抜き書き録〈テーマ:芸術の元気〉

ある一冊の本を昨日オフィスで探したが、書棚のどこにもない。以前にもこんなことがあった。誰かが持ち帰ったのかもしれないと性悪説的に推理し、しかし、いつか返しにくるだろうと性善説的に考えようとした。かれこれ45年になるが、その本はまだ見当たらない。昨日探そうとした本も見つからなかったが、しっかり探す前に棟方志功の本に再会してしまった。これは10年以上前に読んで読書会で取り上げた一冊だ。

📖  『わだばゴッホになる』(棟方志功)

わたくしは、五十年も板画をやっていますが、摺るのが大切です。黒々に摺ればいいというものではない。印刷ではないのだから。人間の魂が紙に乗り移らなければ、摺るとはいえないのです。板画は呼吸しているのだから、墨の密度の中に息づかいがないとだめなのです。妙(白)と黛(黒)の呼吸なのです。わたくしはそれを板画の命伏いのちぶせと言っています。

棟方志功は、一般的な「版画」とは書かずに、敢えて「板画・・」と書く。野性的な手触りと彫りの強さが文字から伝わってくる。もう四半世紀になると思うが、たまたま出張先で開催中の棟方志功展に足を運んだ。体調はかんばしくなかったが、会場を後にしてから心身の調子が変わった。とても不思議な感覚だった。

棟方の代表作の一つが『釈迦十大弟子』。1955年にサンパウロ国際美術展で最高賞、ベニス・ビエンナーレで世界版画最優秀賞を受賞した作品。十人弟子が題材だが、文殊と普賢を配して十二の像を「六曲一双ろっきょくいっそう」*の屏風に仕立てている。

*屏風が六つの画面でできているので「六曲」(屏風は六曲が多い)。「そう」は二作の絵図がペアで作品になる。六曲一双とは、六曲の屏風が二点で一組を構成しているという意味。

この釈迦十大弟子には、偶然と言って済ませられない奇跡的なエピソードがある。構図などの作意は一切なく、棟方はただ一心不乱に彫った。そして、出来上がってから気がつけば、六人が右を向き、残りの六人が左を向いている。衣の具合も彫った顔立ちや姿勢も想像の賜物だったが、後日辞典にあたってみると、そこに紹介されている仏像に恐ろしいほどまでにそっくりなのであった。

ホールスタッフとの会話

ジョークⅠ 3人の客に対応するボーイの件』

ボーイ 「ご注文は何になさいますか?」
A  「私は紅茶」
B 「ぼくはレモンティーで」
C 「私も紅茶。カップはよく洗ってね」
(しばらくして、ボーイが紅茶をテーブルへ運ぶ)
ボーイ 「レモンティーのお客様、どうぞ。あと紅茶お二つですね。よく洗ったカップはどちら様でしたか?」

ジョークⅡ 『スープで虫が溺れていた件」

(ウェイター、客がスープに手を付けないのに気づく)
ウェイター 「どうなさいました? お気に召しませんか?」
紳士風の客 「いいえ」
ウェイター 「少し熱すぎましたか?」
紳士風の客 「いいえ。大丈夫です」
ウェイター 「では、どうしてお召し上がりにならないのですか?」
紳士風の客 「虫が浮かんでいて、スープの中で溺れかけているんですよ」
ウェイター 「虫の救助でしたか……小さめの浮き輪があるか、すぐに探してきます」

実話 『虫がビールに墜落した件』

昨日の昼、寿司屋で。サッポロラガー(赤星)の大瓶とグラス2個。グラスにビールを注ぐ。虫が飛んでくる。手でよけたが、ビール好きだったのか、一方のグラスの泡の上に墜落した。ホール担当の若い女性に声を掛ける。

「グラスに虫が入ったよ、ほら」
「最初から入っていましたか?」
「いやいや、ビールを注いでいたら飛んできた」
「では交換します」と言って、虫入りのグラスだけを引き下げようとする。
「ちょっと待って、違う違う。グラスだけ引き下げて交換したら、飲む前から1杯損したことになる」
ホール担当、ポカンとしている。
「ハエが飛んできてにぎり寿司に止まったら、にぎり寿司を交換してくれるよね? それともハエを追い払うだけ?」
まだポカンとして黙っている。
「虫はあなたの責任じゃない。もちろんぼくの責任でもない。お店の責任だから……」と言い掛けたら、やっと飲み込めたらしく、「新しいグラスと新しい瓶ビールをお持ちします」と言った。唯一の解決法なので、「そう来なくっちゃ!」とは言わなかった。クレーマーにならずに済んで一件落着。

目指した馴染みの寿司屋が臨時休業。ピンチヒッターに指名した一見の店だった。ジョークにしようと思ったが、ホールスタッフあるある、異物混入事象あるある、飲み込みの悪さあるあるの三拍子が揃うと笑い話にはしづらい。

