EXPO ’70の記憶

開催中の“EXPO 2025”。自宅最寄りのメトロ駅から中央線で会場の夢洲ゆめしままで、乗り換えなしで所用時間20分と少し。かなり近い。周囲の知り合いで行ってきた人は今のところ56人。もっといるかもしれないが、わざわざ行ってきましたと言ってくる人はいない。「万博、行きましたか?」と聞かれることもない。

行くか行かないかはわからない。蒸し暑い中、混雑に飛び込んだり列に並んだりする気は起こらない。前の“EXPO ’70”を経験しているので、まあ行ってみるのも悪くないと思うが、いや、別に行かなくてもいいとも思う。悩みや迷いですらない。ただ何も考えていないと言うのが今の心境。

何年か前に昔の記念品を整理していたら、英語の勉強に使っていたノート群に紛れた万博の入場券が見つかった。行った回数は17回と覚えていた。入場券を調べてみた。青年券9枚、青年の夜間割引券6枚、大人券2枚……足して17枚。

(上段)青年券600円 (下段)青年夜間割引券300円
大人券800円

今となっては昔の話、昔の記憶。今回の万博入場券は、平日券が大人6,000円、中人3,500円(夜間券はそれぞれ3,700円、2,000円)。中人とは12歳~17歳で、18歳以上が大人扱いになっている。前回の万博では23歳以上が大人(800円)で、中人というのはなく、15歳~22歳が青年だった。大学1年だったので青年扱い、600円(夜間なら300円)で入場できた。映画料金と変わらない。

17回通って総額8,800円。うち大人券2枚は2度エスコートしたアメリカ人が払ってくれたので、自腹は7,200円。なぜそのアメリカ人はぼくに大人券を買ったのか。「大学生のきみが青年とはおかしい。立派な大人だ。だから大人券を買わせてくれ」と彼は言った。

外国人が珍しく、外国文化もさほど身近ではなかった。英語ができる人材には希少価値があったが、国内にいての学習は容易ではなかった。カセットテープが発売されたのが前年だったから、音声教材も高価で手に入りにくかった。1964年の東京五輪から6年経過、時代はまさに高度成長の盛り。大学ではESSに所属した。

万博会場でアルバイトをする先輩もいた。「いろんな英語を生で聴いて会話できるこんな機会はめったにない」と勧められた結果が万博入場17回だったのである。よくもそんなに行けたものだと呆れられたり小馬鹿にされたが、意に介さず、英語の独習修行を万博と自宅で半年間集中的に続けた。芸はたしかに身を助けてくれたように思う。

万博はかろうじて今も生き残る古いメディアの一つだと思うし、今後は大いに変容する宿命にあるはず。しかし、行きたい人は行き、つまらないと思う人は行かなければいい。ただそれだけのことだ。人にはそれぞれの思いや願望があるもので、他人が容易に窺えるものではない。

街暮らし―日常の記憶と記録

先週、街角の移り変わるシーンと題して書いた。その時から「街」を少々引きずっていて、街という文字を書名に使う本を取り出してはなまくらに読み、掲載されている写真があれば眺めている。たとえば下記の4冊。

『街頭の断想』
『街の記憶』
『街に煙突があった頃』
『街角の事物たち』

いろいろな街があり、様々な切り口――街頭、街角、街並み、街路など――の呼び名がある。街には日常がある。街はよく似たようなことを毎日繰り返す。日常には暮らしがあり、会話があり、事物があり、ついでに言えば、退屈とわずらわしさもある。

かつて非日常とされたイベントや催しなどの体験は、今ではほとんどが日常に取り込まれてしまっている。長く生きてきた市民たちは時代の変化に慌てふためくことが多々あるが、今時の若者らは街中で派生する非日常的現象に驚かされたり意表を突かれたりすることは滅多にない。

ところで、上記の『街角の事物たち』は歌人、小池光の著書だ。「時代のうねりの中に身をさらす歌人の日乗」と帯に記されている。えっ、日乗・・? 日常の間違いか? いや、そうではない。「日乗にちじょう」とは日記のことで、古い時代の表現だ。情報の多い街暮らしでは記憶に頼るだけでは心もとない。どんな些細なことでも忘れないように記録しておかねばならない。漫然と日々を過ごすだけでは、街暮らしは成り立たないのである。

