カタカナ語の記憶再生

カタカナ語に対する風当たりが強い時代があった。読みづらいし意味不明だとこき下ろされた。日本人なら日本語で書けとも言われたが、日本語に訳してもわからないものはわからない。それなら、原語の発音に近いカタカナで表記して別途意味を覚えるほうが手っ取り早い。カタカナが少々目障りなのは我慢するとして。

文化庁のサイトにカタカナ語の認知率/理解率を調査したデータが載っている。使用頻度上位10語は下記の通り。

■ストレス  ■リサイクル  ■ボランティア  ■レクリエーション  ■テーマ  ■サンプル  ■リフレッシュ  ■インターネット  ■ピーク  ■スタッフ

日本語として市民権を得たものばかり。ほとんどの成人は認知して意味を理解し、かつ自ら使えるはず。ところが、全120語中の頻度下位の10語になると一気に難度が上がる。

■モラルハザード  ■リテラシー  ■タスクフォース  ■バックオフィス  ■エンパワーメント  ■メセナ  ■ガバナンス  ■エンフォースメント  ■インキュベーション  ■コンソーシアム

英語ができて時事に少々精通していればある程度は認知できそうだが、日常生活では出番が限られた用語ばかり。しかし、ビジネスや高等教育の現場では時々出てくる。

記憶しづらいのは固有名詞だ。固有名詞はある種の記号なのでコトバとイメージを一致させる必要がある。興味のない人名、地名、店名などのカタカナ語は覚えづらい。他方、固有名詞の記憶が得意なオタクたちは、お気に入りの外国のスポーツ選手、俳優・歌手、街の名などは何十何百という単位で覚え、ものの見事に再生してしまう。


一度では覚えられそうにないワインや料理、植物、店名などを愛用の手帳にメモするようにしている。そのおかげでシッサスエレンダニカという観葉植物を覚えた。しかし、これは例外で、何度読み返しても忘れ、時間が経つとまったく再生できなくなるのがほとんど。

手帳のページを繰ったら、コスパのいい白ワインの名前が出てきた。

カンティーナ・ディ・モンテフォルテ/クリヴス・ソアーヴェ・クラシコ 

調べれば「カンティーナ・ディ・モンテフォルテ」はイタリアのヴェローナに本部を置くワインの団体だとわかる。そこが手掛けた白ワインが「クリヴス・ソアーヴェ・クラシコ」。くっつけると長くて覚えにくくなる。名前を知らずともワインは飲めるから支障はない。なのに、なぜ名前を覚えるのか。人差し指で「これ」と言うだけではつまらないからだ。

別のページ。2年前に初入店したモンゴル料理の店の料理名が記してある。店の名前は覚えている。3文字なのに「グジェ(羊の胃袋)」は忘れていた。他に「チャンスンマハ(塩茹での羊肉)」と「ツォイビン(羊肉と麺の炒め物)」。カタカナを見たら思い出すが、自分では再生できない。

海外滞在中に自分が撮った街の写真を見れば街の名前が言える。店の名前も割と記憶できるほうだが、バルセロナで入った老舗バルの名前は何度確認しても忘れてしまう。最初“El Xampanyet”の綴りを見た時にXエックスつながりでXeroxゼロックスの綴りと音を連想して「エル・ザン・・パニェット」と読んだ。それが今も尾を引いている。正しくは「エル・シャン・・・パニェット」(スペイン語ではなく、カタルーニャ語の発音)。

カタカナ語は面倒だが、カタカナの名と写真を結び付けると覚えやすい。また、何度も見、何度も発音し、関連する表現をセットとして覚えると忘れにくい。以上、カタカナ語の月並みな覚え方のコツをまとめたが、これは語学全般に当てはまるコツと同じである。

翻訳という「書き換え」

言語Aの文章が言語Bで見事に言い表されニュアンスまで汲み取っていればよい翻訳である。ところが、言い換える際の解釈間違いや大胆な超訳で意味不明の事態が頻繁に生じる。たった一つのことばの違いでも文の訳がひるがえる。

