あ、アルフレッド!

昨日、『博士ちゃん新春スペシャル』を見た。ある分野にとびきり詳しい小中学生の博士ちゃんたちをクローズアップする番組だ。本物の博士と遜色ない専門性のすごさに驚かされる。知識もさることながら、言語能力が際立っている。

二人目の博士ちゃんは葛飾北斎を目指す14歳の少年。海外に流出したと伝えられる北斎の幻の作品を探し求める構成だ。オランダとイギリスを訪れて専門家の話を聞き、間近で実物の版画を見せてもらう。ぼくが思わず声を発したのは大英博物館での一シーンである。

「あ、アルフレッド!」

アルフレッドは30年前にライターとしてぼくの会社に勤めていた。起業してから国際広報の仕事が忙しく、常時2人の英文ライターがいた。当時は20代の半ばか後半だった彼の風貌はだいぶ変わっていた。しかし瞬時にわかった。アルフレッド・ハフト、大英博物館のアジア部日本セクションの学芸員。

なぜ瞬時にわかったか。実は、10年くらい前だったと思うが、これまで一緒に仕事をしてくれたアメリカ人ライターたちを検索してみたのだ。マイケル・・・、アダム・・・、リサ・・・ら、順番に検索したが、おびただしい同姓同名の人物が出てきて手も足も出なかった。ところが、同姓同名が少なくなかったものの、検索し始めてすぐにある一人のアルフレッド・ハフトにピンときた。

添えられた写真の面影と日本セクションの学芸員という肩書がヒントになった。そして、プロフィール文中にある“Mitate, yatsushi, furyu”(見立て、やつし、風流)が決め手になった。そんな話をしたことを思い出したのである。プロフィールの最後にメールアドレスがあり、「うちの会社にいたアルフレッドか、ぼくのことを覚えているか、元気にしているか……」というありきたりなメールを送った。

返事がきた。やっぱりあのアルフレッドだった。「日本で英文をたくさん書いた経験が今生きている。感謝している」と書いてくれていた。たしかあと一往復メールのやりとりをしたと思う。

あのメールから10年。江戸時代の日本独特の概念や作品の研究をしている旧知の博士と、葛飾北斎を追い求める少年博士ちゃんのツーショットはほほえましかった。アルフレッドの控えめで誠実な話しぶりは当時のままだった。元日の災害と翌日の事故で気分はかんばしくなかったが、いい番組が見れて少し気分が持ち直したような気がする。

碑の文字を読めたふりして峠道

奈良県生駒市と大阪府東大阪市の境にある暗峠くらがりとうげ。奈良街道まではまだ2キロメートル弱の地点で眼下に広がる大阪市を眺望した。高層ビル群が高密度に聳える様子がよくわかる。その向こうは大阪湾、そして神戸。

元禄七年(1694年)の五月、松尾芭蕉は江戸を立って郷里の伊賀に帰省した。同年の九月、伊賀を出て奈良に入り、暗峠を越えての道すがら一句を残した。これから向かう大阪の街も一望したに違いない。翌十月、芭蕉は花屋仁左衛門の宿の裏座敷で亡くなった。終焉の地は今の御堂筋界隈である。

大阪を見下ろした地点からすぐの所、峠道の脇に碑が建つ。最初の「菊の」と最後の「哉」は読めたが他がわからない。書家だった父は石に刻まれた崩し字をよく判別した。崩し字を自らも筆で書いていたから読めたのだ。書きもせずに読めると思うのは厚かましい。最近は碑のすぐそばに説明板がある。カンニングするから解読力もつかない。

菊のにくらがり登る節句かな

重陽ちょうようの節句、旧暦の99日に詠まれた一句。帰宅してから、明治二十二年(1889年)に俳句結社の有志が再建したものだと知った。野ざらしで約130年も経っていれば、石の碑面が劣化も進み判読しづらいのもやむをえないと自分を慰めた。

およそ100メートルほど下ったところに勧成院かんじょういんという寺がある。ちょっと覗いてみたら、狭い境内の端っこに短冊形状の句碑を見つけた。こっちは劣化がひどくて手も足も出ないが、最初の文字だけ菊と読めた。掃除をしていたボランティアの女性に尋ねたら、一枚の紙を取りに行って手渡してくれた。これも帰宅してから目を通した。