たとえば、近くの橋から西方向を定点観測する。記憶だけでは30年前、10年前、5年前からどれだけ街が変貌したかを認識できない。写真2枚で比較すれば、今と5年前とでは高層建築の棟数と密度が圧倒的に違うことがわかる。記録は記憶再生を促してくれる。

周囲で日記をつけている人は少ない。メモを取っている人は時々見かけるが多数派ではない。たいした記憶力でもないのに、書き留めずにその場で覚えようとする。覚えようとしても、覚えていなかったことが後日わかる。人があまり記録しなくなったのは、筆記具と紙の出番が著しく少なくなったからだろう。

書く時間がなければ、街の写真を撮っておく。できれば一行キャプションを付記しておく。ところで、膨大な数の写真を振り返って気づくことがある。たとえば海外旅行の写真。文字情報がなければどの街角かわからない。しかし、レストランのファサードと食事した料理の写真があれば、極端に言うとその日の1日を思い起こすことができる。

料理の写真を撮るのは食い意地が張っているからではないし、SNSに投稿するためでもない。暮らしの記憶の確認として、日に3度の食事は記憶の扉を開く鍵の役目を果たしてくれている。自分の記憶容量の不足を写真で補っているのである。

あ、アルフレッド!

昨日、『博士ちゃん新春スペシャル』を見た。ある分野にとびきり詳しい小中学生の博士ちゃんたちをクローズアップする番組だ。本物の博士と遜色ない専門性のすごさに驚かされる。知識もさることながら、言語能力が際立っている。

二人目の博士ちゃんは葛飾北斎を目指す14歳の少年。海外に流出したと伝えられる北斎の幻の作品を探し求める構成だ。オランダとイギリスを訪れて専門家の話を聞き、間近で実物の版画を見せてもらう。ぼくが思わず声を発したのは大英博物館での一シーンである。

「あ、アルフレッド!」

アルフレッドは30年前にライターとしてぼくの会社に勤めていた。起業してから国際広報の仕事が忙しく、常時2人の英文ライターがいた。当時は20代の半ばか後半だった彼の風貌はだいぶ変わっていた。しかし瞬時にわかった。アルフレッド・ハフト、大英博物館のアジア部日本セクションの学芸員。

なぜ瞬時にわかったか。実は、10年くらい前だったと思うが、これまで一緒に仕事をしてくれたアメリカ人ライターたちを検索してみたのだ。マイケル・・・、アダム・・・、リサ・・・ら、順番に検索したが、おびただしい同姓同名の人物が出てきて手も足も出なかった。ところが、同姓同名が少なくなかったものの、検索し始めてすぐにある一人のアルフレッド・ハフトにピンときた。

添えられた写真の面影と日本セクションの学芸員という肩書がヒントになった。そして、プロフィール文中にある“Mitate, yatsushi, furyu”(見立て、やつし、風流)が決め手になった。そんな話をしたことを思い出したのである。プロフィールの最後にメールアドレスがあり、「うちの会社にいたアルフレッドか、ぼくのことを覚えているか、元気にしているか……」というありきたりなメールを送った。

返事がきた。やっぱりあのアルフレッドだった。「日本で英文をたくさん書いた経験が今生きている。感謝している」と書いてくれていた。たしかあと一往復メールのやりとりをしたと思う。

あのメールから10年。江戸時代の日本独特の概念や作品の研究をしている旧知の博士と、葛飾北斎を追い求める少年博士ちゃんのツーショットはほほえましかった。アルフレッドの控えめで誠実な話しぶりは当時のままだった。元日の災害と翌日の事故で気分はかんばしくなかったが、いい番組が見れて少し気分が持ち直したような気がする。

碑の文字を読めたふりして峠道

奈良県生駒市と大阪府東大阪市の境にある暗峠くらがりとうげ。奈良街道まではまだ2キロメートル弱の地点で眼下に広がる大阪市を眺望した。高層ビル群が高密度に聳える様子がよくわかる。その向こうは大阪湾、そして神戸。

元禄七年(1694年)の五月、松尾芭蕉は江戸を立って郷里の伊賀に帰省した。同年の九月、伊賀を出て奈良に入り、暗峠を越えての道すがら一句を残した。これから向かう大阪の街も一望したに違いない。翌十月、芭蕉は花屋仁左衛門の宿の裏座敷で亡くなった。終焉の地は今の御堂筋界隈である。

