一つの言語内に漢字、ひらがな、カタカナ、アルファベットの文字が使われる。日本語は特異である。しかも、ほとんどの漢字の読み方は一通りではない。たとえば「生」は音で「セイ」または「ショウ」と読む。さらに訓になると下記の通り。
生きるの「い」 生まれるの「う」 生えるの「は」 生そばの「き」 生意気の「なま」 生憎の「あい」 芝生の「ふ」 弥生の「よい」
他の読みもあるかもしれないが、とりあえず以上で10通り。一文字でこれだけの読みがある。小学生や日本語を学ぶ外国人にとって文脈から読みを類推することはきわめて難しく、全部覚えるしかない。他方、英語の“life”という単語の発音は【láif】(ライフ)のみ。
こんな話を書くと、英語のほうが器用だと思われそうだ。しかし、1単語に一つの読みしかないのは、わかりやすいけれども、実は融通がきかない。たった一つの道具で10の作業や仕事をする人を器用な人と形容するように、日本語は器用なのだ。
難しそうな漢字には「ふりがな」が使える(例:顰蹙)。本来の読み以外の読みにしたい時もふりがなを使う(例:解雇)。一つの熟語を、蘊蓄、うんちく、ウンチクと表記できる。しかもカタカナで書くと、独特のニュアンスが出る。
青森と函館をつないで「青函トンネル」、下関と門司も「関門トンネル」。ロサンジェルスとサンフランシスコをつないでも、せいぜい“LA-SF”、表音できても表意は不可。バドミントンのペアを「オグシオ」とか「タカマツ」と頭文字で言い換えるのは朝飯前だ。
「回文」ということば遊びは器用な日本語の真骨頂である。土屋耕一の「軽い機敏な仔猫何匹いるか」は、前から読んでも後ろから読んでも見事に「かるいきびんなこねこなんびきいるか」。
石川県の能登で300年以上の歴史のある「段駄羅」は味のある高度な文芸の遊びである。五七五の「七」のところに、同じ読みだが異なる表現と意味の七音を二つ並べる。全国的にあまり知られていないが、もっと嗜んでいいと思う。
コミュニケーションだけではなく、日本語はその器用さによって、アート性に満ちたことばの冒険を楽しませてくれる。