この句碑は、もと峠の街道筋にあったが、いつしか埋没、行方不明になっていたものが大正二年八月の大雨で出現、勧成院の境内に移し建てられた。

この一枚と先の説明板に目を通して碑のエピソードがようやくわかった。行方不明だった碑は寛政十一年(1799年)だから、峠の碑よりもさらに90年古く、傷みも激しい。碑面に彫られた句は峠の句と同じ。ところで、芭蕉は同じ日に別の一句の「菊の香」を詠んでいる。

菊の香や奈良には古き仏達

この句碑には出合わなかったが、出合っていても菊と奈良以外は読み解ける自信はない。

懐かしさと追想

夜も遅い帰り道、年恰好80歳前後の老人がふらふら状態で立っていた。酔っ払っていたのか気分が悪くなったのかわからないが、まもなく座り込んだ。急いで駆け付けた。「大丈夫、ありがとう」と言うが、どう見ても大丈夫ではない。家を尋ねたら「すぐそこ」と指を差す。そこは天ぷら料理の店。身体を支えて店先まで送った。

二男の体験談で、23年前に聞いた話である。二男と拙宅は近い。そしてその現場も徒歩圏内だ。だから店が老舗の天ぷら割烹「H」だとすぐにわかった。会社を創業してまもなくの頃、知り合いに連れて行ってもらい、その後何度か夜席にお邪魔したことがある。

その頃も今もオフィスは同じ場所。当時は大阪の郊外に住んでおり、オフィスからでも徒歩15分ほどの場所でも土地勘はまだあまりなかった。職住近接を考えて引っ越してきたのが17年前。自宅から「H」は67分という近さだが、店とは疎遠になって久しいし、二男から話を聞くまで思い出すこともなかった。

いや、この話を聞いた直後も「あ、以前行ったあの店か」という程度の反応で、久しぶりに行ってみようとは思わなかった。仕事がらみの接待でよく利用した店はほとんど廃業しているし、ひいきの飲食処のリストはそっくり更新している。

他にも理由がある。ここ何年か、天ぷらを食べに行こうとあまり思わなくなったこと。天ぷら割烹の夜席は一品ずつ揚げて出される。接待したりされたりの機会ならまだしも、プライベートでは少々面倒くさい。同じ揚げ物なら串カツのほうが気取らずに済む。

ところが、一昨日の土曜日の昼、久々に天丼か天ぷら定食を食べたくなったのである。日中は暑いので、なるべく近場という条件を付けたら必然「H」に辿り着いた。店内はスマートに改装されていた。そしてカウンター向こうにはすべての注文を一人で揚げる主人がいた。かつて通った時のあの主人であり、二男の話に登場したあの人物である。懐かしさを覚え断片的な追想が巡り始めた。接待相手のいない昼の天丼は一味違った。

わがBefore/After対照録

あるものを時間経過の中で見比べてみると、変化や違いがわかる。テレビ番組のタイトルでもおなじみの「ビフォー・アフター」。「劇的!」という修飾語が付くリフォームの番組。変化が劇的なら比較のやりがいがある。どんなサプリでダイエット効果が出たのか、どの化粧品でメイクが変わったのかなど、使用前と使用後は視覚的に対照するとよくわかる。

過去の思い出や記憶を振り返る時にもビフォーとアフターが対照されている。一般的にはビフォーが過去でアフターが現在であるが、ビフォーとアフターに過去と未来を、あるいは現在と未来を、それぞれ対置させる場合もある。さらには、過去の中に大過去と過去を対置させることもできる(たとえば中学生の自分と社会人になりたての自分)。今日をアフターとして、半世紀前も3年前も昨日もビフォーに見立てることができる。

昨夜、焼酎を一杯飲みながら、これまでの自分を振り返って、以前と現在をノートに書き出して比較してみた。『わがBefore/After対照録』と名づけることにする。


〈記憶〉には二つの機能がある。過去の物事を脳裏にとどめることと、とどめたことを随時再生できることである。顔と名前を結びつけてすぐに覚え、いつでも思い出せるのが記憶力。しかし、後年、顔は思い出せるが名前がなかなか出てこないというような状態に陥る。かつて10覚えて10思い出せた記憶力も、5以下しか思い出せないていたらくだ。

Before: 以前は誰であろうと、人の名も顔もよく覚え、よく思い出せたものだ。

After: 今は会ったり知ったりする時点で記憶装置にフィルターをかけている。元々覚えていないから、思い出しようがない。

〈イタリア料理〉と言えばパスタ。仔牛のカツレツやリゾット、フィレンツェ風Tボーンステーキやアクアパッツァなど、特徴ある他のイタリア料理には気の毒だが、パスタが目立ち過ぎた。