久しぶりの英日翻訳を終えた。一部翻訳ソフトでチェックしたが、まだまだ信頼はできない。原文がフランス語で、その英訳からの翻訳作業。時間がかかるのは覚悟の上で、フランス語も参照して翻訳の精度を上げるようにした。

さて、翻訳とは「書き換え」である。日本語の文章をブラッシュアップすべく別の日本語に書き換えるが、それと同じことを二国語の間でおこなうのが翻訳だ。


先日、四川料理の店に入った。四川だから辛いのをある程度覚悟していたが、注文した56品のうち、まずまず辛かったのは前菜の干し豆腐と野菜の和え物だけだった。辛さを謳ったと思われる店のスローガン「将麻辣迸行到底」とは程遠かった。

漢字そのままである程度推測できたので、比較的わかりやすい中国語である。将(ニ)は漢文で習った、今まさに何々せんとす。「~しようとしている」「~の予定」の意。麻辣は見ての通りの、ヒリヒリと痺れる辛さ。迸行は「ほとばしる」。到底は「最後まで」、超訳すれば「とことん」か。そんな見当をつけてスマホの翻訳ソフトを使ってみた。中国語の英訳は和訳よりも精度が高い印象があるので、まずは英語から。

Spread the spicy flavor to the end.

スパイシーな香りが最後まで広がる(続く)。たぶん原文が言いたいのはこういうことなのだろう。まともである。英語訳にはバリエーションが少なく、他の翻訳案も似たり寄ったりだった。

It’s going to be a hot mess.

別案のこれには驚いた。熱い(≒辛い)混乱? めちゃカラ? うんざり? お手上げ? 良からぬ文章と判断したようだ。さて、中日翻訳はどうか。

①スパイシーな味わいを最後まで引き立たせる
②スパイシーな味わいが最後まで広がります

①と②の違いは動詞。安易にスパイシーという語に逃げるのは感心しないが、麻辣の辛さをとことん堪能する感じは出ている。困った時は直訳が無難だと思われるが、スローガンとしては調子が平凡で訴求力が足りない。

③どこまでもスパイシー
④辛さがずっと続きます
⑤スパイシーなアクションを最後までやり遂げる

③は省略し過ぎ。ニュアンスを汲むのが面倒くさかったのか。④も手抜きしている。⑤はひねり過ぎ。スパイシーなアクションと言ったら、花椒や唐辛子を鍋にぶち込んでいる調理の様子になる。アクションと訳したら「やり遂げる」で締めくくるのもやむをえない。

⑥ぴりぴりした辛さを噴き出してよく徹底的にします
⑦辛辣さを最後までほとばしる
⑧麻薬を底まで運ぶ

これら⑥⑦⑧は滑稽三部作。どれもAI翻訳以前の辞書の学習機能に問題がありそうだ。人間の学習者と同じく、だいたい滑稽な翻訳は辞書と文法の欠陥に由来する。⑥の「噴き出して」と「徹底的にします」は辞書の語彙不足。麻辣を辛辣さと訳した⑦、麻薬と訳した⑧は、そもそも元の文章が料理や味付けのことだと判断できていない。

言語A→言語Bの翻訳においては、おおむね言語Bの表現力が問題になる。中日翻訳でも英日翻訳でも、日本語表現の拙さゆえに珍訳が生まれてしまうことが多いのだ。なお、勇み足をするAI翻訳は、滑稽さにおいてすでに人間の迷訳・珍訳を超えている。

語句の断章(64) だいたい

都会の住宅地の公園に日時計がある。棒のかげがだいたい・・・・1030分あたりに落ちていた。腕時計を見ると、若干の誤差がある。若干? 23くらい・・・か。日時計の時の刻み方はおおまか・・・・だが、この程度・・の差なら、おおらかで許容範囲である。

