読書と感想文と書評

読書はよくしてきたが、苦痛の体験が多く、愉しさの思い出は少ないという印象がこびりついている。何がしかの枠組みを決めたり決められたりして読むのは辛かった。そう吐露するものの、やはり読書は知の啓発に役立ったと認めざるをえない。

本は読まないよりは読むほうがいい……強迫観念とまでは言わないが、本心からズレたそんな思いが心のどこかを支配していた。書く題材に行き詰まることさえなければ、読書に比べたら自分で何か書くほうがよほど愉しい。

今さらだが、読書とは何か? と問うてみる。『新明解国語辞典』でチェックした。

〔研究調査や受験勉強の時などと違って〕一時いっとき現実の世界を離れ、精神を未知の世界に遊ばせたり人生観を確固浮動のものたらしめたりするために、(時間の束縛を受けることなく)本を読むこと。

ほほう、こんなものなのか。上記の語釈は辞書の定義としてはやや偏向している。現実の世界にあっても本は読めるし、必ずしも精神や未知の世界と関わるものでもないだろう。この語釈を書いた人は「寝ころがって漫画本を見たり電車の中で週刊誌を読んだりすることは、本来の読書には含まれない」とも記している。もしそうなら、読書は大衆的ではなく、かなり崇高な世界に属すものということになる。

読書につきものの感想文。それを学生に課す先生が考えるほど、学生にとって意味あるものだろうか。小説を要約したり話のあらすじを書いたり感想を述べたりするとして、その感想文を読むのは先生だけである。仮に仲間とシェアしたり読書コンクールで発表したりしても、ネタバレのあらすじや一学生の感想を読んで何かの参考にしたいとは思わない。

ぼくは長年読書会を主宰してきたが、みんなが違う本を読み――感想を書くのではなく――抜き書きと書評を1枚でしたためて本を紹介するのを旨とした。感想だといいことばかり書くが、書評と呼べば批判的コメントも出てくる。

まあ、感想文でも書評でもいいが、本について書くべきたいせつなことは、あらすじではなく、抜き書きである。抽象的なあらすじは記憶に残りづらいが、さわりの抜き書きからは本の核心が窺える。後日抜き書きを読み返すと読書会の余韻がよみがえることがある。