街暮らし―日常の記憶と記録

先週、街角の移り変わるシーンと題して書いた。その時から「街」を少々引きずっていて、街という文字を書名に使う本を取り出してはなまくらに読み、掲載されている写真があれば眺めている。たとえば下記の4冊。

『街頭の断想』
『街の記憶』
『街に煙突があった頃』
『街角の事物たち』

いろいろな街があり、様々な切り口――街頭、街角、街並み、街路など――の呼び名がある。街には日常がある。街はよく似たようなことを毎日繰り返す。日常には暮らしがあり、会話があり、事物があり、ついでに言えば、退屈とわずらわしさもある。

かつて非日常とされたイベントや催しなどの体験は、今ではほとんどが日常に取り込まれてしまっている。長く生きてきた市民たちは時代の変化に慌てふためくことが多々あるが、今時の若者らは街中で派生する非日常的現象に驚かされたり意表を突かれたりすることは滅多にない。

ところで、上記の『街角の事物たち』は歌人、小池光の著書だ。「時代のうねりの中に身をさらす歌人の日乗」と帯に記されている。えっ、日乗・・? 日常の間違いか? いや、そうではない。「日乗にちじょう」とは日記のことで、古い時代の表現だ。情報の多い街暮らしでは記憶に頼るだけでは心もとない。どんな些細なことでも忘れないように記録しておかねばならない。漫然と日々を過ごすだけでは、街暮らしは成り立たないのである。

たとえば、近くの橋から西方向を定点観測する。記憶だけでは30年前、10年前、5年前からどれだけ街が変貌したかを認識できない。写真2枚で比較すれば、今と5年前とでは高層建築の棟数と密度が圧倒的に違うことがわかる。記録は記憶再生を促してくれる。

周囲で日記をつけている人は少ない。メモを取っている人は時々見かけるが多数派ではない。たいした記憶力でもないのに、書き留めずにその場で覚えようとする。覚えようとしても、覚えていなかったことが後日わかる。人があまり記録しなくなったのは、筆記具と紙の出番が著しく少なくなったからだろう。

書く時間がなければ、街の写真を撮っておく。できれば一行キャプションを付記しておく。ところで、膨大な数の写真を振り返って気づくことがある。たとえば海外旅行の写真。文字情報がなければどの街角かわからない。しかし、レストランのファサードと食事した料理の写真があれば、極端に言うとその日の1日を思い起こすことができる。

料理の写真を撮るのは食い意地が張っているからではないし、SNSに投稿するためでもない。暮らしの記憶の確認として、日に3度の食事は記憶の扉を開く鍵の役目を果たしてくれている。自分の記憶容量の不足を写真で補っているのである。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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