散歩から帰って書いた十数年前の小文。日時計が時を告げている珍しい場面に遭遇して日常生活の「質感」に触れた気がして新鮮だった。デジタル時計のような杓子定規な几帳面さからは生まれてこない、天然の悪意のない大雑把にほっとした。

「だいたいやねぇ」は評論家の竹村健一の口癖だった。芸人がよくモノマネをしたのは茶化す意味もあったはず。だいたい、ざっくり、大雑把に見て……などの物言いはいい加減だとして時々厳しい目が時々向けられる。しかし、枝葉末節にとらわれず、主だった部分と意図さえ押さえておけば、日々の生活で大事に到ることはほとんど・・・・ない。


上記のように、だいたいには類語の仲間がいろいろある。類語が多いのは頻度が高いのと同時に、ニュアンスがきめ細かく分化してきたからである。明言を避けて少しだけ不透明にできるから、だいたいの仲間を重宝する人たちも少なくない。

「頃」もそんな仲間だ。「頃あいを見計らう」と言えば、ある時ちょうどではなく、その前後を指している。ここでは「ころ」と読む。ところが、頃を「ごろ」と読むと、見頃とか食べ頃のように、ちょうどよい程度を表わす。なお、英語のアバウトはだいたいの仲間に加わって久しいが、つねに適当感と無責任感がつきまとうので要注意だ。

上でも中でも下でも、二字熟語遊び

今日は「上、中、下」で遊んでみた。

上船 じょうせん 船上 せんじょう

(例文)「陸から船に乗り込むのが上船。いったん上船したら、下船しないかぎり船上にいることになる。船上にいると言えば、説明しなくても船中にいることを意味する。」

船上とは文字通り船の上のことだが、船に乗っている状態である。船上で食事と言っても、必ずしも船のデッキに出て食べているとはかぎらず、船室内での食事かもしれない。
上船は船に乗り込むという一義以外に意味はない。しかし、船上は多義語である。なお、上船は乗船とも書く。ほぼ同義である。

 道中 どうちゅう 中道 ちゅうどう

(例文)「道中、行く先々でいろいろなハプニングがあったが、極端に無理をせず、まるで中道を歩む修行僧のごとくやり過して無難に長旅を果たした。」

中道という用語を見聞きすることが少なくなった。左でも右でもなく、極端に走らずに穏当おんとうであることが中道だ。無難で特徴がないと皮肉られることもある。
他方、道中とは長旅や行程のこと。道中という語感は行く先々の土地柄やエピソードを連想させる。『東海道中膝栗毛』をテーマにした道中双六は滑稽だろうが、中道双六があるとしても、イデオロギーや政治の話ばかりではさぞかし退屈に違いない。

下地 したじ 地下 ちか

(例文)「いい仕事に就きたければ、技能や教養の下地を整えなさい。秘密組織に入ったりトンネルを掘ったりレアメタルを掘り当てたりしたければ、地下に潜りなさい。」

何かを最終的に仕上げる前段階として下地という準備がある。見た目、それは仕上げの面の下に隠れている。壁の下地も化粧の下地も隠れている。
下地と同じく、地下も地面の下に隠れているので直接見えない。隠れていて見えないものには
怪しいものが多いが、稀に大当たりもあるから地下に行く者は後を絶たない。


〈二字熟語遊び〉は、漢字「AB」を「BA」と字順逆転しても、意味のある別の熟語ができる熟語遊びである。例文によって二つの熟語の類似と差異を炙り出して寸評しようという試み。大きく意味が変わらない場合もあれば、まったく異なった意味になることもある。熟語なので固有名詞は除外する。

語句の断章(63)らしさ/らしい

二十代の頃の職場に物静かで口数の少ない同僚Iがいた。ある日、上司とぼくが喫茶店に誘ったら付き合ってくれた。上司が当たり前のように「コーヒー3つ」とウェイトレスに告げた瞬間、「あのう、コーヒー飲まないんです」とI。紅茶と思いきや、彼が注文したのはシュガー抜きのホットミルクだった。上司が「らしい・・・ねぇ」とつぶやいた。