Before: 数年前まではパスタをよく外食し、自分でもよく作って食べたものである。おそらく週二のペース。さらにそれ以前にはイタリアに6度旅して「究極」と言えるパスタの皿を各地で食べ比べた。

After: パスタを食べつくした感が強く、今はせいぜい月一。ピザのほうが食べているかもしれない。一番よく食べているイタリア食材は生ハムだ。

〈散歩たまにタクシーには乗るが、車を運転しない(免許がない)。徒歩5分圏内にメトロの3路線の駅があるので不自由することはない。用事があれば歩く、メトロに乗る。用事がなくても歩く。これを散歩という。谷や丘や坂がつく地名の多いエリアを歩く。

Before: 先週の土日にかなり歩いた。無性に坂を上り下りしたくなり、「坂の上の散歩道」を選んで歩いた。

After: 週半ばの今日、隙間の時間に、坂の上ではなく、また歩くのでもなく、『舌の上の散歩道』という團伊玖磨のエッセイを読んでいる。

〈読書〉子どもの頃、自宅にほとんど本がなかったが、ワケあって幼稚園に通わなかったので、本を買ってもらって読んでいた。高校受験前までは小説一辺倒の読書少年であった。

Before: 一番よく本を読んだのは27歳~31歳の頃である。一日に3冊読むこともあった。5年間で2,000冊以上読んだはずである。

After: 本はせいぜい週に1冊完読し、あとは拾い読み程度である。その代わり、おびただしい数の本を手に入れる。読む本の10倍以上の本を買っている。言い換えれば、10冊買って1冊読むのである。かつての読書家は、本を買うのを楽しみとする「買書家」になった(資産として買っているのではないので「蔵書家」ではない)。

イチジクのノスタルジア

青果店でイチジクを見かけた。初物だったので、桃に比べて高値感が強く、渋々見送った。もうしばらくすると1キロ1,7002,000円で取引されるらしい。一つ平均60グラムなので、100120円見当ということになる。単純比較はできないが、200円の桃と100円のイチジクなら前者を選ぶ人が多くなるに違いない。

各種ドライフルーツを袋に詰め放題というコーナーがデパートの一角に出ることがある。イチジクとイチゴばかり詰めている人がいる。お得感があるのだろう。売られている乾燥イチジクのほとんどがトルコ産。トルコは生産量世界一を誇る。生食には向かないが、乾燥させたものはワインのつまみに合う。

もぎたての無花果いちじく甘し他所よその庭  粋眼

買わずに他家のものを黙って拝借するとうまさが増す。子どもがイチジクを盗んで補導されたなどという話は聞いたことがない。警察にイチジク事件簿はたぶんなかった。しかし、この一年、ハクビシンがイチジクを食い荒らし、新潟では人間がイチジクの盗みをはたらき、つい最近ではイチジクの木50本が収穫直前にへし折られた事件が報道された。


小学2年の夏、大阪の古い下町からわずか3.5キロメートル離れた別の下町に引っ越した。引っ越し先にはまだ田畑が残っており、耕作しなくなった土地が少しずつ住宅地として整備され始めていた。新築の家のすぐ隣りは田んぼで、ザリガニやタニシが棲息し、トンボもチョウも普通に飛んでいた。田んぼには水路があり、そこにイチジクの木が何本も植わっていたのである。

外で遊ぶとお腹が空く。暑い季節にはイチジクをもぎって食べた。イチジクの木は田んぼの所有者か誰かが昔に植えたのだろうが、イチジクの盗み食いをしても誰にも咎められなかった。理科好きならイチジクはどんな果実でなぜここにるのかと一考したかもしれないが、ぼくにはイチジクが甘くてうまいという単純な感覚以外に何も芽生えなかった。

イチジクはそのまま食べてもいいが、生ハムとメロンの組み合わせのように、何かと組み合わせるとそれもまた乙な味になる。煮たり焼いたりする肉料理にも合う。食材への尋常ならぬぼくの好奇心はイチジクにまつわるエピソードと無関係ではない。イチジクが桃に勝つのは難しいが、少なくともノスタルジア世界ではイチジクに一日の長がある。

十二ヵ月の「和名」

一月から十二月は数字を順に数えれば言える。それに比べれば、それぞれの月の旧暦の和名――睦月、如月、弥生、卯月、皐月、水無月、文月、葉月、長月、神無月、霜月、師走――を順に辿っていくのは容易ではない。語呂合わせで覚えたことがあるが、その語呂合わせを忘れてしまう。