器用な日本語

一つの言語内に漢字、ひらがな、カタカナ、アルファベットの文字が使われる。日本語は特異である。しかも、ほとんどの漢字の読み方は一通りではない。たとえば「生」はおんで「セイ」または「ショウ」と読む。さらに訓になると下記の通り。

生きるの「い」  生まれるの「う」  生えるの「は」  生そばの「き」  生意気の「なま」  生憎の「あい」  芝生の「ふ」  弥生の「よい」  

他の読みもあるかもしれないが、とりあえず以上で10通り。一文字でこれだけの読みがある。小学生や日本語を学ぶ外国人にとって文脈から読みを類推することはきわめて難しく、全部覚えるしかない。他方、英語の“life”という単語の発音は【láif】(ライフ)のみ。

こんな話を書くと、英語のほうが器用だと思われそうだ。しかし、1単語に一つの読みしかないのは、わかりやすいけれども、実は融通がきかない。たった一つの道具で10の作業や仕事をする人を器用な人と形容するように、日本語は器用なのだ。

難しそうな漢字には「ふりがな」が使える(例:顰蹙ひんしゅく)。本来の読み以外の読みにしたい時もふりがなを使う(例:解雇クビ)。一つの熟語を、蘊蓄、うんちく、ウンチクと表記できる。しかもカタカナで書くと、独特のニュアンスが出る。

青森と函館をつないで「青函トンネル」、下関と門司も「関門トンネル」。ロサンジェルスとサンフランシスコをつないでも、せいぜい“LA-SF”、表音できても表意は不可。バドミントンのペアを「オグシオ」とか「タカマツ」と頭文字で言い換えるのは朝飯前だ。

「回文」ということば遊びは器用な日本語の真骨頂である。土屋耕一の「軽い機敏な仔猫何匹いるか」は、前から読んでも後ろから読んでも見事に「かるいきびんなこねこなんびきいるか」。

石川県の能登で300年以上の歴史のある「段駄羅だんだら」は味のある高度な文芸の遊びである。五七五の「七」のところに、同じ読みだが異なる表現と意味の七音を二つ並べる。全国的にあまり知られていないが、もっとたしなんでいいと思う。

コミュニケーションだけではなく、日本語はその器用さによって、アート性に満ちたことばの冒険を楽しませてくれる。

抜き書き録〈テーマ:ありよう〉

📖 『禅語録』抄録版

握ればこぶし、開けばてのひら

握ると怒りになり、開くと心が通じる。指と掌の形によって意味が反対になる。グー、チョキ、パーと役割が変化するのも同じ。同じ指と掌なのに勝ったり負けたり引き分けたりの結果が生まれる。

水は方円の器に随う。水は器という対象に応じて形を変える。ものの本質は一定した不変のものではない。視座によってものは違って見える。実は、違って見えるのはものの本質ではなく、見る者の心の、精神の、ことばのありようを反映する。

📖 『ゲーテ格言集』

当為とういと意欲があるが、能力がない。
当為と能力があるが、意欲がない。
意欲と能力があるが、当為がない。

㊟ 当為はドイツ語のSollenゾルレンの訳。「なすべきこと」(時に「あるべきこと」)という意味に近い。自分が持つテーマ/生きがいと考えればいい。

なすべきことを成す気は満々だが、残念ながらそんな能力がない。なすべきことを成す能力があるが、一丁やってやろうという気分ではない。やる気も能力も十分にあるが、成すべきことが何かを知らない。人が何事かを成すには、当為と意欲と能力の3点セットが欠かせないわけだが、3つに分けているあいだはうまくいかないような気がする。

📖 『ここにないもの 新哲学対話』(野矢茂樹著)

「何かをことばで言い表わすと、そこには何か言い表わしきれないもどかしさみたいなものがつきまとうことがある」
「そのもどかしさっていうのは、そこまでことばで言い表わしたからこそ、姿を現したものなわけだ」

特別な工夫も努力もしていないのに、何かを思いついたり、その思いつきをことばで言い表わせたりすることがある。「ラッキー!」などと言って喜ぶが、実は、そんな単純なものではない。何もしていなかったら、何も現れてきたりしないのだ。自覚はないのかもしれないが、どこかで苦心していたはずである。今のありようが別のありように転じたことを偶然などと思ってはいけない。「わからないこと」が「わかる」ようになるのは、考えることとことばにすることのもどかしさを越えたからである。

何人かの「あの人」たち

「あの人」。親しい人をそう呼ぶ場合もあるが、ぼくが「あの人」と言う時は、おおむね遠い関係にあり、あまり感情移入することもなく、少し離れて観察している人を指している。過去形の人物だが、何かがきっかけになって時々ふと浮かぶ。