大阪を見下ろした地点からすぐの所、峠道の脇に碑が建つ。最初の「菊の」と最後の「哉」は読めたが他がわからない。書家だった父は石に刻まれた崩し字をよく判別した。崩し字を自らも筆で書いていたから読めたのだ。書きもせずに読めると思うのは厚かましい。最近は碑のすぐそばに説明板がある。カンニングするから解読力もつかない。

菊のにくらがり登る節句かな

重陽ちょうようの節句、旧暦の99日に詠まれた一句。帰宅してから、明治二十二年(1889年)に俳句結社の有志が再建したものだと知った。野ざらしで約130年も経っていれば、石の碑面が劣化も進み判読しづらいのもやむをえないと自分を慰めた。

およそ100メートルほど下ったところに勧成院かんじょういんという寺がある。ちょっと覗いてみたら、狭い境内の端っこに短冊形状の句碑を見つけた。こっちは劣化がひどくて手も足も出ないが、最初の文字だけ菊と読めた。掃除をしていたボランティアの女性に尋ねたら、一枚の紙を取りに行って手渡してくれた。これも帰宅してから目を通した。

この句碑は、もと峠の街道筋にあったが、いつしか埋没、行方不明になっていたものが大正二年八月の大雨で出現、勧成院の境内に移し建てられた。

この一枚と先の説明板に目を通して碑のエピソードがようやくわかった。行方不明だった碑は寛政十一年(1799年)だから、峠の碑よりもさらに90年古く、傷みも激しい。碑面に彫られた句は峠の句と同じ。ところで、芭蕉は同じ日に別の一句の「菊の香」を詠んでいる。

菊の香や奈良には古き仏達

この句碑には出合わなかったが、出合っていても菊と奈良以外は読み解ける自信はない。

懐かしさと追想

夜も遅い帰り道、年恰好80歳前後の老人がふらふら状態で立っていた。酔っ払っていたのか気分が悪くなったのかわからないが、まもなく座り込んだ。急いで駆け付けた。「大丈夫、ありがとう」と言うが、どう見ても大丈夫ではない。家を尋ねたら「すぐそこ」と指を差す。そこは天ぷら料理の店。身体を支えて店先まで送った。

二男の体験談で、23年前に聞いた話である。二男と拙宅は近い。そしてその現場も徒歩圏内だ。だから店が老舗の天ぷら割烹「H」だとすぐにわかった。会社を創業してまもなくの頃、知り合いに連れて行ってもらい、その後何度か夜席にお邪魔したことがある。

その頃も今もオフィスは同じ場所。当時は大阪の郊外に住んでおり、オフィスからでも徒歩15分ほどの場所でも土地勘はまだあまりなかった。職住近接を考えて引っ越してきたのが17年前。自宅から「H」は67分という近さだが、店とは疎遠になって久しいし、二男から話を聞くまで思い出すこともなかった。

いや、この話を聞いた直後も「あ、以前行ったあの店か」という程度の反応で、久しぶりに行ってみようとは思わなかった。仕事がらみの接待でよく利用した店はほとんど廃業しているし、ひいきの飲食処のリストはそっくり更新している。

他にも理由がある。ここ何年か、天ぷらを食べに行こうとあまり思わなくなったこと。天ぷら割烹の夜席は一品ずつ揚げて出される。接待したりされたりの機会ならまだしも、プライベートでは少々面倒くさい。同じ揚げ物なら串カツのほうが気取らずに済む。

ところが、一昨日の土曜日の昼、久々に天丼か天ぷら定食を食べたくなったのである。日中は暑いので、なるべく近場という条件を付けたら必然「H」に辿り着いた。店内はスマートに改装されていた。そしてカウンター向こうにはすべての注文を一人で揚げる主人がいた。かつて通った時のあの主人であり、二男の話に登場したあの人物である。懐かしさを覚え断片的な追想が巡り始めた。接待相手のいない昼の天丼は一味違った。

わがBefore/After対照録

あるものを時間経過の中で見比べてみると、変化や違いがわかる。テレビ番組のタイトルでもおなじみの「ビフォー・アフター」。「劇的!」という修飾語が付くリフォームの番組。変化が劇的なら比較のやりがいがある。どんなサプリでダイエット効果が出たのか、どの化粧品でメイクが変わったのかなど、使用前と使用後は視覚的に対照するとよくわかる。

