フジコ・ヘミング/哀悼と愛惜

ピアニスト、フジコ・ヘミングが去る421日に亡くなった。92歳。亡くなった人の生前を偲んで長い間悲しむことはないが、その人の残したことばを巡って足跡や仕事を名残り惜しむ日々は続く。フジコ・ヘミングはそんな人だ。

四半世紀前、リストの楽曲『ラ・カンパネラ』のことは知っているという程度だった。当時イタリア語を独習していて、教本の中の小さな物語やエッセイの中に必ずと言っていいほど“campanella”が出てきた。教会につきものの「鐘」は頻出語である。

不遇の時代を過ごしてきたが、1999年のNHKのドキュメンタリー番組がきっかけになって、ファーストアルバムの『奇蹟のカンパネラ』がクラシック界では異例の200万枚を売り上げた。フジコ・ヘミングは時の人となりブームが起こった。60代後半になってようやく名が知れる遅咲きだった。

フジコ・ヘミングの本が2冊書棚に収まっている。『フジ子・ヘミングⅡ  ピアノがあって、猫がいて』は20004月の発行、『フジ子・ヘミング 耳の中の記憶』が20046月の発行。後者を先に読んだ。その時点では前者の本もドキュメンタリー番組のことも知らない。

『ピアノがあって……」の中で、服飾を担当したデザイナー、西田武生は「とにかく気持が若い。ピアノもスケッチ画も普段の洋服も生活スタイルも、すべてにおいて青春している。大変礼儀正しくマメである」と言って敬意を表している。ぼくの周りのシニアで若々しい人にマメという共通点がある。

もう一冊の『耳の中の記憶』に次の一文がある。

今なお、私がこうしてピアノを弾いていられるのは、私の空想癖とそうした夢の世界へ導いてくれる愛しい宝物たちの存在のおかげ(……)

ますます長くなっていく人生の生き方にインスピレーションを授けてくれているようだ。

無償の鑑賞は一味違う

大阪城天守閣、天王寺動物園、慶沢園、大阪城西の丸庭園、城北菖蒲園、長居植物園、大阪市立美術館、大阪市立科学館、自然史博物館、東洋陶磁美術館、大阪歴史博物館、大阪市立住まいのミュージアム「大阪くらしの今昔館」、咲くやこの花館

大阪市内に住むシニアは上記の市立の文化施設に無料で入場できる。常設展だけでなく企画展や特別展へも優待されるのはありがたい。都合よく、大阪城天守閣、大阪市立科学館、東洋陶磁美術館、大阪歴史博物館、大阪くらしの今昔館は拙宅から徒歩圏内にある。

先週、大阪くらしの今昔館の企画展『春夏秋冬 花鳥風月に遊ぶ』を見てきた。


印象的だった『四季図屏風』は寛政7年生まれの大阪の画人、玉手棠洲たまてとうしゅうの作。 右隻うせきは右端の第一扇「梅に鶯」から第六扇「瀑布ばくふ」まで、左隻は右端の第一扇「蓮とカワセミ」から第六扇「きじと鷹」まで。他に、七五三や盆踊りなどの歳時を絵に現した作品など、風流の学びになった。

その鑑賞と前後して、オフィスのポストに書籍が入っていた。俳人、大島幸男先生からの献本である。雪解は、ゆきどけではなく、「ゆきげ」と読む。ご本人やお仲間の評にあまり詳しくないが、かねがね難解な句を作る人だと思っていた。じっくり読んでいるのでまだ読了していないが、ユニークな着眼と豊富な語彙が相まり、純文学の香りのする知的な句が並ぶ。ルビを振っておいてほしい表現がどんどん出てくる。

これが第一句集とは……力量からすれば、すでに第七句集くらい上梓していてもいいほどなのに。ご本人は「トイレにでも置いて少しずつお読みください」とおっしゃるが、そんな軽い作品集ではない。お祝いとして倍返しの食事をご馳走するつもりだが、句の話などせずに、くだらない雑談ばかりしそうな予感がする。

今週書店に立ち寄れば、無料の本が置いてあった。どちらも講談社のもので、現代新書と理系のブルーバックスの図書ガイドだ。ブルーバックスは興味深いテーマが多く、今も本棚に数10冊保管してある。現代新書は岩波新書と中公新書の次によく読んだ。このPRを兼ねた無料の2冊が、見事な読み物になっている。一気に読んだ。

久しぶりにかつて自治都市だった平野郷あたりを散策した。メトロの平野駅で下車するのは初めてだ。何となくかつての面影があるのに、商店街は閑散としている。大阪24区で一番人口の多い区だとはとても思えない。全興寺という寺の前に出て境内に入ると、古い民家が一軒あり、「小さな駄菓子屋さん博物館」の看板。いわゆるよくある昭和レトロの展示だが、懐かしい。後で調べたら、聖徳太子が建てた寺だとわかった。