👤 あの人は「何か問題がないかね?」とニコニコしながらやって来た。そして「特にありません」と言うと、急に物足りなさそうな顔をして寂しそうに去るのだった。あの人は問題が生じるのを楽しんでいた。問題を解決することが自分の使命だと思っていた。だから問題がないことが不安。本来問題でないものまで問題に「格上げ」する人だったので、仕事場はつねに有事の様相を呈していた。

👤 「ぼくは青二才なんですよ。いや、幼稚というほうが当たっているかな」とあの人は言った。あの人が話す文の主語はつねに自分だった。知り合ってからかなり年月が経っても本心がよくわからなかった。交流会などで名刺を交わして一言二言会話をしただけで「意気投合した」と見なすような人だった。話し方も話すこともタテマエっぽかったが、もしかするとホンネだったかもしれない。

👤 あの人はすべてのことに理由があると考えていた。仮に理由がないことに気づくと咄嗟に理由を後付けしたものである。「よく食べますね」と聞くと「好きだからねぇ」と答える。「○○はあまり食べませんね」と聞くと「嫌いだからねぇ」。理由と好き嫌いは相性が悪いはずなのに、好きだ嫌いだと言ってけろりとしている。好き嫌いは「さが」ではないのか。それを判断基準の根底に置かれては話が続かない。

👤 雑談の場で尊敬している人物がいるかどうかという話になったことがある。「誰を尊敬してるの?」と聞いたら、あの人は「人生、みな師です」と答えた。いつも会話がすれ違った。波長が合わなかった。

👤 あの人は「当社の経営理念? 社会貢献です!」ときっぱりと言った。社会貢献が経営理念とは……。ぼくはつい言ってしまった、「悪いけど、それは経営理念ではなく、あなたの経営情念・・ですよ」。気分を害したのだろう。その時を最後にあの人とは会っていない。

古本よもやま話

古道具や古着や古本には、かつて売られた定価よりも高値がついているものがある。手に入りにくくて希少であり、それを欲しがる人が多ければ高額になる。古物市場では〈需要>供給〉なら値段が上がり、〈供給>需要〉なら値段が下がる。後者の、値段が下がる場合にいいものが稀にあり、それを「掘出し物」と呼ぶ。

古本屋で手に入れたい本が見つかれば――見つからなくても同じジャンルでよさそうなものがあれば――たいてい買うようにしている。あまり迷わない。基本500円以下の安いものをいろいろ漁っているうちに掘出し物に出合う。稀覯本きこうぼん蒐集マニアではないので、高値のついているものはよほど欲しくてもめったに買わない。

夏目漱石の『心』『道草』『明暗』の3冊セットの復刻版(函入り)を岩波書店が創業70周年事業として41年前に発行した。これを見つけて買ったのがたぶん20年位前で、定価のない非売品である。文字通りpricelessプライスレスだが、古本屋がつけた値段プライス500円。この数字が高いか安いかは判断不能。価値のほどは読者が実感すればいい。


十代半ばから本は自分の小遣いで買うようになった。図書館で本を借りたのは小学生の頃までだ。十代の頃は古本を買わなかったし、古本を遠ざけていた。古書店で売られている本はどれも瑕疵や汚れがあって不潔そうだった。赤インクか血液かわからないような滲みのあるページを触った後に、その手で菓子はつまみづらかった。

比較的新品に近いと思って買ったものの、ページを繰ると意味不明な書き込みや傍線を見つけることがある。この本の前の読者が目を付けた「重点箇所」が刷り込まれるようで嫌だった。今では普通に古本を買うが、なるべくそういうシルシのないものを選ぶようにしている。新品同様の古本でも誰かが売り誰かが読んだはずだから、古本を読めば誰か知らない他人の指紋をなぞっていることになる。以前ほど神経質にはならない。


ずいぶん前に『芭蕉全句集』の単行本を300円で手に入れた。昭和51年(1976年)3月発行の初版本で、発売当時の値段は1,200円。作句年代順に配列され、一句ずつ丁寧な注釈が付いている。今は角川ソフィア文庫から現代語訳付きで出ているが、初版の単行本サイズの雰囲気には及ばない。よく精査して偽作や誤伝を除くと、芭蕉の生涯の句は976だそうである。固有名詞や季語さえわかればスイスイと読める。

ところで、先月頂戴した大島幸男氏の第一句集『雪解』に収められた作品は384。芭蕉の作品の約4割だが、芭蕉全句集の数倍以上の時間を費やして一巡目の味読(分析?)を終えた。秀句も多いが、風流な語彙と異文化に攻められて苦戦した。この半月は記録的によく辞書を引いたと思う。今日から二巡目に入ったが、慣れのせいか心持ち軽く感じている。