ホットミルクを注文したのがIらしい・・・のなら、ホットミルクの愛飲家は物静かで口数が少ないということになる。ある辞書は、らしさ・・・とは「飾らずに備えている独自性」と定義している。ホットミルクを注文するのは彼らしい・・・、コーヒーを飲まないのも彼らしい・・・、喫茶店に誘ったら断ると思ったが、付き合ってくれたのは彼らしくない・・・・・……。

上司は彼のことをあまりよく知らないのに、今しがたホットミルクを注文したことを彼らしい・・・と言った。本人の中で自分の独自性とホットミルク嗜好がつながっているはずがない。他人である上司が勝手にらしさ・・・を決めて、「ふさわしい」だの「いかにもな感」だのと評しているに過ぎない。

「職人らしい・・・職人」という言い方がある。あれは何を表現しているのか。職人らしい・・・と言えるためには職人が備える条件や資質を知らねばならない。職人がどういう人なのか知らずに「親方は職人らしい・・・職人だなあ」などとつぶやけない。「あいつらしい・・・阿漕あこぎなやり方だ」と言えるためには、あいつのことを知り尽くしている必要がある。

ここしばらく寒い日が続いた。気象予報士が「明日も冬らしい・・・冬になりそうです」と言うのを何度も聞いた。「西側に高気圧、東側に低気圧が位置する気圧配置」が冬型の典型ならば、冬らしい・・・冬とはそんな冬型の典型ということになる。しかし、例年の冬や平年並みの冬は一定ではないから、冬らしい・・・冬がどんな冬なのか、気象の素人にはよくわからない。

ナポリ生まれのイタリアの哲学者、ジャンバッティスタ・ヴィ―コ(1668-1744)は「真実なるものと作ったものは換位される」と言った。作ったものでも真実らしければ――たとえ真実という確証はなくても――ほぼ真実だと言えるかもしれない。コーヒーらしい・・・コーヒーはほぼコーヒーなのである。

語句の断章(62)蒼穹

蒼穹。読みは「そうきゅう」。蒼は「青い」で、穹が「弓のかたち」。合わせれば、弓形の青い大空。広い青空の意だから、わざわざ蒼穹などと難しい漢語的表現をひねらなくてもいいような気がするが、青空では物足りない文脈があるのだろう(たとえば、浅田次郎の『蒼穹の昴』)。

蒼穹にはいくつかの類義語がある。

晴れた空の意である「青空」。空を天井に見立てた「青天井」。晴れわたる様子の「青天」、そこに雷が轟けば「青天の霹靂へきれき」。一片の雲もない様子で、特に青緑に見えるのが「碧空へきくう」。深い青色になると「蒼空そうくう」。遠い場所の空をイメージさせるのが「碧落へきらく」。どの語にも青くて、晴れていて、大きいという共通の意味があるが、ニュアンスの違いを執拗に求めていくと、類語表現が増えていく。

蒼穹は稀に「天球」という意味でも使われる。そして、どういう経緯か理由か知らないが、天球としての蒼穹(つまり地球)は、あのギリシア神話の神であるアトラスが支えていることになっている。この巨躯の神は地球を後頭部に置いて両腕で持ち上げている。

当然、アトラスは宇宙空間のどこかに立っているはずだ。どの彫刻や絵画でもアトラスは立つか膝を立てて脚で踏ん張っている。踏ん張るためにはどこかに乗っかる必要がある。「アトラスは何に乗っているのか?」と聞かれたら、亀の背中に乗っていると言う。では、その亀は何の上に乗っているのか? 別の亀の上だ。こうして、亀の下に亀、そのまた下に亀……という無限後退の図が描かれる。巨神のアトラスを乗せる亀もガメラ級の巨体のはずである。

蒼穹という表現と「そうきゅう」という発音がなぜ求められるのか。それは、青空のアトラスや地球のアトラスよりも、蒼穹のアトラスのほうが物語性に優れ、想像を刺激するからである。