ほんの少し春を惜しむ


4月と5月を振り返ってみると、わが居住地ではちょうどよい気温が続き、おおむね快適に過ごした日が多かった。一昨日も昨日も、近年の五月とは違って、微かに記憶に残る昔の春の感じだった。今朝も清々しい空気の中を156分歩いて事務所にやって来たが、部屋に入るとちょっと気配が違う。少なくとも昨日とは違う。もしかして、春との決別の日が近づいているのか……。

東に向いて歩く朝、眩しい陽射しに春を惜しむ。
「今日はアイスコーヒー」と呟いて春を惜しむ。
窓際のガジュマルの剪定をしながら春を惜しむ。

惜春と言ってはみたものの、寂寥感にさいなまれるほど惜しんでいるわけではない。去り行くものすべてに覚えるいくばくかの物思い程度にすぎない。ともあれ、春の名残はなくなり余韻も消えて、まもなく五月が終わろうとしている。五月が終わって六月になっても、ハンカチがフェースタオルに変わる以外、日々のルーチンは大きくは変わらない。

五月が終わる頃、井上陽水の『五月の別れ』の歌詞を思い出す。

風の言葉に諭されながら 別れゆくふたりが五月を歩く
木々の若葉は強がりだから 風の行く流れに逆らうばかり
鐘が鳴り花束が目の前で咲きほこり
残された青空が夢をひとつだけあなたに叶えてくれる

風の言葉に諭されてみたいと思うし、諦め上手にならずに、時には強がりな若葉を見習ってみたい。この少し後に「星の降る暗がりでレタスの芽がめばえて」という一節があり、芽がめばえるなら暗がりもまんざら悪くないと思ったりする。ちなみに、レタス炒飯よりも挽肉のレタス包みのほうが好きだ。

惜春は五月の特権である。四月に春を惜しむのは早すぎる。ところで、四月の歌と言えば? 若い頃によく聴いた英語の“April Love”(四月の恋)が一番に浮かぶ。パット・ブーンのあの透明感のある甘い声が懐かしい。てっきり亡くなっていると思っていたが、ご存命で次の61日に90歳になられる。

古来人々が春を惜しんだのは、梅雨の季節にわくわくしなかったからだろうか。初夏や六月にも風物詩の魅力があるはずなので、待ち遠しくなるような風物詩を発見するか発明したいものである。

街角からのヒント

🔃 「いつまで仕事を続けるのか?」と他人に聞かれたことはない。カフェで自問したことはある。「仕事を続けているかぎり、平日ではない〈週末〉を毎週迎えることができる」と自答した。

🔃 複数の仕事の一つ、講師業から昨年手を引いた。これで小難しいことを考えなくてもよくなるとほっとしたが、闇の中で藻屑と化した知識や知恵が一点の小さな光明こうみょうに出合っったかのようによみがえる時がある。

🔃 力を失って低迷するA(というモノ、人、場……)に替わって、期待を背負ったBが現れる。うまくいけばいいが、仮にBも低迷するようなことになれば、もうすでにないAに戻ることはできない。ABも失ったらどうなるのか……決して不安に陥ることはない。どうにかなるから。

🔃 様々な関係の中を生きていくためには〈順接〉だけでは不十分で、順接と同じ数の〈逆接〉も用いなければならない。

🔃 漢字の標識よりもアルファベットの標識のほうが洒落て見えるのは、たぶんに偏見である。表意文字を見慣れているから、表音文字が新鮮に見えているだけだ。精通していない外国語の地名など、地名の文字が意味を伝えていない時、標識そのものがビジュアル的な存在になり、アート性の強いデザインと化する。示される矢印の方向がかなりアバウトなのも悪くない。

🔃 『はずれ者が進化をつくる』という本を再読した後に街角に佇めば、個性に溢れ、答えがなく、ありのままに理解することはできず、普通や平均のない街の形相が見えてきた。読書して知り過ぎることはないが、少し本を読んでおくほうがいろいろと見えてくる。もちろん、街角も本と遜色のないヒントを授けてくれる。

🔃 場の記憶、人の記憶、過去の記憶……記憶のおかげで世界が広く見えてくる。記憶のおかげで、過去と現在と未来がつながっていることを実感する。

対比する日々

二つ(または、それ以上)のものを比べるのが対比。仮に二つとして、何のためにその二つを比べるかと言うと、違いを明らかにするためだ。まったく同じものを対比してもしかたがない。

