「話はえんえんと続く、句読点もないままに」
田辺聖子の本で見つけた文章。印象に残ったので抜き書きしていた。ただでさえ長い話または文章に、しかるべき句読点(。と、)がなかったら、文は終わる気配を見せない。
句読点とは「句は文の切れ目、読は文中の切れ目で、読みやすいよう息を休める所」と広辞苑に書かれている。二行や三行程度の文章を読むのに息を休める必要があるか。句読点は息継ぎスポットなのか。
句読点を付けることを「句読を切る」と言うが、文や語の切れ目を明らかにして、読みやすくしたり文意を明らかにしたりするためである。読みやすくというのは、視覚的な可読性のこと。わが国で句読点が文中に出るのは明治時代になってから。それまでは可読性に著しく難がある文章や物語を読み書きしていた。『源氏物語』の「桐壺」の原文は次の通り。
いづれの御時にか女御更衣あまたさぶらひたまひけるなかにいとやむごとなき際にはあらぬがすぐれて時めきたまふありけり
句読点のない文章に読み慣れれば意味もわかるようになるのだろうが、次のように句読を切り、ついでに漢字にルビを振れば、かなり読みやすくなる。
いづれの御時にか、女御更衣あまたさぶらひたまひけるなかに、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めきたまふありけり。
修飾語が盛られた文章はおおむね悪文とされるが、句読点を使えば修飾語どうしの関係を明らかにできる。たとえば「いよいよやって来た蝶々が飛ぶあたたかい季節」という文では、いよいよやって来たのは蝶々と読まれかねないが、「いよいよやって来た、蝶々が飛ぶあたたかい季節」と、読点一つで「いよいよやって来た」を「季節」に掛けることができる。