知ってしまえばそれまでだが、いざ覚えようとすると一筋縄ではいかない。何度覚えても二、三年もするとうろ覚えになっている。トイレに貼っていた昨年のカレンダーが月を和名で併記していたので、ようやく完璧に再現できるようになった。繰り返し漢字を見、たまに声に出しているうちに、いろいろなことに気づいた。

月の字が付かないのが弥生やよひ師走しはす
月を「つき」と読むのが睦月むつき皐月さつき霜月しもつき
月を「づき」と読むのが卯月うづき文月ふみづき(ふづき)神無月かんなづき
月を「つき/づき」の両方で読めるのが水無月みなづき(つき)葉月はづき(つき)長月ながつき(づき)
月が付くのに「月」と読まないのが如月きさらぎ

なぜ旧暦にこのような名が付いたのか。故事事典でちょっと調べてみた。どの月も由来は諸説あって、ここに書き切れないほどだ。ただ弥生だけが「(草木)いよいよおい茂る月・・・・・・・・・」という由来説で一致しているそうだ。弥生は今なら四月上旬、暖かくなり始めるいい時期である。本居宣長は「月づきの名、みなわるし。ただやよひ・・・のみよし」と弥生をえこひいきしていた。悪いと言うなら代案を示すべきではなかったか。


年の初めが「む」で始まる睦月。語感がよくないとかねがね思っていた。しかし、よく字を見れば、「仲睦まじい」の睦ではないか。めでたい年明けに親しい者どうしが睦まじく交誼こうぎを結ぶにふさわしい和名ではある。

昨日の朝、一月を睦月と言い換えてみたら、見上げた空がどんよりと曇っているのに、決して不快に思わなかった。いや、むしろ気分は晴れやかだった。どういうわけなのだろうかと詮索しても「わけ」などあるはずがない。気分は目に見えるものとだけ連動しているのではないのだから。

曇っていて、好天の一昨日よりも重苦しく感じてもよかったはずなのに、とてもよい気分だった。気分の変化に決まり切った法則はない。その時次第というのが気分の気分たる所以である。もしかすると、ことばのふるき由来をたずねてみたりことばを言い換えてみたりするだけで免疫力が上がって気分がよくなるのかもしれない。

割れ、端っこ、切り落とし

時々、お菓子の町工場の裏門を懐かしく思い出す。カステラの端っこが店頭に並んでいる店の前を通り掛かる時に思い出し、精肉店で和牛の切り落としを買う時にも思い出す。割れものや端っこや切り落としの商売は昔からあり、今もなお健在だ。むしろ、安っぽさが消えて、かなり高級なイメージに仕上がっているものさえある。

幼少時に住んでいた下町にチョコレートの町工場があった。五円玉を握りしめて裏門へ行くと、すでに数人の子どもが並んでいる。たった5円で両手で包み切れないほどの割れたチョコレートを売ってくれたのである。新聞紙にくるんで手渡してくれた。微量のカカオと多量の砂糖を混ぜた駄菓子系チョコだったと思うが、それでも贅沢なおやつだった。

小学校二年時に引っ越した先にチョコレート工場はなかったが、その代わりにウエハース工場があった。ここも裏門へ行って作業しているおじさんに声を掛ければ、愛想よく応対してくれた。端っこを何枚も重ねたウエハース、時々規格外に大きいのやクリームを挟んだのが入っていた。圧倒的な量。たしか10円だった。


苦労人の祖母は生活がだいぶ良くなってからも、長年の習慣ゆえか、内職をしていた。近くに引っ越してきてからは、小学校高学年だったぼくに「小遣いあげるから手伝いにおいで」と声を掛けてくれた。その頃はおかきの内職だった。一斗缶にぎっしりおかきが入っている。そんな缶がいつも5つも6つも置いてあった。

小指ほどの大きさのおかきに海苔を巻けば磯巻きができる。少し湿らせた布巾に小さな海苔を一瞬触れさせすばやく巻く。おかきは一斗缶にぎっしり入っていて、時々割れたのが見つかるので口に放り込む。割れおかきは今もあちこちで見かけるし、ネットでも売られている。よく売れるので、最初から割っているというまことしやかな噂もある。

割れたおかきは割れていないおかきよりおいしく感じる。同じく、カステラの端っこはカステラ本体よりも絶対においしい。今はもうないが、オフィスの近くにあった鉄板焼きの店のランチの目玉は、黒毛和牛サーロインステーキの切り落としだった。みんなが注文するから切り落としがなくなる。そうすると、わざわざステーキを切るのだそうだ。たしかに切り落としはおいしいし、ステーキよりもライスによく合う。