🌸 一本の樹木に「サクラの仲間」と書いた札が付いている。サクラの仲間はサクラと対比されているのだが、「違う、似ている、同じ」のいずれの意味なのかわからない。仲間だから「サクラ組」に属しているはず。単にサクラではなく、サクラの仲間と書くことにこだわったのは、同じではなく違うという判断をしたからだ。
ホットコーヒーを注文したのに、「こちらホットコーヒーの仲間になりまーす」と言って持ってきたら、アウトだろう。

📅 今日と明日は違うにもかかわらず、「明日がある」と自分を励まして、今日の自分がほっとしている。明日は今日を担保しない。
近所に「今日しかない」という名前の店があった。今日しかないという主張に明日に期待しないぞという覚悟があったと思うが、残念なことに店じまいした。
カレンダーを見たら今日の次が明日だから、今日と明日はつながっているような気になる。今日が終わらないと明日が来ないのだから、明らかに別物である。

🍃 鉢植えの観葉植物が枯れた翌日に、たくましく息遣いをしているような名も知れぬ雑草を路傍に見つけた。しばらくその雑草を見ていた。ぼくに観られていたという点で、あの草を観葉植物の仲間と呼んでもいいかもしれない。

⌚ 本で読んだ経絡体操のストレッチを自己流で何十年もやっていたが、元体操選手のYouTubeの動画が良さそうだったので、先月から毎朝ストレッチをしている。身体と股関節をやわらかくするストレッチ。
ストレッチとエクササイズやフィットネスとの違いを知らないが、何に効くのかは告げられるまま。軽い動きなのに普段使わない筋肉に負荷がかかっているのが実感できる。可動域が日々少しずつ大きくなっているのがわかる。但し、20±5分を目安にしているが、5分間増やしたり減らしたりして対比するが、効果の違いはわからない。

抜き書き録〈テーマ:文房具〉

回りに文房具嫌いはいない。それどころか、必要もないのに過剰に買う人ばかりである。ぼくもそんな一人。人生を数回繰り返せるほどの筆記具やノートを所有して今に至る。それを反省して、最近は高価な道具に目をくれず、100円ショップで手に入るブロックメモやクリップケースや付箋紙を買う程度。文房具について書かれた本は時々引っ張り出して読む。

銀行や生保の職員と会う機会が減りメモ用紙が手に入らなくなった。クラフト紙を300枚とか400枚束ねたブロックメモを使う。これが100円とはありがたい。

📖 『文房具の研究――万年筆と鉛筆』(中公文庫編集部編)

「入学祝いにもらった一本の万年筆は、大人になった証しだった。金色の華奢なペン先が、深遠な知的世界への扉を開ける小さな鍵のように見えた。万年筆とのこんな出合をした人は多かったと思う。あれからずいぶんたって何本もの万年筆を手にしてきたけれど、気に入りのこの一本を探しあてた人はどれほどいるだろうか。」

ぼくの所有する万年筆は今手元にあるだけで10本は下らない。まずまず気に入って時々使うのが3本ある。すでに廃業した加藤製作所の1本は書きやすく手になじむが、少しペン先が太い。高価なモンブランは握りやすいがペン先がやや硬い。決して短所ではないが、ちょっと気になる。こんなふうに、万年筆は持ち主を超理想主義者にしてしまう。

📖 『文房具を買いに』(片岡義男)

「リーガル・パッドの白と黄色をそれぞれ数冊ずつ直射光のなかに置き、重ねたりずらしてみたりして、表情を引き出そうとした。リーガル・パッドをめぐるさまざまな思いが頭のなかに少しでも渦巻いたなら、それこそがリーガル・パッドの表情だ、と言うような言いかたは成立するだろうか。」

リーガル・パッドによく似た日本製のカバー付きのパッドをそのメーカーの営業マンにもらった。何年も使わずにいたが、今年に入ってから買ったり飲んだりしたワインの記録用に使っている。特に理由はないが、左へページをめくるノートと違って、レポート用紙のようにタテに上方へめくっていると、評価者気分になる。

📖 『紳士の文房具』(板坂元)

著者はアンティークはもとより、高級な小道具や紳士の作法の造詣が深い。ちょっと庶民感覚とかけ離れた貴族趣味的なところもあるが、正真正銘のホンモノの本格派だ。

「(……)ふと現代のビジネス・エグゼクティブはハサミを使わなくなったのではないかという疑問が生まれてきた。」

豪勢な社長室のデスクにはありとあらゆる高価なステーショナリーがあるのに、ハサミが見当たらない、と著者は言う。最近のビジネスマンはどうなのか。ハサミをあまり使わなくなったのか。ぼくはハサミをよく使うので自宅には大小様々7丁か8丁、オフィスでも2丁ある。万年筆にはアンティーク価値があるが、ハサミの真骨頂は実用的使いやすさにある。そのくせ、切れ味の悪いハサミを使っている人が多い。包丁を研ぐのだから、ハサミも研げばいい。研げばいいと言うのは簡単だが、扱いにくく研ぎにくい。