「店主体調不良につき……」

お好み焼き・焼きそばの店のシャッターに紙が貼ってあった。数年前に一度来たことがあるが、昨日はたまたま通りかかっただけ。仮にわざわざ来たとしても、残念がることはないし、顔も覚えていない店主の体調を気遣うこともない。

臨時休業という突然のお知らせに、個人的な理由が付記されるのが目立つこの頃である。昔は「臨時休業」と要点だけ掲げるか「本日〇月○日」と書き加える程度だった。日付を書かずに「本日、臨時休業」はあまりよろしくない。次の日の開店前に見たら、その日が休みだと思うからだ。

ご丁寧に体調がどう悪いのかまで書いているのがある。「腰痛のため」とか「発熱のため」ならまだいいが、わざわざ「持病の・・・腰痛」とか「38℃・・・の熱」とか「利き手の・・・・ケガ」などと書くと、特定の常連を意識している。これは、もしかすると、SNSの影響かもしれない。体調の悪さや身内の病気のことなどを頻繁に伝える人がいる。めったにいい話を書かない。こういうのを「不幸自慢」と言うが、そんな話を読んで同情するには及ばない。

店主やスタッフの体調不良以外でよくあるのが、「運転免許の更新」「身内の不幸」「子どもの入学式」「バイトの休み」。人物以外では「ガス器具の故障」「食材の入荷遅延」などがある。マジックインクでささっと書いたのであればまだしも、ワープロで打って印字してあったりすると、臨時休業用のテンプレートで気合を入れて作っている感じがする。

「バイトが体調不良になり、店主が一人でやりくりできないため、本日は臨時休業とさせていただきます」などという、どう反応してあげればいいのかわからないお知らせもある。都合により臨時で休業することは珍しいことではない。いさぎよく「本日(〇月〇日) 臨時休業します」と書けば済む。お知らせ以上のものを望む人がいるとは思えない。敢えて付け加えるなら、「わざわざお越しいただいたお客様」という一言でいい。

バイトの責任にするのはみっともない。そもそも臨時休業に理由なんかいらないのだ。特に不幸な理由は絶対にいらない。幸せな理由ならあっても目障りではない。イタリア料理店の「〇月〇日から〇月△日まで休業します。店主、カタールへ行って日本を応援してきます」は爽やかなメッセージだった。

一人で切り盛りしている店にも臨時休業のお知らせが貼ってある。店主は体調不良なのに、紙を貼り出しにわざわざ店に出て来たのだろうか。店主が紙を貼り出しているシーンに出くわしたことは一度もないが、見てもたぶん別に何とも思わないのだろう。

語句の断章(54)「画竜点睛」

最初に「画竜点睛」に出合ったのは十代の半ばだったと記憶している。画竜を当然のように「がりゅう」と読んだが、後日それは間違いで、正しくは「がりょう」だと知った。しかし、後年、ある辞書に「がりゅうとも読む」と書いてあった。「がりょうてんせい」に慣れていたので、変えずに今に到る。

早合点がもう一つある。点睛のを、天気のはれだと勝手に思い込んだ。「点に晴」でどんな意味になるのか調べもせずに。「絵に描いた竜を明るく照らす」というような意味に解釈したと思う。これも辞書にあたる機会があり、睛が「ひとみ」のことで、点睛とは「ひとみを描き入れる」の意であることを知る。

画竜点睛は「りょうえがいてひとみてんず」と読み下す。竜の絵を描いたら最後に竜の目を入れるとは、物事を完成する最後の段階で一番肝心な部分を仕上げることを教えている。四頭の竜の絵を描いた名人が、ひとみを描き入れると竜が飛び立つからと言って瞳を描かなかった。人々は「そんなバカな! ウソだろ!」と言って名人に迫り、無理やり瞳を描かせた。すると、ひとみを入れた二頭の竜がたちまち天に昇った……。六朝時代の故事に由来する。

この四字熟語、ほとんどの場合「画竜点睛を欠く・・」という用い方をして、最後の仕上げが不十分だったり要が欠けたりすると出来映えが悪くなるというメッセージとして表現される。画竜点睛という物語にすでに「全体ができた後に最後の仕上げを忘れるな」という教訓が込められている。

だいぶ前の話だが、ぼくの講演の後に、司会者が見事に講演内容をまとめてくれたことがある。今日の話からよく学ぼうと上手に聴衆を鼓舞し、ぼくへの謝辞も丁寧に述べていただいた。最後に「本日多忙な折にお越しいただいた〇〇先生にもう一度拍手をお願いします」。鳴りやまぬ拍手。〇〇には「岡野」が入らなければいけないが、別の名前だった。ひとみが入らなかったのでぼくは天に昇れず、後味悪く床を這うように会場を後にした。