一円で二つ買えた頃

テーブルで注文を取る喫茶店はテーブルにコーヒーを運んでくれる。昔の喫茶店はすべてこうだった。このスタイルの喫茶店のコーヒーは1400円~600円が相場のようである。半世紀前は100円~150円だった。隔世の感があるが、コーヒーの物価はあまり上がっていないとも言える。

大阪で「ぽんせんべい」と呼ばれる駄菓子(直径約11㎝)。

昭和30年代に入って間もない頃、まだ1円札が流通していた。1円札が1円玉に変わった「瞬間」をとてもよく覚えている。まだ小学校に上がる前だ。十円玉を一つもらって「ぽんせんべい」を買いに行った時のこと。

売っているのは近所の遊び仲間の家。自宅でぽんせいべいの製造卸をしていた。せんべいを焼く小さな装置があって、ばあちゃんと友達の母親が交代で内職として焼いていたのである。裏木戸につながっている小さな一室で、工場の雰囲気とは程遠かった。近所の子らはその裏木戸から入ってぽんせんべいを売ってもらう。105円。五十銭は流通していなかったが、概念としてはあったということだ。

105円なので、十円硬貨を出すとお釣りが5円。お釣りはふつう五円玉だが、稀に一円札5枚のこともあった。おばちゃんがぼくの手のひらに乗せたお釣りは、キラリと銀色に光る小さな5枚。その頃流通し始めた一円硬貨で、見るのも触るのもその時が初めて。家に帰って見せびらかしたのを覚えている。


1枚が50銭だが、五十銭硬貨が流通していないので、1枚だけ買うわけにはいかない。いや、奇数枚のぽんせんべいを買うことができなかった。ぼくの場合はいつも5円で10枚だった。わくわくしながら駄菓子を買う時に握りしめていた硬貨は、たいてい五円玉だったような気がする。

現在、スーパーに行けば「満月ぽん」という商標などで、小さなぽんせんべいが売られている。先日、あの頃と同じ大きさの懐かしいぽんせんべいを見つけた。醤油が香ばしい。自分が今もぽんせんべい好きだということがわかった。ところで、105円だったせんべいは10330円と、値段は66倍になっている。その上昇率はコーヒーの比ではない。幸いにして、自分の小遣いは物価上昇以上に順調に上がったので、今もぽんせんべいが買えるし、それよりも上等なせんべいも賞味することができる。ありがたい。

昭和家電の思い出

自宅に電気スタンドが二つある。どちらも省エネ対応製品ではない。二つのうち古いほうは、1987年会社創業時のお祝いに電化製品販売店の知人から贈られたもの。首と言うか胴体と言うか、くねくねと上下左右に曲げられるタイプ。当時としては新しかったのだろうか。

何年か前に「大阪くらしの今昔館」で昭和家電を一堂に集めた展示会を観た。家電メーカーの海外販促の仕事を手伝っていた関係で、松下電器(現パナソニック)とシャープの展示館は見学している。昭和家電はおもしろい。実際に使っていたので肌感覚がよみがえる。父親が新しい家電製品に飛びつくタイプだったので、たいていの製品でわが家は町内で一番乗りしていた。

その「今昔館」で買った図録『昭和レトロ家電』を眺める。数ある家電のうち、昭和30年代の白黒テレビ、洗濯機、トースターなどが特に懐かしい。電気冷蔵庫が発売されて重宝したが、その直前までは氷式冷蔵箱を使っていた。毎日氷屋が運んでくる氷を入れて冷やす。電気製品ではないから図録には載っていないが、今にして思えばあの冷蔵箱はレトロ中のレトロだった。


昭和31年、弟が生まれた直後に母親が商店街のガラポンで特賞の玉を出してみせた。景品は洗濯機だった。親族の誰かがリヤカーを借りてきて自宅に運んだ。手動の脱水ローラーがついた初期のものである。「わたしは引きが強い。あの子は運を持ってきた」と母親は自慢していた。

小学校4年の時だったと思うが、海外旅行できるほどの大きなトランクのような重量級の大物がやってきた。母の弟は当時松下電器に勤めていて、画期的な商品の一号機が出たと父親に伝えた。父親がパスするはずがない。何台売られたのか知らないが、かなりの希少品だったことは間違いない。

