「調味」というテーマの本を読んだわけではない。仕事の合間に年明けからエッセイ集や詩歌集や軽いプチ哲学を読み、いつものように抜き書きしていたら、調味でつながった次第。
『こんがりパン おいしい文藝』
幸福そのものだ、と思う食べ物に、フレンチトーストがある。ミルクと卵にひたしたパンを、バターをとかしたフライパンで焦げバター色に焼き、焼きたてに砂糖をふって食べる。熱くて、ふわっとしていて、ところどころ香ばしく、心から甘い。
(「フレンチトースト」江國香織)
幸福そのものとまでは思わないが、たまに衝動的に作って食べる自家製のフレンチトーストはおいしい。著者が言う通り、香ばしくて甘いというおいしさだ。父はモーニングのトーストにグラニュー糖をまんべんなく上手にまぶして食べていた。甘いものを敬遠する人でもフレンチトーストだけはおいしいと思うはずである。
『ベスト・エッセイ2016』
居酒屋での会話。店員「焼き鳥はタレと塩とどちらになさいますか?」 友人A「…」、友人B「…」、私「…、じゃ、塩で」、友人A・B「塩で」。白状すれば、タレのほうが美味しいと私は思っている。けれども、店員にたずねられて即座に元気よく「タレ!」と返答するのが何となく気恥ずかしい。
(「タレと塩」松木武彦)
30代の頃によく通った焼き鳥店の店主も「皮はタレですか、塩ですか?」といちいち聞いてきた。しかし、もし一択なら焼き鳥はすべて、塩ではなく、タレがいい。最近、焼肉でも塩が通みたいになってしまったが、断然タレのほうがおいしい。肉に合うタレを調味してこそ焼肉店の面目躍如ではないか。何よりもタレで食べる焼肉はライスに合う。
『尾崎放哉句集』
煮凝や彷彿として物の味
暖かき灯にかざす新海苔の青さ
一つ目の句は五七五時代、二つ目は自由律以後の句。一句目の「煮凝」は視覚的で、ありありと想像するほどに固形物が視覚から味覚に変わる。にこごりはあまり強い匂いを放たないが、味はしっかりしている。
味付け海苔をよく食べた時期があった。しかし、新鮮な海苔なら醤油も甘みもいらない。先日アンコウ鍋の〆を雑炊にしたが、塩で味を調えずに、海苔を小さく割いて添えた。海苔の調味のワザは見事だった。
生卵こつくり呑んだ
これも放哉の句だが、生卵を割ってそのまま呑むなら余計な味付けはいらない。卵そのものがすでに味を調えてくれている。