本とのコミュニケーション


2月初めから4月末まで、蔵書の要・不要の長くて辛抱を要する選別作業が進行中。断捨離作業が滞るので、選別中は決して本を読まない。

「本とのコミュニケーション」と題して自分が何を書こうとしているかは承知しているが、書き始める前に遊び半分でAIに「本とのコミュニケーション」について尋ねてみたAIは次のように告げた。

単なる知識の吸収にとどまらず、著者や登場人物の感情を理解し、他者との新たな対話や共感を生み出す能動的な体験である。さらに、読書を通じて語彙力や洞察力を養うことで対人スキルが向上し、本を媒介にして読書会で共通の話題を楽しむ、現代のつながりのツールとして機能する。

「能動的な体験」はさすがだが、他はさほど目新しい話ではない。登場人物や読書会というのは一般論から外れている。AIコミュニケーションについてはほとんど語っていない。

何となく通じているように思い、何となく話のやりとりができているように錯覚しているから、安易に「飲みニケーション」などと言えてしまうのだろう。ちなみに、飲みニケーションという造語ができたのは半世紀も前である。コミュニケーションを人間関係の錆やきしみを改善する手段だと思ったら大間違いだ。

飲めば親交が深まることはあるかもしれない。しかし、それとコミュニケーションは別である。酔って話し合ったことは翌日には記憶から消え、酒はしこたま飲んだものの、つまみに何を食べたかはほとんど思い出せない。

コミュニケーションは会話や理解にとどまるものではない。読書において読者は著者に語りかけることはできない。著者の一方的なメッセージを読み取り読み解くのみ。読書とは、知識の吸収でも内容の理解でもなく、知識や内容の「意味」の共有なのである。本とのコミュニケーションとは、本が内包する様々な意味を読者が考えることにほかならない。

内容の難易はあるにしても、どんな本でも生半可な読み方では意味の領域まで達することはできない。生身の双方向の人間どうしなら知識やことばの意味を現在進行形で確認し合えるが、本の世界では著者はすでに書き終えている。その書かれたものの意味を汲み取るのは容易ではない。本とのコミュニケーション――すなわち読書――とは試練だと思う。

「本とのコミュニケーション」の到達点が硬派な結末になったが、読書人生を振り返れば、きつい読書ばかりで、愉しい読書は少なかったという印象である。

語句の断章(75)「見立て」

15年前のこと。当社のスタッフだったアメリカ人アルフレッド・ハフトの名をインターネットで見つけた。世界を視野に入れれば同姓同名の男性はいくらでもいるはず。しかし、さほど時間を要さずに、彼が大英博物館の日本担当学芸員であることを突き止めた。当社に勤務していたのは30年近く前だが、写真を見てすぐにわかったのである。

彼の著書に“Aesthetic Strategies of the Floating World”(「浮世の美的戦略」)という本がある。その副題がMitate, Yatsushi, and Fūryū in Early Modern Japanese Popular Culture”。研究テーマが「見立て、やつし、風流」だと知って彼らしいと思った。当社を離れてから、学者を目指して見立てを研究していたことに驚いた。

見立てとは判断や鑑定の意である。「そのネクタイ、センスがいいですね。ご自分で買われたのですか?」「いえいえ、妻の見立てですよ」というふうに使う。医者の見立てと言えば診断のことになる。

見立ては多義語で、「なぞらえる、仮定する、見なす」という意味もある。白洲しらすに岩を置いて島に見立てれば風流な趣の庭になる。一見無関係な2つの対象を並置すると、機知に富んだ新しい意味が生まれやすい。射撃訓練で実際の人を撃つわけにはいかない。そこで、立ち木を人に見立てるのである。

見立ての身近な例に盆景がある。凝り性の父は正月が近づいてくると盆の上に土、砂、石、苔、小さな盆栽を使って、風景や山水、庭園を写実的に縮小して創作していた。「Aを無関係なBになぞらえる」のは西洋のアナロジー(類比)に似ている。観察眼と遊び心に裏打ちされてこその見立てである。

映画で英語を勉強した頃

移転に向けてまだまだ断捨離が続く。パソコン時代のはるか前に手書きで綴った文章の量がおびただしい。ワープロ時代に入ってからもいろいろ書いたが、書いたことを忘れてしまっている。この先しばらく、そんな再発見の雑文に筆を入れて本ブログに転載しようと思う。


“Love Story”(邦題『ある愛のうた』)の中で使われた一つの単語を巡って19903月に書いた小文がある。

「ケア(care)」ということばはすっかり日本語として定着した。たとえば、「ケア・サービス」と言えば、英語を知らない人でも介護や家事サービスのことだとわかる。

日本語に外来語が増えつつあることには寛容だが、ある言語から別の言語に単語を移行する場合に、どうしても元のことばの厚みが削ぎ落とされてしまう。英語のcareには、①心配、気苦労、②世話、看護、保護、③注意、心遣い、④一時預かり、保管、⑤関心事、注意すべきこと、などの意味がある。

映画“Love Story”の中で使われた何気ない“I care.”という表現が印象に残っている。日本語の字幕は「愛してるわ」だった。「愛してる」は、日本人の愛情表現としては馴染みにくい。そもそも“love”が「愛している」で言い得ているとも思えない。さて、この映画では、ピアニストを目指すインテリな女性ジェニーと大富豪の御曹司オリバーが出会う。

貧しい移民の娘ジェニーは身分の違いを気にしてオリバーの誘いを警戒する。オリバーはジェニーに“You don’t care me!”(ぼくのこと、愛してないんだ!)と叫ぶ。世話、看護、保護というケア(care)が、この映画の一場面で使われると愛情表現寄りになる。英語圏の人たちは“I love you”を連発すると思いがちだが、“I care you”は親近感もあり頻度も高い。

