ことばに立ち止まる

📝 知らなかったことば

知らなかったなあ、ソムリエがワインサービスの時に使う、左腕に掛けているあの布のナプキンの名称。知ったのはつい先週だ。「リト-」とか「トーション」と呼ぶらしい。世の中には知らないことが山ほどある。だから知らなくてもがっくりすることはないが、ナプキンと呼ぶよりはいい感じがする。覚えておこう。

📝 碑に刻まれたことば

たぶん78年前のこの時期だったと思う。冷たい風が吹く寒い日だったこと、公園脇の碑に菊池寛の座右の銘が刻まれていたことを覚えている。残念ながら、その座右の銘をすっかり忘れていた。そのことばを思い出したが、記憶を辿ったわけではない。別のことを調べていて偶然見つけたのだ。

不實心不成事 不虚心不知事

漢字を見て思い出し、「実心じっしんならざれば事成ことなさず、虚心きょしんならざれば事知ことしらず」という読み下し文で記憶がはっきりよみがえり、「現実的でなければ事を成就できず、こだわりを捨てなければ真実が見えない」という意味にえらく感心してノートに書いたことも思い出した。

📝 朝三暮四 と 朝四暮三

なじみがあるのは「朝三暮四ちょうさんぼし」で、手元の辞書では見出し語として出ている。ところが、「朝四暮三ちょうしぼさん」は見出し語になっていない。知った時は、へぇ、そんな四字熟語もあるのかと少し驚いた。どちらも「目先の利益にこだわって、同じ結果だということに気づかない」という意味である。
飼っているサルに朝に三つのドングリ、夕方に四つのドングリをやろうとしたら、サルは怒って「朝に四つ、夕方に三つにしてくれ」と注文をつけた。一日で見れば同じ七つだが、サルには朝に四つのほうが得と思えた……という中国の故事。朝四つで夕方三つなら、あまり使わない朝四暮三のほうが本筋ではないか。しかし、朝四暮三と言ったりすると、「間違ってますよ」と注意されそうだ。

📝 読めなかった漢字、「烤」

この字が店名に含まれている四川の中国料理店がある。「火へん」だから何となく想像できたが、辞書には載っていない。日本では使わない漢字のようだ。読めなくてもしかたがないが、どこかで見た記憶がある。とりあえず「火へんに考」で検索したら見つかった。「烤鴨」が出ている。ペキンダックのことで、烤は「カオ」と発音する。「烤魚カオユイー」のほうは頻出語だ。魚の皮を焼いてからコトコトと麻辣味で煮る料理。直火で加熱する時は「烤」の字を使うらしい。
さて、ぼくの知るあの店は四文字。烤はわかったが、残りの三文字の発音ができない。店名が発音できたら一度行ってみようと思う。

語句の断章(60)勿体

「もったいぶる」という表現を使ったことはあるが、漢字で「勿体」と書いたことはない。本を読んでいて、もったいない、もったいぶるなど普通の表現として何度も出合っている。特に珍しいわけでもないのに、この漢字をずっと見ているうちに異化作用を催してきた。勿体? それはいったい何?

これまでどんなつもりで、もったいぶると言ったり書いたりしてきたのか。そもそも勿体とは何を意味しているのか。ある辞書には「物のあるべき姿や本質」と書いてある。どうやら、その意味がやがて「重々しい、立派、大きい、ものものしい、尊大とか威厳」に転じたようである。しかし……

ここまで書くのにいろいろ考えもし、調べもしておおよその意味とニュアンスは摑めたが、まだ「勿体」に慣れない。見れば見るほど、書けば書くほど、漢字変換すればするほど、奇異に見えてくる。もう一度問う、勿体とはいったい何?

奇異をぬぐおうと語源を調べることにした。次のようなことが書いてあった。

元は仏教用語で、勿体は「物体もったい」と書かれていた。物は「牛へん」で、それは不浄な獣だから、へんを取って「勿」とした。勿体となって、物事の本質となり、ありがたみを意味するようになった。

おもしろいいわれだが、物から牛が消えて勿になったと言われてもすっきりしない。それで物事の本質となったら、なぜありがたくなるのかがわからない。

しばらくして、すっきりしない理由がわかった。「あの人は勿体だ」とか「事態は勿体になった」とは言わないのだ。つまり、勿体は単独で使わない用語なのである。

さほどでもないのに、ちょっと見に内容があるように感じさせるのは「もったいぶる・・」。まだまだ使えるのに無駄に粗末に扱うことやまったく使っていないのを惜しめば「もったいない・・」。気取ったりすまし顔したり、体裁を飾ってものものしく振舞って威厳を示すなら「もったいをつける・・・・」。