過去の思い出や記憶を振り返る時にもビフォーとアフターが対照されている。一般的にはビフォーが過去でアフターが現在であるが、ビフォーとアフターに過去と未来を、あるいは現在と未来を、それぞれ対置させる場合もある。さらには、過去の中に大過去と過去を対置させることもできる(たとえば中学生の自分と社会人になりたての自分)。今日をアフターとして、半世紀前も3年前も昨日もビフォーに見立てることができる。

昨夜、焼酎を一杯飲みながら、これまでの自分を振り返って、以前と現在をノートに書き出して比較してみた。『わがBefore/After対照録』と名づけることにする。


〈記憶〉には二つの機能がある。過去の物事を脳裏にとどめることと、とどめたことを随時再生できることである。顔と名前を結びつけてすぐに覚え、いつでも思い出せるのが記憶力。しかし、後年、顔は思い出せるが名前がなかなか出てこないというような状態に陥る。かつて10覚えて10思い出せた記憶力も、5以下しか思い出せないていたらくだ。

Before: 以前は誰であろうと、人の名も顔もよく覚え、よく思い出せたものだ。

After: 今は会ったり知ったりする時点で記憶装置にフィルターをかけている。元々覚えていないから、思い出しようがない。

〈イタリア料理〉と言えばパスタ。仔牛のカツレツやリゾット、フィレンツェ風Tボーンステーキやアクアパッツァなど、特徴ある他のイタリア料理には気の毒だが、パスタが目立ち過ぎた。

Before: 数年前まではパスタをよく外食し、自分でもよく作って食べたものである。おそらく週二のペース。さらにそれ以前にはイタリアに6度旅して「究極」と言えるパスタの皿を各地で食べ比べた。

After: パスタを食べつくした感が強く、今はせいぜい月一。ピザのほうが食べているかもしれない。一番よく食べているイタリア食材は生ハムだ。

〈散歩たまにタクシーには乗るが、車を運転しない(免許がない)。徒歩5分圏内にメトロの3路線の駅があるので不自由することはない。用事があれば歩く、メトロに乗る。用事がなくても歩く。これを散歩という。谷や丘や坂がつく地名の多いエリアを歩く。

Before: 先週の土日にかなり歩いた。無性に坂を上り下りしたくなり、「坂の上の散歩道」を選んで歩いた。

After: 週半ばの今日、隙間の時間に、坂の上ではなく、また歩くのでもなく、『舌の上の散歩道』という團伊玖磨のエッセイを読んでいる。

〈読書〉子どもの頃、自宅にほとんど本がなかったが、ワケあって幼稚園に通わなかったので、本を買ってもらって読んでいた。高校受験前までは小説一辺倒の読書少年であった。

Before: 一番よく本を読んだのは27歳~31歳の頃である。一日に3冊読むこともあった。5年間で2,000冊以上読んだはずである。

After: 本はせいぜい週に1冊完読し、あとは拾い読み程度である。その代わり、おびただしい数の本を手に入れる。読む本の10倍以上の本を買っている。言い換えれば、10冊買って1冊読むのである。かつての読書家は、本を買うのを楽しみとする「買書家」になった(資産として買っているのではないので「蔵書家」ではない)。

イチジクのノスタルジア

青果店でイチジクを見かけた。初物だったので、桃に比べて高値感が強く、渋々見送った。もうしばらくすると1キロ1,7002,000円で取引されるらしい。一つ平均60グラムなので、100120円見当ということになる。単純比較はできないが、200円の桃と100円のイチジクなら前者を選ぶ人が多くなるに違いない。

各種ドライフルーツを袋に詰め放題というコーナーがデパートの一角に出ることがある。イチジクとイチゴばかり詰めている人がいる。お得感があるのだろう。売られている乾燥イチジクのほとんどがトルコ産。トルコは生産量世界一を誇る。生食には向かないが、乾燥させたものはワインのつまみに合う。

もぎたての無花果いちじく甘し他所よその庭  粋眼

買わずに他家のものを黙って拝借するとうまさが増す。子どもがイチジクを盗んで補導されたなどという話は聞いたことがない。警察にイチジク事件簿はたぶんなかった。しかし、この一年、ハクビシンがイチジクを食い荒らし、新潟では人間がイチジクの盗みをはたらき、つい最近ではイチジクの木50本が収穫直前にへし折られた事件が報道された。