立春過ぎてまだ春遠し、二字熟語遊び

根性 こんじょう 性根  しょうこん

(例文)太郎は根性わっていて、一つのことをやり遂げようとする性根もある。一方、次郎は性根がなく飽き性。一人前になるためには根性を叩き直さないといけない。

根性とは態度・考え方・行動の根本となる性質である。根性が良いとか悪いという言い方はしない。根性は、あるかないか、または、まっすぐかひねくれているかが問われる。性根は「しょうこん」と読むとおおむね根気の意味になり、「しょうね」と読むとほぼ根性の意味になる。

関税 かんぜい 税関  ぜいかん

(例文)関税脅しは米大統領の切り札トランプの一つだが、実は不法入国や密輸対策として税関がもう一つの課題になっている。

カナダとメキシコの関税を25%に引き上げだ、中国は10%の追加関税だと、粗っぽく、いとも簡単に関税率を変える。米国への輸入品に課される税金を上げれば、国内産業が保護でき、関税は国の収入となって国庫の財源が確保できるという目論見。もちろん対抗措置の覚悟はいる。

港や空港で関税の賦課と徴収をおこない、貨物の取り締まりにあたるのが税関。国内に持ち込まれる物品の申告を受け検査をするが、外国からの入国者のテロや密輸などの犯罪の兆候をつかむ。関税と、字順を逆にした税関。これら二字熟語は、今やあの大統領の駆け引きの常套手段になった。

 読解  どっかい 解読  かいどく

(例文)「どうだ、文章は解読できたか?」「今、辞書を引いて読解しているところです」「読解? 違う、違う。きみの任務は解読だぞ!」

読解は文章を読んで、その意味を正しく理解すること。対して、解読は分かりづらい文章や記号を正確に読み解くこと。解読はある種の「深読み」であり「裏読み」である。文字面に現れない隠れた独自の文法と意味を探り出そうとする。中高生時代、国語の授業で求められたのは読解力であり、暗号解読ではなかった。

文章の<読解>
暗号の<解読>

〈二字熟語遊び〉は二字の漢字「AB」を「BA」と字順逆転しても別の熟語ができる熟語遊び。大きく意味が変わらない場合もあれば、まったく異なった意味になる場合がある。その類似と差異を例文によってあぶり出して寸評しようという試み。なお、熟語なので固有名詞は除外。

語句の断章(61)表と裏、裏と表

ほとんどの人に表と裏があり、二つ以上の顔があるものだ。二面性は心理と行動と言語に現れる。裏と表があるのは人間の防衛本能か……強ければ表一つで生きていけるが、弱いからこそ裏が必要……というような小難しい話は見送って、「表と裏」と「裏と表」は同じ意味なのか、もしそうでないのなら何が違うのかを考えてみたい。

これまで辞書で「うら」を調べたことはない。手元の新明解国語辞典で初めて引いた。「表(正面)と反対になる側(面)」とあり、「紙の裏」という例が挙がっている。では、「おもて」の意味は? まさか裏の反対ではないだろうと思いつつも嫌な予感もした。「対蹠的たいしょてきな二つの面のうち、その物を代表する面」という語釈を見て、少しほっとした。

表裏  「おもてうら」と読む。言動や態度は表に出て、それとはまったく相反する内心は裏に秘める。表裏と書いてあったら「ひょうり」とも読むが、「おもてうら」と同じ意味である。「表裏のない人」とは、他人がいようがいまいが、状況や立場がどうであろうとも、考えも行動も変わらない人である。

裏表  「うらおもて」と読む。表よりも裏を先に言うのだから、意味またはニュアンスが変わるはず。辞典には「表と裏が通常とは反対の状態」と書いてある。つまり、本当は裏なのに表のように扱うこと。裏返っているシャツを通常の表だと思って着たら裏表だった、というケース。「表裏のある・・人」よりも「表裏のない・・人」のほうがしっくりくる。他方、「裏表のない・・人」よりも「裏表のある・・人」のほうがしっくりくる。

