉

題名に「都市」を含む本を本棚から取り出して拾い読みしている。拾い読みするにしても、何か取っ掛かりがないとキリがないので、知っている都市の話を拾ってみた。目を通したのはとりあえず4冊。


📖 『裏側からみた都市 生活史的に』(川添 登)

中世都市の裏側は、ルネサンスが象徴する人間復興や技術革新や生産増大の恩恵を受けていたのか……。普通に考えればそうだが、庶民の暮らしは置き去りになることが多い。

「シエナ市の条例によると、台所のくずを投げ出したり、窓から容器の中身、つまり汚水を捨てたりすることを、夕暮れから夜明けまでの間は禁止していた。ということは、昼間なら自由にできたということである。」

トスカーナ州の世界遺産の都市、シエナには二度佇んだ。州都のフィレンツェ繋がりで観光客も多い。ひどかった中世の街は今、窓枠やカーテンを取り換えるにも市の認可が必要だ。徹底した規制のお陰で、今のシエナでは、表も裏もなく、観光都市の条件である景観と清潔が保たれている。

📖 『都市の使い方』(粉川哲夫)

都市のいろんな使い方があるが、大阪の下町育ちのぼくには喫茶店とアーケードのある商店街が印象的な記憶だ。ぼくの記憶とぴったりと重なるような一節が書かれている。

「大阪の梅田の街をうろついているうちに、コーヒーがのみたくなって曽根崎のある喫茶店に入った。二階の窓側の席に腰を下ろすと、アーケードに通じる街路が見おろせる。」

378年前の午前11時頃の光景らしいが、買物をする女性が意外に多いと著者は感じたと言う。平日の午前11頃に曽根崎界隈を歩けるのは限られた人たちだ。大都会になった今の梅田には、時間が止まったまま昭和の余韻に浸らせるエリアがまだ残っている。

📖 『都市計画の世界史』(日端康雄)

「フィレンツェ、ヴェネツィア、ローマ、ロンバルディアの上流階級の一族たちは、彼らの都市を飾りたて、メディチ家、ボルジヤ家およびスフォルツァ家は、古典的モティーフで飾りたてた新宮殿を自ら建設した。教会もこうした動きに一枚加わった。」

引用された都市にはルネサンスゆかりの建造物が現存している。くまなく見て回ると、156世紀の中世ルネサンス都市の繁栄には名門家系の経済力が不可欠だったことがわかる。都市計画にはお金がかかったのである。
同じ頃、わが国でも都市化が進んでいた。欧州が宗教色の強い都市だったのに対し、わが国では戦国武将の手になる、防衛力重視の城下町が発展した。まずまずの規模の現代の都市はみな、かつて複合的な機能を持つ城下町だったのである。

📖 『都市のエッセンス』(望月輝彦)

パリにも何度か行っているが、世紀末を嗅ぎ分けるだけの街歩きの経験はない。世紀末と言えばデカダンスだが、もちろんそれだけではない。

「一八八九年のパリ万国博覧会にエッフェル塔が誕生した。作者のエッフェルの造形意識の不在にもかかわらず、エッフェル塔は来たるべき二〇世紀の“技術美”を暗示するメルクマールとなった。」

19世紀末の都市では20世紀が「良き時代」になるだろうと予感させた。たしかに世紀末の爛熟らんじゅく頽廃たいはいは新世紀でも残り続けた。人々は豊かさと享楽に酔ったが、予期せぬ二度の世界大戦で都市は疲弊した。再生された現代の大都市に、行き先が定まらず物憂げにさまよっている幻影が見えることがある。

拾い読みと抜き書き〈2024年1月〉

わざわざ抜き書きするのだから賛意を表しているのだろうと、他人は思うらしい。そうとはかぎらない。賛意の場合もあるが、同意でもなく意を唱えるでもなく、よくわからないが、気になるので傍線を引くこともある。意見保留または感想放棄のままの抜き書きというところだ。今月はそんな3冊の本(3人の著者の本はそれぞれ10数冊、いや、それ以上本棚に並んでいる)。


📖 松岡正剛『切ない言葉』(「遊学の話」より)

一所から他所へ赴くのが「遊」の本義ならば、
一所にいて他所を徘徊するのもまた「遊び」である。

一所から他所へなら、たとえば「旅」がそうであり「引越し」や「転職」もそうだ。経験的にはたしかに「遊」だった。では、一所にいて他所を徘徊のほうはどうか。たとえば、今ここにいて他所を想像すれば遊び心が搔き立てられる。本業があって、それをベースにして、別の仕事をしてみるのも楽しい。

こんなふうにそのまま読めばいいのか、それとももう少し深読みするべきなのだろうか。この著者が書くのだから何か新しい「遊」なのだろうと期待するが、案外当たり前のことが書かれているのかもしれない。だからと言って、がっかりしているわけではないが……。

📖 中村雄二郎『人類知抄  百家言』(「ニーチェ」の項より)

毎日少なくとも一回、何か小さなことを断念しなければ、毎日は下手に使われ、翌日も駄目になるおそれがある。

ニーチェのこのことばは難解である。「神は死んだ」よりも難解だ。著者の説明を元に、抜き書きの前段と後段を加えて再掲してみると次のようになる。

小さな自制心が欠如すると、大きな自制心もついえてしまう。毎日少なくとも一回、何か小さなことを断念しなければ、毎日は下手に使われ、翌日も駄目になるおそれがある。自分自身の支配者となるよろこびを保持したければ、この体操は欠かせない。