日本語の「世話、看護、保護」という意味のケアと、愛していると翻訳される“love”の間に接点は見い出しにくい。前者は物質的現象と捉えられやすく、後者は多くの場合、男女間の恋愛感情と限定されがちだ。この映画の“care”には何かを大切に思う、押し付けがましくない優しさが感じられる。ケア・サービスという日本語もそんなニュアンスを漂わせるようになるはずである。

今と重なる15、6年前の事象

衆議院選挙の結果は世論調査やわが予測とほとんど同じであった。昨日の午後8時を過ぎると当選確実が続々打たれ、いくらかの誤差を見込んだとしても与党圧勝の結果が確定した。あらすじを知っているドラマを見ているようで、ワクワクしなかった。昼間の片付けで見つけた雑記帳や新聞の切り抜などを粗っぽくゴミ袋に入れて、早い時間に眠りについた。切り抜き1つとブログのコピー1枚だけ捨てずに取っておいた。

【事象①】
早く寝たので早く目覚め、昨夜捨てずに取っておいた新聞の切り抜きを眺めた。

それは20107月の参院選の比例代表の結果の切り抜きである。前年の衆院で勝利して政権交代した民主党だったが、翌年のこの参院選で大敗した。政権与党であることに変わりはなかったが、衆参で多数派が異なる「ねじれ国会」状態となった。

今回の選挙では、自民、維新、中道、国民民主、参政、みらい、共産、れいわ、ゆうこく連合、保守、社民の11党が競った。

2010年の参院はどうだったか。民主、自民、みんな、公明、共産、社民、たちあがれ、改革、国民新党、創新、女性、幸福が争った。今回よりも1党多い。国民新党は今の国民民主とは違う。創新は維新ではない。みんな、たちあがれ、改革、女性、幸福も今はもう存在しない。あ、そんな党があったなあという程度の反応しかない。

選挙があるたびに、与野党の党勢が変化し、そのつど二大政党への期待を膨らませるむきもあるが、この国の政治家は保守であれリベラルであれ発想は似たり寄ったり。大同小異の「小異」にこだわるから、常に多党化の現象が顕著になる。

【事象②】
もう1つ取っておいたのは、事象①の前年の20091月に書いたブログ『米国というジレンマ』のコピー。

米国に対してはやや失望気味のほうがジレンマに悩まずにすむことを学習した。世界には多様な価値観が存在する。大企業が苦戦するように大国も苦悩に喘ぐのである。警察官だって犯罪に手を染めるのである。正義も誤るのである。当たり前だ。

米国との関係性におけるジレンマにうろたえるよりも、そろそろ国家も個人も自分自身が直面している日本社会のジレンマを何とかすべきだろう。「欲望を強くすればやがて身を滅ぼす。また節度を守れば土足で踏みにじられる。欲望に走っても節度を守っても危うい生き方になってしまう」。さあ、どうする?

これから先の予言として読めなくもない。156年経って再びアメリカはジレンマに陥り、その様子を見て見ぬ振りをするような反応しかできない日本も相変わらずジレンマに苦しんでいる。さあ、どうなる? 無関心ではいられない。

取捨選択と向き合う

5月に今のオフィスを退去する。また、6月には自宅の引越しも控えている。年明けから毎日、仕事時間の約半分と自宅での約2時間を、モノ、書類、本の取捨選択に費やしている。所有物の要不要の判断だけなら楽勝だが、取り扱い注意の機密書類やデータが膨大で時間がかかる。手書きのものは、不要と判断した後もノスタルジーや執着が絡んできて逡巡する。

書類や企画書は当初シュレッダーだけで処分していたが、完了予定日から逆算すると間に合いそうにない。しかし、ある時点からスピードアップし始めた。機密情報は取引のある運送会社の書類溶解サービスを利用することにした。段ボール12,000円ほどするが、シュレッダーのような手間はない。年賀状や経理資料や企画書などを箱に詰めて引き渡せば済む。

問題は要不要判断中のノスタルジーとの闘いだ。残すか、捨てるかの岐路でそのつど手を止めていたが、ある日、残したいと強く思うものから潔く捨て始めることにした。高校時代から書き綴ってきた愛着のある日記や文章の類、写真アルバム、表彰状や通信簿の類、著書の下書き原稿、両親の形見などをすべて処分した。あれほど後生大事にしてきたものを捨てたのだから、他のものは推して知るべし。断捨離は加速した。

仕事関係や海外旅行の写真はiCloudに保存し、iPhoneiPadWindowsで同期・共有しバックアップ。紙の資料や講演・研修テキストはすべて廃棄した。未公開のアイデアノート数10冊はかさばるが保持する。書き写したりスキャンするほうが面倒だから。自宅には趣味の道具類がおびただしい。しかし、時間のできるこれからは出番が増えそうだから残す。

最後の最後まで悩み苦しみそうなのが、付き合いが一番長い本になるだろう。読んだ本は処分しやすいという考え方があるが、ぼくの場合は読んだ本の方が多く残り、未読の本ほど処分対象になりそうな気がする。数千冊の蔵書のうち、引っ越し先に移動するのは約500冊と決めている。これからの2ヵ月はかなり厳しい取捨選択に向き合うことになる。

処分対象になる本にもいいものがかなりあるし、他人には役に立つかもしれない。3月頃に友人知人に案内して希望者には無償で提供するつもりだ。

大がかりな断捨離を控えて、昨年暮れに「今後1年間は本と文房具は新たに買わない」と一大決心した。一方で処分しつつ、他方で買い足すのはナンセンスきわまりない。これからしばらくの間は、文具店を冷やかし本屋で立ち読みすることになりそうだ。