威厳などという立派な意味があるのに、勿体はその意味で使われることがほとんどない。それがない時に、それをぶる時やつける時になってようやく意味をあぶり出す。勿体とはそんな、もったいぶった用語なのである。

語句の断章(59)快刀乱麻

今日取り上げる「快刀乱麻」は、語句の断章シリーズで取り上げる七つ目の四字熟語である。四字熟語には生まれた歴史や背景があり、今では理解しづらい故事由来のものも多い。「快刀、乱麻を断つ」という成句がわからないわけではないが、快刀にも乱麻にもすぐにはなじめない。

こんがらがった麻は知らないが、もつれた毛糸は見たことがある。よく研ぎ澄ました刀はどこかの名刀展でガラス越しに見た。したがって、もつれた糸を一刀のもとに断ち斬る所作も何となく想像できる(そうだ、一刀両断という四字熟語もある)。ところで、糸という対象に向かう形相や目つきは、人に向ける時のような鬼気迫るオーラを放つのだろうか。

もつれて手に負えない麻の糸はこじれた問題や紛糾した物事の比喩として使われている。快刀は手際よく処理して解決する方法の比喩である。しかし、解決と言っても、糸が元に戻るわけではない。糸は細かく切られて使いものにならなくなる。解決の解は「ほどくこと」であるのに、ほどきもせずに断ち斬って、それを解決と呼んでいいものか。

もつれて乱れた麻を一本一本ほどくのが面倒だ、しかも捨ててしまっても未練がない。そういう時に快刀をふるえばもつれに対する苛立ちも解消する。快刀乱麻とはそんな感じの熟語のようだ。決してスマートでさわやかな問題解決ではない。

もつれた網を腹立たしく斬り捨てる漁師はいないと思う。網のもつれを少しずつほぐして再び使えるようにしているのをテレビで見たことがある。斬り捨てるのではなく、辛抱強く糸をほぐして元に戻す……そんな四字熟語はないのか。快刀乱麻の対義語を調べてみたら「試行錯誤」が出てきた。そうか、試行錯誤は自分との長い闘い、快刀乱麻は相手との一瞬の闘い。ちょっとすっきりしたが、決して快刀乱麻の心理ではない。

何々屋と言う時、言わない時

仕事の合間にメモした今週のエピソード。

💭 衆議院選挙

「選挙期日」(投票日)に投票に行けないし、「期日前投票」にも行けない。できれば「期日後投票」がありがたい。

💭 似ている音

「千代に~八千代に」と「蝶に~野鳥に」。

💭 仕事

好きなことを職業にするのは難しい。嫌々就いた仕事を好きになるのも難しい。ほとんどの人は好きな仕事をせずに一生を過ごす。

💭 予約の取れない店

2ヵ月先まで予約が取れない店」→休業している。
「そんなに混んでいないのに予約が取れない店」→オーナーの気まぐれで休む。
「予約が取れない店」→予約を受け付けていない。


💭 天ぷらの店の前で

ふと、天ぷらの店のことを「天ぷら屋」と言わない自分に気づく。「天ぷら〇〇」と固有名詞で呼ぶのがほとんどだ。写真のような店なら「天ぷら割烹」と言うかもしれない。寿司店も寿司屋とは言わない。八百屋、散髪屋、そば屋、パン屋、駄菓子屋とは言う。中華料理屋とは言わずに、単に「中華」と言ったりする。
昔は印刷屋と呼んでいた。チームを組んだり取引したりするようになってからは印刷会社である。
なお、お寿司屋さんとは言うが、お天ぷら屋さんとは言わない。
辞書には、屋で呼ぶのは「それだけを専門に扱う職業(の人)」と書いてあり、肉屋、花屋、八百屋、植木屋、事務屋、技術屋などの例が挙がっている。それだけを専門に扱うのなら「何でも屋」は例外か。

💭 ジョーク

フロント係「明朝のモーニングコールはいかがいたしましょうか?」
客「いつも5時半に目覚めるからいらないよ」
フロント係「お客さま、では私にモーニングコールしていただけますか?」

💭 今朝

モーニングコールもなしに、無事に今朝も心地よく睡眠から帰還した。

スペルミスとスペルチェック

1970年代の終わりから海外広報の仕事に従事し、30数年間、英文を書いていた。日本企業の海外向け会社概要、アニュアルレポート、定期刊行物の執筆と編集が主たる業務。英語のネイティブライターとチームを組んでいた。