小学2年の夏、大阪の古い下町からわずか3.5キロメートル離れた別の下町に引っ越した。引っ越し先にはまだ田畑が残っており、耕作しなくなった土地が少しずつ住宅地として整備され始めていた。新築の家のすぐ隣りは田んぼで、ザリガニやタニシが棲息し、トンボもチョウも普通に飛んでいた。田んぼには水路があり、そこにイチジクの木が何本も植わっていたのである。

外で遊ぶとお腹が空く。暑い季節にはイチジクをもぎって食べた。イチジクの木は田んぼの所有者か誰かが昔に植えたのだろうが、イチジクの盗み食いをしても誰にも咎められなかった。理科好きならイチジクはどんな果実でなぜここにるのかと一考したかもしれないが、ぼくにはイチジクが甘くてうまいという単純な感覚以外に何も芽生えなかった。

イチジクはそのまま食べてもいいが、生ハムとメロンの組み合わせのように、何かと組み合わせるとそれもまた乙な味になる。煮たり焼いたりする肉料理にも合う。食材への尋常ならぬぼくの好奇心はイチジクにまつわるエピソードと無関係ではない。イチジクが桃に勝つのは難しいが、少なくともノスタルジア世界ではイチジクに一日の長がある。

十二ヵ月の「和名」

一月から十二月は数字を順に数えれば言える。それに比べれば、それぞれの月の旧暦の和名――睦月、如月、弥生、卯月、皐月、水無月、文月、葉月、長月、神無月、霜月、師走――を順に辿っていくのは容易ではない。語呂合わせで覚えたことがあるが、その語呂合わせを忘れてしまう。

知ってしまえばそれまでだが、いざ覚えようとすると一筋縄ではいかない。何度覚えても二、三年もするとうろ覚えになっている。トイレに貼っていた昨年のカレンダーが月を和名で併記していたので、ようやく完璧に再現できるようになった。繰り返し漢字を見、たまに声に出しているうちに、いろいろなことに気づいた。

月の字が付かないのが弥生やよひ師走しはす
月を「つき」と読むのが睦月むつき皐月さつき霜月しもつき
月を「づき」と読むのが卯月うづき文月ふみづき(ふづき)神無月かんなづき
月を「つき/づき」の両方で読めるのが水無月みなづき(つき)葉月はづき(つき)長月ながつき(づき)
月が付くのに「月」と読まないのが如月きさらぎ

なぜ旧暦にこのような名が付いたのか。故事事典でちょっと調べてみた。どの月も由来は諸説あって、ここに書き切れないほどだ。ただ弥生だけが「(草木)いよいよおい茂る月・・・・・・・・・」という由来説で一致しているそうだ。弥生は今なら四月上旬、暖かくなり始めるいい時期である。本居宣長は「月づきの名、みなわるし。ただやよひ・・・のみよし」と弥生をえこひいきしていた。悪いと言うなら代案を示すべきではなかったか。


年の初めが「む」で始まる睦月。語感がよくないとかねがね思っていた。しかし、よく字を見れば、「仲睦まじい」の睦ではないか。めでたい年明けに親しい者どうしが睦まじく交誼こうぎを結ぶにふさわしい和名ではある。

昨日の朝、一月を睦月と言い換えてみたら、見上げた空がどんよりと曇っているのに、決して不快に思わなかった。いや、むしろ気分は晴れやかだった。どういうわけなのだろうかと詮索しても「わけ」などあるはずがない。気分は目に見えるものとだけ連動しているのではないのだから。

曇っていて、好天の一昨日よりも重苦しく感じてもよかったはずなのに、とてもよい気分だった。気分の変化に決まり切った法則はない。その時次第というのが気分の気分たる所以である。もしかすると、ことばのふるき由来をたずねてみたりことばを言い換えてみたりするだけで免疫力が上がって気分がよくなるのかもしれない。

割れ、端っこ、切り落とし

時々、お菓子の町工場の裏門を懐かしく思い出す。カステラの端っこが店頭に並んでいる店の前を通り掛かる時に思い出し、精肉店で和牛の切り落としを買う時にも思い出す。割れものや端っこや切り落としの商売は昔からあり、今もなお健在だ。むしろ、安っぽさが消えて、かなり高級なイメージに仕上がっているものさえある。