体操とは「毎日一回、小さなことを断念すること」であり、自分自身の支配者とは「自分をコントロールすること」だろう。小さな欲望を捨てられないと、人生の大事な場面で自制心がかなくなる……だから、毎日小さな欲望を捨てて、日々を上手に生きよう……そうすれば、自分を統御でき幸せになれる……と読み替えたがはたしてそれでいいのか。とは言え、毎日少なくとも一回、何か小さなことを断念できるほど、いろんな欲望を持ち合わせているわけではない。断念したくても断念するネタが先に尽きる。

📖 池田晶子『あたりまえなことばかり』

老いるほどに人生は面白くなるという言い方は、確かに可能である。
肉体は衰える、知力も衰える、しかし、ひょっとしたら、魂が最も活発に活動するのはこの時期であるのかもしれない。
その歳まで、いったい何をしてきたのかといぶかりたくなるような老人は多い。おそらく、何もしてこなかった。摂食、生殖、快楽の追求以外は何もしてこなかった。刺激に反応し、反応したら忘れるといった動物的生存の日々、そのような人々は、したがって老いることを拒む。

社会から老い始めたと見られる自分や同輩に照らし合わせると、おおむねその通りだと言える。ただ、魂の定義次第だが、肉体と知力が衰えたら魂も不活発になりそうな気がする。もし魂を精神と言い換えるなら、精神は知力に支えられるのではないか。

老いることを拒んで強引な策を凝らすのが加齢と闘う「アンチエイジング」、老いるペースに応じて生きる工夫をするのが加齢と融和する「スローエイジング」。意地や見栄を張る前者よりも、老いを素直に認めてしまう後者のほうがうんと楽である。

抜き書き録〈2023年12月〉

今月の抜き書き録のテーマは「消える」。馴染んだものが消えそうになるのは耐え忍び難い。時代に合わなくなって使われずに消えるもの、もったいないとまでは言えないが消えると寂しく思うものなど、いろいろある。ものだけでなく、ことばが消えてなくなってもいくばくかの寂寞感を覚える。

📖 『わたしの「もったいない語」辞典』(中央公論新社編)

「もったいない」とは、本来あるべき姿がなくなってしまうことを惜しみ、嘆く気持ちを表した言葉。「今はあまり使われなくなって”もったいない”と思う言葉=もったいない語」(……)

本書の冒頭で上記のように書名の意味を告げ、次いで150人の著名人が一人一つの言葉を惜しんだり偲んだりして一文をしたためている。その中から川本皓嗣こうじ東京大学名誉教授の『黄昏――楽しみたい魅惑の時』を抜き書きする。

ヨーロッパにあって日本にないものの一つに、黄昏たそがれがある。ただし、夕方うす暗くなって、「かれ」(あれは何だろう)といぶかるような時間帯がないわけではない。日本にないのは黄昏を愛し、存分に楽しむという文化であり、これはまことに勿体もったいない。

いや、そんなことはないと異議を唱える向きもあるかもしれないが、ぼくは著者に同意する。フィレンツェやパリで黄昏時にそぞろ歩きして、同じ印象を受けた。

日本には黄昏ということばはある。しかし、人と黄昏の間には距離がありそうだ。「黄昏」という文字と「たそがれ」という発音から詩情を感じているだけで、自らが黄昏に溶け込んで楽しんでいるとは思えない。わが国の黄昏はロマンチストたちの概念の中にとどまっているのではないか。黄昏と言うだけで、黄昏に身を任せないのは「もったいない」。

📖 『イラストで見る昭和の消えた仕事図鑑』(澤宮優=著/平野恵理子=イラスト)

「消えた」であって、「消えそう」とか「消えつつある」ではない。したがって、本書に収録された仕事のうち、質屋、紙漉き職人、畳屋、駄菓子屋、チンドン屋、靴磨きは今も時々見かけるので消えていない。子どもの頃によく見かけたが、今は絶対に見かけないものの筆頭に「ロバのパン」を指名した。

ロバに荷車を引かせてパンを売る方法は、昭和六年に札幌で(……)石上寿夫が(……)営業したのが始まりだった。たまたま中国から贈られてきたロバをもらった石上は、愛くるしいロバにパンを運ばせると人気が出るのではないかと考え、移動販売を行った。

昭和30年の半ばまでロパのパン屋が大阪の下町の町内にやって来ていた。あの生き物がロパだと見極めたわけではないが、ロバと名乗っているのだからそう思った。しかし、次のくだりを読んであれがはたしてロバだったのか、怪しくなった。

昭和二十八年夏には(……)浜松市、京都市で馬(木曽馬)に荷車を引かせてパンを売るようになった。実際は馬に引かせているが、「ロバのパン」としてイメージされ人気を呼んだ。昭和三十年には『パン売りのロバさん』(後のロバパンの歌)というテーマソングが流れるようになる。

昭和28年や30年ですでにロバではなかったようだ。ぼくが町内に流れてくる歌を耳にして家を飛び出し、物珍しがったのはその数年後であるから、あの生き物はすでにウマだったのである。パンは生き残ったが、ロバは早々に消えた。そして、ロバからバトンを渡されたウマもとうの昔に消えているのである。