しかるべき取材と調査の後に最初から英語で記事を書く場合と、いったん日本語で原稿を書いてから翻訳する場合があった。書いてから仕上げるまで文章を推敲・校正し、個々の単語のスペルを何人もが何回もチェックする。書いたり翻訳したりする以上に大変な作業だった。PCの英文ワープロを使い始めたのが80年代半ば。それまでは電子タイプライター。PCを使うようになっても、しばらくはスペルチェック機能はなかった。

複数の人間が何度もチェックしているのに、入稿後にミスが見つかる。そのまま印刷されたことも数回あり、そのうち一度か二度は刷り直しを余儀なくされた。知っている単語を当たり前のように知っていると考えず、すべての文字を念入りに見つめる……疑わしきは念のために辞書を引く……見間違いやすそうな書体は避ける……などの工夫を重ねて、ミスは段々と少なくなり、やがてミスをしなくなった。


英語ができる人ほど辞書をよく引く。対して、英語に自信がない人ほど辞書を引かない。そのくせ、セレクトやランチやワインなどは辞書がなくても間違わないと甘く見ている。

自販機のサイド面に貼られたポップにスペルミスを見つけたことがある。一目「秘密」の意の″SECRETシークレットに見えたが、「秘密の飲み物」はおかしい。まもなくSELECTセレクトのつもりだとわかった。「セレクトショップ」などと言う時のあのセレクトだが、L”R”としてしまった。「よりすぐりの飲み物」のつもりであることはわかるが、不注意なスペルミスだ。

日本人は「アール」と「エル」の発音が苦手で、文字を書く時にもそれが影響することが多い。ボードに「本日のRanch」と書かれている店があった。なぜオーナーも店員も気づかないのか。”Lunch”という綴りはそんなにハードルが高いのか。ライス(Rice)のスペルを″Lice”(シラミ)とした例は、幸いなるかな、まだ目撃したことはない。

ワインの綴りが″Wine”ではなく、″Wain″となっていたのも見たことがある。スペルを間違うのは元々知らないというケースもあるが、英語の前にローマ字を学んだ弊害が出ているのではないかと睨んでいる。

数年前、カレンダーの表紙に″Calender”と綴られたミスを見つけた(正しくは″Calendar″)。これなどは気づきにくい。もしかしてこのスペルもあるのかと思わず辞書を引いたくらいだ。そして、数日前の大きなのぼりに印刷された″spice carry”である。のぼりがこれ見よがしに堂々とそよいでいたので、正しいはずの″curry”のほうが怪しく見えたほどだ。

元原稿と照合しながら複数回、複数人でチェックする、そして分かっているつもりでも辞書を引く――スペルミス防止策はこれしかない。それでもなお、スペルチェックで疲れてくるとスペルミスを見逃しやすくなる。また、ミスに気づいて校正したはずなのに正しいスペルが反映されていなかったという、原因不明の予期せぬトラブルも生じることがある。

語句の断章(58) 日陰、日影

日陰と書いて「ひかげ」と読む。日の陰とは、物の陰になって光が照らない、日が射さない場所を意味する。

日影も「ひかげ」と読むが、日陰の同義語ではない。それどころか、日陰と日影は同音異義の関係にある。日陰と日影が同じ意味だと思っている人がかなりいると聞いたが、読みが同じだし似たイメージなのだから、意味も同じだと思うのもやむをえない。

公園のベンチに座ろうとして、「おっと、ここはひかげ・・・が当たるから、ひかげ・・・のあるあっちのベンチに座ろう」と思い直す。前者が日影で、後者が日陰だ。影は英語で“shadow”、日影になると“sunshine”とか“sunlight”になる。日影は「太陽、月、灯りなどの光」の意と古語辞典には書いてある。

日陰者ということばがある。差別用語ではないが、それっぽく響くので書いたり話したりしたことはない。身にやましいことや人をはばかる事情があって社会の表舞台に出ない人のことをいう。世に陰の実力者はいるが、日陰の実力者などは聞いたことがない。ちなみに、日影者ということばはない。

再び古語辞典に戻る。日影の見出し語には〔雅〕の印が付いている。雅語がごのことだ。現代の日常会話や普段書く文章で使われることは稀だが、短歌や俳句や文語文では今も使われるやまとことばである。日影もその一つ。今の時代、「ひかげ」と言えば「日陰」のことだと思われる。「日影」のつもりなら日光か日射しと言うほうがいい。