デザートと飲み物

エスプレッソドッピオ

ブログで使った写真を整理していたら、街角、本、風景、料理、図/イラストの他ではコーヒー(特にエスプレッソ)の写真が多いことに気づいた。コーヒーとデザートが並ぶ写真がなくはないが、そもそも食後にデザートをあまり口にしないからコーヒーと菓子の相性を意識した記憶はない。和菓子ならお茶、洋菓子ならコーヒーという、条件反射的なペアリングをする程度だ。

ビスコッティ

イタリア旅行中でもエスプレッソに合わせたデザートはめったに注文しなかった。例外はフィレンツェのビスコッティ。エスプレッソを注文したら付いていた。棒状に延ばして焼いた生地を、いったんカットしてからもう一度オーブンで焼く、やや硬いビスケット。ビスコッティの「ビスは2、コッティは焼いた」。つまり「2度焼き」という意味。別のレストランでは食後の甘口のデザートワインに付けてくれた。ワインに浸してやわらかくして食べる。

ローマではエスプレッソにティラミスを合わせた。日本のティラミスとの違いを知りたくて注文した。甘すぎる、濃すぎるというしかない。ところが、砂糖を入れてかき混ぜたエスプレッソの甘味とよく合うから不思議だ。エスプレッソとティラミスも、デザートワインとビスコッティも、互いに補完し合う関係ではなく、似たものどうしの組み合わせ。濃い味と濃い味、甘い味と甘い味という同類合わせが本来のペアリングなのである。

あっさりしたクッキーに紅茶、濃厚なチーズケーキに濃いコーヒーが合う。茶菓子があっさりだから飲み物を濃くするとか、苦いチョコレートだから薄いコーヒーというのでは逆効果。ワインのペアリングと同じことだ。濃厚でスパイシーな赤ワインには肉、さわやかな白ワインには淡泊な白身魚という具合。

チョコレートケーキと赤ワイン

ミルフィーユ状の濃くて甘いチョコレートケーキを買って帰る。普段なら濃いコーヒーだが、赤ワインを合わせることにした。どちらも濃厚であり、ポリフェノールを含んでおり、苦みと渋みが拮抗する。似たものどうしである。問題はどの赤ワインを合わせるかだ。赤ワインは30本ほど買い置きしてあるが、何本も抜栓して試飲するわけにはいかない。

直感で、以前何度か飲んだイタリアはプーリア州のネグロアマーロの1本を選ぶ。果実味が豊かで、カシスやカラメルの香りが立ち上がり、チョコレートの甘苦さと好勝負できそうな渋いタンニンの濃厚な赤ワイン。想像通りのペアリングになったと思うが、他のワインを試していないから、どの程度のペアリングだったかはわからない。ワインだけ楽しむ分にはいいが、料理とのペアリングに凝り始めると浪費する。

語句の断章(53)「句読」

「話はえんえんと続く、句読点もないままに」

田辺聖子の本で見つけた文章。印象に残ったので抜き書きしていた。ただでさえ長い話または文章に、しかるべき句読点くとうてん)がなかったら、文は終わる気配を見せない。

句読点とは「句は文の切れ目、読は文中の切れ目で、読みやすいよう息を休める所」と広辞苑に書かれている。二行や三行程度の文章を読むのに息を休める必要があるか。句読点は息継ぎスポットなのか。

句読点を付けることを「句読を切る」と言うが、文や語の切れ目を明らかにして、読みやすくしたり文意を明らかにしたりするためである。読みやすくというのは、視覚的な可読性のこと。わが国で句読点が文中に出るのは明治時代になってから。それまでは可読性に著しく難がある文章や物語を読み書きしていた。『源氏物語』の「桐壺」の原文は次の通り。

いづれの御時にか女御更衣あまたさぶらひたまひけるなかにいとやむごとなき際にはあらぬがすぐれて時めきたまふありけり

句読点のない文章に読み慣れれば意味もわかるようになるのだろうが、次のように句読を切り、ついでに漢字にルビを振れば、かなり読みやすくなる。

いづれの御時おほむときにか女御更衣にようごかういあまたさぶらひたまひけるなかにいとやむごとなききわにはあらぬがすぐれてときめきたまふありけり

修飾語が盛られた文章はおおむね悪文とされるが、句読点を使えば修飾語どうしの関係を明らかにできる。たとえば「いよいよやって来た蝶々が飛ぶあたたかい季節」という文では、いよいよやって来たのは蝶々と読まれかねないが、「いよいよやって来た蝶々が飛ぶあたたかい季節」と、読点一つで「いよいよやって来た」を「季節」に掛けることができる。