幼少時に住んでいた下町にチョコレートの町工場があった。五円玉を握りしめて裏門へ行くと、すでに数人の子どもが並んでいる。たった5円で両手で包み切れないほどの割れたチョコレートを売ってくれたのである。新聞紙にくるんで手渡してくれた。微量のカカオと多量の砂糖を混ぜた駄菓子系チョコだったと思うが、それでも贅沢なおやつだった。

小学校二年時に引っ越した先にチョコレート工場はなかったが、その代わりにウエハース工場があった。ここも裏門へ行って作業しているおじさんに声を掛ければ、愛想よく応対してくれた。端っこを何枚も重ねたウエハース、時々規格外に大きいのやクリームを挟んだのが入っていた。圧倒的な量。たしか10円だった。


苦労人の祖母は生活がだいぶ良くなってからも、長年の習慣ゆえか、内職をしていた。近くに引っ越してきてからは、小学校高学年だったぼくに「小遣いあげるから手伝いにおいで」と声を掛けてくれた。その頃はおかきの内職だった。一斗缶にぎっしりおかきが入っている。そんな缶がいつも5つも6つも置いてあった。

小指ほどの大きさのおかきに海苔を巻けば磯巻きができる。少し湿らせた布巾に小さな海苔を一瞬触れさせすばやく巻く。おかきは一斗缶にぎっしり入っていて、時々割れたのが見つかるので口に放り込む。割れおかきは今もあちこちで見かけるし、ネットでも売られている。よく売れるので、最初から割っているというまことしやかな噂もある。

割れたおかきは割れていないおかきよりおいしく感じる。同じく、カステラの端っこはカステラ本体よりも絶対においしい。今はもうないが、オフィスの近くにあった鉄板焼きの店のランチの目玉は、黒毛和牛サーロインステーキの切り落としだった。みんなが注文するから切り落としがなくなる。そうすると、わざわざステーキを切るのだそうだ。たしかに切り落としはおいしいし、ステーキよりもライスによく合う。

一円で二つ買えた頃

テーブルで注文を取る喫茶店はテーブルにコーヒーを運んでくれる。昔の喫茶店はすべてこうだった。このスタイルの喫茶店のコーヒーは1400円~600円が相場のようである。半世紀前は100円~150円だった。隔世の感があるが、コーヒーの物価はあまり上がっていないとも言える。

大阪で「ぽんせんべい」と呼ばれる駄菓子(直径約11㎝)。

昭和30年代に入って間もない頃、まだ1円札が流通していた。1円札が1円玉に変わった「瞬間」をとてもよく覚えている。まだ小学校に上がる前だ。十円玉を一つもらって「ぽんせんべい」を買いに行った時のこと。

売っているのは近所の遊び仲間の家。自宅でぽんせいべいの製造卸をしていた。せんべいを焼く小さな装置があって、ばあちゃんと友達の母親が交代で内職として焼いていたのである。裏木戸につながっている小さな一室で、工場の雰囲気とは程遠かった。近所の子らはその裏木戸から入ってぽんせんべいを売ってもらう。105円。五十銭は流通していなかったが、概念としてはあったということだ。

105円なので、十円硬貨を出すとお釣りが5円。お釣りはふつう五円玉だが、稀に一円札5枚のこともあった。おばちゃんがぼくの手のひらに乗せたお釣りは、キラリと銀色に光る小さな5枚。その頃流通し始めた一円硬貨で、見るのも触るのもその時が初めて。家に帰って見せびらかしたのを覚えている。


1枚が50銭だが、五十銭硬貨が流通していないので、1枚だけ買うわけにはいかない。いや、奇数枚のぽんせんべいを買うことができなかった。ぼくの場合はいつも5円で10枚だった。わくわくしながら駄菓子を買う時に握りしめていた硬貨は、たいてい五円玉だったような気がする。

現在、スーパーに行けば「満月ぽん」という商標などで、小さなぽんせんべいが売られている。先日、あの頃と同じ大きさの懐かしいぽんせんべいを見つけた。醤油が香ばしい。自分が今もぽんせんべい好きだということがわかった。ところで、105円だったせんべいは10330円と、値段は66倍になっている。その上昇率はコーヒーの比ではない。幸いにして、自分の小遣いは物価上昇以上に順調に上がったので、今もぽんせんべいが買えるし、それよりも上等なせんべいも賞味することができる。ありがたい。