窓からそよ風、二字熟語遊び

著名ちょめい名著めいちょ

(例文)著名でない人が書いた名著もあるし、名著なのに著者不明の作品もある。著名な著者の作品が必ずしも名著であるとはかぎらない。

デカルトは歴史に名を残している。「デカンショ」のあのデカルトはカントとショーペンハウエルと肩を並べる著名な哲学者だ。ところが、デカルトを知っている人は多いが、『方法序説』を知っている人は少なく、読んだ人になるとさらに少なくなる。執筆されてから時を経て今も評価されている本だが、読みもせずに名著だと思っている人がほとんど。

一画いっかく画一かくいつ

(例文)漢字では一筆で書く線を一画という。線を引いて区切った土地も一画と呼ぶが、戸建ての宅地の面積や形は画一とはかぎらない。

画数が一画の漢字は何? と問われたことがある。「一」と答えたが、もう一つあると言われてすぐに思いつかなかった。しばらくして「乙」を見つけた。一画の漢字が2つと言われていなかったら、さらに続けて頭の中を弄ろうとしたに違いない。

晴天せいてん天晴あっぱれ

(例文)晴天とは雨天や曇天と対照的な晴れた空のこと。空以外のことにはつかいづらい。他方、天晴は見事な出来映えに対してならどんなことにでも使える。

天晴はほめ言葉である。誰かが実力以上の成果を発揮したら「あっぱれ!」とほめる。出来映えが同じなら、力のある人よりも力のない人のほうがほめられる。

故事 こじ事故じこ

(例文)故事は古い時代から伝わる話やいわれで、「故事来歴」という熟語でも使われる。事故は不注意が招く人災や支障を来すことを意味するが、その故事はわからない。

事故の起源や由来を調べたことがあるが、「ことゆゑ」という昔の訓読みが出てくるばかりで、なぜそう言うようになったかは不明である。事故が「ことゆゑ」なら、故事は「ゆゑごと」と言うのか。辞書には見当たらないが、AIは「ゆえごととは先行する事柄を理由として後続する事柄が生じることを指すことば」と語釈を付けてくれた。


〈二字熟語遊び〉は二字の漢字「〇△」を「△〇」としても別の漢字が成立する、熟語遊び。大きく意味が変わらない場合もあれば、まったく異なった意味になる場合がある。その類似と差異を例文によってあぶり出して寸評しようという試み。なお、熟語なので固有名詞は除外。

語句の断章(57)衣替え

今日は101日。わが家には56種類のカレンダーがある。その一つ、洗面所の壁に吊ってるカレンダーは、今日が「衣替え」だと告げている。10月で他に印刷されているのが14日の「スポーツの日」と31日の「ハロウィン」。衣替えは、スポーツの日とハロウィンと堂々と肩を並べているのだ。

大阪では今週も最高気温30℃超えの日々が続くとの予報。明らかに残暑である。しかし、歳時というものは、実際の季節の変化とは無関係に型通りに暦に節目を刻む。衣替えも、まるで国民の休日を祝うかのように101日の枠に印刷されている。

衣替えの「ころも」は古めかしく響き、怠らずに執り行うべき儀式を思わせる。なにしろ更衣という字も「ころもがえ」と読ませるのだから手が込んでいる。衣替えの日を年中行事の一つとして捉えて、わざわざカレンダーに印刷するのは親切心かもしれないが、余計なお節介でもある。

年中行事の四季と現実の季節感がズレてきた今、暑さや寒さの変わり目と歳時が一致しない。春間近と秋間近の衣替えのタイミングは、風習や勤務先や学校ではなく、自分で決めるしかない。今日、タンスやクローゼットの整理整頓をするのは、少なくともわが住まう所では早過ぎる。半袖のTシャツ姿で眺める衣替えの文字が現実とシンクロしていない。

現在の衣替えは、冬から春・夏へと夏から秋・冬への年2回が一般的だが、江戸時代までは違っていた。冬から春、春から夏、夏から秋、秋から冬への変わり目の年4回だった。少々面倒だが、さぞかしお洒落で風情もあったに違いない。何よりも,今よりも四季のメリハリが利いていたのだろう。

語句の断章(56)「他人」

今さら念を押すまでもなく、他人は「たにん」と読むのが基本。しかし、例外があって、「ひと」とルビが振られていることが稀にある。他人を「たにん」と読ませる時と「ひと」と読ませる時では、意味とニュアンスの違いが出る。