それは、オープンリール方式のテープレコーダーだった。わが家にやって来てしばらく、ただ声を吹き込んで、それを再生して喜んでいるだけだった。町内の人たちや友達がよくやって来て声を吹き込んでは、自分の声が変な声に聞こえたのでケラケラと笑っていた。ただそれだけ。

みんなが飽きかけた頃から父親が当時習っていた民謡の練習に使い始めた。その後は何年も埃をかぶったが、大学生になったぼくが英語の勉強に使うようになった。テレビの英語番組を録音したのだが、テレビとテープレコーダーを直接つなぐ機能がないので、テレビのスピーカーの前にマイクを置いて、声も音も出さずに録音していた。後で再生すると、英会話シーンの合間に「ご飯、できたよ~」という母親の声が入っていたりした。

昭和家電は微笑ましいノスタルジーだ。

寄贈本と思い出と

最近、故人の遺志により蔵書の一部、およそ200を寄贈していただいた。

初めての出会いは故人Y氏が47歳でぼくが35だった。当時ぼくは広報・販促の小さな会社のサラリーマン。Y氏は香川県に本社を置く大手企業の子会社の次長として親会社の広報を担われていた。ある企業を介しての縁だった。委託されたミッションは海外向けのアニュアルレポートの英文コピーライティングと編集である。

気性は穏やかとは思えず、時折り苛立って少々ぶっきらぼうなことば遣いをする人だった。初対面ではぼくが信頼できるかどうか品定めしている様子だった。実力の程を試すような質問が本題の会話の随所に投げ掛けられた。若かったので体をかわすようなことはせず、自然流に答えようと努めた。それが結果的に人間関係で吉と出た。任務は精度を落とさぬように慎重に執り行い、満足していただけた。

ぼくは翌年退職して起業した。「前の勤務先であの仕事を引き継げる人材はいない。今年もお願いしたい」と連絡があった。仕事の当てもなく起業したので、ありがたい話だった。以来、その案件以外に諸々の仕事を出していただき、お付き合いは十年以上になった。クライアントの都合や社会状況に応じて仕事の縁はやがて途切れるが、途切れてから――Y氏が現役を退かれてから――それまでの仕事関係をリセットして、新しい交際が始まった。


たまたま香川で別件の仕事が発生し、毎年赴くようになった。連絡しては前泊日の昼や夜に会うようになった。最初出会った頃にぼくを値踏みするような口調やまなざしはすでに消え、早口ではあるが穏やかに物語る人に変わっていた。年に一回、会って何を話していたのかと言うと、本と読書のことばかり。談義は3時間、4時間と続いた。「岡野さん、シェークスピアはおもしろいねぇ……」と切り出すと、もう止まらない。シェークスピア講座に通っている話、DVD全巻で観劇した印象、ある作品の名場面の精細な描写……

シェークスピアが終われば小林秀雄、その次はドストエフスキーという調子。もちろん、Y氏が話し手でぼくが聞き手という役割分担だけではない。ぼくも最近読了した本の書評をする。「よくいろんなものを読んでいるなあ。おぬしの知見には感心する」などと褒めてくださる。「いやいや、読んだふりですよ。Yさんほどには熱心な読書人ではありません」と応じる。謙遜ではなく、本心からそう思っていた。なにしろ手に入れた本は一冊残らず完読されていたのだから。ぼくのなまくら読みとは次元が違う。

定年を機に、ビジネス本やハウツー本をすべて処分し、小説や詩、思想や哲学にのめり込んで貪るように読んでおられた。ぼくの読書観がきっかけの一つになったとおっしゃったが過分のお褒めである。201712月、酸素吸入装置を引っ張ってホテルまで来られ、干物専門の居酒屋でほとんど箸をつけず、ちびちびワインを含みながら、本や近況の話を交わした。翌201812月の出張時は病状悪化で会うことはままならず。出張から帰った一週間後に訃報が届いた。

亡くなる3週間前に、力を振り絞ってしたためたような筆致の手紙をいただいた。

「書籍の寄贈の件、後日、ジャンルにとらわれずセレクトして、僅かですが贈りたいと思っております……ご厚情に感謝するとともに、今回の欠席、お詫びいたします……今後もご交際のほどよろしくお願いします」。

結局、その「今後」はなかった。

昨年12月、奥さまから連絡をいただいた。蔵書の寄贈のことが気になっていたが、一年間ぼんやりして何も手つかずだった、云々。まもなく一回忌というタイミングで自宅を訪問し、お言葉に甘えて読書談義に出てきた作者の本を選ばせていただいた。書棚五段分。オフィスの図書室で所蔵している。