ところで、造幣局で作っている硬貨には公式の表も裏もなく、作業時に年号の入っている面を便宜上「裏」と呼ぶらしい。必然、草木の図案が描かれている面が「表」になる。「硬貨には表と裏がある」と言っても怪しまないし、「へぇ」と驚くこともないが、人に表と裏を使うと途端に意味深になる。

「表と裏」と「裏と表」は同じ意味でも使われるが、「物の表面と裏面」の区別をするだけなら原則として前者でよく、表と裏は対等である。他方、「裏と表」は、単なる裏面と表面の区別にとどまらず、比喩的に人とその生き方に言及する。そして、この時の裏は主役に躍り出て、人の関心を引き寄せる。脇役の表は裏に随う。

言い換えという表現方法

🔄 わかりにくい数字

「中辛はどのくらい辛いですか?」
「普通の3倍です」
「ちなみに激辛だと?」
「中辛の5倍です」

🔄 ランチはニンニクラーメン

午後の面会お断り

🔄 インテリアグリーン

部屋の中の鉢の中の引きこもり

🔄 Eve(イブ)

翌日ほど重要でない日;(または)その日の夜

🔄 90分飲み放題

制限ある無制限;(または)ストップのかかるノンストップ

🔄 すべてのことばの辞典

あいまい語と多義語の集大成

🔄 付箋紙

ほん・・の気休めのシルシ

🔄 本棚の世界文学全集

上製の函に収めた並製の見栄

慌ただしい年の瀬の二字熟語遊び

師走も早や終盤に入った。年賀状じまいという一大決心をして重荷を下ろしたが、雑用が増えて気分は慌ただしい。ブログを書き下ろす時間もあまりない。さぼらないように(また、なまらないように)、夏場に書きためていた二字熟語遊びを年の瀬に捌いておきたい。


里山さとやま山里やまざと

(例文)『桃太郎』のおじいさんが柴刈り・・・に行った山は、山里ではなく、暮らしていた集落に接する近くの里山だった。

おじいさんは自然が残っている中山間地域の山に分け入って、焚き木用の小枝を取っていたのではない。そんな山里には行っていない。おじいさんが柴刈りをしていたのは、家から遠くない里山である。里山の山は低く、山里の山はそれよりも高い。山里にもわずかに人は住んでいたが、過疎地だった。「住む人もなきやまざと・・・・の秋のは月の光も寂しかりけり」という和歌が残っている。限界集落は今と変わらない。

白黒しろくろ黒白くろしろ

(例文)「白黒黒白も同じだよ」とえらく自信ありげに言う人がいたが、厳密にはそうではない。目は白黒させるが、黒白させることはない。

ややこしいが、是非や真偽については、「白黒をつける」でも「黒白をつける」でもいい。ところが、これまたややこしいことに、黒白をつけるという用例では黒白は「こくびゃく」と言うのが正しいらしい。読み方はともかく、白黒と黒白は互換性があるようだ。と言いかけて、白黒写真とは言うが、黒白写真とは言わないことに気づく。意味の重なりは一部あるものの、どうやら白黒と黒白は別物のようである。

花火はなび火花ひばな

(例文)それが線香であれ打ち上げであれ、花火がある所に火花が発する、飛ぶ、散る。他方、火花の元は花火だけではない。火花は目からも論争からも散る。

線香花火は手で持って愛で、打ち上げ花火は見上げて楽しむ。火がなくては花火は咲かないが、火がなくても散るのが火花だ。又吉直樹の芥川賞受賞作は、最初『花火』だと思っていたが、しばらくして話題になってから『火花』だと知った。書店でページを捲った程度で、作品は読んでいないからしかたがない。


〈二字熟語遊び〉は二字の漢字「〇△」を「△〇」としても別の漢字が成立する、熟語遊び。大きく意味が変わらない場合もあれば、まったく異なった意味になる場合がある。その類似と差異を例文によってあぶり出して寸評しようという試み。なお、熟語なので固有名詞は除外。