Aを固有の人名だとする。「A他人たにんです」と言えば、Aは自分以外の人である。自分以外の人は、親族・親類とそれ以外の人に大別される。他人たにんは親族・親類以外の人とされる。おそらくAは友人や知人ではない。友人や知人なら、他人たにんなどとは言わない。他人たにんAと自分には道で見知らぬ者どうしが通り掛かる以上の関係はなく、この先どうなるかはわからないが、今のところ利害を共にしたりお互いを必要としたりする仲ではない。

他人を「ひと」と読ませたい時、「A他人ひとです」とは決して言わない。自分に直接関係のない事を「他人事ひとごと」と言うが、Aという人名と他人ひとをセットにしてしまうと、Aを適当に扱っていたり素知らぬ顔をしたりしている感じが色濃く出る。他人ひとと言う場合は、自分との分別を強く意識している。そこには「自他」という――現実の人間関係とは別の――存在関係がうかがえる。他人ひととは、自分とは異なる「他者」という存在なのである。

哲学に「他者問題」というのがある。自分には他者の心がわかるのか、仮にわかるとすれば、どのようにわかるのか……そんなテーマを考察する。今、友人一緒に食べているステーキを自分はおいしいと思っているが、他者である友人は自分と同じおいしさを感じているのかどうか。他者の頭痛、他者が見ている色、他者が言う「わかった!」という理解の程度を、自分はわかることができるのか。

他人たにん他人ひとの違いを出すために、他人ひと他人事ひとごとではなく、他者としてとらえてみたい。その瞬間、哲学の思索が始まって頭を痛めることになるが、やむをえない。赤の他人たにんを他者に見立てて論じようとすれば責任が伴うのである。

厳暑の日々の二字熟語遊び

今日のテーマは「日」。日を含む二字熟語をつないでみた。ある日が次の日にリレーする。日は別の漢字とくっついて、様々な日々の様相を呈してくれる。〇△の二字を△〇にするだけで、これまで馴染んだ熟語に新しい顔と意味を見つけることがある。

日毎ひごと毎日まいにち
(例文)
「焼けつくような天気が毎日続きますねぇ。冷たいのが恋しい」
「ええ、日毎暑さがつのります。かき氷目指して甘味処によくお邪魔しております」

日毎と毎日の意味は同じである。日毎は、毎日のやや文学的な言い回しと思えばいい。「日ごと夜ごと退屈している」と「毎日毎晩退屈している」はニュアンスと印象がだいぶ違う。ところで、毎日新聞を日毎新聞としたら、記事の文体も変わるはずである。

日曜にちよう曜日ようび
(例文)
「遅まきながら、“日曜日”が上から読んでも下から読んでも“にちようび”だと先日気づいたよ」
「月火水木金土ときて、次の日をわざわざ日にしなくてもよかったのに……。“天曜日”がカッコいいと思う」

夏休みのような長期休暇中は毎日が日曜みたいなものだから、曜日の意識が薄まる。曜日は空海が唐の時代にわが国に伝えたと言われている。主として吉凶の占いが目的だった。今のような週と曜日が始まったのは太陽暦と週休制が導入された明治6年らしい。

中日なかび日中にっちゅう
(例文)
「大相撲の中日のチケットが手に入ったけど、行ってみるかい?」
「それはいいねぇ。日中の早い時間に行って序ノ口や序二段から観てみたい」

中日はドラゴンズのことではない。野球ではなく、大相撲の八日目を指す。また、興行期間の長い芝居の公演の真ん中の日も中日という。日中にも、日が高くのぼり始める午前10時頃から午後3時~4時までという慣習的な定義がある。

数日すうじつ日数にっすう
(例文)
「こんな内容だけど、受けてもらえるかな? できれば数日以内に……」
「いやあ、ちょっと無理です。そのお仕事なら、日数をいただくことになります」

数日は慣習的には34日、時に56日で、よほどのことがないかぎり、2日や8日、9日ではない。明確に何日とは言わないが、以心伝心的にはお互いが承知している。数日が短くて日数が長い感じがするから、「数日ほど日数をいただきます」は誤解を与える。


〈二字熟語遊び〉は二字の漢字「〇△」を「△〇」としても別の漢字が成立する、岡野勝志が発案した熟語遊び。大きく意味が変わらない場合もあれば、まったく異なった意味になる場合がある。その類似と差異を例文によってあぶり出して寸評しようという試み。なお、熟語なので固有名詞は除外。